2021年4月30日

「愛するに価する生」と「愛するに価しない生」

子供の本などの翻訳をしていて、とても不思議に思うのは、欧米のNurseにぴったり当てはまることばが、日本語にないことである。ねえや、ばあや、子守り、乳母、看護婦など、時と場合によって使い分けるのだが、どうもいま一息しっくりいかない。それらをひっくるめたような含みのある単語がほしい。

しばらくまえ、テレビで、イギリスの重度障害児を扱ったフィルムを見たことがある。画面はその子の出産場面までさかのぼるのだが 、そのとき難産で瀕死の状態の産婦が、息も絶えだえに、「ナース、ナース!」とうめいたのが、いまでも鮮烈に印象に残っている。ほとんど「助けて!」にもひとしい絶叫に、このナースがあてられていたのだった。スーパーインポーザーはこれをどう処理するか。

 (略)

「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。・・・あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めるもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない。わたしにいわせればそれこそナースなのだ」──この思いは近年ますます深まるばかりである。

ー矢川澄子『風通しのいいように・・・』(1983年)より「子守りとばあやと看護婦と(ルビにナース・ナース・ナース!としてある)」

「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。・・・あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めるもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない。わたしにいわせればそれこそナースなのだ」

人間が生きてゆく上で不可欠な存在でありながら、神でもなければ母でもない者としての「ナース」。神という存在は、母という存在は、「わたし」という厄介者である「重度障害者」「精神的畸形者」を無条件で抱擁してくれるだろうか?あるブログで、ある女性は、わたしにそういう存在は現れないと言い切り、また同ブログの筆者は「引きこもりは人生に対する罪」であり「罰」であると言い切った、わたしはそれらの発言の根拠を再三求めたが、遂に何の返答も得られなかった。

重度の障害者であろうと、引きこもりであろうと、無条件で受けとめ、肯定してくれる存在は、わたしたちが人間という「限界」を持つ存在である限り、求めることのできないものなのだろうか?
神に愛されるためには、こちらが先ず神を愛さなければならないのだろうか?
「信じる者は救われる」とは畢竟「信仰のないところには神の愛もない」ということを意味しているのだろうか?

またもし、神を信ずる者であれば、無選別・無条件に愛されるのであれば、神はヨセフ・メンゲレも、カーティス・ルメイも信仰の名の下に彼らを愛し、赦し、抱擁するのだろうか?
いったい神の愛とは何で、神の愛の対象とは何によって決められるのだろうか?

では母は?母の愛とはどのようなものか?母はわたしに対して、親となった責任があるといった。それは母の中では「愛」とは別の次元に在る、自ら負った、或いは、重度障害者であり精神的畸形者を生んだことによって負わされた、生涯の十字架である。

先のブログの男女は、「愛されるに価する人間」と「愛するに価しない人間」が存在すると言外に仄めかしている。「わたしという存在を抱擁するものはあらわれない」「引きこもりは罪を犯している」彼らにすれば、わたしが愛されるに価しない人間であるという理由は、1時間かけても言い尽くせないことだろう。

矢川澄子のいう「それなしでは人間が生きつづけられぬもの」としてのNurseとは、職業としての、子守りや看護婦ではない、もっと形而上学的な存在であることがわかる。神や母という存在に同列と扱われるものとしてのナース。


わたしにとって、無条件でこのわたしという存在を、その汚れ、穢れ、歪み、そして愚鈍さをもひっくるめて包み込み、全肯定してくれる存在は、神でもなければ母でもない。
ではそもそも、「愛するに価する生」と「愛するに価しない生」とは何が違うのか?
何が、そしてどこがその境界線になるのか?

しかし仮にその一線が見えたところで、わたしはその「愛される側」の円の中に移動しようとは思わないだろう。わたしは今あるがままのわたしのままで愛され、全肯定されたいのだ。けれどもそれは限りなく背徳的で頽廃的なことであるだろう。
そして、もし、今あるがままのわたしを愛せるものが存在するとしたら、その者は、おそらくは「白痴」であろう。知的で、理性的な判断を下せるもの=「神」「母」「ナース」にわたしを愛する能力は備わってはいない。重度障害者、精神的畸形者は知的な者には愛せない。
何故なら、彼らは「社会の常識」を弁えているからだ。そしてその「社会的規範乃至常識を規準に」人を「裁く」。魯鈍さを、不器用さを、そしてまたその奇怪で特殊な内的世界を。

罪人を愛し、抱擁できるものは、善と悪との違いを知らぬ「白痴の愛」=「無私」の愛だけである。

「ナースとはいつくしみであり、救いである」

ではいつくしまれるためには、救われるためには、何か条件があるのだろうか?

最近読んだ誰かの本の言葉の中に、「生まれっぱなし」という言葉があった。

人は誰も「生まれっ放し」では愛されるに価するものには成り得ないのだろうか?
殊に、重度障害者・精神的畸形者であるわたしのようなものであればなおさら・・・


「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。」

では何故わたしは「それなしで」いま、こうしてまだ生き存えているのか・・・












 

2021年4月29日

リルケの詩に寄せて2

 私のみなもとである おんみ 幽暗よ

私はおんみを 炎よりも更に好む

炎は世界を限界づけ

或る一定の範囲を照らすが

しかしその範囲のそとでは 何ものも炎について織らぬ。

だが 暗さは万物を抱いている ──

さまざまのものの姿を 炎を 動物たちを そして私を。

暗さは人々をも いろいろな勢力(ちから)をも

獲物としてつかむ ──


一つの大きな力が

私の直ぐ近くで働いていることは、 在り得ることなのだ。

私は「夜」を信じる。

まだ一度も言われたことのないすべてのことを私は信じる。

私は自分のいちばん敬虔な感情を 自由に生かしたい。

まだ誰ひとり 敢えて憧れたことのないものが

私には いつか必然ことと成るだろう。


わが神よ、もしこれが僭越ならば お赦しください。

私はただあなたにこういいたいだけなのです ──

私の最善の力が、憤りも持たず いじけもしない

一つの本能のようであってほしい、と。

子供たちはそんな風にして、神よ、あなたを愛しています。


滞りなく流れ 両腕をひろげて大海へ(おおうみ)へ

大河が流れ込むときのように、

繰り返しながら成長しつつ

私はあなたへの真を告げたい、かつてこれまでに

誰もがしなかったようなふうに、あなたを告げ報せたい。

もしこれが思い上がりであるならば

この驕慢を

私の祈りに許容(ゆる)しておいてください、

私の祈りは こんなに真摯に そして孤独に立っています、

雲に包まれている あなたの額(ぬか)の前に。




わたしは闇、幽暗に対置するものとしては、炎よりも寧ろ「光」を選択したい。何故なら、炎は自然界に存在するものだが、陽光を除き「光」は人工的なものだからだ。
「闇」=暗さの反意語としては、「光」がわたしにはしっくりする。

「私はただあなたにこういいたいだけなのです ──

私の最善の力が、憤りも持たず いじけもしない

一つの本能のようであってほしい、と。」

この詩行にわたしは共感する。
私の最善の力が、憤りも持たずいじけもしない、一つの本能のようであってほしい
それは常々わたしが言っている。「わたしがわたしであること」それこそがわたしにとって最も重要なことであるという想いと重なるからだ。そしてわたしはまさに「ひとつの本能」でありたいと願う。



リルケの詩に屡々出てくる神の存在については、わたしにはわからない。

「私の祈りに許容(ゆる)しておいてください、

私の祈りは こんなに真摯に そして孤独に立っています、

雲に包まれている あなたの額(ぬか)の前に。」

率直に言えば、私のいのりはこんなに真摯に云々と口に出せること自体が、驕慢にすらおもえるのだ。

ミレーの絵の中で、一日の労働を終えた、貧しい農夫たちが、黄昏の畑で祈りを捧げている。彼らもまた心の裡では、ここにあるような、自己の神への祈りに対する重み、軽重のようなものを感じているのだろうか?神を持たぬ者にとって、信者の神に対する己の位置というものはわからない。それでも、農夫たちにとって、神と自己とは正に一体であり、神に祈るということは、今日の日を無事に終えたことを、そして今日一日の糧を感謝しますというごく素朴で、純粋なものではないのだろうか?祈りを捧げるということは、彼らが日々生きる上で「自明の事」であって、敢えて、祈りを、その重さ深さを対象化するということが、なにか不自然なことのようにおもえるのだ。名もなき労働者たちにとっての神、そして神への祈り、語り掛け、それと、リルケの神とはどのように異なる存在なのだろう。

人格を持ち、人間の姿をした神への信仰はわからないが、わたしにも信仰はある。

それは「美」に対する拝跪であり、自然への崇拝である。一木一草悉皆成仏。自然界の全てのものには魂があり、生命が宿っているというアニミズムが、わたしの信仰といえば信仰である。

わたしは一木一草であろうと、一寸の虫であろうと、彼らの最善の力が、憤りも持たずいじけもしない、一つの本能のようであってほしいと願うのだ。花は花として、虫は虫として生き切ってほしいと願うのだ。

ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ
という、歌の通りである。


わたしは仮にそれが神であろうと、「掟」「規範」「禁忌」というものに馴染まない。
そして「べからず」同様「すべき」「ねばならない」という「教え」にも馴染めない。
わたしは一個の本能、一個の野生でありたいのだ。


リルケの詩にわたしの好きな言葉がある。


「神よ おのおのの者に そのもの固有の死を与えたまえ、

おのおのの者が 愛と 一つの意義と そして自分の悲しみを発見した

この生の中から 各人の固有の死が、ほんとうに

生まれ出(いづ)るようにさせたまえ。」




文中引用 『リルケ詩集』片山敏彦訳(1998年)より

私のみなもとである幽暗 (Du dunkelheit aus der ich stamme / You darkness that I come from )

神よ各人に与えたまえ (O herr, gib jedem seinen eign tod / Oh lord, give each one his own death )









 

2021年4月28日

写真の中の赤と白


Man with Bandage. 1968, Fred Herzog (1930 - 2019) 
フレッド・ヘルツォーク「包帯を巻いた男」(1968年)


 New york in color, 1952-1962 Exibart Street Photography, Ernst Haas
エルンスト・ハース「ニューヨーク・ストリート」(1952-1962年)








「表現の自由」その他雑感

5月25日日曜日に行われた名古屋市長選挙では、「大村秀章愛知県知事リコール事件」 の渦中にいる現職の河村たかし(七二)が激戦を制して、5選(!)を果たした。

実はこの人物、2019年8月1日に開催された(8月4日に中止決定)『国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019」に開かれた「表現の不自由展・その後」開催前に視察に訪れ、大村知事に「展示中止」を求めていた。(河村名古屋市長の発言について、大村知事は中止決定後に憲法違反だと批判しているが、中止前に言わなかったのは何故か)

中止の理由は「安全上の理由」ということらしい。そして必ずしも、キム・ソギョンさん、キム・ウンソンさんの制作した《平和の少女像》(正式名称「平和の碑」)だけが問題視されたわけではない。不自由展全体では、美術館などの「公共施設」や空間で、検閲や、規制などを受けた作品を展示している(た)。旧日本軍「慰安婦」制度、朝鮮人強制連行、天皇制、憲法九条、福島の放射性物質汚染、安倍政権批判など政治的主題を扱っているものが多くなっている。尚、日本では、外務省が少女像の呼称を「慰安婦像」に統一する方針を決めた。「『慰安婦』が少女ばかりだった印象を与える」など、変更を求める意見が自民党内で相次いでいたことを受けたものとされる。しかし、朝鮮人「慰安婦」は植民地支配を背景として、過半数が十代の女性だったことは、歴史研究で実証されている(金富子「朝鮮人『慰安婦』はなぜ、少女が多かったのか?」『平和の少女像はなぜ座り続けるのか』所収)


以上、雑誌『世界』2019年10月号掲載「私たちは何を失おうとしているのか?」岡本有佳さん(表現の不自由展実行委員)のレポートから抜粋引用させていただいた。

文中にあったとりわけ印象深い言葉を記しておく。

憲法学者の宮下紘さんの意見書の中の「表現の自由の担い手は、送り手と受け手の双方であり、そして両者による情報の伝達と、交流が必要」という一文だ。
つまり「表現の自由」とは、表現する者の自由、観客の知る自由、そして、作品と観客、観客と観客、作家と観客の情報の伝達と交流の場の実現を含むということである。
双方向の「情報の伝達と交流の場」がセットで「表現の自由」が守られているということは、ヘイトスピーチや性暴力的表現を使う「表現の自由」が成り立たないことの有効な反論になるとも思った。と岡本さんは感想を漏らす。

「表現の自由は一方通行では成立し得ない」・・・しかしこれを、インターネットというアノニマス「無名性」の世界に持ち込んだ時、
「発信・発言する者の自由、受け手の知る自由、そして、発言とそれを受ける者、受信者間、発信者と受信者・読み手の情報の伝達と交流の場の実現ははたしてどのような形で可能なのだろうか?インターネット上には、「現場」というものが無い。現場がない以上、情報の伝達と、交流の「場」というものが、どのように成立し得るのだろうか?



ー追記ー

昨日の『東京新聞』の夕刊にあった「デスクの眼」という論説だが、ロシアのナバリヌイ氏の率いる、FBKが、仮に過激派組織と見做されるようになったら、欧米は更に本腰を入れて対ロ制裁に乗り出すだろう。民主主義諸国が連帯して、攻撃的行動を抑止していかなければならないのは明白だ。ただ、日本政府は、ロシアでの人権侵害や、民主派弾圧への批判も避ける傾向が強い。形式的な対応に終始すれば、アジアでの民主主義のリーダーとしての基本姿勢に問われることになるだろう。

いったい日本がアジアでのデモクラシーのリーダーとは何処を押せばそういう言葉が出てくるのか?
前にも書いたが、昨年後半、ニューヨーク・タイムスが、日本を、正に、プーチンのロシア、習近平の中国、そしてトランプのアメリカと同列に「独裁国家」と規定したことを知ったのは、他ならぬ、東京新聞だった。その後、トランプは落選し、今は菅が安倍の後を継いでいる。
これによって果たしてニューヨーク・タイムスは、日本は最早独裁国家ではないと考えているのだろうか?何故なら最早安倍も、トランプも、政界のトップにはいないのだから、と?

日本政府は、ロシアでの人権侵害や、民主派弾圧への批判も避ける傾向が強い。
それは相手が強国ロシアであるからという理由ではない。そもそも、日本国民自体、極めて低い人権意識を持ち、言葉の真の意味での「民主主義国家」ではないという単純な理由からだ。(それは2年前に、「表現の不自由展・その後」をちらと一瞥した後、「中止すべきだね」と知事に進言した河村たかし名古屋市長が、今回もまた当選したという事実からも明らかではないだろうか・・・)

日本にはついに、ナバリヌイ氏のような民主化に命を掛けるような人間は現れることはないだろう。北一輝が日本には永遠に革命は起こらないだろうと、獄中で予言したように。


岡本有佳さん、ナバリヌイ氏に敬意を表して


















2021年4月27日

白の余韻


Robert Häusser, Tuilerien, 1953

余白も確実に写真の一部を形成している。写真集を見る度に、余白の重要性、必要性が実感させられる。この写真に関していえば、ベンチの下に設けられた、「白」い部分があるとないとでは、まるで別の写真に見えるだろう。

池大雅の「描かぬ余白に苦労する」という言葉は、写真集の編集の際にも当てはまる言葉でしょう。







 

リルケ「ドゥイノの悲歌」に寄せて

 われらの僅かな存在を過ごすためなら

葉のはしばみに(風の微笑みのような)さざなみを立てながら

ほかのどの樹よりも少し暗い姿をして立つ

月桂樹として生きてもいいのに、なぜ

特に人間の存在を生きねばならないのだろう?

──そしてなぜ運命を避けながら

運命を求めて生きなければならないのか?・・・・

おお、幸運があることが その理由ではない。

幸運とはやがて間近く来る喪失の前面部分を

早まって利得として取ることだ!

好奇心からのことではないし また感情を試して使うためでもない、

感情は月桂樹の衷(うち)にもあるかもしれない・・・・

だが人間が人間の存在を生きる理由は、この地上の今を生きることそれ自身が大したことだからだ。そして

われわれ人間の存在が 現世のすべてのものにとって必要らしいからだ。

これら現実の滅びやすい物たちが 最もほろびやすい存在であるわれら人間に

ふしぎに深く関わるのだ。おのおののものはただ一度だけそのものとして在る。

ただ一度だけだ。それ以上ではない。そしてわれらも

一度だけだ。ふたたびはない。しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい

ーリルケ『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌(エレジー)」より抜粋。
片山敏彦訳『リルケ詩集』(1998年)より



リルケの詩には、その根底に、人間存在と、神の存在への寿ぎを感じる。人間の存在を根本に於いて肯定しているという点で、どうしても馴染めない部分がある。
「人間が人間の存在を生きる理由は、この地上の今を生きることそれ自身が大したことだからだ。そしてわれわれ人間の存在が 現世のすべてのものにとって必要らしいからだ。」
この詩行はとてもわたしの肯じるところではない。わたしは寧ろ、この地上に人間さえいなければ、と考える人間だ。・・・人間さえいなければ・・・無論わたし自身を含めて、「ヒト」という種が存在しなければ、という意味だ。

「おのおののものはただ一度だけそのものとして在る。ただ一度だけだ。それ以上ではない。そしてわれらも一度だけだ。ふたたびはない。しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい」

すべての生き物が一度だけの生を生きる。しかしわたしは、「ただ一度だけであること」のみに意味を見出すことは難しい。その一度を、一度だけの人生を、どれだけ、他と異なって生きたか、どれだけ、己自身の生を、即ち「実存」を生きたかが問われるのだ。
強い者の驥尾に付した人生だって、人の真似をして生きたって一度だけという点では同じである。わたしは、一度だけの生を、可能な限り自分として生きたい。それは同時に、少数派として乃至、異端として生きるということをも意味している。

確定したわけではないが、わたしはどうやら、発達障害と統合失調症の特性を持っているようだ、幸か不幸か、この二つの障害と病は、世界の見え方が、多数と異なるということだ。
そして著しく低い知能指数の中で、表現能力だけは長けているということも、天の配剤のような気がするのだ。

繰り返すが、

「しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい」

という一回性はわたしには左程重要なことではないのだ。
あくまでも「その一回」が、わたし固有の生であったか否かが問題なのだ。
そして大事なのは、「わたしがわたしを好きであるか」ということよりも、わたしとして生まれてきたわたしを、わたしとして生き抜くということ。言うまでもなく、自ら命を絶つということも、わたしがわたしとして生き抜いたことに他ならない。

最後にリルケ自身が自らの墓に刻み込むために作った詩を。


薔薇の花よ おお 純粋な矛盾よ
数多のまぶたの下で 
誰の眠りでもない歓びよ



[関連投稿] 「他がために鐘は鳴る












2021年4月25日

玉座にあって



Paris, 1962, Enzo Sellerio (1924 - 2012) 

エンツォ・セレリオ「パリ、1962年」

*

ジャンクは寧ろくず入れの外に溢れている





 

デイドリーミング


A lazy boatman's lot is a daydream of a little boy piloting a magnolia leaf across a pond, 1953

「マグノリアの葉を池に浮かべる少年」(1953年



誰が私に言い得るだろう
私の生命がどこまで届くかを
私もまた嵐の中に過ぎゆき
波として池に住むのではないか
また私は未だ春に青白く凍っている
白樺ではないのか

ーライナー・マリア・リルケ


Dion - I Can't Help But Wonder Where I'm Bound

「どうしても考えてしまう。いったい僕は何処へ向かって歩いているのかと・・・」

ディオン・ディムーチ ヴァージョン







 

2021年4月24日

誰が時の流れの行方を知るだろう


Un uomo, una donna, un amore / One Man One Woman One Love, Mario Giacomelli(1925 - 2000)
マリオ・ジャコメッリ 「ひとりの男 ひとりの女 ひとつの愛」


Sandy Denny: Who Knows Where the Time Goes? BBC John Peel Sessions
サンディー・デニー「誰が時の流れを知るでしょう」

*

“All photographs are memento mori. To take a photograph is to participate in another person’s (or thing’s) mortality, vulnerability, mutability. Precisely by slicing out this moment and freezing it, all photographs testify to time’s relentless melt.”
― Susan Sontag


「写真は全て「死」を連想させるもの(*メメント・モリ)である。写真を撮るということは、他の人間の(物の)いずれ滅びゆく運命、儚さ、無常に参入するということである。正にこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって。
すべての写真は「時間」の容赦ない熔解を証言しているのである」

ー スーザン・ソンタグ『写真論』(1979年)より

※ メメント・モリーラテン語で「死を想え」「死を忘れるな」









2021年4月23日

留め置く者たち

 
松山巌氏は、写真家(とは決して自らを呼ばなかった)アジェの写真展を観て、幸田露伴の「ウッチャリ拾ひ」という、明治39年=1906年、ちょうどアジェが、「資料」としての写真を撮っていたのとほぼ同時期に書かれた短編を思い起こす。それは、友人と二人で、夏の大川へ舟遊びに出かけたときのこと。
彼は川の中に膝までつかり、河川に打ち棄てられたものたちをせっせと拾い上げてゆく男を見る。今もそのような言葉があるのかどうか知らないが、通称「ガタロ」である。彼は川の中から、廃品を掬い出してそれを金に換えて生計を立てている。露伴は、この仕事は「神聖なる労働は空しく海中に棄(すた)って仕舞うべきものを取り上げて、復(ふたた)び人間の用に供するのである」といい、友人も頷く。そこに心地よい風が吹いてきて、舟は、速度を上げ「ウッチャリ拾ひ」の場から離れてゆく。
 
以下松山氏自氏の文章を引用する。
 
 
露伴が「ウッチャリ拾ひ」なる職業に目を留めざるを得なかった背景には、ものを利便だけでしか捉えられなくなってしまった多くの都市生活者がいる。私にはアジェの仕事が「ウッチャリ拾ひ」のように思えてならない。失われ、消えてゆく都市の姿を古いカメラと、感光材料によって、掬い上げたのではないか。そして彼の写真がいまも新鮮に目に映るのは、物や街がまたたく間に使い棄てられる状況がいっそう進んでいるからではないか。 

ー松山巌『路上の症候群』(2000年)より「ウッチャリ拾ひ」

松山氏の意見には同意するが、であるならば、世界中の優れたストリート・フォトグラファーは須らく「ウッチャリ拾ひ」 とよばれてしかるべきではないだろうか。アジェ一人が「ウッチャリ拾ひ」なわけではない。
松山氏によると、アジェは、自分を決して、写真家とは呼ばなかった。あくまでも、他の芸術の「参考資料」として写真を撮っていた。「写真による自己表現」は、アジェの関心の外にあった。
 
先に「我々が、その中にすぽりと包まれて暮らしている自明性の世界は、対象化され得ない」という論について考えてみた。けれども、パリであれ、ニューヨークであれ、シカゴであれ、香港であれ、トウキョウであれ、写真家たちは、自分たちがそこで、その時、生きている=生活している時空を対象化する。
アジェが写真を撮っていたパリということで言えば、 たとえば、ドアノー、ブラッサイ、ウィリー・ロニス、カルティエ=ブレッソン、アンドレ・ケルテス、イジスなど等、それこそ枚挙に暇がない。

彼ら/彼女らが撮ったパリの街や人々は、その当時の彼らを取り巻く「今現在」であったはずだ。そして彼らはいわゆる名所旧跡を撮っているのではない。(もちろん、ルーブルも、ノートルダムも、オペラ座の写真もたくさんあるけれど)彼らのモノクロームの写真のなかに息づいているのは、ありふれた日用品を売っている店であったり、カフェでコーヒーを傍らに新聞をめくっている老人だったり、井戸端会議をしているご婦人たちだったり、バーでテーブルに突っ伏してねむってしまった酔っ払いだったり、セーヌ河畔で寝転んでる宿無したちであった。
 
いわば何の変哲もない「日常」そのものであり、目の前のありのままの現実であり、それはどうやら、「自明性」と呼ばれるものであるらしいと、我々は気づいたはずだ。
 
なぜ彼らは来る日も来る日も目にしている目新しくもなんともない、市場や、いつからそこにあるのかさえ分からないくらいに町の一部になっている荒物屋や八百屋、魚屋を敢えて、対象化しえたのだろう。
 
1924年生れのフランスの女流フォトグラファー、Sabine Weiss(サビーヌ・ヴァイス )の言葉がある。
 
“The world is constantly changing, and everything around us, too. So I always advise: take photos of everything, everything that surrounds you. The house where you live, a saleswoman in a store, boutiques, street. That's how I started.”

『 世界は絶え間なく変化していく、わたしたちを取り巻くすべてのものも。だからわたしのアドバイスは、「あらゆるものを写真に撮りなさい。あなたの住む家、お店の売り子たち、ブティックも、通りの様子も。」わたしはそこからはじめたの 』
 
つまり、アジェ一人ではなく、優れたフォトグラファー達は、 「あらゆるものは流れの中にあり、やがてスそれらはみな変化という流れのなかに消えてゆく」ということを共通の認識として共有しているのだろう。
 
「 自明性」といっても、長い目で見れば、束の間日の光を浴びて消えてゆく露のごときもの。
わたし達は物を、街を救うことは出来ない。だからこそせめて、「かつてこの世界はこんなだったのだ」と、憶えておくため、後の世の人々に知らしめるため、「先取りされた過去」 の足跡を、痕跡を、さざめき、咳(しわぶき)を留めておくことが、写真家、即ち「ウッチャリ拾ひ」の共通の願いであり、強いていうならば、「使命」ではないだろうか?
 
 

Paris street scene, Eugène Atget. French (1857 - 1927) 
「20世紀初頭(?)のパリの通り」 ウジェーヌ・アジェ

 
 
 

 

 

 

 
 

ピカソ 紙の彫刻

'Head of a Woman' (1962) is a sculptural portrait of Jacqueline, Picasso's second wife 

『女性の頭部』(ピカソ2番目の妻ジャクリーンのポートレイト、1962年、作ピカソ)

 

 

 


2021年4月22日

流れに浮かぶ泡沫は かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし 世に在る人も住処もこれに同じ

 

An Old Oak, 1920, Kondratenko Gavriil Pavlovich (1854 - 1924)

「古い樫の木」 コンドラテンコ・ガヴリル・パヴロヴィッチ(1920年)

 *

Look: the trees exist; the houses
we dwell in stand there stalwartly.
Only we 
 pass by it all, like a rush of air. ...”

― Rainer Maria Rilke - Duino Elegies
 
*

見よ 木々はある
われわれが住処としている家々さえ、いまはまだありつづけている
ただ われわれだけが万物のかたわらを流れ過ぎてゆく
急ぎ足で駆け抜ける疾風のように・・・

 
ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの悲歌』〔本歌〕訳手塚富雄
 
 
 
 
 
 

テレビ時代の子供だったわたし・・・

 
いままでずっとテレビなるものを持たずに過ごしてきた。引越しを機にようやく一台を備えてみると、けっこうおもしろくもあり、またずいぶん不便なことも起こる。
マイナスの最たるものは、少しでも気になる番組があると、そのために時間を規制されてしまうことだ。自宅が仕事場の身には、スイッチひとつで手に入るこの愉しみをしりぞけるのはかなりむずかしい。机を離れずにがんばっていても、こころのどこかでちょっぴり残念だなと思っていたりする。
 
そんなふうにして子供のための本などせっせと翻訳したりしていると、時折自分のしていることがまことに空しく思われてくる。なぜってこれを読む子供たちは、既にテレビ時代の子供で、わたしとはまるきり別の人種なのだ。
彼らはすでに月の裏側までも、自分の目で見て知ってしまっているのだ。この世にもはやあたらしきものなし、とまでいってしまっては大げさだろうけれど、これだけ何もかも見ながらそだつことのできた子供たちには、少なくとも、世界のあらゆる驚異に対する無感動、刺激に対する耐性のようなものが、三つ子のうちからすでに身についてしまっているにちがいない。このずれは決定的だ。彼らにははたしてこちらの言葉が通じるだろうか。
 
いずれにせよ、わたし個人としては、ものごころつく頃にテレビがなかったことをつくづく感謝せずにはいられない。ガラス戸の中で本を読んでいた頃のわたしにとって、世界の森羅万象はじぶんよりたしかに大きく、たかが20インチの窓にとじこめられてしまうサイズではなかった。
 
ー矢川澄子『風通しのよいように・・・』(1983年)より、「一九七七年・春から秋へ」

 ◇

1977年。わたしは14歳であった。子供の頃から、テレビを熱心に視ていた記憶が無い。
今日も、こちらまで来てくれた母と、偶々、昔のテレビコマーシャルには品もあったし、ユーモアもあったという話をしていた。そう、外で、耕運機のエンジン音が聞こえてきたときに、母が、「ヤンマー・ディーゼル」のCMのことを話し始めたのだ(正確には歌い始めた)。引き続きレナウンのあの独得のイラストの、イエイエ娘たちの歌。音楽もよく出来ていたが、中でも、柳原良平描くアンクル・トリスの漫画に合せた哀愁とペーソス漂うメロディーは秀逸だった。そして、音楽とナレーションに関して言えば真打はネスカフェであろう。今日、あれだけ質のいいCMを作れるディレクターはいない。
 
1970年代といえば、テレビドラマでも、山田太一、倉本、向田邦子が、代表作を連発していた時代だ。しかしわたしは山田氏を除き、彼らのドラマを一度も視た事が無く、山田太一氏の作品は、ほとんど、シナリオとして本で読んだ。『岸辺のアルバム』も例外ではない。
 
わたしがテレビの恩恵を最も蒙ったのは、NHK総合テレビでやっていた「海外ドラマ」であった。
ことに忘れることが出来ないのが、『大草原の小さな家』。これは再放送、再々放送を含めて、何度視たか分からない。その次に来るのが、『アリー・my・ラブ』。
母にとっては、愉しみにしていたのが、『アボンリーへの道』『ER』『弁護士ペリー・メイスン』などであった。いずれにしても、『大草原・・・』と『刑事コロンボ』を視たときのショックは忘れることが出来ない。
 
だから矢川さんの「便利さと不便さ」という気持もよく分かるのだ。
そして今、子供時代の矢川さんが、 「ものごころつく頃にテレビがなかったことをつくづく感謝せずにはいられない。」と言われるように、老境に差し掛かった自分が、もはや、テレビにも、ラジオにも、そして(たまに音楽を聴く以外の)You Tubeにも縁がなくなっていることを、喜ばしいことだと思っている。
 

そう、わたしと、現代人とは、「まるきり別の人種なのだ。」
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 

2021年4月21日

「自明性とは何か?」についてのノート


再び、昨夜引用した文章を引いてみる


「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、
つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。

翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
 ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
 以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。
 
 
たとえば、「自民党は、戦後二度、短期間下野しただけで、現在に至るも日本の政財界を牛耳っている。 」あくまでわたしの記憶に拠るもので、間違いがあるかもしれないが、そのように記憶している。
 
これは「事実」であり「現実」である。では、所謂「自明性」と「現実」「事実」とは何が違うのか?
 

 
先日、ルネ・クレマン監督による、1956年のフランス映画、『居酒屋』を観た。 
残念ながら、期待していたほどの作品ではなかった。
主役のマリア・シェルはうつくしかったし、舞台(おそらくはセット)はアジェの写真、ボナールやジャン・ベローの絵を思わせるが、なぜか作品そのものが美しく感じられなかった。
同じルネ・クレマンによる『禁じられた遊び』には美があり、ユーモアがあり、哀しみがあったが、『居酒屋』にはそのどれをも見つけることができなかった。
絵画でも音楽でも、これはちょっと・・・と馴染めない作品は当然誰にでもあるだろう。単にそういうことなのかもしれないし、こちらの体調によるのかもしれない。
けれども、ひとついえることは、主役であるマリア・シェルのこころの動きを観る者に伝えるモノローグも、彼女の書く日記もなかったことかもしれない。画面が映し出すのは、ただ、働けど働けど我が暮らし楽にならざり。という身もふたもない「貧しさ」という「現実」だけであった。けれども、彼女の洗濯女としての生活、彼女を含め、女から女を渡り歩く色男、味方なのかそれとも敵なのか分からない気を許せない女たち、そして平凡を絵に描いたような男たち。
さすがに、人間というものの得体の知れなさを上手く描き出している。原作はエミール・ゾラ。時代は正に、アジェやボナールたちの時代である。
 
『居酒屋』には、逃れられない、逃れることの出来ない「自明性」に誰もが雁字搦めになっているような雰囲気が横溢している。その「自明性」とは「貧しさ」である。
僥倖でもない限り、貧しさからの「出口」はない。そこには、わたしがいつも言っている様な、貧しさゆえの高貴さも、崇高さも、生の尊厳もなかった。ただただ、貧しさを自明の事実として甘んじて安酒を飲み、喧嘩をし、場末で色をあさる人間本来の姿が、剥き出しに描き出されていた。
 
The poor stay poor, the rich get rich 
That's how it goes 
Everybody knows 

Leonard Cohen - ’Everybody Knows’
 
つまり、「自明性」 とは、その「やりきれない日常」「今日もまたかくてありなん」という揺ぎ無い現実に耐えて生きて行かなければならない「格子なき牢獄」であるといわれれば、なんとなく分かる気がする。
そして自明性が決められたこと=「定め」であり「規定の路線」であるとするなら、我々はそこで、決して安穏と暮らしてゆけるものではないのではないだろうか。
 

 
まったくまとまらない文章になってしまったが、わたしには、「今、目の前にある現実」と「自明性」との違いが分からない。
 
繰り返し書いていることだが、「これからのあたりまえ」がたちまち「これまでのあたりまえ」に取って代わるという時間的、歴史的連続性の断絶の裡にあって、「これからのあたりまえ=自明性」ということは出来ない。
今日の真実が、明日の真実に取って代わられることを、誰が自明性と呼びうるだろう?
自明性とは、政治や企業の思惑によって、日替わりに入れ替われるものではない。
自明性とは、もっと強固磐石なものであるはずだ。それは「今現在の目の前の現実」という変転常無きものではなく、寧ろ、動かしがたい「運命」に近いといってもいいし、過去数千年の人間社会の歴史の中に組み込まれた、生物としての人間の「限界」のようなものではないだろうか。
 

貧しきものは永久(とこしえ)に貧者であり、
 
富める者は、いよいよ肥え太る。
 
そういうものさ。
 
誰でも知ってることだ・・・
 
ーレナード・コーエン 「エブリバディ・ノウズ」 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2021年4月20日

「自文化」は何故「異文化」ではないのか?或いは「自明性」について

 
最近時々訪れるブログがある。過日、ちょっと興味を惹かれる投稿が目に入ったので、それについて、少し考えてみる。
 
先ずブログに書かれている文章の引用だが、わたしが引用するのは、2015年1月に5回にわたって考察された、「自己認識の方法としての異文化理解 (五)」についてのみである。
 
 この第5回目の投稿を抜粋引用する。(下線・太字は引用者による)
 
 
 
・・・以上の前提に立って、本稿の最初に提起した、「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
 自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。
 
翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
 ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
 以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。

 

 

後半に一部難解な表現が見られるが、これは、この記述がなされるまでの過去4回の論考を読めば分かる(はず)だ。

さて、わたしはこのブログにコメントした通り、「自明性」ということが分からない。
 
「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」
 
いったい何が、「既に分かっている事柄」なのだろう? 
つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」。その中でいかに行動すべきかが分かっているのは誰なのか?少なくともそれは「わたし」ではない。
わたしは、この国で生まれ、この国で育ち、57年間生きてきた。けれども、いったい、自国の文化、即ち「自文化の自明性」について何を「わかって」いるだろうか。そしてわたしは、この国で、或いはこの世界で「いかに行動すべき」かが何故まるで分からないのか。
 
このブログの筆者は(名前は出していない)暗に、日本で生まれ育って数十年、フランスで生まれ育って数十年を経れば、例外なく、 外界は、「その中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」」となるといいたいのだろうか?敢えて捻くれた言い方をすれば、「自明性」というものが分からない特殊な例外はこの際措くとして・・・ということだろうか?
 
その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。
 
つまり、一般人は、自明性という繭の中にすぽりと包み込まれ、その自明性の繭には、亀裂も、ひびもなく、故に、その一部でさえ、対象化されることはない、と?
 
ではその「例外を除く全ての自国民を包含する繭」たる「自明性」とはいかなるものなのか?
「自明性」は如何にして「自明」となったのか?
 
たとえば、町を歩いていて公衆電話の姿を見なくなった。時計のある通りが消えた。誰もが携帯電話を使っているから。 これはつまり、公衆電話の時代は終わり、今は誰もが携帯電話を持つ時代。── これははたして「自明性」と呼べるのだろうか?1930年代から、1945年まで、ナチス=「ドイツ社会主義労働者党」が政権党であり、ドイツが独裁国家であったこと、ほぼ同時期に、日本の軍部が権力を掌握していたことは、「歴史的な事実」だ。一部の例外を除き、ナチが、日本の、主に陸軍が実権を握ってることを「疑い」「忌避」する者はいなかった。鶴見俊輔も、手塚治も、先の日本共産党委員長不破哲三氏も、誰もが軍国少年であったと、述懐している。
 
「自明性に支配された世界」 とは、ある種の全体主義といえるのではないか?
全体主義を一言で言えば「例外のないこと」である。


翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。
 
繰り返すが、わたしはこの国(或いは現代社会の)自明性とやらに、全く 「慣れ親しんで」などいない。
殊更、「異文化」を持ち出さずとも、ある種の人たちにとっては、この社会、この世界自体が「見知らぬ異界」なのだ。
 
しかし、所謂健常者は、「自明性に支配される」ことによって、健常者足りえているかのように見える。
であれば、自分の立っている足元を掘り起こす、乃至、自明性を相対化したところで、得るものは何もないはずだ。
 
異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。
 
しかしそれがいったい何になるのだろう?

昨夜、さる年配の方のブログを眺めていたところ、現在ベストセラーである「スマホ脳」を読んだ感想が書かれていた。ブログの筆者及びその取り巻き連は、スマホの持つ依存性であるとか、その他、ブログに書かれている本の内容に共感していたようだが、その「スマホ脳」の感想の合間合間に、スマホで写した、散歩道の写真が挿入されている。道で出会った服を着せられ、ジャージーのようなズボンまで履かされた憐れな小型犬の写真も・・・
仮に、「今目の前にある現実」、それをいかなる理由を以ってか「自明性」と呼ぶのであれば、これがつまり、自明性の相対化の実態であろう。スマホについて批判的な言及を共有しながら、上下にスマホで撮った写真を配置する。
 
「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする
 
ことにどれほどの意味があるのか?
 
繰り返すが、ここに引用した記事のタイトルは、「自己認識の方法のための異文化理解(一)~(五)」である。
 
引用させてもらったブログの筆者は、「自明性」というものに疑いを差し挟むことなく、「眼前の事実」と「自明性」の異同について考察することなく、この場では、「自明性という自明性」を前提し論を進めている。けれども、それぞれの国民、それぞれの文化は、その疑われることのない「現実」=「自明性」(?)に支えられて日々を生きているが、自明性は、しばしば、全体主義と親和性を持ち、「例外」を排除する萌芽を孕んでいるということを忘れがちである。
 
最後に、自己認識といい、自文化理解といっても畢竟それは、知的営為の範疇でしかない。
 
理解が「感情」に結びつかなければならいのではないか?
 
「スマホ脳」を称揚しながら、スマホで撮った写真をブログに貼り付けづにはいられない自己への嫌悪。
 
憎悪であれ、忌避感であれ、破壊衝動であれ、一方で、憧れであり、勇気付けられるという情緒・感情を捨象した、自己認識・自己理解にわたしはなんらの意味も見出すことはできない。
 
 
 
 
 
 
プラス
 
 
 

 



 

 

 

「自文化」は何故「異文化」ではないのか?或いは「自明性」について

 
最近時々訪れるブログがある。過日、ちょっと興味を惹かれる投稿が目に入ったので、それについて、少し考えてみる。
 
先ずブログに書かれている文章の引用だが、わたしが引用するのは、2015年1月に5回にわたって考察された、「自己認識の方法としての異文化理解 (五)」についてのみである。
 
 この第5回目の投稿を抜粋引用する。(下線・太字は引用者による)
 
 
 
・・・以上の前提に立って、本稿の最初に提起した、「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
 自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。

翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
 ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
 以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。

 

後半に一部難解な表現が見られるが、これは、この記述がなされるまでの過去4回の論考を読めば分かる(はず)だ。

さて、わたしはこのブログにコメントした通り、「自明性」ということが分からない。
 
「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」
 
いったい何が、「既に分かっている事柄」なのだろう?
「つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」。その中でいかに行動すべきかが分かっているのは誰なのか?少なくともそれは「わたし」ではない。
わたしは、この国で生まれ、この国で育ち、57年間生きてきた。けれども、いったい、自国の文化、即ち「自文化の自明性」について何を「わかって」いるだろうか。そしてわたしは、この国で、或いはこの世界で「いかに行動すべき」かが何故まるで分からないのか。

このブログの筆者は(名前は出していない)暗に、日本で生まれ育って数十年、フランスで生まれ育って数十年を経れば、例外なく、 外界は、「その中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」」となるといいたいのだろうか?敢えて捻くれた言い方をすれば、「自明性」というものが分からない特殊な例外はこの際措くとして・・・ということだろうか?

その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。

つまり、一般人は、自明性という繭の中にすぽりと包み込まれ、その自明性の繭には、亀裂も、ひびもなく、故に、その一部でさえ、対象化されることはない、と?

ではその「例外を除く全ての自国民を包含する繭」たる「自明性」とはいかなるものなのか?
「自明性」は如何にして「自明」となったのか?

たとえば、町を歩いていて公衆電話の姿を見なくなった。時計のある通りが消えた。誰もが携帯電話を使っているから。 これはつまり、公衆電話の時代は終わり、今は誰もが携帯電話を持つ時代。── これははたして「自明性」と呼べるのだろうか?1930年代から、1945年まで、ナチス=「ドイツ社会主義労働者党」が政権党であり、ドイツが独裁国家であったこと、ほぼ同時期に、日本の軍部が権力を掌握していたことは、「歴史的な事実」だ。一部の例外を除き、ナチが、日本の、主に陸軍が実権を握ってることを「疑い」「忌避」する者はいなかった。鶴見俊輔も、手塚治も、先の日本共産党委員長不破哲三氏も、誰もが軍国少年であったと、述懐している。

「自明性に支配された世界」 とは、ある種の全体主義といえるのではないか?
全体主義を一言で言えば「例外のないこと」である。





翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。

繰り返すが、わたしはこの国(或いは現代社会の)自明性とやらに、全く 「慣れ親しんで」などいない。
殊更、「異文化」を持ち出さずとも、ある種の人たちにとっては、この社会、この世界自体が「見知らぬ異界」なのだ。

しかし、所謂健常者は、「自明性に支配される」ことによって、健常者足りえているかのように見える。
であれば、自分の立っている足元を掘り起こす、乃至、自明性を相対化したところで、得るものは何もないはずだ。

異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。

しかしそれがいったい何になるのだろう?

昨夜、さる年配の方のブログを眺めていたところ、現在ベストセラーである「スマホ脳」を読んだ感想が書かれていた。ブログの筆者及びその取り巻き連は、スマホの持つ依存性であるとか、その他、ブログに書かれている本の内容に共感していたようだが、その「スマホ脳」の感想の合間合間に、スマホで写した、散歩道の写真が挿入されている。道で出会った服を着せられ、ジャージーのようなズボンまで履かされた憐れな小型犬の写真も・・・
仮に、「今目の前にある現実」、それをいかなる理由を以ってか「自明性」と呼ぶのであれば、これがつまり、自明性の相対化の実態であろう。スマホについて批判的な言及を共有しながら、上下にスマホで撮った写真を配置する。

「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする

ことにどれほどの意味があるのか?

繰り返すが、ここに引用した記事のタイトルは、「自己認識の方法のための異文化理解(一)~(五)」である。

引用させてもらったブログの筆者は、「自明性」というものに疑いを差し挟むことなく、「眼前の事実」と「自明性」の異同について考察することなく、この場では、「自明性という自明性」を前提し論を進めている。けれども、それぞれの国民、それぞれの文化は、その疑われることのない「現実」=「自明性」(?)に支えられて日々を生きているが、自明性は、しばしば、全体主義と親和性を持ち、「例外」を排除する萌芽を孕んでいるということを忘れがちである。

最後に、自己認識といい、自文化理解といっても畢竟それは、知的営為の範疇でしかない。

理解が「感情」に結びつかなければならいのではないか?

「スマホ脳」を称揚しながら、スマホで撮った写真をブログに貼り付けづにはいられない自己への嫌悪。

憎悪であれ、忌避感であれ、破壊衝動であれ、一方で、憧れ、勇気付けられるという情緒・感情を捨象した、自己認識・自己理解にわたしはなんらの意味も見出すことはできない。