2022年1月22日

時代に迎合するジャーナリスト ワシントン・ポストの堕落

21日付けの朝日新聞朝刊「オピニオン」欄に、前ワシントン・ポスト紙編集主幹であり、「米国で最もよく知られるジャーナリストの一人」(紙面より)であるマーティン・バロン氏のインタビュー記事が掲載されている。
タイトルは「ジャーナリズムの未来」インタビューの冒頭に、記事の概要として、このように大きな文字で記されている

「情報はスマホから 最良の届け方模索 伝統固執なら淘汰」・・・と三行で。


「右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない」という坪内祐三氏の言葉をわたしは支持する。言い換えれば、新聞紙上のインタビュー記事に見られるマーティン・バロン氏とは「ジャーナリズム」に対する見方が大きく異なる。

我々の仕事の全ては、(スマートフォンなどの)モバイル機器の上で、最大の効果を発揮しなければなりません。ジャーナリズムの実践において、伝統的なやり方に固執しているメディアは淘汰されるでしょう。人々がどのように情報を入手しているかを心得ている新しいメディアがすでに現れています

多くのニュースメディアが、将来の成功を勝ち取る態勢へ向けてやるべきことをやっていないのです。(古くからある新聞や雑誌などの)レガシーメディアは培ってきた伝統の一部を大切に守ってゆくべきでしょう。しかしその他の部分は捨てるべきでしょう。正直で高潔なジャーナリズムという基本的な価値観をしっかり守りながら、現代人のニーズを満たすために新しい形の発信と拡散の方法を発展させなければなりません。動画や音声、双方向性のあるグラフィック、アニメーション、アノテーション(注釈としての関連情報やデータの付与)などのツールを駆使することが求められています

2013年にアマゾン創業者のジェフ・ベソス氏に売却されたワシントン・ポストの名高いジャーナリストは、ベソス氏の経営方針に共感を示す。「これからはジャーナリズムもインターネットに依存しなければ生き残ることはできない」
そして最も重視すべきは、上に引用したように、モバイルの利用者の「ニーズ」とはなにかということを鋭敏に察すること。「モバイル(インターネット)読者たちのニーズを満たすことが「成功」に繋がる」と。

今後、表現の仕方は劇的に変化し、よりビジュアルになると私は考えています。しかしジャーナリズムの中核的価値観と原則は変わってはなりません。極めて高い報道の質を維持しなければなりません。必要とされる情報、そして知るべき情報を提供することによって、人々は民主主義の社会に関与できるのです。ジャーナリズムの仕事の中心にある大きな部分は、とりわけ為政者などの権力者と政府を監視し、説明責任を果たさせることです。この役割は決定的に重要です


わたしはジャーナリズムの本義は体制(大勢)に迎合しないことだと考えている。それは「時代・時流に阿らないこと」と同義である。言い換えれば「反・時代性」こそがジャーナリズムの本来の姿だろう。

既にして、モバイルだ、インターネットだというもの自体が「体制」であり「時代の主潮」に他ならない。ジャーナリズムは「圧倒的多数派」と一線を画すことによって「ジャーナリズム」足り得ている。
「いかにして「モバイル利用者」に読まれる記事を書くか」が大事だと説くこと自体が錯誤であると言わざるを得ない。
米国屈指といわれる元ジャーナリストも、いまや「辣腕」の経営者である。「いかにして読まれるか」を考えること自体が「ジャーナリズム」の本質的堕落に他ならない。大資本に庇護され、F・A・G・AやSNSに阿るジャーナリズムなど、ジャーナリズムの名に価するとは思えない。

「古い伝統に固執するメディアは淘汰されるだろう」と、自信満々の口吻だが、寧ろ時代に逆らって淘汰されることこそ「ジャーナリズム(ジャーナリスト)」の本懐と言うべきではないか。

権力と対峙し、それを監視するというが、そもそもインターネットというものが、国家によって、閲覧履歴などの個人的な情報が把握され得る危険性を孕んでいるということは、夙にエドワード・スノーデンなどの内部告発によって明らかにされている。端末の大本が「国家・政府」に握られていないと誰が言い切ることができるだろう・・・

アマゾンの傘下にあり、スマホをはじめモバイルユーザーの心を掴むことが成功の鍵?
アマゾンが購買者のニーズを知ることが大事だというのと全く同じ次元で、新聞が、伝えるべきは大衆の知りたいことだと、人々は何を知りたがっているのかを第一義とするなら、それは本末転倒というべきだ。権力・資本家・時代性の尻馬に乗って収益を伸ばすことがジャーナリズムを標榜する組織の「成功」であるとは思わない。そのような報道なら、ない方がマシである。


マーティン・バロン氏はこうも言う

「紙の新聞がなくなるのも時間の問題です」

時代に飲み込まれた元ジャーナリストにして、時代の流れに敏い経営者は、しかとは言えないが、何か大きな勘違いをし、間違いを犯しているように思えてならない。

もう一度繰り返す。

ジャーナリズムの立場とは、
「時代・時流(既存の文化・価値観)と一定の距離を置くこと。」
「時代の主流に批判的な視点を持つこと。」
「「ニーズ」等というような言辞を弄して読者の風下に立つのではなく、逆に時代を牽引し、啓蒙し「いま目の前にある現実」に違和感を覚えさせるほどの意見を表明すること。」ではないのか?

「迎合性と(株主及び読者との)相互依存性」の上に真のジャーナリズムは成立しない。








2022年1月21日

What's new ?


 " What's new, How is the world treating you ? " 

" Cold. just chilly and cold..." 

*



Helen Merrill with Clifford Brown  - What's New
(rec 1954) 



1月20日「大寒」の夜に。






2022年1月20日

過ぎたるは及ばざるに若かず...

 「アプリ」「ググる」「ウィキによると・・・」

度を越した知識欲はひとを下品にする。

ひとは知識を得ながら莫迦になってゆく。






フォロー解除 キライなモノはキライ

 日本人は自分の頭で考えないという言い方をたまに耳にするが、Tumblrをやっていると、いずこも同じという感慨を持つ。
2011年の春にはじめたTumblrは、もうすぐ11年目になるが、フォロワー数の多い者の投稿には、その質を問わず、多数のリアクション(「スキ」「リブログ」)がある。わたしは先ほど2人の人気ブログのフォローを止めた。どんな投稿でも多くのリアクションが付くという現象に嫌気が差した。
その代り・・・ではないが、大人しい(オーソドックスな)絵画を投稿する「人気のない」ブログのフォローをはじめた。

フォローを止めた二つのブログは投稿数も多い。総じて一日のポストの量と、そのブログの人気は比例しているようだ。
質は二の次。

投稿数と人気の相関関係はわたしのブログにも言える。けれども、Tumblrでもアートブログでも、投稿ボタンを押す前に、もう一度、その絵をゆっくりと、じっくりと眺めてみる。そうすると、これは本当にわたしが「好きだ」と言える絵(写真)なのだろうか?という疑問、迷いが生じ、結局投稿ボタンを押せずに、「下書き」として保存される絵が増えている。投稿数が減っている。それに応じて、いわゆる「人気」-「閲覧数」も、下降線をたどっている。
それでいいと思っている。自分のブログを、心から好きと言えないアートで貶めるよりは・・・

わたしは訝る。件の2つのブログに限らず、一日に20から30の絵、写真を投稿する「人気者」たちにとって、それらの投稿は本当に自分の琴線に触れ、彼や彼女の心を動かしたものなのだろうか、と。

繰り返すが、わたし自身、気に入ったアートがなかなか見つからず、投稿数が減り、ブログの閲覧者数もそれに伴って少なくなっている。けれども、わたしにとって、それが文章であろうがアートであろうが、ブログとは「作品」であり、自分自身の内面の表出に他ならない。視る者読む者の思惑を気にすることは、(わたしに関して言えば)ブログの在り方の本義に悖ることだと思うのだ。自分の感性、己の美意識に、頑なと言えるほどに忠実でなくて、なんの「わたしのブログ」か!


フォローを止めたアートブログで、わたしが「フォロー解除」を押す直接の原因になったのはこの投稿であった。


Cellphone 5 -    Richard Bosman, 2021.
American, b. 1944 -

Cellphone 4 -  Richard Bosman, 2021.
American, b. 1944 -


それからもう一つ。「ブログ村」で長くフォローして、このブログでも何度か触れたことのある同世代の女性のブログのフォローも解除した。
わたしは彼女の書く詩が好きだった。ここでも何度か引用させてもらったこともある。
このブログ同様、コメントの付かない投稿ばかりだった。それでも、反応がないとボヤくことも愚痴を言うこともなく、詩を書いたり日常で出逢った出来事を淡々と綴っていた。わたしはその姿勢にいつも感服していた。

このところ彼女のブログを見ないと思っていたら、現時点で、ブログの最後の投稿になっている1月7日の投稿にこのように書かれていた。

「こちらにあまり書かなくなってしまったのは、最近 Hi Nativeというアプリのサイトにはまってしまっているからである。
このHi Nativeは、世界中の外国語を学ぶ人が、その外国語について質問があると投稿し、誰でも答えることのできるサイトである。」

そして投稿はこう結ばれていた。

「これにはまると、時場所関係なくスマホをいじることになり、電車の中でも食事をしている時でも(!)つい見てしまう。よくないなーと思う。

ということで、こちらに書く気持ちの余裕がなくなってしまった・・・。」


 

 




2022年1月19日

「甘えるな」

「甘えるな」という言い草は、畢竟、「いま・ここに在る既存の現実に忠実且従順たれ」の謂いに他ならない。
そしてそういう物言いをする者は、他ならぬ自分はしっかりと既成の社会システムに馴致されておるぞと、首輪をひけらかしながら胸を張るのである。






美しい女(ひと)

Prostitute, the old quarter at Frankfurt am Main, 1929, Gisèle Freund (1908 - 2000)

「街娼」1929年、フランクフルト・アム・マインの路上にて。
撮影したのはフランスの女性フォトグラファーGisèle Freund


何度でもくりかえす。

「美」は、悲しみに暮れ、その日の糧に悩み、貧しさに喘ぎ、孤立し、疎外されし者たちの魂に宿る。すなわち「全き生」の裡に・・・

わたしがこの女性の姿、佇まいに強く惹かれるのは何故だろう。
彼女の表情も、そのからだも、こころも、冷え切っているように見える。
しかしそこには確かに「生のうつくしさ」がある。
笑顔やぬくもりの感じられない生の美しさというものがあるのだ。









2022年1月18日

ぼく自身 そして困難な存在...

下のような投稿が嫌いではない。ここ数日の「穏やかな」投稿も、確かにわたしの内面の記録に他ならない。けれども、このような一連の投稿を以て事足れりとしているわけではない。「わたし」という「困難な存在」から、「憎しみ」や「怒り」が揮発してしまったわけではない。わたしは・・・このブログは、常に「嚢中の錐」でありつづけたいと思っている。

けれども、怒りや怨恨の対象が家族に向かう時、わたしのペンは動きを止め、キーを打つ指先は拳をにぎる。

わたしは苦しんでいる。常に「死」という観念と背中合わせに、隣り合わせに生きている。
ここ(立川)に移って来てから14か月が経ち、わたしは既に限界を迎えている。ここにいる限り、早晩病か自殺がわたしの生命を奪うだろう。「だから」わたしと母は、ここから、外に出ることのできない環境からの脱出を考えている。また引っ越すのだ。けれども、「ここ」から「あちら」へ移動すればすべてが解決するわけではない。
ここで外に出ることができない主な理由は、最寄り駅である「立川駅」に行くまでの約20分間ほどのバスの車内アナウンスの狂気じみたうるささにとても耐えられないからだ。過去に何度も書いたように、耳栓をして、その上に工事現場で用いる遮音用のイヤーマフを被っても、車内に流れる「横断歩道を渡るときには・・・」などという馬鹿げたアナウンスが、耳栓をした耳孔に忍び込んでくる。これも繰り返し書いていることだが、何故日本人は、横断歩道のわたり方からエスカレーターの乗り方まで、いちいちその都度教えてもらわなければならないような幼稚な国民の集まりなのか?


一事が万事で、わたしという「剥き出しの神経の束」のような人間は、東京という街の中のほとんどあらゆる「音」「ニオイ」「光景」が醜悪に感じられる。

例えば次に引っ越した先で、隣からテレビの音が聞こえてきたら?
窓を開けて、タバコのニオイが漂って来たら?
誇張ではなくわたしはもうそこには住めないだろう。

わたしは生きることに向いていない。
少なくとも人の密集した東京のような大都市で生きることはほとんど不可能に近い。


昨年11月に家族の事情から・・・主に弟との不和から、弟が住んでいた、「ここ」に交代して移り住んだ。不和の理由の一つに弟の喫煙がある。弟は嘗て、「禁煙」を試みたことが一度もない。何故か?医者に止めた方がいいと忠告されたことがないからだ。依存症である。母の言うことなど聴く耳は持たない。なによりも「タバコを吸うこと」以外にすることがない。

彼は30代前半に、統合失調症と診断され、2級の精神障害者手帖を持っている。
彼の無気力・無関心は病気に由来するものなのか、或いは生来のものなのか?それは母にもわたしにもわからない。彼とほぼ同世代の弟の主治医が、何故こうも「まったくなににも関心がないのか?」というわれわれの疑問に答えてくれるとは思えない。「医者を替えたら?」という母の勧めにもニベもない。


木村敏は『異常の構造』の中で、

彼らが場違いに繊細な感受能力を持って生まれてきたという運命が、すでにその時点において彼を分裂病者として規定していたのかもしれないのである。
(下線Takeo)

と述べている。だとしたらわたしこそ「統合失調症」(=分裂病)ではないのかと考える。「極度の繊細さ」「自明性の欠如」── わたしは少なくとも「木村敏の描く分裂病患者」の特徴を色濃く持っている。
弟はわたしの知る限り、昔から「音」にも「ニオイ」にも「色彩・光」にも、敏感でも過敏でもない。


わたしがどれほど嫌がっても、弟は喫煙を止めない。そしてまた、来る日も来る日も「なんにもやることがなく」ても、わたしのように頭を抱えたりはしない。
スマホを見てはなんとか時間を潰しているようだ。


「何故きみではなくわたしが?」── その想いを弟に対して抱いているかもしれない

「きみは毎日を為すところ無く「無駄」に過ごしている。そう。わたしにはきみは人生を「無駄」にしているとしか思えない。「生きられない・・・」という苦悶・懊悩も見られない。すべては病気に原因があるという確たる診断もない。何故わたしは、キミの犠牲にならなければならないのか?
わたしが「ここ」に戻ることができれば、(保証はないが)もっと人間らしく、自分らしい生き方ができるのに。何故って、ここは、(キミさえいなければ)窓からタバコのニオイが漂ってくることもないし、周囲の住人の立てる音に悩まされることもない。隣も、そのまた隣も、階下も、年配の女性が住んでいる・・・」

「キミがわたしのためにここを明け渡してくれたら・・・」

けれども、そうは言えないのだ。何故なら、現実に数年間(6年間?)彼は「ここ(立川)」に「わたしとの接触を避けるために」住んでいたのだから。

じゃあ何が問題なのか?

「やることがないので暇を持て余し、唯一の話し相手である母のいるここに毎日毎日通って来るから・・・」無論タバコは自分の住んでいる場所でしか吸わないということもない。

だから、今現在の状況があるのだ。


「きみはわたしがどうしても戻りたいという場所に住みながら毎日いったい何をしているんだ?せめてわたしが他所ではできないこと・・・人間らしく、自分らしく生きてくれているのなら我慢も出来るが、何故きみはあらゆることに無関心なのか?何故「スマホ」と「タバコ」だけで生きていられるのか?きみの人生ってそんなものなのか?」

その答えは永遠に誰からも得られることはないだろう。
父同様に、弟という存在も、わたしと母にとって、家族でありながら決して内面を窺い知ることのできない謎の存在であった。せめて、パスカルのいうように、「理解することは、許すことだ」(To Understand is To Forgive...) という「救い」でもあれば ── 弟の内面を、その心中を、言葉にできぬ(ならぬ)苦しみを垣間見ることができたなら・・・

もしきみに、重苦しい生の倦怠も、底知れぬ厭世観も、筆舌に尽くせぬ人間存在への不信もなく、音も、ニオイも、スマホも気にならないなら、もっと、もっと自由に生きてくれ!
わたしができない分も。






 


2022年1月17日

いつだって どこだって 大自然のなかの読書












 Estella Solomons (1883 - 1968) Seamus Reading 


アイルランドの画家、エステラ・ソロモンズによる「本の虫」シリーズ(?)
シェーマスという中年男性が、あちらこちらで本を読んでいます。
大自然のなかでまで活字を追わなくてもよさそうなものだと思うけど・・・
いったいどんな(何の)本を読んでいるの?という好奇心に駆られます。

ちなみに Seamus  (シェーマス)の頭文字 S を取った Eamus(イームス)は、ラテン語で、英訳すると "Let's go"
"Eamus Reading"  "Let's go reading" という意味になるんですね。

エステラのこの一連の絵は、そういう隠された含意があるのかもしれないと、深読みしたくなります・・・









ひかりと闇 日蔭者のうた

このところ日の暮れるのが少し遅くなっている。日が伸びている。
それだけでもなんとなくほのぼのうれしく、ありがたいと思う。
陽光に飢(かつ)えていたという自覚はなかったが・・・

少し気が早いけれど、「春」という季節が昔からあまり好きではなかった。
「春」よりも「秋」を好み、シェリーの「冬来たりなば 春遠からじ」という詩の一節にも、少しも心は動かなかった。数年前、アウグスト・ストリンドベリの ”Autumn is my Spring !”という言葉を見つけ、共鳴した。

「卒業・入学・入社」「新しい季節」「新たな出逢い」「新春」「芽吹き 芽生え」「花の宴」...etc... 
春にはこれらの言葉に込められた生命活動のあわただしさとエネルギーが感じられ、「スプリング・ハズ・カム!」には今でも心ときめくことはない。

 そんなわたしでも、日没が十分でも遅くなることに、今はよろこんでいる。

「空は監獄の窓から見た時が一番美しい」という。

闇の中にいるからこそ、わずかな光がうれしいのだ。

カーテンを、闇を隠すために使わずに、陽の光を遮るために引くような季節には、やはりあまり馴染めそうにないけれど・・・








2022年1月16日

想ふことあれこれ...

以前「ヒキコモリ」と呼ばれている人たちのブログを見ていて、彼らが異口同音に「引きこもり」なんだから(毎日)書くことなんかないよ・・・」とボヤいているのを読んで、「そうかなぁ、「引きこもり」であろうと、身体の自由が利かない障害を持っていようと、毎日生きているんだから考えること感じることはあるはずだけど・・・」と、こころの中で反論していた。

母が、風呂場の天井の水滴を拭き取るために、雑巾を巻き付ける棒っきれ(50センチくらいの木の枝)を持ってきてくれた。そのときに枝を包んでいた新聞紙が9日、日曜日の「朝日歌壇・俳壇」のページだった。何の気なしに眺めていて、パッと目に入って来たのが、馬場あき子氏選の次の歌である。

楽しいこと少しは書こうと吾が手紙に考えつくせど独房の日々

名古屋市 西垣進さん

いまのわたしには、いわゆる「引きこもり」の人たち(=外に出られない人たち)の気持ちも、刑務所で暮らす人の心の重さもよくわかる。

吾(われ)もまた囚われ人なればなり

昨日の投稿の最後に「3月に閉館する岩波ホール」と書いたが、閉館は7月であった。

13日の朝日川柳にこんな句がある

「旅芸人」「木靴」「山猫」みなここで

神奈川県 高田正夫さん

どれも、映画史に残る名作ばかりである。テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』『木靴の樹」はエルマンノ・オルミ。『山猫』はいうまでもなく、ヴィスコンティ・・・
高田さんはこれらの映画をすべて「岩波ホール」で観たというのだ。
正直こういう作品名を並べてみると、マイナーな映画を紹介する映画館というよりも、「名画座」という気もしないでもないが・・・

昨年だったか、母はここで「ニューヨーク市立図書館」について描いた3時間のドキュメンタリー『エクス・リブリス』を観、彼我の文化の層の「差」に圧倒されたという。
ちなみに[Ex libris] とは「蔵書表」のことである。主に版画で作られている。

例えば


これなどはオーストリアの画家、フランツ・フォン・バイロスの制作したエクス・リブリス=蔵書表である。


これは マリオ・ロッシーニ (Mario Rossini) 作のEx libris。

蔵書表はあくまでも本の持ち主が個人的に愉しむためのものなので、概してエロティックだったり、グロテスクだったりするものが多い。

わたしはここ(岩波ホール)で上映した『大いなる沈黙の方へ』というドキュメンタリーが観たかった。過去にこのブログでも触れた『少女は夜明けに夢を見る』というイラン映画も岩波ホールでの上映ではなかっただろうか。

最後に、「朝日川柳」の隣の欄に「かたえくぼ」という「ひとこと欄」(?)があって、町田の「マグマ」というペンネームの人がこう書いている

『閉館へ』

コロナの荒波に負けた
  ── 岩波ホール

違う!

岩波ホールが閉館を余儀なくされた(る)のは、オリンピックを強行したこの国の、「文化」というものに対する政治家、企業家連中の驚くべき意識の低さに他ならないと断言放言しておく。

嘗て辺見庸の先輩は、「戦争とオリンピックと天皇(制)には勝てねぇんだよ!」と吐き捨てるように言った。

この国に最も欠けているもの、「人権意識」「文化への敬意」そして「美意識」







2022年1月15日

もうひとつの「イマジン」

 なんにもない なんにもない 

まったくなんにもない

うまれた うまれた なにがうまれた

ほしがひとつ くらいうちゅうに

うまれた

ほしには よるがあり

そして あさがおとずれた

なんにもないだいちに

ただかぜが ふいてた



これは園山俊二原作の『はじめ人間ギャートルズ』という、昔テレビで放映されていたアニメーションのエンディング・テーマだ。

16か17歳の頃、高校の世界史のノートの最後のページに、当時買ったジョン・レノンの「イマジン」のドーナツ盤の歌詞カードに書かれていた詞を鉛筆で書き写した。
彼の言葉に、メッセージに、こころから共感していた。

そして、この「ギャートルズ」のエンディング・テーマは、ジョンのイマジン以上に、いまのわたしのこころに深くふかく沁みわたる。
ひとりぼっちのへやで、この歌をなんべんもなんべんも、繰り返し、つぶやくようにうたってみる。
胸が熱くなり、あたたかい涙が流れてくる。

「神」や「国」、「文明」や「文化」という概念すらなく、「戦争」「平和」「善」「悪」「貧」「富」、そして「美」と「醜」、もちろん「飢え」も「心の病」も「差別」も「偏見」ない世界・・・劫初の光と風だけが、大地のうえをただしずかにながれている世界・・・


ナンニモナイダイチニ タダ カゼガ フイテタ・・・

これはわたしのもう一つの「イマジン」だ。



*2022年1月14日、「岩波ホール3月に閉館」の報に接した夜に記す









2022年1月14日

一枚の絵

Two boys, Laurence Stephen Lowry. English (1887 - 1976)
- Oil on Panel -

久し振りにパッと見て気に入った絵です。
アートブログにもポストしましたが、こちらにも。

英国の20世紀の画家、スペンサー・ステファン・ローリーの『Two Boys

こんな絵のどこがいいのと思われる人も多い(・・・というかほとんどでしょうが)
この「ラフ」さが、このテクスチャー(質感)が好きなのです。
頗るシンプルな絵ですが、この二人の少年の姿が、大きな絵の全体のディテイルではないところも気に入っています。






 

Light my fire....

最近このブログに投稿する音楽がモダン・ジャズばかりになっている。それには訳があって、わたしが愛読・・・というより、好んで眺めている海外のアート系ブログが不定期にモダン・ジャズを投稿する。そのセンスがとてもよくて、ジャズファンとしてはついつい対抗意識を燃やしてしまう。彼、或いは彼女(?)はジャズしか聴かないのだろうかと訝るほど、そのブログには音楽といえばジャズしかない。

これも前に書いたことだが、アートでも写真でも音楽でも、また文学や詩の引用でも、「これは敵わないな」というブログに最近めぐり逢っていない。ひとのせいにするつもりはないけれど、Tumblrにしても、こちらの気分を高揚発奮させてくれるような絵なり写真なりに久しくお目にかかっていない。

創作(?)におけるわたしの主たるモチベーションは「彼・彼女には負けたくない!」というライバル意識なのだ。投稿を褒めてもらうより、フォロワーの数が増えるより、わたしは、自分のセンスを超えた人に、その作品(投稿)に出逢いたい。その代表と言えるのが、二階堂奥歯の『八本脚の蝶』というブログであった。日本語で書かれたブログで、わたしに火をつけたのは、『八本脚の蝶』と、もう一人、今は閲覧できないが、2003年ー2010年くらいまでに書かれた、わたしとほぼ同世代と思われる女性イラストレーターの「microjournal」という、ツイッターの先駆けのようなブログだった。

海外のアート系ブログは、音楽やアートの領域では良質の刺激になるが、おしなべて彼らは多彩な「引用」はするが、自分自身のことばで語ることをしない。そこが物足りないといえば物足りないし、何故彼らはブログで自分の人生に於ける哲学を開陳することをしないのだろうかと不思議に思う。

文章表現に於いて、現在わたしの対抗意識を燃やしてくれるようなブログが存在しない以上、「胸の裡の火」は自分で熾さなければならない。その火だねになるのが、「いい文章を書きたい」という欲求なのだろう。





 

 

2022年1月13日

セイ・イット(オーバー・アンド・オーバー・アゲイン)ジョン・コルトレーン・カルテット/Say It (Over And Over Again) John Coltrane Quartet

John Coltrane Quartet - Ballads


パーソネル

ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)
マッコイ・タイナー(ピアノ)
ジミー・ギャリソン(ベース)
エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)
(1962年録音)

 
Personnel 

John Coltrane (tenor sax)
McCoy Tyner (piano)
Jimmy Garrison (bass) 
Elvin Jones (drums)

Recording (1962) 


*jazz の選曲は、すべてわたしの手持ちのレコードまたはCDから行っています。







片手に銃を 片手にペンを...

いい文章を書きたいと願う。切実に願う。
「生きること」── わたしにとってそれは「読むこと」「書くこと」そして映画や音楽、アートと共にあることだ。けれども、今は一日一日を生きていくのが精一杯で、尚且つ、日々「死」を想いながら命を繋いでいるなかで、集中して本を読むことも、映画を愉しむこともままならない。

Tumblrは日毎にフォロワーの数が増えているようだが、自分で納得のいくポストができているとは言えない。「この程度の投稿で喜んで欲しくない」というのが偽らざる気持ちだ。けれども、実際にはフォロワーの増加は、最近の投稿ではなく、わたしが過去に投稿したアートや写真に依存しているようだ。現在の 'a man with a past' は「過去」(Past) によって支えられている。 

アートにしろ、文章にしろ、今のわたしは、自分自身満足のいく投稿が困難な状態だ。
『ぼく自身 或いは困難な存在』というブログに於いても、過去に書かれたものを読んでもらいたいと希望している。確率は極めて低いかもしれないが、わたしがもう一度「生き返る時」が来るまで・・・


”The past is not dead. In fact, it’s not even past.”

ー William Faulkner


「過去は喪われてはいない。実際のところ、過去は「過去」ですらないのだ」

ー ウィリアム・フォークナー







2022年1月12日

「空室アリ」(或いは「予め失われている自明性...」)

日本国中・・・仮に東京都に限定しても、住居の形態は問わず、すべての部屋に人が住んでいるということはない。しかし一方で、この凍てつく酷寒の夜に、路上に身を横たえている人が存在する。
これはいったいどういうわけだという問い掛けは、余りに愚か、あまりにも噴飯ものなのだろうか?

それは何故?

およそ「クニ」「国家」というものにとって、ひと(=国民)のいのちとはいったい如何なるものなのか?

10メートル、20メートル先に空き室が2つもあるアパートがありながら、冷え切ったアスファルトの上に段ボールを敷いて、新聞紙とボロ布を纏って横にならなければならない人がいる。その10メートル、20メートルは、われわれにとって遥か銀河の彼方の星への距離に等しい。

「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する ──」

何故日本国憲法には「嘘」が多いのか・・・ 


娘が訊く:「ねえ、ウチの隣のいえって、誰も人が住んでないよね」
父親:「ああ、ながいこと空き家になってるね」
娘:「さっきベンチで寝てた人、とっても寒そうだったけど、隣の家に住めないの?」
父親:「それはできないよ」
娘:「どうして?」
父親:「どうしてって、説明するのは難しいよ・・・」
娘:「夜になって寒くなったらあの人凍えて死んじゃうかもしれないんだよ!」
父親:「それは可哀想だとパパも思うけど、法律で決められたことなんだ」
娘:「法律と人のいのちとどっちが大事なの!?」

子供の「微笑ましい無智」、言い換えれば「真っ当な疑問」を、自分は世間知を持つ「大人」であるからと、微苦笑を以て封じ込めてしまっていいのだろうか?

一方に空き室空き家があり、一方に無宿者と呼ばれるひとたちが存在する。
誰ひとりとしてその明々白々たる「おかしさ」「奇妙さ」「不思議さ」について疑問に思わないのは何故か?


この世界はわたしにとって謎に満ちている。そしてそれはわたし以外の人たちにとっては、いっかな「謎」でも「何故」でもないことなのだ・・・

(子どもにとってもまた、眼差しは未開の状態で存在している。)


ー追記ー

「生活保護」を万能薬のように考えないで欲しい。
再検証し考えるべきは、そのような制度がありながら、尚多くのデラシネたちが存在するという現実なのだから。













2022年1月11日

追記 隔たり

「あなた」は「わたし」ではない。

「わたし」は「あなた」ではない。

即ち

「わたしの苦しみはあなたの苦しみではない」

「わたしの苦しみをあなたは苦しむことはできない」

精神医療乃至精神福祉は、その溝を、はたしてどのように埋めようというのか?

その「絶対的相違(或いは全き異質性)」に、どのように架橋を試みようというのか・・・

***

「目は常に未開の状態で存在する」(アンドレ・ブルトン)








絶対的「他」

「神は(ひとに)耐えられる苦しみしか与えない」というような言葉があった。

この言い方に倣ってこう言うことができるだろう。

「ひとは(自分の)助けることのできる者しか助けない」と。

医療・福祉に携わる者たちは、自分の器量力量を越えた難題難問に取り組むことはないし、

己の価値観の埒外にある人間の悩み苦しみを何とか理解しようと努めることはしない。

その意味で「公助」「共助」の前に「自助」を置くという考え方は、何ら不合理でも「冷酷」でもなく、寧ろ極めて理にかなった事と言えるだろう。