2018年10月31日

終わりの始まり? 極個人的な問題Ⅱ


とにかく先ず、わたしは自分が愚鈍で、バカで、無能で、生きている値打ちのない存在であるということを改めて確認しておく必要がある。

ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。
わたしは自分の身体に物理的に傷をつける人の気持ちを知らないが、やはりどこか鎮静作用があるのだろう。

何度も引用している啄木の

死ぬことを
持薬を飲むがごとくにも われは思へり
心痛めば

という歌も、そういう気持ちと相通じているのかもしれない。



人生という旅に於いて、両の腕に下げたトランクの中には、様々な「悩み事」だけしか入っておらず、「楽しいこと」「うれしいこと」など、なにひとつ入ってはいないのに、何故尚旅を続けるのか?続ける必要があるのか?続けなければならないのか?

先日も書いたことだが、母が、わたしだけの母ではなく、同時に弟の母である以上、親は兄弟を均等に扱わなければならない。
わたしは昔から弟とウマが合わない。ここ数年、わたしが外に出ることが困難になってから、3つの部屋に、仲の悪い兄弟と、仲の悪い夫婦とが一緒に暮らしていることに堪えられなくなり、わたしは常に苛立ち、このままでは一触即発という感じにすらなってきたので、3年ほど前だったか、わたしの主治医の意見もあり、弟がここから別のアパートに移った。弟は現在51歳、統合失調症で障害者手帖2級の、やはり精神障害者である。大田区にいるときから、つまりわたし同様に、30代で発病して自宅に戻ってからは、医者に行く以外には外に出ない生活を続けている。

統合失調症と診断されているが、弟の主訴は、とにかくやることがなく、毎日ひまでひまでしょうがない。ということだ。だから一緒に住んでいる時から、「やることが無く暇」なものだから、話し相手(口を利く相手)を求めてしょっちゅう母の後をついて回っていた。
現在はここからJRで二駅の街に分離して住んでいるが、週一回の「休み」以外は、朝9時から午後の2時まで、自転車で毎日通って来て母の傍にいる。
そしてわたしにとっての最大の問題は、彼が喫煙者であるということだ。
わたしは闇雲に喫煙者を排除しようとは思わない。高校時代の友人は、30代の時に彼が結婚して疎遠になるまで、それはそれはものすごいヘビースモーカーであった。
やはり高校時代からのもう一人の友人も、当時は喫煙者であったが、わたしは彼らのタバコの煙にいぶされながら交流を続けていた。そもそもタバコを止めてほしいと思ったことすらなかった。

昨年の今頃、母と神田の精神科クリニックに行ったときに、時間を潰すために駅前の喫茶店に入った。そこは禁煙でも分煙の店でもなかった。それほど混んではいなかったが、客のほとんどはタバコを吸いながらコーヒを飲み、食事を摂っていた。多少の抵抗はあったが、わたしはそれを知りながら母と店に入って、タバコの臭いの中でコーヒーを飲んでサンドイッチを食べた。
仕事の休みで一服しているひとの煙の匂いはそれほど気にならなかった。
今でも、仮にわたしの親しい友だちが喫煙者であって、一緒に入った喫茶店でタバコを吸いたいと言ったら、わたしは反対はしないだろう。
けれども弟は昔から、他に何もすることが無いからタバコを吸う。確か大田区にいた頃は一日に2箱吸っていたはずだ。



80:50×2=80:100問題である我が家で、弟は、朝一でやって来て5時間、母の後に付き纏っている。部屋で少しでも一人にされると出てくるのだ。その間母は当然弟の相手をしながら家事をしなければならない。

弟のタバコの臭いが母の部屋に染みついている(ことに過敏になり始めてきた)ので、これまでは、夜、母の布団を敷くのがわたしの仕事・・・とも言えない形ばかりの手伝いでしかないのだが・・・だったのが、母の部屋に入ることができなくなった。弟は母の部屋の窓を開けたベランダでタバコを吸うので、ベランダに出て、シーツや毛布の埃をはたくことができなくなった。
そして一応これは弟の唯一の「手伝い」で、母と一緒に駅前まで買い物に行き、荷物を持ち帰ってくるのだが、喫煙者である弟の衣服には当然ながらタバコの臭いが染みついていて、わたしがトイレに行こうとすると、玄関付近に漂っているその臭いが気になって、そんな時には、今朝取り替えたばかりのパジャマを、また洗濯してもらい、どんなに身体がだるくても風呂に入って全身を洗わないと気が済まないようになってきた。(つまりは「神経症」である)

母には何度か弟の喫煙のことを言っているのだが、「彼の唯一の愉しみ(?)気晴らしだから。」「いい大人に親が口出しすることじゃない」「彼なりにあなたに気を遣っている」と結局「禁煙」という方向性はまるで出てこない。

今年になってわたしは完全に外に出ることができなくなった。理由は何度も書いているように「孤独」と「デジタル・ワールドへのアレルギー」そして外界の「歩き(自転車)スマホ」「車のアイドリング(しばしば中で運転手がスマホをいじっている)」「街路樹を剪定する時の騒音」同じく「落ち葉を吹きよせる際の爆音」「昼間から駅に灯されている無駄な照明」「電車やバスの中での執拗な注意喚起のエンドレスのアナウンス」そして同じく車内での「スマホに憑依された人々の群れ」・・・

わたしが僅かながらでもできていたことができなくなったことで、必然的に母がそれをわたしの代わりにやることになった。そして週に6日、一日5時間、ただただ「ヒマだから」ということで母につきまとう弟・・・

先日帰宅後の弟から母に電話があり、(彼は暇だと電話をかけてくる。毎日朝9時から午後2時まで話しても、まだ暇だと母に電話をかけてくる。)
その電話で、彼は、母に「自分だけが犠牲になっている」と不満を漏らした。
それをたまたま聞いていたわたしは、限界を感じ、母にこの家から出ていくことを告げた。
そうすれば弟は一日中母といられる。── 実際には弟は、母に、「自分の現状」はしょうがないにしても、せめてわたしに「感謝の気持ち」を持ってほしいというようなことを言ったらしい。そうすれば、今の「蚊帳の外」の状況も耐えられるだろう ── と。
けれども残念ながらわたしは弟の現実に「感謝」する気持ちにはなれない。

わたしが自分の命よりも大事に思っているのが母の存在である。そしてわたしはこのような存在であることによって母の人生を台無しにした。

わたしが「出てゆく」即ち「自裁の覚悟」を伝えると、母は「じゃあわたしも死ぬよ」と言った。

前に書いたように、母はシオランの言う「親となった罪」を、生涯を、そして命をかけて贖うつもりなのだ。「あの男性」と結婚したことを生涯後悔し続けた母は、その男性との間に「わたしを生んだ罪」そして同時に「弟を生んでしまった罪」を負い続けようとしている。
このことから、母が弟に強く言えない理由も理解できる・・・

わたしが唯一出来ることは、どう考えても二つの50からひとつを消すこと。
バカなわたしにはそんなことしか思いつかない。しかしそのことが却って母の死を招き寄せることになったら。

わたしは現実にどんどん「出来ること」の幅が狭まっている。「母のために健康になる」という気持ちでさえ、「孤独」と「現代社会への激しい嫌悪(憎悪)」「人間存在への不信」の重みで挫けてしまう。であれば、誰にとっても母の負担を軽くするには、弟以上に「何もできないで神経ばかりがピリピリしている」わたしがいなくなる以外、どうしても考え付かないのだ。

弟に「禁煙を勧める」くらいなら、わたしとともに死ぬ。
それも、「(わたしと弟ふたりの)親となった罪と罰」を考えれば、決して理解不能なことではない。母はわたしにも、弟にも、背負いきれないほどの負い目を感じているのだ。
そしてわたしは「子になった罪」「このような人間であるという罪」を感じながら日々生きている。
そしてまた、ひょっとしたら、母の気持ちの中には「あの男性」と結婚をして、自分の母も、子供も、そして自分自身も、誰も幸せになれなかったという事態を招いた、若き日の母自身への復讐或いは「面当て」の感情もあるのかもしれないと憶測しもする。

いずれにしてもわたしは母が死んだその日に命を絶つつもりだ。愛なくして何の命か・・・持病を持つ母なので、とてもあと10年はないだろう。
10年。わたしがあと10年生きれば65歳。
かつて親友だった女性は、64歳の誕生日をふたりで祝った時、「64歳まで生きるなんて考えてもみなかった・・・」としみじみと述懐していた。幼いころに虐待を受け、自分を「愛されざる者」とさえ見做すようになり、自殺すら何度も考えた悲しい半生だった・・・
同じつぶやきを、65歳になったわたしが誰かに、また独り言つことはほとんど考えられない。来年どころか、今年中に何が起きるかすらわからない風雲急を告げる暗雲のただ中にいるのだから。

明日から11月。とても来年のことなど思いもよらない。もう何年も「カレンダー」というものを買っていない。明日の見えないものには無用のものだからだ。

事態はただただ悪くなる一方だろう。そしてこの状況を救えるものは何処にもいない。













2018年10月29日

生きて在ることの罪(仮題)


人の世話にならずには生きてゆくことの出来ない人たちは生きていてもいいのか?
そのことについてわたしは「もちろん生きていていいのだ」という結論を出したはずだ。
その考えにいささかも変わりはない。

けれども、人の世話にならなければ生きて行けない「わたし」は生きていてもいいのか?
その問いにどうしても「イエス」とはいえない。






2018年10月28日

I AM NOT ME?


今日は地元府中市の、「精神障害者を守る家族会」の会長と話をした。事務所兼相談室になっているマンションの1室で、約2時間半。差し向かいで話した。
府中の家族会の会長だけでなく、東京都の家族会の理事もやっている人だ。

結論から言うと、「負のアイデンティティ」に依存して生きているわたしの「自己否定」、即ち「今現在のわたし」を全否定された(苦笑)

わたしの主治医は、「あなたは一見非常に堂々としていて自信に満ち、知的で、どこに精神の欠陥があるのかと思わせるけれども、実は非常に傷つきやすい壊れ物のような内面を持っている。けれども、ちょっと話しただけでは、また1回や2回会って話したくらいではそれがなかなか見えない。それが却ってあなたにとって不利になっている」という判断をしている。

けれども、今日話した家族会会長は、「堂々として、自身に満ちて知的・・・それが正に真のあなたなんだ!あなたを目の前にして、あなたの姿を見、あなたの話し方を見て、話を聴き、笑う時などの表情を視ているとそれがよくわかる。ただ、これまでの人生で、つまりこの日本の社会でずっとあなたは否定され続けてきた。そしてついに自分で自分を否定するまでになったんだ」

確かにわたしは今日のようなことを過去何人かの人に言われたことがある。
作家の山田太一氏とは32歳の時から20年間文通を続け、3度、実際に会って話したが、或る時手紙の中で「私から見ると、あなたは同世代の男性よりも外見も知性もずっと上だと思うのに、何故そんなに自分を卑下するのか?」と言われた。

「活き活きと自殺を語るエネルギッシュなひきこもり」とある種の人たちには見えるようだ。
今日も会長の口からなんど(わたしから伝わってくる)「迫力」という言葉を聞いたか。

しかしわたしは昔から褒められることほど苦手なものはなく、またわたしを否定する言葉を素直に、何の抵抗もなく採り入れてきた。
それほど否定の言葉はすんなりと、油のように滑らかに、耳に、そして心に入ってきた。

昨日も書いたように、生涯もった唯一の親友も、6年目にわたしの元を去って行った。
そして、3年前。わたしが2008年のブログを自分で製本(出版ではない)して山田さんに送り、それを読んだ山田さんは、「あなたの考え方にはついてゆけない」と言ったではないか。「異質の他者を感じる」と・・・

わたしの好きな言葉がある

" Everyone is Normal Until You Know Them Well..."
「よく知るまでは誰もがマトモだ」

確かにわたしは「自己否定の塊」であるわたしを全否定したN会長のことばを全否定はしないし、出来ない。辺見庸も、「今の世界では、まともな人は皆とうに狂っている」と言っているし、「いのちの電話」で、今日の会長の発言に近い感想を何度聞いたかしれない。

活き活きと自殺を語り、胸を張って堂々と自己否定するわたしを怪訝そうに眺めた人を何人も知っている。

今日のN会長の言葉で肯けるのは、政治はもとより、教育の面においても、医療や福祉、そして民度の点でも日本は3流国であるということ、そして、もしこの国に生きていなければ、あなたはもっと活き活きと自分らしく胸を張って生きていただろうという言葉にも同感だ。
実際に英語で話していると、普段の自分ではない自分が浮かび上がってくる。自信と自己肯定感が自然と体を巡り始めるのを感じる。ところが母国語で話したり書いたりすると、途端に「卑屈」な自分が頭をもたげてくる。

N会長は、今目の前にいる、ありのままのわたしを認めてはくれなかった。「これはほんとうのあなたではない」と。いや、違う。「今私の目の前にいるあなたこそが本当のあなたであって、日頃常に自分を否定するあなたは真のあなたではない」と言ったのだ・・・

親友と山田太一さんは最後の最後で遂にわたしの本質を見抜いた。そして去って行った。
次はN会長がわたしに失望する番なのだろうか。これほどまでに人生経験が豊富で、精神・知的障害者、健常者、医師、福祉関係者、宗教関係者など、普通の人の何倍もの様々な特性や境遇、肩書を持った人たちを見てきた人でさえ容易に見抜けないわたしとは何者か?主治医に「長いこと精神科医をやって来て、あなたのような人は見た(診た)ことがない」と言わしめたわたしとは・・・

小学校卒業の時、音楽の女性の先生に、少し心配そうに言われたことを憶えている。
「あなたは誤解されやすい人だから・・・」

ワ タ シ ハ  ナ ニ モ ノ カ・・・?









2018年10月27日

愛されたい。けれども愛されることが怖い…


今日は「いのちの電話」で約2時間話した。最初は話が合うんだか、そうでもないのか、うまく波長が合っていない気がしていたが、終わってみれば、これまでの最長記録の「会話」だった。

わたしは「嫌われることへの怖れ」について話した。自分がまったくの「無」であり、人との関係は、受ける一方で、決して「ギブ・アンド・テイク」の関係にはなりえないのだと訴えた。もちろん「受ける」「与える」というのが、有形のものだけではないということも前提で話した。

「無力」ということ。例えば全く無力な存在である赤ん坊、逆に老い衰えた人、重い障害を持ち、自分で食事をすることさえままならない人、小銭を「恵んでもらって」いるホームレス・・・繰り返し書いているように、仮に彼らの姿を実際に見ていなくても、この世界に、わたしのいるこの地上に彼らが存在していること、或いは単にそこに「ある」ことで、どれだけわたしの心が慰撫されているか。わたしは確かに彼らに「与えられて」いる。彼らは、その存在の在り方そのものによって、すくなくともわたしという人間に「与えて」くれている。彼らは「無力」かも知れないが、決して「無」ではないし「無価値」でもない。と、いくぶん演説口調で熱く電話の向こうの女性に伝えた。

でもわたしは彼らと同じではない。うまく言葉にすることはできないが、赤ん坊や、重度の障害者や、宿無しや孤独なアル中とは違った、なにか、人を不快にさせる「何か」を持っている。上記の人たちとはまるで別種の、人を遠ざけるものを備えている。

人は皆、限りなく「球体」に近いほどの多面体だ。「この人にこんな一面があったのか!?」わたしはそれを知られるのが怖いのだ。

「でもさあ、あなたと6年間親友でいた彼女はあなたのすべてを知っていて、それでも6年も一緒にいたじゃないの・・・」受話器の向こうの、55歳のわたしより少し年上の女性は、40代の声でそう反問した。
確かにそうだ。けれどもそれはほとんど恩寵、奇跡と言っていい出来事だった。
そして奇跡は2度とは起こらない。
その彼女ですら、遂に6年目に去って行った。「奇跡の人」は6年もった。ではそれ以外は?



わたしが何故、誰からも好かれないのか?或いは仮に、仮に一時(いっとき)好かれていたとしても、たちまち「正体がばれて」去って行かれるのはなぜか?
真っ先に考えられるのは「人に好かれるために自分を変えることを決してしない」ということだろう。
そういうと人は訝るだろう、「そんなにまでして守りたい自己ってなんだ?」と。
別に何でもない。わたしがわたしであり、他の誰でもないということ。それを守っているだけだ。高価な宝石を必死に守っているのではない。ちょっとかたちが違う石ころを後生大事に抱えているだけだ。
石ころに価値はない、けれども「あれともこれとも違う石ころ」であることに価値があると思っている。

第二に思想・信条が極端に異なる人と決して妥協しないということ。
例えば「自殺」ということに対して不寛容な人間と握手することはできないだろう。



嘗て「美こそわたしの宗教だ」と書いたが、「差異こそわたしの信仰だ」ということを付け加えてもいいだろう。

けれども、その「違い」が、残念ながら人に好かれるような「相違」ではなく、逆に「人を遠ざけるような違い」であった。

わたしを好きになれる人はいない。これはひょっとしたら大いに自慢できることかもしれない。



わたしが今使っている「ブロガー」というブログには「フォロワー」を表示する設定がある。わたしが愛読(?)している英国人のブログには現在39人のフォロワーがいる。このブログを開くとき、いつもフォロワーが38人になっていないかとドキドキしてしまう。わたしが仮にそのブログの筆者だとしたら、消えた1人によって、とても心は平穏ではいられないだろう。何故彼(或いは彼女)は、わたしのブログのフォローを止めたのか?
何故?何故?何故・・・?
その時わたしの頭には、いま現在もフォローし続けてくれている38人の存在などすっかり見えなくなっている。否、消え去っている。
見ず知らずの「消えた一人」が、現実に残った38人の「存在」をはるかに上回る圧倒的な存在感を持って、その「不在」を突き付けてくるのだ。そしてわたしは思う、
「次は誰だ?」
ある日ページを開いたら、フォロワーがみないなくなっているのではないか?
わたしは『めまい』のジェームス・スチュワートのように奈落に落ちてゆく感覚に囚われる。



フェイスブック以前のSNSで友だちだったアメリカの(当時)20代前半のアート好きの女性と話したときに彼女がいったことが印象に残っている。
" Im afraid when people stop loving me?"
「いつ人がわたしを愛さなくなるか、そのことがこわい・・・」

これはいかにも20代のアートの好きな繊細な女性ならではの感覚、センシティヴィティーと言えるかもしれないが、わたしは50代の今に到るまで、この感覚を持ち続けている。

「何故かある日突然誰からも愛されなくなる恐怖」・・・しかし彼女の発言を裏返せば、「今わたしを愛してくれている人たちが・・・」という意味が隠れている。
わたしはそのような感覚も関係も持ったことがないので、正確には彼女と同じとは言えない。

そう、わたしはアンジェラと同じではない。

わたしは好きになられることがこわい。

"I'm scared someone started likes me. coz  I can't stop thinking about when he / she leaves me? "


Ella Fitzgerald - Bewitched, Bothered, and Bewildered 

エラ・フィッツジェラルド「魅惑されて」(1956年)



2018年10月25日

あなたに想像できますか?


ある方のブログから引用。その方は「今日もまた」人身事故の影響を受け、用事を済ませることができなくなってしまったと書き、ブログの後半にこのように記している。


◇◆       ◆◇

でもね、一人の衝動的な行動で不特定多数の人がどれほど迷惑をこうむっているか・・・
亡くなった人を責めないという綺麗ごとで済ましてはいけないような気がしています。
死を選択・実行する行動力があるなら、生きていたほうが良いと思いますよ。
死んで周囲に迷惑をかけるくらいなら、生きる為に周囲の力を借りてください。
必ず救済の道は用意されていますから。
無理やり死のうとしなくても、あなたも私も、いずれ死にますから・・・
死に急ぐことはありません。 
(下線Takeo)


このような言葉、このような文章が、これを読んだわたしを含め、どれだけある種の人々の心を氷らせ、胸を抉り、苦しめているか、あなたには想像できますか・・・

永遠に解りあえることのない者同士・・・
同じ街、同じ都市に暮らす人間でありながら、同時に絶対的に異質の他者・・・

前の投稿で触れた辺見庸の言葉を思い出す、

「健常であることの、避けようのない暴力性・・・」




出典1

出典2 







拝啓 辺見庸様


はじめまして。突然のお手紙失礼いたします。

東京郊外在住の55歳男性です。蛇足ながら、精神障害(多分知的も)者兼「外出困難者」です。

今回の『月』、出版おめでとうございます。久し振りの新作ですね。
それに合わせての講演会を11月と12月、それぞれ八重洲ブックセンターと
新宿紀伊国屋書店で行われると聞きました。(実際にはブログで見ました)
本を通じて、以前から辺見さんの講演を聞いてみたいと思っていました。
現在所謂「引きこもり」であるわたしには、共に中央線一本で行ける両会場での催しは好都合でした。早速、12月の紀伊国屋のチケットを2枚、購入しました。
母と行きます。母も講演自体に興味もあると思いますが、実際には「遠方へ」行くわたしの介添え役です。

ところで、先日のブログ添付の講演会の広告「チラシ」を見て、正直複雑な気持ちになりました。
相模原やまゆり園の事件に着想を得て書かれた小説。
大勢の障害者の殺戮。新作発表。都内での講演会。TV放送予定。会場では著者によるサイン本即売・・・

あなたは「饒舌」を嫌うのではありませんでしたか?会場でのサイン会、これを「行いによる饒舌(乃至無駄口)」とみるのはわたしの偏見でしょうか。なにやら「いやな感じ」を受けるのは何故でしょう。

あなたのほとんどの本を読み、ブログを何度も読み返してきた者にとって、
『月』の出版、講演会は作家として普通の事とは思いますが、会場でのサイン本即売会と聞くと、わたしのイメージの中の、数々の言葉で構築された「辺見庸」が、なにやら「百日の説法屁一つ」という感じでガラガラと崩れていく気がします。

そういうとあなたはおそらく「初めからおれは「屁」みたいな存在だよ。一度も「法」なんて立派なことを説いたつもりもないし。買い被られて失望されても困るね」と苦笑なされるのでしょう。

それでもなお、本書執筆に伴う「痛み」そして『月』が抱える「悼み」・・・(そういう安易な評言は躊躇われますが、全くの見当違いでもないでしょう。)その「痛み」や「悼み」と「サイン即売会」という、同一の対象に対する二つの異なる行為が、わたしの中でどうしても、同じ次元のものとして収まらないのです。強い言葉を用いるならば、自著に対する、そして「あのこと」に対する「冒瀆」とさえ言えるのではないか、と。



嘗て一人の若者が三島由紀夫を訪ね。「先生はいつ死ぬんですか?」と単刀直入に尋ねたと何かで読みました。その時の三島の反応は憶えていません。(その後程なくして市ヶ谷での自決があったと思いますが定かではありません)
自裁した西部邁氏。西部氏とは、日本の核武装、改憲、先の戦争の正当化、現憲法の「押し付け論」等、政治的スタンスとしては全く相容れませんが、最後に「この国に絶望して」死を選んだ。
わたしはただその一点のみで、彼を評価します。彼の「思想」ではなく「志操」に心動かされます。
彼の最晩年の言葉、「この国に絶望する人がひとりでも増えること、それが希望です・・・」

わたしがまだ若かったら、講演会で質疑応答があれば、「辺見さん。あなたは何故死なないのですか?西部のように、三島のように、何故ニーチェのように狂わないのですか?」
と言葉の匕首を突き付けるかもしれません。

精神の障害ゆえか、生来のものか、わたしには「人間」というものがよくわからないのです。
何故親友とも呼べる人を二人も、貴方が(わたしも)最も忌み嫌う「処刑」という形で喪いながら、尚生きていられるのか?何故クスとでも笑えるのか?何故サイン会を開けるのか?
いったいあなたは何を、或いは誰を喪った時、何に絶望したとき真に狂し、死するのか?
「喪失後の世界」になぜ、あなたは生き永らえることができるのか?

それが、つまり恥辱に「敢えて塗(まみ)れること」が生きるということなのでしょうか?

体調不良のため、講演会に行けなくなることがないように願います(お互いに(笑))
サイン会は見て見ぬふりをして足早に会場を後にします。

無に等しい、いや、無そのものの末席の読者の戯言をお読みくださりありがとうございました。

講演、楽しみにしています。

草々


追伸

二つの講演中止を考えていたと、たった今、ブログで読みました。経緯がわかりませんが、何やら「饒舌」を厭う信条・志操と通底するものを感じるような気がしました。好感しますが、講演は、できれば行ってください。


一読者より。





2018年10月24日

断片


言葉を・・・真情を込めた言葉を積み重ねるほど、相手との距離が広がってゆく。
言葉によって他者と決して近づくことができない。何故なのか?

以前も書いたことをまた繰り返す。

人に嫌われるのは訳はない。ただ、ありのままの自分をさらけ出すこと。そうすれば自ずと人は離れてゆく・・・

誰とも、近づくことができない。






2018年10月23日

サイテーだ…


独りじゃさびしい。でも誰かが現れると、途端に失うことばかり怖れている。

何故ならわたしには何もないから。

Absolutely Nothing! ― 全き無!完全なる無!

いや、完全なる「無」ですらなく、無駄に生き延びているだけ始末が悪い。

ほんとうに最低だ。



アリゾナ州のホテルパイオニア。撮影されたのは1956年。撮影者不明。
どういういわれのある場所か知らないが、いい雰囲気だ。
こんなホテルに一晩泊まって、ロビーの脇のバーで飲んだくれて、
部屋に帰って、頭にズドンと一発。そんな空想が気を鎮める。

アリゾナじゃなきゃだめだ。いや、テキサスでもカンサスでもテネシーでもアーカンソーでもいい。
この国じゃ絵にならない。何もかも。

こんな曲を流しながら・・・ズドン・・・

スティーヴィー・レイ・ヴォーンのカバーしたジミ・ヘンドリクスの「リトル・ウィング」

こちらはクラプトンのカバー


やっぱりBLUES BLUE’S…




2018年10月22日

ネット依存症?


最近なにやらネット依存症のようになっている。読書に集中できないことや、映画を観る気分にならないということもあるが、しばらく遠ざかっていたアートに再び興味を持ち始めたからだ。

Tumblrと、フェイスブックで自分用に作ったアート・ページにせっせと投稿している。
前にも書いたかもしれないけれど、わたしは海外のアート系のサイトを渉猟跋渉して、興味を惹く絵や写真を見つけると、作者の名前も、作品名すらわからないまま投稿する。

例えば、チェコのサイトでおもしろそうな画家を見つけて、その人の他の作品を観ようとすると、いつのまにかスロバキア共和国のサイトに入り込んでいる。そこで出逢った画家はハンガリーの人で、今度はハンガリーのサイトに移る。そこまで来ると旧共産圏。当然ロシアやポーランドの画家の名前がチラホラと出てくる。そんな感じで、芋づる式に興味を引かれる作品にめぐり逢う。あっという間に時間が経つ。

チェコ語やハンガリー語、ポーランド語を英語に翻訳するのが面倒な時もあって、そんな時にはそのままポストしてしまう。要は作品が面白ければいいのだ。
それでも、一応フォローしてくれている人のことも考えて、タイトルくらいは英語に訳して原題と併記する場合が多い。しかし人の名前、固有名詞を他の言語に翻訳することはできないので、そのまま記載する。
各国のサイトのホームページには、言語を選択するボタンがあって、たとえば
「PL / EN」などと表示されているが、それがどの程度正確かはわからない。
ロシア語、ギリシャ語、北欧の言語も含め、欧州語間の翻訳はほぼ正確だが、日本語にはどうしても訳すのが難しい。正確に訳そうとすると手間もかかる。暇もかかる。そういう事情もあって、わたしのアート・ブログは、ほとんど日本人には見向きもされない。

百聞は一見に如かず。最近Tumblrに投稿したものをここに載せる。

ジャズを聴きながらだと、1950年代頃のニューヨークやパリのモノクロ写真が観たくなり、バッハやショパンなど聴いていると、北方ヨーロッパや英国ヴィクトリア朝の、陽の光を避けたような絵を観たくなる。


Baladins en Voyage / Baladins in travel. 1936, André Masson. French (1896 - 1987)
- Oil on Canvas -

Ovce III / Sheep Ⅲ, 1988, Rdolf Krivoš. born in 1933, Slovak.


Rush Hour, 6th Avenue & 42nd Street Elevated Train, NYC, 1945. Fritz Henle.

Man in a White Castle Resturant, Minneapolis, 1970, Tom Arndt.


こんな感じです。モノクロの写真は共にニューヨークで、見つけたのも、アメリカ=英語のサイトです。



(人生について)あれこれ考えれば考えるほど、気持ちはもつれてほどけにくくなる。ちょっと考えることに疲れたのと、やはりジャズとモノクロ写真。バロック音楽と風景写真が好きなのでしょう。そしてなによりも「古い時代」「過去」が・・・

個人的には音楽も、映画も、そしてアートも含め、所謂(本物の)「文化」は20世紀で終わったと考えています。「文明あって文化ナシ」それが「今」だと。
そして今なお文化は確実に存在しているというのであれば、それはわたしの知っている、わたしの考えている「文化」というものとは、まるで異質のものを、同じ名前でそう呼んでいるだけだと思っています。

わたしにとってのインターネットは、過ぎ去った時代の絵画や写真、そして音楽に、束の間触れさせてくれる、いわば過去へ通じる抜け穴のようなもの。
レコードではなく、CDでもなく、You Tubeで音楽を聴いて満足している自分を、ふと恥じることはあるけれど、なかなか「ちゃんとした音楽再生装置」を買いに都心に出向くことができずにいます。もちろん「ちゃんとした」というのが「高価な」という意味でないことは言うまでもないことでしょう。



少し考える必要はあるかもしれませんが、差し当たり、「医療」(分けても「精神医療」の領域での)と、わたしたちの日々の生活の基盤となる「法律・制度」以外の進歩は、もうこれ以上無用だと考えています。そしてなにより進歩し、改善されなければならないのは、明治この方、百年一日の如き旧態依然古色蒼然とした、人間の「権利」と「平等」に関するわたしたちの「意識」です。通信や移動の速度が速くなることなど稚戯に等しい。
障害を持つ者、働けない者働かない者が、等しく健康で文化的な生活を送れること、個々の持つ属性によって誰からも批判や差別的待遇を受けないということ。そのような、今更言うまでもなく当たり前であるはずの社会と、目の前の現実を見比べるとき、「新しもの好き」らしい日本人が、いかに「余りにも遅れているか」を痛感します。尤も、変えるべきところ=目に見えない本質=制度や旧弊な意識の在り方を温存し、目先の「進歩」やら「発展」などに目隠しをされ、踊らされてしまうのが、そもそも人間 ー「ホモ・サピエンス」の、しょうことない愚昧性なのかもしれません。

はは、何をいまさら愚にもつかないことを・・・こういうことを読んだり書いたりするのにうんざりして、再びアートに逃避したのではなかったのか・・・










2018年10月21日

惑乱の中から…


5日前の火曜日に、久しぶりに外で人と会って話した。3年ほど前にフェイスブックで知り合った人で、昨年3月に新宿のジャズ喫茶へ、そして4月には、実に7年ぶりに美術館(渋谷Bunkamura)に誘ってくれた、というよりも付き添ってくれた人だ。
奇しくも10年前に別れたわたしの「親友」と同世代だ。

その後、また美術館へ行きましょう、夏にはこちらに越してくる前の地元といっていい大田区池上本門寺に行きたいから付き合ってください。などと言っていたが、わたしの体調が優れず、会う機会のないまま夏が往き、秋が過ぎ、冬が訪れた。その頃からわたしは精神科への通院を中止し、それとは無関係だとは思うが、心身の状態は悪くなる一方だった。

「外で会った」といっても、彼女がわざわざ電車を乗り継いで、約1時間ほどかけてこちらの最寄り駅まで来てくれたのだ。わたしは今年に入ってからまだ電車に乗っていない。
隣の国立や国分寺に比べて、何も無い谷間の町だが、一応駅前には「ロッテリア」「E PRONT」「ドトール」などがある。だがどこも「分煙」で、今はちょっとしたタバコの臭いにも過敏になっているので、「サンジェルマン」のイートイン・コーナーを選んだ。

結論から言うと、友達の存在こそがわたしの外出困難(ひきこもり)にとって、なによりの薬であるという説は間違いではなかった。けれども同時に、わたしの日々の生活の中で、彼女と会って話したその時間だけが、光を浴びて虹色に輝くしゃぼん玉のようにふわりと浮かんでパチンと弾けたように、わたしの毎日は相変わらず煩悶と屈託に雁字搦めにされている。

これまでの人生で、学生時代を除き、殆どの歳月を孤独の裡に過ごし、40代ではじめて心の友と言える人と出会い、6年という月日を共にした。そして今、わたしの体調を気遣い、出られないのならせめて最寄りの駅までこちらから行きますと言ってくれる人が現れた。けれども今、わたしの心を占めているのは、新たな友情へ期待することへの怖れなのだ。以前の友達との6年間もの交流も、一重に彼女の、極端な表現をするならば、振り払ってでも齧りついてくるほどの気持ちの上に成立していた。
暴力的なことは勿論、声を荒げたことさえないが、不機嫌になるのも、先に帰ってしまうのも、相手の気持ちを傷つけるという意味で、静かな暴力に等しいというのなら、わたしはわがままな暴君であっただろう。
そういう意味に於いて、「振り払ってでも追いかけてく(れ)る」ようなことは度々あった。

極端に自己肯定感が低く、劣等感に溺れ、言葉による自傷行為に耽る癖のあるわたしのような者にとって、他者との「対等の関係」というのは、おそらく築くことはできない。「このわたしがいったい誰と『対等』であろう?」という強い思いが底流に流れているからだ。
だから、だからこそ、押しのけても、無視しても、あくまでもついて来てくれた彼女のような存在があって初めてわたしは人と繋がることができていたのだ。
それは正にユージン・スミスの' The Walk To Paradise Garden 'の幼い妹が、べそをかきながらでもお兄ちゃんの後を追いかける姿と二重写しになって見える。

けれどもそんな、聖なる愚か者は二度と再び現れない。わたしにはほんとうに、何もないのだ。
わたしは以前の彼女の「あなたを死なせたくなかった」という真情も、またスマホ嫌いを公言して憚らないわたしに、自身、インスタグラムに投稿するのが大好きでありながら、わざわざ細かい心配りをして、場所も時間もわたしの都合に合わせてくれた先日の友人にも心から感謝している。

しかしわたし自身が、当時とはまるで変ってしまった。10年前までは、わたしはまだひとりで自由に外を歩けていたし、今よりも・・・つまり、もうわたしは老いぼれてしまい、仮に、仮に同じような人が現れても、共に出来ることがほとんどなくなってしまっているのだ。

この10年の間に急速に変わった外界に無惨な穢土を見、自身もろとも、人類の滅びを切望するようになった。平和を願い続けていた先の友は、人類の全き滅亡を望むわたしの変貌ぶりを果たしてどう見るだろう・・・

わたしは迂闊だったかもしれない。言葉の本来の意味で「友」という名に価する人物さえ現れれば、わたしは再生できるかもしれないと考えていた。
けれども、現実には、わたしと外界との間には、のっぴきならない隔たりが出来てしまっていたのだ。

自覚的には、わたしはもう日本人でないどころか、地球人ですらないと感じている。

わたしはいま、ただただ混乱している。どれほど強い愛や友情でも、癒し得ない汚辱というものがあるのか?或いは、真にその名に値する「人間」は、まだ地上に存在しているのか?
つまり・・・つまり・・・わたしは如何にして生きたらいいのか?また如何にしたら本来の意味で人間らしく生きることができるのか?




わたしが読んでいる同い年の鬱病の方のブログ、ていへんかけるたかさわるに
の今日の投稿「友人と会う」との内容の違いはどうだ。わたしのいつもの言い方をすれば、彼は病んではいるが狂ってはいない。至極真っ当な、健全な鬱病患者だ。
















2018年10月19日

最前線


余人は知らず、「あなた」には、巷間いわれる「ヒキコモリ」・・・即ち外出困難者を誤解しないで欲しい。
彼らにもわたしにも「隠れ家」はない。ここは穴倉でも絶対安全な壕でもない。ここがわたしの最前線(フロント・ライン)なのだから・・・

「愛」について、断想


友情というものが、お互いに対等の関係であって、忌憚なく自分の意見を言える存在であるとしたら。当然「彼 / 彼女」は、引きこもりで無職のわたしに対して、「そろそろ何とか・・・」などと言いだすかもしれない。そういうのは正直言って鬱陶しいのだ。
その関係が、所謂「友達」であろうと「恋人」であろうと、わたしを、今、目の前にいるわたしの存在以外の基準で裁かないで欲しい。況や「真人間に立ち返らせよう」などとゆめゆめ考えないで欲しい。箸にも棒にもかからない、ありのままのわたしを愛せるか否か。ただそれだけだ。
「世間の基準に合っているわたし」だから好きなのか、それとも、「犯罪者だろうとアル中だろうとシャブ中だろうと、わたしが他ならぬわたしであるから好いているのか」
「あなたが好きだから、真人間になって欲しい」という言い分は、残念ながらわたしには伝わらない。
共に滅びるか・・・いや、そこまで行かずとも、滅びてゆくわたしを傍で手を握り見守っていてくれるか。それがわたしにとっての真の友情であり愛なのだ。
堕ちてゆくわたしを許容できるか?「愚」を「狂」を慈しめるか?即ち共に愚者となり狂者と成り果てることができるか・・・肝心なのはそれだけだ。












2018年10月18日

蛇足乍


ではキミはどのように「選ぶ」のか?と訊かれたら。
そう、引きこもる前は昔ながらの、そして誰もがやっていた方法。
最寄りの図書館、或いはTSUTAYAに足を運んで、棚の間をうろついて、面白そうな作品が目に留まるとさっと目を通す。パッケージの解説を読む。
つまり現場で見つける。

その後外に出ることが難しくなったり、図書館が遠くなったりしてからは、やはりインターネットを利用している。
わたしはテレビを視ないし、インターネットでも、個人のサイトしか観ないので、そのテイストやスタイルに一目置いている人のブログ(残念ながらみな海外の人だが)に紹介されている「古い」映画や音楽に注目する。
後は好きな作家がエッセイの中で触れている本や映画に関心を持って、読んだり視たりすることもある。

いずれにしても、「マス」や「世間」乃至「ネット上での評判」とは無縁に選んでいる。
そして、興味のある作品に出逢ったからといって、すぐにアマゾンで注文、ということはしない。本なら、市内に所蔵が無ければ、都内のどこかしらの図書館から取り寄せてもらうし、ビデオやDVDならいつか新宿や渋谷のTSUTAYAで借りられる日を待つ。
ダメなら縁がなかったと諦める。



それにしても、親しい人から薦められた作品(映画や音楽)を、もっと気軽に視聴できるくらいの柔軟性は持ちたいと思う。
いくら教えられるよりも、盗む方が性に合っているとはいえ・・・


"I Cant Get Started" - Cannonball Adderley.  

「いいだしかねて」キャノンボール・アダレイ(Alt Sax) 

2018年10月17日

「わたし」は「あなた」ではない。


世の多くの人は、自分の感受性・審美観が、世間一般のそれと同じであるという前提を、無意識の裡に持っているのだろうか?

あるモノが世間で売れている。評判が高い。それと「わたしの趣味(テイスト)」との間に、いったい如何なる関係があるというのか?

何故実体のない「セケン」であるとか、見ず知らずの赤の他人の意見、感想を自分の判断の基準に据える(或いは取り入れる)のだろう?

個々の人間の感性とは、百万人の「セケン」と拮抗するものではないのか・・・



「わたし」は「あなた」ではない。
「わたし」は「彼」ではない。
「わたし」は「彼女」ではない。
「わたし」は「わたし」以外の何者でもない。
その当たり前の事実を推し拡げてゆけば、「わたし」と、(「わたし以外」の人々の集合体である)「世間」との関係も、自ずから明らかになるはずだろう。










無趣味な人の友達作り


切実に友を求めていながら、友だちができないのは、単純にわたしの興味の範囲の狭さのせいだと思っている。
「嫌い」「苦手」とまでは行かないが、「アニメ」「ゲーム」「アイドル」「スポーツ」「芸能界の話題」「流行っているもの、話題のモノ(人)一切」「新商品(新製品)一切」・・・これらのものに関心を持つことができない。何故関心を示さないのかは解らない。けれども、「誰もが興味を持っている」「多くの人が注目している」ということへの抵抗も大きいと思う。

趣味の幅が広いことはいいことだ。けれども、出来るだけ「大勢」と重ならない範囲で。
わたしは柔軟性がなく、順応性に著しく欠けるので、友だちを作るために、無理矢理自分の関心を、大勢が集まっているところへ引っ張っていこうとは思わない。
同じように、人に自分の趣味に合わせてくれるように望むこともない。
偶々同じ趣味、似たテイストを持った人と巡り合えることをひたすら待っている。

アートが好きです。ジャズが好きです。古い映画が好きです。けれども、わたしの偏見かもしれないが、こういう趣味を持つ人って、それらについて「熱く語る」のを喜びとしているように感じられる。わたしはそういうものが好きだけれども、何についても深く語れるほどの知識薀蓄を持ち合わせていない。「(好きなことについて)語れてこそ趣味と言える」のなら、わたしは無趣味と見做されて構わない。アートでも音楽でも映画でも、言ってみればラジオ感覚。たまたま耳にした歌がいいなと思う。素敵だと思う。でもそれを深く掘り下げようとは思わない。ラジオからはまた別の素敵な曲が流れている。すべては一期一会。

狭く浅く。語れる趣味など持ち合わせていない。そして嫌いなものは山ほどある。
これじゃあなかなか友達を得るのは難しい。

それでも「友達」という存在がわたしの人生に於いていかに必要不可欠な、生きる上で愛する肉親同様に、そして愛のない肉親以上に重要な存在であるという思いは、微塵も変わらない。








2018年10月15日

何を求めているのか?


Kさん、ひょっとしてこれを読まれているでしょうか?もし読まれたら、どのような気持ちになるでしょうか?

最近のわたしは、体力・気力の著しい衰えと共に、何事につけ判断に迷うようになりました。それは既に、何度もここに書いている「生きる 生きない それが問題だ」という最も根源的な、「存在すること」への迷いから派生しているのかもしれません。

長きに亘るこの鬱屈も、外に出ることが出来ないという状態も、元をただせば、10年前に親友を失った(正確には去られた)ことに端を発しています。
彼女がいたとき、(という言い方は、或いは誤解を招くかもしれません。わたしたちの関係は、異性の友達というよりも、寧ろ兄ー妹といった関係により近いとお互いに思っていました。アメリカの写真家、ユージン・スミスの 'The Walk to Paradise Garden' という写真に写された、幼い兄妹の姿、それが「わたしたち」の関係のシンボルでもありました。

生涯に持ったただひとりの親友・・・といっても、あのような終わり方をしたのですから、彼女がわたしたちの(或いは彼女自身の)6年間を、全くの無駄だったと思っていたとしても、それは仕方のないことです。

いずれにしても、友だちを失った年月が積み重なるほどに、わたしは外に出なくなりました。そして繰り返しますが、「再び友を持つ日」こそが、再生の日だと、これまで信じてきました。

けれども、ではわたしのいう「友」或いは「親友」とはどのような存在でしょうか。
わたしはほんとうに「友達」を求めていたのでしょうか?それとも、失った「あの人」を求め続けていたのでしょうか?
ご存知かもしれませんが、ヴァン・モリソンの歌に「サムワン・ライク・ユー」というバラードがあります。" I was looking for someone, someone exactly like you..."
「わかるかい?ぼくはずっと君のような人を求めてきたんだ」
しかしひょっとして、わたしの求めつづけているのが、「サムワン・ライク・ハー」
であるとしたら・・・
'Someone exactly like HER'は、この世界には存在しません。そしてそれを求めている限り、わたしは永遠に救われることはありません。

「友達」或いは「親友」(ソウル・メイト)の定義は人それぞれでしょう。
ではわたしにとって、友だちとはどのような存在でしょう?そう、より正確に言うなら、「彼女ではない友達」とは・・・?

友だちとは、わたしにとっては、「第二の自己」といってもいいし、「生きてゆくのに必要不可欠な支え」或いは「わたしを真にわたしたらしめてくれる存在」・・・

一方で、相手の側から見て、わたしとは何者でしょうか?わたしは友にあれこれ求める。
けれども友が、わたしの友であることで得られるものとは一体なんでしょう?
特に今のように、「廃人」・・・とまでは「まだ」行かずとも「心身ともに重く病んだ人」であるわたしの存在とは、他者にとってどのような意味を持つのでしょうか。

わたしは昔から自分を「愛されざる者」であると見做していました。(「愛されざる者」という表現は、当時彼女が、しばしば自身のことをそのように語っていたので覚えたのです)

彼女はわたしにとって世界でした。そして「友」とは、わたしにとっての「世界」です。
けれども彼女にとって、わたしは果たして何だったのでしょう?

わたしは、「嘗て友だちと呼んでいた人」を知っています。けれども、「友達」「親友」とは何かを知りません。知らないで求めている滑稽さを、どうか笑ってください。

わたしは人にいったい何を求めているのでしょう?
求めるも何も、この世界にわたしと話の通じる=心の通じ合う人が存在するのだろうか?
そんなことを今更ながら思います。

毎日が苦しくて仕方ありません。死を考えない日はありません。

そんなことを意識していなかった時、独りではあってもまだ自由に外を出歩けていた時、わたしが40歳の時、彼女は現れ、後に、何故わたしの友達になってくれたのかと尋ねたとき、彼女は答えました。「あなたを死なせたくなかったから」

Kさん、もしこれを読まれていたら、さぞかし鬱陶しく重苦しく感じられることでしょう。
わたしは今、何を求めているのか?また「求めるもの」と「求め得るもの」の差が余りに大きい時、または異なる時、わたしはどうするのか?
そもそもこの期に及んで、まだわたしは、何か、或いは誰かを求めているのか?それすらも、もうわかりません。

ほんとうは、耳の尖った口の裂けた、ボッシュの絵に出てくるような小人が肩に乗っかって、わたしの耳元で小声で話しかける日を、心秘かに待っているのかもしれません。


もう何も考えず、何も感じずにいられたら・・・


狂気とは、もうこれ以上進行することのない心痛である・・・







2018年10月14日

「繋がり」ということ


誰とも繋がっていないという感覚。では「つながる」とはどういう状態を言うのか?
或いはわたしにとって「友達」とは如何なる存在か?
「繋がっていない」というのは、「誰とも」と共に「世界と」繋がっていないという感覚でもある。
ではどのようにすれば「繋がっている」と感じることができるのか?
「繋がる」・・・「誰と?」
「繋がる」・・・「何と?」
「世界と繋がる」という際の「世界」とは・・・?



昨日、あるブログをタイトルに惹かれて読んだ。

以下全文を引用する


ブログをやる理由

おかねがほしいです\(^q^)/

…と、言いたいけれど、今の所はアフィってません。(無料版だから広告入ってるけど自分には1銭も入らんやつ)

本題。ブログやTwitterをやる最大の理由は「話し相手がいないから」です。

ゲームにどっぷり浸かってたときは何も感じなかったけど、ゲームをやめた今は「あ、これ、どこかで吐き出さないとやべえ」…と、いうのも、夢の中で自分の話を聞いてもらう場面をよく見るようになりまして。ぜんぜん知らん人とかに一生懸命話してる様子がもうムリ耐えられない。

ただ、社会からドロップアウトして幾星霜。リアルに(ネットもだけど)話し相手をつくるのは難易度高すぎなので、まずは手っ取り早くブログやTwitterに自分の考えとか感じていることとか垂れ流してみようと。そしたら案外誰かに刺さるかもしれないし、ワンチャンgifteeでからあげクン投げあえるような人にめぐりあうかもしれない。

そんなノリでやってます。〔2018.10.12〕


◇◇


ブログをやる理由はわたしとは違うけれど、彼もまた切実に話し相手を求めている。
わたしも同じだ。誰もいないから「いのちの電話」の相談員に聴いてもらっている。

けれども、彼がわたしとおなじように、切実に「話し相手」「友人」「仲間」をもとめていることを、彼のブログで知ったけれど、わたしは、わたしと彼とは「友達」にも「話し相手」にもなれない。

いちいち理由を説明するまでもないだろう。趣味や価値観、スタイルやテイストが違い過ぎる者同士が友達になれるはずはない。
彼の文体(=スタイル)はわたしとはまるで違う。

言うまでもなく、わたしが彼の文体を「合わない」と感じているように、彼もまた、わたしのスタイルを「合わない」と感じるだろう。そしてわたしが、彼と友達や話し相手になれないと感じるのとまったく同じように、彼もわたしとは話せないと感じるだろう。スタイルの「良し悪し」の問題ではない。これは個々の「感性の違いの問題」だ。

目の前に自分と全く同じように「友達」を切望している人がいても、その人と友達になれない。当たり前ではあるけれども、人生の不条理のようなものを感じてしまう。

改めて、わたしは何を以て、「繋がり」と言うのだろうか?
「他者」とも「世界」とも「繋がりを持たないわたし」と、その他の人とは、どこが、何が違うのだろう?

この夏、ある人のブログで、「メルカリ」という言葉を初めて聞いた。(聞いただけで意味までは知らないが)。また「アフィ」というのが、「アフィリエイト」(?)という言葉の略で、それが「広告」であることを知ったのも、ことしの春だ。
趣味云々、スタイル云々などと言う以前に、わたしは既に現代日本に生きている人たちと「言葉」の共有が難しくなってきている。聞いたことのない言葉がどんどん増えている。

わたしは「メルカリ」や「アフィリエイト」(?)とは無縁の世界に生きている。
では、なにと「縁」があるのかと問われると困るけれど、「最近の言葉」とは無縁の場所で生きたいと思う。最近のことばを知らなければ話が成り立たないような人と「友達」になる必要を感じていない。何故なら人が使う「語彙」即ち興味の対象の差異がわたしと彼の「生の在り方」の相違であり、隔たりに他ならないからだ。

この夏知った「メルカリ」という言葉の意味を、未だにわたしは知らないし、知る必要も感じていない。今、5秒もあれば、Google でケンサクすることは可能だろう。けれどもそれは「したくない」。知らない言葉に出くわすと、すぐに「ケンサク」、わたしはそういう文化が好きになれない。知らないままでいい。
ああ、そういえば他の自治体(の図書館)から借りているジョルジュ・アガンベンの「しないでいられることについて」が収められている『裸性』・イタリア現代思想1、も、手付かずのままになっている。段々、本を読むことが難しくなってきている。

わたしはまだ誰かと、世界と、また、何かと「つながりたい」のか?
それすらもよくわからなくなって来ている。
「狂気」が徐々にわたしの存在を侵食しつつあることを最近強く感じている。

前に書いたように、正気を保ったまま、「狂」の領域に入り込んで、そこから見える世界像を、そこで感じられることを、可能な限り正確に記録したいと思っていたが、どうもそれも怪しくなって来たようだ・・・







2018年10月12日

風樹の嘆…


● 自分を「狂人」乃至「狂(たぶ)れている」と主張することは、「卑屈」とは全く逆の、自分を楽にする方法なのだ。もうこれ以上落ちる(堕ちる)ことのない、泥まみれになって地べたに這いつくばっているような存在。人であって人でない「人外(にんがい)」的存在。自分をそのように規定することで、嫌われること、遠ざけられること、眉を顰められること、唾を吐きかけられることにも堪えられる気がする。何故ならわたしは「あなた方と同じ人間ではない」と自らに言っているのだから。

● どうしても人と繋がることができない。他人と心理的に、また物理的に接近しても、磁石の同極のように、どうやっても触れ合うことができない。そんな感覚が常に私の内側にある。健常者、障害者の別なく、繋がることができない。
「繋がる」というのがどういう状態を指すのか、自分でもよくわからないが、いつでも「すきま風」にさらされているような心細さ、冷え冷えとした感じ・・・
いや、人と人とが完全に一体化することができない以上、「すきま風」的空虚は、誰もが少なからず感じているはずだ。
そうではなく、もっと、手の、届かない感じ。絶対に超えることの出来ない隔たりが、あらゆる「他者」との間に横たわっているような感覚・・・

● 思考力の著しい低下。

● エミール・シオランの『生まれたことの不都合について』、ジャン・コクトーの『ぼく自身、或いは困難な存在』わたしにとってこれ以上にピッタリくる書名はない。



● 心が落ち着くような絵がいいか、或いは内なる衝動を対象化したような激した絵がいいか・・・その時々の気分に因るが、いずれにしても、穏やかな日差しに充たされた印象派的な絵画でないことは確かだ。日蔭者のわたしにとっては・・・

A Moonlit Lane, 1874, John Atkinson Grimshaw. (1836 - 1893)


Man in a Storm, Theodore Major. (1908 - 1999)


● 明らかに上のテオドール・メジャーの影響を受けた英国の70年代生まれの画家の作品

Desolate Northern Town by M P Elliott.

「荒涼とした北の街」M. P. エリオット
わたしはこういう絵を観ても、寒々しいとか、索漠、孤独、寂しさという感情を覚えることはない。
なぜって、これはそのままわたしの心の内側の世界を表現したものだから。
一木一草生えてはいないが、それがわたしにとっての外界なのだ。
・・・いや、それは正確ではないかもしれない。何故ならわたしはこの絵に描かれたような「廃墟」の上なら歩けるような気がするから。

自然もない代わりに人間もいない。
静寂の中、風の音だけがする。

嘗ては知らず、今は「群衆の中の孤独」など真っ平御免だ。
「群衆」・・・顔を持たぬ人々・・・心を持たぬ人の塊・・・プラスティックの板に魂を抜かれた人体・・・
それならいっそ何もかも消えてしまえばいい。

嘗てはわたしの心象を表現する絵としてカスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの絵を挙げていた。けれども、今は、多分上の絵の方がわたしのこころを正確に表しているように思えるのだ・・・


A Walk at Dusk, 1830, Caspar David Friedrich. Germany (1774 - 1840)

この二枚の絵に現れたわたしの内面の変化は、いったい何を意味しているのだろうか。
厭離穢土?最早自然さえも含めてすべてが滅べかし、という想い?


樹静かならんと欲すれども、風やまず・・・








2018年10月11日

群れないイトミミズ


久し振りに昔のSNSの仲間たちに、フェイスブックでアートを送った。
もともと「わたしたち」のフェイスブックは、2006~8年ごろ、アート系SNSで出会った、文字通り世界中のアート好きの友人たちと、そのサイトがフェイスブックの台頭によって自滅した後も繋がっていたかったから、ほとんど全員が旧サイトに後ろ髪引かれる思いで、かといって、連絡を取りつづけるには新しい交流サイト以外になかったという事情から、わたしを含め、多くがあまり乗り気でなしに始めたものだった。

当然ながら、当時の活発さはないし、わたしもSNS自体が好きになれないので、前にも書いたかもしれないが、出たり入ったりしている。今回は昨年の暮れ、11月にいったん離れて以来だろうか。

久し振りに彼ら、彼女らのアルバムを覗くと、往時が偲ばれ、ついつい引き込まれてしまう。

例えば、当時の友達だったフランスの女性、オーファンのフェイスブックのアルバム。
Orphan Visual's Album  彼女自身、絵を描くこともあって、ご覧の通りとてもユニークだ。わたしはなんども彼女にフレンドリクエストを出しているのだが、その度に断られている。(ちなみにOrphanとは「孤児」の意味だ)
尚、アルバムの上の方に並んでいる子供の絵のようなのは、ジャン・ミシェル・バスキアの絵。

それからこちらはフェイスブックではないが、ここと同じ「ブロガー」でアートを投稿しているドロローサのブログ。 彼女もやはりアイリッシュのアーティストで、グロっぽさはオーファンに通じているが、当時から彼女のセンスには強く惹かれていた。



わたしは、必ずしも彼女たちと同じようなテイストを持っているわけではなく、残念ながらいたってオーソドックスで大人しめな絵を好むが、それにしても、何故か日本では何処へいっても人気がない。

これがわたしのフェイスブックのアルバムだ。

昨日はこんな絵を投稿した。

ノーマン・リンゼイ(オーストラリア)

ヤン・トーロップ(オランダ)「オルガン」



ロンドンのブティック、 BIBA、1963-1975 ブックカバー 


セシル・B・デミル監督の30年代の映画「マダム・サタン」



ジャック・ペットリアーノ(スコットランド)「フェティッシュ」



アートを投稿する際には、全て海外のサイトで見つけた絵や写真を投稿する。
タイトルも、アーティスト名も、イタリア語だったり、オランダ語、スウェーデン語だったりするので、それを日本のサイトに投稿するときに、詳細をいちいち日本語に翻訳するのは非常に面倒だし、第一そんなことは不可能だ。(どうやって、ハンガリーやオランダ人の固有名詞を日本名にする?)

タンブラーやフェイスブックの友達やフォロワーだって、いちいちそれらを読んでいるわけではない。ここに時々来てくれるYさんのように、その絵や写真を見て、自分がどう感じたか、そのように見てくれているはずだ。
Yさんはアートには無智だと言っているが、わたしにすれば、それが本来のアートの楽しみ方だと思っている。



ところで、フランス人でもドイツ人でも、スペイン人でも、両親がそろってスペイン人(といってもスペインは多民族国家であることはご承知だろう)で、その両親の二親もまたスペイン人で、そのまた両親も・・・と数百年遡っても、ひとりの人物のなかに、その国の血しか流れていないなどということは考えられない。第一それぞれの国家自体が常に流動的で、2百年前・・・いや数十年前にはにあった国が既に存在しないなんてことは珍しくない。

地理的な制約があるにせよ、数百年前までさかのぼっても、わたしの中には日本人の血しか流れていないはずだ。彼もそう。彼女も多分そう・・・右を向いても左を見ても、日本人ばかり・・・そのように考えると、なんだか薄気味が悪くなってくる。わたしにとってはこの均質性、同一性は、オーファンやドロローサの好む絵以上に、不気味だ。

同じフェイスブックでも、日本人はほとんどが日本人ばかりで集まっている。
それが不思議で仕方がない。
アート好きといっても、どこそこの美術館で誰それの展示会をやっているという話ばかり。確かに美術に関してのアカデミックな知識は豊富なのだろう。けれどもどうしても馴染めない。

10に満たない日本人のブログを除き、わたしのパソコンの「お気に入り」には外国のサイトしか入っていない。(そしてわたしは英語も満足に読めない)
しかしイトミミズの走触性のように、サッと群れ固まる性向・本能を持った日本人の中では、皮肉なことに、大嫌いなデジタル・ワールドの一端であるインターネットは、わたしにとって唯一、外気を取り入れる窓のような存在になっている。















2018年10月8日

極個人的な問題


世に言う80:50問題は、必ずしも「引きこもり」に限ったことではない。
そして一般にいう80:50問題とは、80×2(両親):50(子供)×1のことを言っているのだろうか?
うちの場合は80×1(母):50×2(わたし+弟)である。(言い方を換えれば80:100問題である)

繰り返し書いているように、わたしの状態は悪くなる一方だ。ということは、相対的に母の負担が増すことになる。「生きる意味の喪失」による心身の状態の悪化にともなう、「何もできない」ー「出来ていたことができない状態」と、現実の、母の心身の負担増。
このジレンマが、わたしの更なるストレスになる。

弟は統合失調症で障害者手帖2級を所持している。発病してから既に20年くらいになるだろうか。
医者に行くくらいしか外に出ることはない。わたし同様、友だちもひとりもいない。
しかしわたしとの最大の違いは、わたしは無駄と知りつつも、障害者福祉課や保健所の保健師と話したり、社会福祉協議会にボランティアの話し相手を探してもらったり、『いのちの電話』の相談員に話し相手になってもらったり、その他にも、何かしら悪足掻きを未だに続けている。けれども弟はだたひたすらに「ツマラナイ」「何もやることがない」と母につきまとうだけ。
医者を替えることも、薬を替えることもしない。

わたしは、わたし自身と弟が、双方で母の負担になっているということが、たまらなく苦しい。わたしと弟は、主にわたしが苦手意識を持っているので、じっくりと話したことがない。

弟がどうしても変われないのなら50×2-1(わたし)ということを絶えず考えている。
(でなければ、わたしが弟の分もカバーできるのか、ということを)

役所や統合失調症の家族会に相談もしている。
けれども、これは家族の問題ではなく、「母と弟の問題」ということになってしまっている。

母は、わたしが外に出られないからということで、昨日もわたしの書いた長い手紙を持参して主治医のところに行ってくれた。
けれども弟のことに関してはわたしの話を聴こうとはしない。
また自分から役所の福祉課や家族会に相談するということもない。どころか、わたしが保健師や家族会と面談するようにセッティングしても土壇場で取りやめてしまう。



「あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて」とかつてエミール・シオランは言った。

わたしから見ると母は、「母となった罪」を死ぬまで贖おうとしているように見える。
そして、わたしもそうだが、この国の社会福祉制度や家族会の能力に何の期待もしていない。(例えば母は言う「金の切れ目が(この世との)縁の切れ目」だと)
それはわたし自身、25年間、あちらこちらの精神科(いくつものメンタル・クリニック、大学病院、総合病院の精神科、単科の精神科病院など)に通い続け、また様々な公的・私的機関に援助を求めても、殆ど何も得られなかったという経験から、間違いではないと思う。

「母となった罪」、具体的にはあの男性=わたしの父と結婚したこと、そしてわたしと弟という子供をもうけたこと、そしてその結果、既に10数年前に他界した祖母を含め、家族の誰ひとり幸せになれなかったことの責任を、一身に償おうとしているようにみえる。

わたしが死ねば、弟は少しは、「母の背負っているもの」について思いを致してくれるだろうか?
弟の病気は少しでも環境が変化すれば、ただもう「悪化する」だけなのだろうか?
その辺もわたしは何も知らないし、母も弟も、ただ「どうにもならない現状現実」を維持し続けている。

障害を持って、家族の世話になって暮らしている者は、大なり小なり様々な悩みや葛藤を抱えているものだろう。そしてその思いは、何かを契機に次第に「自分さえいなければ」という思いに集約されてゆく。

親は、親であるがゆえに、兄弟姉妹に対し、2人なら2等分、4人なら見事にパンを4等分、均等に分け与えなければならない。自分が何も口にしなくとも。
わたしはわたしのパンをせめて半分づつ母と分け合いたい。でなければわたしのパンを全てもらって欲しい。(それでやっと正確な意味で80:50になる)

母の「母となった罪」とわたしの「子になった罪」これは永遠に氷解することのない悲しみなのだろうか。そしてそういうことについて、弟はいったい何を思っているのか・・・

これは弟への非難ではない。わたしは彼の現実を、彼の病気を、何も知らないのだから。








2018年10月6日

孤独 仲間…




デンマーク生まれの写真家、ジェイコブ・リース(Jacob Riis)(1849-1914)の撮った1889年のニューヨーク、ロウワー・イースト・サイド(Lower East Side).
彼は同時代のルイス・W・ハインと同じく、このようなすばらしいフォト・ドキュメントを残している。

彼らは貧しい。飢えて凍えている。でも、仲間がいる。友がいる。
友の握る手以上に温かい毛布はあるか?
共にいる仲間のぬくもり以上に心を満たすスウプはあるか?

1984年のドキュメンタリー映画『子供たちによろしく』では、80年代のNYのストリート・キッズたちの生活が描かれている。その中の一人の少年の言葉、
「どんなに強くても、ひとりではストリートでは生きてゆけない
それはしかし、ストリートに生きる子供たちだけの事だろうか?
路傍に寝起きする者たちだけの事だろうか?

「さむいねと いえば「寒いね」と こたえる人のいるあたたかさ」(俵万智)

・・・わたしは、もう、駄目のような気がする。



それにしても下記サイトの醜悪さよ・・・

ART.COM

彼 / 彼女たちは知らない、気づいていない。自分たちもまた「見られている」ことを・・・

低くあることの気高さを、高みにいることの醜悪さを。


 On the Nickel, Tom Waits.


わたしの好きなトム・ウェイツの「オン・ザ・ニコル」です。
ジェイコブ・リース、ルイス・W・ハイン、ドロシア・ラング等のモノクロ写真が使われています。You Tubeでご視聴ください。






2018年10月5日

トム・ウェイツ



「ワルツィング・マチルダ」(トム・トラウバーツ・ブルース)トム・ウェイツ(1977年)




死に場はあるが逃げ場はない。ならば死こそ逃げ場だ。



Loch Coruisk, Isle of Skye, 1876, John MacWhirter. Scottish (1839 - 1911)



わたしは「精神病」でも「ココロノヤマイ」でもない。
ただひたぶるに、ひたすらに孤独なのだ。
「心の病」でないものを精神科医やカウンセラーが「治せ」るはずはない。

10月下旬に辺見庸の新刊『月』が出版される。
相模原の重度障害者殺害事件に着想した小説らしい。
いづれ図書館で借りて読むだろう。

彼のブログ
「11月と12月に、『月』刊行関連の講演を都内の書店でおこなう予定です。
 たぶん、八重洲と新宿。詳細は後日。」とあった。
以前から辺見庸の講演は一度聴いてみたいと思っていた。新宿。紀伊国屋ホールならいけない距離ではない。
八重洲も新宿も、かつてはよく行った場所だ。

わたしは人は怖くはない。仮に紀伊国屋ホールで、満員の聴衆を前に30分何か話せと言われれば話すことはできるだろう。
けれどもわたしは講演会には行かないだろう。

それほどわたしは幸せではない。ひとりで街を歩けるほど、幸福でも、強くもない。

同じ金を使うのなら、
同じ外に出るのなら、

ホームレスのおじいさんと安食堂であったかいめしを一緒に喰う方がいい。
一人暮らしのおばあさんと、彼女の手料理を一緒に食べる方がいい。


もうこれ以上「与えられる」惨めさは御免だ・・・

上の絵のような場所に行ってみたい。
前に、絵を観るのは「死に場所を探しているんだ・・・」と書いた。実際の死に場所ではなく、こんな場所で死ねたらと思うことによって心安らぐのだ。
これもそんな「絶好の死に場所」のひとつだ。心穏やかに死ぬことができるように思える。

死ぬことを
持薬を飲むがごとくにも われは思へり
心痛めば (啄木)

(いったい何度この歌を引用すればいいのか・・・)










2018年10月4日

まとまらぬままに…「まともである」ということについて


昨日、1年前のブログはこんなじゃなかった、というようなことを書いたが、昨年とて、わたしの文章の通奏低音は「孤独」であり、それゆえの「外出困難」には違いなかった。
それでも、今よりはもう少しオブラートに包んだ(?)直截的ではない表現を用いていたように思う。ところが今はもう、「狂気」を隠そうともしていない。

随分前に観た映画なので、粗筋もディテイルも、ほとんど忘れているのだが、市川雷蔵主演の『炎上』という、確か水上勉原作の、金閣寺炎上に材を取った映画のシーンで、後に金閣に火を放つ雷蔵が、たまたま寺を訪れていた高位の僧、中村鴈治郎(実は生臭坊主なのだが)に、「どうかわたしを、わたしを見抜いてください!」と懇願する場面があり、そこだけが何故か強く印象に残っている。僧は酒と女に夢中で、彼の願いなど黙殺されていたが。

大学時代から常に孤独と二人連れであったわたしは、自分がナニモノカを知りたいと思っていた。わたしという人間がどういう存在なのかを、誰かに見抜いて欲しかった。

犯罪者の精神鑑定などが時に話題になるが、たとえば、木村敏と中井久夫両氏がわたしを「鑑定」したら、どのような人物像が浮かび上がってくるだろう?
仮に木村判定と中井判定が大きく異なるようなら、それは何に因るのか?

・・・そんなことを考えるのは、今でもわたしは誰かに「わたし」という存在を「定義」してもらいたいという欲求があるからだろうか?
そして鑑定の結果、わたしという人間は、木村あるいは中井鑑定に基づく存在となるのだろうか?

「わたし自身」或いは「彼」という「わたし」、「彼女」という「わたし」・・・それらはいったいどのように「定義」され「規定」され得るのか?
或いはあらゆる「わたし」は、いかなる定義を下すことも能わざる存在なのだろうか?



ところで、わたしがインターネットですることといえば、海外のサイトでアートを渉猟し、You Tubeで古い音楽を聴きつつ、それらの絵や写真の美にため息をつきながらTumblrに投稿すること、そして主に、心を病んだ人、引きこもりの人たちのブログを読むこと、自分のブログを書くこと。それだけである。

いろんな人のブログに綴られた様々な考え方、物の見方に接していると、当然ながら、自分のそれと、合う、合わないが出てくる。この考え方はおかしいと感じることがある。
では、いったい「まともである」「まともじゃない」という選別は何を基準に行われているのだろう?

広くは、この国の首相及び、首相2号はまともであるか?それに対立する野党の何某とかいう人はまともであるのか?アメリカ合衆国大統領はまともか?ロシアの大統領は?中国の国家主席は?
そもそも「まともな政治家」=「まともな権力者」なんて存在するのか?

ヴィンセントはまともか?彼の画業がなくともマトモか?逆に彼の遺した絵があるから、マトモと見做されているのか?
ヴァージニア・ウルフはどうか?シルヴィア・プラスは?ダイアン・アーバスは?ジャクソン・ポロックは?
すべて自殺したアーティストたちだ。「自殺」とは、マトモな人のすることなのか?
ホームで、電車の来る方角を見ることもなく、見事に揃って下を向いている人たちはマトモか?
今の社会でマトモでいられることはマトモか?

「まとも」とされていることと、個人的、主観的「好悪」とはどのような関係にあるのか?



わたしには、なにがまともで、なにがまともではないのかの判断はできない。それは、もとより「まともであること」の客観的基準が存在しないからだ。
ただ、僅かに言えることは、わたしは「正統」よりも「異端」、「正気」よりも「狂気」に、より親近感を覚えるということだ。

そして少なくない「狂気」は世の「常識」「社会通念」「正気」によってもたらされていると感じている。
何らかの理由に因って働くことができない人たち、彼らが、もし、「自己責任」という、一見「正気」を装った狂気または錯誤に染まって自殺したとしたら、彼を死に追いやったのは「狂気」ではなく「正気」に他ならない。

「狂気」とされているものはまともではなく、「正気」イコール「まとも」という考えに与することはできない。どころか、今は正に、その逆こそが真っ当な状態であるような「さかしま」な世界であるという認識が必要に思われる。

ある考え方が一般に「正気」と見做され、多数の支持を集めている場合、ひとまずそれは疑ってかからなければならない。幅5~6メートルの横断歩道を渡るとき、右を見ても左を見ても車の影ひとつ見えない、それでも「赤信号」だからと信号が替わるまでじっと待つ。これは「正気」であろうが、しかし、「まとも」だろうか?

わたしには今の若者が、嘗てなかったほどに、体制に、そして既成事実に、現状に、従順であるように見える。その、思考力を失ったかのような「真面目さ」「疑うことなき順応性」に慄然とする。

「個の内面」乃至「自己」というものがない場合、人は「狂う」ことはできない。
何故ならそれは、今、目の前の現実との確執葛藤の故であるから。
彼らはひたぶるに「正気」であることしかできない。
「自己責任」という罪名で自らを断罪すること、それは畢竟「過度の正気」に他ならない。(蛇足乍)


不悉










2018年10月3日

けふもまたかくてありなん…


なにより口惜しいのは、自分が本当に書きたいようなブログを書けない・・・書くことができなくなってしまったことだ。
昨年暮れ頃からわたしのブログを読んでくれていた人たちは、最早現在のわたしの、代わり映えのしない日々の陰鬱な述懐を読んでくれてはいないだろう。
それほどまでに過去に書いていたものとは違ってしまっている。
そして、またいつか、前のようなものが書けるようになれるとも、少なくとも今は思えない。

現在のわたしの頭の中、胸の内、そして生活のすべてを覆っているのは、あのハムレットの独白だ。「生きる 生きない それが問題だ…」
頼るところはない。市役所や地域の保健所の保健師であろうと、都の精神保健福祉センターの相談員であろうと、きょうびこのような非効率極まりない(言い換えれば「人間的な、あまりに人間的な・・・」)ハムレット的な問題は避けて通る。

彼らは口々に言う
「生きる? 生きない?ですって?なんで『生きる』ということにクエスチョンマークがつくのかわかりませんねぇ・・・」
「あなたがね、ほんっとうに、「生きる!」「生きたい!」と決心したときにまた連絡してください。ここは「生きること」に「?」を付ける人の面倒までは見られないんですよ」

精神科医、カウンセラーとてさして変わりはしない。
「生きる意味が解らない」「何をする気も起きない」「何をしてもつまらない」そのような訴えは、たちまち「鬱」と診断され、わたしのカルテは「うつ病」の棚に投げ込まれるだろう。

けれども、生きることへの疑問、その意味の喪失、楽しみを見いだせないということ、それらが、「病んだ状態」であるとされるのは、この世界が、現代社会が、生きる価値に溢れ、たのしみに満ち、退屈や倦怠などあるはずがないという前提が無ければ成り立たないはずだ。
生きることが厭になることが「異常」であり「病気」と見做されるほど、この世は素晴らしいところなのだろうか?
「生きること」は、問答無用で「死ぬこと」よりもいいことなのか?



けれども、このようなことを書けば書くほど、自らを「死地」に追いつめているような形になってしまう。
書くほどに、語るほどに、「さあ!どっちだ。生きるか死ぬか!」「白か黒か!さあさあさあ!」と、否応なしに二者択一を迫られているような気持になってくる。
しかしそれはわたしの本意ではない。「生きる」に対しても、「生きない」に対しても、わたしは同時に、双方に、クエスチョンマークを差し出している。それが、「生きること」が自明である世界や人びとにとっては、短絡に「(自)死」というイメージに結びついているだけだ。だがそれでは生きている間に、「生きることについて(立ち止まって)考える」ことはできなくなってしまう。

現代社会を軽蔑し、蛇蝎のように忌避することと、それゆえわたし自身のいのちを軽んずることとは、必ずしも地続きではない。

「現代社会に生きる意味」を見出すことも、また自裁することも、同程度に極めて、極めて困難なことだろう。
それを知りながら、尚、生きている。

「生きることの破綻と全き不首尾・・・」そんな言葉を苦く噛み締めながら・・・











2018年10月2日

New Normal 「新たなる常態」への不適応


わたしには「対人恐怖」というものはない。厭人観はあるし、人間は本質的にはとてつもなく恐ろしい生き物ではあるが、一般的な意味での対人恐怖はない。

けれども、駅で、店で、電車やバスの車内で、そしてもちろん歩きながら、いたるところでスマートフォンに憑依されている人間たちの姿は、ゴヤの「影」以上に醜く薄気味悪く見える。

とてもではないが「ニュー・ノーマル」「ニュー・ワールド」などには染まれないし、染まる気もない・・・



ふと、あることばを思い出しひどく気が滅入る。
「死に場所はあるかもしれないが、逃げ場はない」

死ぬことはできるが、逃げることはできない・・・

'NO WAY OUT' ー「出口なし」
食事と寝床を与えられたホームレスと変わるところはない。
その内面の空虚、存在の虚無に於いて。

もう一度言う。逃げ場はない。いま引きこもっている場所は、決して逃げ場でも隠れ家でもない。そして「外」には「素晴らしき新世界」・・・

孤独・・・とてつもなく・・・こころ千々に乱れて已まず・・


Muchacho espantado por una aparición, ca. 1825, Francisco de Goya.

フランシスコ・デ・ゴヤ「影におびえる男」(1825年)





引きこもり雑考Ⅱ


● 外出困難(引きこもり)については、既にあらかた書きつくしてしまった。
何故外に出ることができなくなるのか?そのメカニズムを知りたいと思うけれども、
なかなか参考文献が見つからない。
そもそも「引きこもり」という概念自体が極めて曖昧なもので、「外に出られないこと」を精神病理学的な視点から考察した本がどの程度存在するのか。また同時に、「引きこもること」と「哲学的見地」は分離不能なはずだ。
わたしが知りたいのは、その「原因」であって、外に出られるようになるならないは必ずしも問題ではない。

● ウディー・アレンの『ラジオデイズ』に、「神は「個人」に関心を持たない」というマルクスの言葉が引用されていたと思う。

「心理学」「医学」とは純粋な科学なのだろうか?
そもそも「科学」とは如何なるものなのか? 
科学にとって「個体」とはどのようなものなのか?
科学にとって「例外」という概念は存在するのか?それはどのような位置づけをされていて、どのような意味を持つのか?
医学は「個体」を診るか?

●「見たくないモノ」に対して目を瞑る。
 「聴きたくない音」に対して耳を塞ぐ。
 「厭な匂い」に鼻をつまむ・・・

わたしの外出不能も、その拡大した現象に他ならない。外界=世界は醜い。だから見たくない、聴きたくない・・・出たくない。世界が変わらない限り外に出ることはできない。
或いは急に世界が醜く思わなくなるような魔法にでもかからない限り。

では何故世界が醜く感じられるのか?わたしが知りたいのは正にそのメカニズムだ。
よしそれを知ったところで、世界の醜悪さは1ミリも変わりはしないが。

●「外に出られない」「出たくない」というのは「病気」の「症状」がそうであるように「自然な生体反応」だ。風邪を引いて熱が出る、頭が痛い、咳やくしゃみが出る、洟水がでる。これは「症状」であって「風邪」そのものではない。生体が自己防衛のためにそのような「症状」を発している。症状は身体が病気に抵抗することで示されているものだ。
肝心なのは、「出られない」という「症状」を解消することではなく、出られなくしている「根本原因」を究明することだ。

ー追記ー

世界が醜く見えなくなる「魔法」のひとつに例えばフレッド・アステアやメル・トーメが歌っている ' A Foggy Day ' に代表されるようなある種の「秘密」もある。ただその「奇跡」も、今では既に賞味期限切れのような気もするが・・・




A foggy day in London Town
Had me low and had me down
I viewed the morning with alarm
The British Museum had lost its charm

How long, I wondered, could this thing last?
But the age of miracles hadn't passed,
For, suddenly, I saw you there
And through foggy London Town
The sun was shining everywhere.

A foggy day in London Town
Had me low and had me down
I viewed the morning with alarm
The British Museum had lost its charm

How long, I wondered, could this thing last?
But the age of miracles hadn't passed,
For, suddenly, I saw you there
And through foggy London Town
The sun was shining everywhere.

◇◆◇

A Foggy Day (in London Town) Music by George Gershwin. Lyrics by Ira Gershwin.Song by Mel Torme.





2018年10月1日

狂気を感じるということ


わたしは正気のまま狂いたい。

「狂う」とはどのようなことか、「狂気」を通じて世界がどのように見えるのか、正確に感じ、記録したい。

或いは現にそうであるのかもしれないが・・・



The vision of Catherine of Aragon, 1781, Johann Heinrich Füssli. (1741 - 1825)

「キャサリン妃の幻視」ヨハン・ハインリッヒ・フュースリー(1781年)




「懐かしい風景」の「書き割」感…


先月海辺の町へ引っ越していったKさんから便りが届く。多分訪ねて行く事はないだろうが、イラスト入りの手書きの地図が同封されていた。
駅の改札を出て、踏切を渡り、商店街を抜けて少し歩くと、Kさんの新居・・・(といっても2DKのアパートだが)があるらしい。
駅前の商店街のとっつきに揚げ物屋、というのだろうか、コロッケやカツ、アジフライ、サラダなどを売っている店があって、夕方になると、下校途中の中・高生が、ファストフード店感覚で立ち寄り、「チーズ入りカツください」と、白い割烹着を着た店のおばさんに声をかける。「持って帰るの?今食べるの?」「今食べます!」
そんなやりとりがあるという。そこでは焼き鳥も売っているらしく、先日Kさんが焼き鳥を二本頼んだら「ハイ。焼き鳥二本ね!二本!」と大きな声で言われて恥ずかしい思いをしたと書いてあった。

わたしが大田区の馬込に住んでいたときにも、「馬込銀座」という商店街の入り口に「天勝」という揚げ物屋があって、時々揚げたてのコロッケやメンチカツを買った。串カツもおいしかった。しかしその店も、わたしが10年前に郊外に引っ越してから数年たたずに店仕舞いしてしまった。

わたしがKさんの便りを読んで感じたのは、そんな店がまだ残っているんだ、という懐かしさではなく、なんというか、もっと不思議な感覚だった。
わたしは外に出ることはないが、仮にそういう昔ながらの風景をどこかで目にしたとしたら、わたしはきっと「うれしい」「懐かしい」とは感じないだろう。
かつてわたしが、その風景の中で生きてきた世界は、とうに失われてしまっている。そんななかで、突然当時のままのような街並みや、店、建物に出くわせば、真っ先に感じるのは、おそらく強い「書き割感覚」だろう。
仮にその店一軒だけではなく、昔ながらの商店が並んでいたとしても、その一帯がすべて書き割り染みて見えてくるはずだ。

わたしは自分のブログに 'A man with a past ' 「過去と共に生きる男」或いは
'Clock without Hands ' 「針のない時計」=時が止まっていること・・・などというタイトルをつけるくらい、「今の時代」に適応できない人間だ。
けれども、好むと好まざるとにかかわらず、今・現在に存在しているわたしが、「むかしのような店」や「時が止まったような場面」に出会った時、奇妙な「演出感」を感じるのは不思議ではないだろう。

そしてそのような、かつては庶民の日常生活とまったく地続きであった店や場所が
特別視されることに強い抵抗を覚える。一昔前、どこにでもあったような喫茶店や食堂、蕎麦屋、ラーメン屋、そして木造住宅が、なにやら貴重なアンティークのように扱われ、もてはやされているのが、ひどく軽薄に思え、不快なのだ・・・

極めて端的に言えば、昔ながらのものが今尚残っているというのは、何処か奇妙で、不自然で、芝居めき、書き割り染みていて、馴染めないのだ。
骨董品など、時代がついていることが第一の価値である品物以外の、あらゆる種類の有形無形の「古さ」・・・それは最早「現在の現実」にはありえないはずである。「過去」と「現在」が同一の次元(同じ時空間)に共存し得る筈はないのだから。

ところで、昨日の内科での健康診断で、風邪をもらってきたのだろうか、それとも滅多に外に出ることがないのに外気に触れたので体調を崩したのだろうか、風邪気味である。
すると母が、温かいうどんやおじやをこしらえてくれる。まるで昔の母親のように。
わたしはふと、この人は本物の母親だろうか?と思う。だってまるで昔のままだ・・・


◇◆◇


昨年、わたしはこのような感覚をショート・ショートに書いたことがある。
これが今のわたしの「現実観」なのだ。


「駄菓子屋さん」

「ただいまあ。」
元気のいい声とともに子供たちが小学校から帰ってきた。ランドセルを放り出すと早速妻のいる台所へとんでいき10円をねだる。天気のいい日はほぼこれが毎日の光景になっている。
「ほんとうにしょうのない子たちねえ・・・」と妻はいいながら、買い物かごからがま口を取り出して兄弟にそれぞれ10円づつ手渡し、玄関に向かって駆け出してゆく子供に「あわてて落としてももうあげないわよ!」と笑顔を見せる。

子供たちは帰ってきたばかりの小学校への道を引き返してゆく。目的は小学校の隣にある駄菓子屋である。そこは子供たちの間で「ばあちゃんち」── この場合「ばあちゃん」は、「おばあちゃん」のような発音ではなく、「ばあ」の、「あ」の字にアクセントがつく──と呼ばれている。
そこで子供たちは10円で買い物をしてから土手の方へ遊びに行くのだ。

おばあさんがいつもお店にいて品物を売っているので子供たちが勝手にばあちゃんちと呼んでいるだけで、この駄菓子屋に決まった屋号のようなものはない。木造の店の中にはおおきなガラスの瓶に入ったいろいろな色のお菓子やおもちゃが並べられている。タコ糸のようなものが付いた三角錐の形をしたあめや、麩菓子、薄くて丸いウェハースのような桃色のせんべいに、あんずのジャムをつけて食べるおかし、赤や青や黄色い色のセロファンにくるまれていて、口の中に入れるとシューっと泡立つラムネ菓子。その他にもめんこやビー玉、ベーゴマ、女の子たちがゴム跳びに使うゴム紐や、縄跳びのなわも売られている。店の奥には正月の売れ残りだろうか、埃をかぶった凧がぶら下がっている。

わたしは子供たちが出て行ったあと、なんとなく自分もその店に行ってみたくなった。

「こんにちは」わたしは駄菓子屋の店先に立った。
「へえ、いろんなものがあるんですねえ。懐かしいなぁ!」
ばあちゃんは「いらっしゃい」と言ったきり終始ニコニコしているだけで余計な愛想はなにも言わない。これがいいのだ。
「何かお探しですか?」とか「こちらが子供たちに人気の飴です」などというどこへ行っても聞かされる型どおりの接客は聞き飽きた。
わたしは店の奥にチラと眼をやる。奥は座敷で、店との仕切りになっているガラス障子の内側には、上に人形の置かれたテレビ、柱時計、○○酒店と書かれているカレンダーなどが目に入る。柱も、長押も、天井も、佃煮のような色をしている。座敷の向こうには小さな庭があるようだ。つつじや椿の木などが見える。

わたしは数枚の、今は無くなってしまったチームの野球カードと店の片隅の棚でやはり埃にまみれていた豪華客船のプラモ、そしてあんこ玉を買って店を出た。

小学校の校庭にすでに人の姿はなく、ばあちゃんはわたしが店を出ると店の前に出していたすっかり塗りの剥げた丸椅子を片付け、飼っているのだろうか、時々この辺りに見かける白黒のぶちねこの頭をなでながらガタガタと店の戸を閉てている。

町内のスピーカーから「夕焼け小焼け」のメロディーが流れる。

あんこ玉を口へ運びながらわたしはふと思う、もし、まだ十に満たない子供たちが「ばあちゃんち」が、「ジュブナイル Co. Ltd」という企業が、全国に展開しているチェーン店で、あの「ばあちゃん」も、「派遣社員」だと知ったらどうだろうか?おそらく彼らはキョトンとするだけだろうし、チェーン店や「ハケンシャイン」の意味も分からないだろう。だから夢が壊れるということもない。ちょうど毎年夏に近所の小川で採ってくる蛍が、わたしたちの住む市と、地方の自治体と連携して「養殖」しているホタルであることを知らないように・・・

わたしはジュブナイル株式会社製のあんこ玉を頬張りながら、プラモの箱に吹き付けられた、古道具屋の演出用に販売されている業務用「人工埃」を「フーッ」と一吹きして家路についた。
え?箱の中身だって?もちろん「ホンモノの模型」さ・・・