2018年10月4日

まとまらぬままに…「まともである」ということについて


昨日、1年前のブログはこんなじゃなかった、というようなことを書いたが、昨年とて、わたしの文章の通奏低音は「孤独」であり、それゆえの「外出困難」には違いなかった。
それでも、今よりはもう少しオブラートに包んだ(?)直截的ではない表現を用いていたように思う。ところが今はもう、「狂気」を隠そうともしていない。

随分前に観た映画なので、粗筋もディテイルも、ほとんど忘れているのだが、市川雷蔵主演の『炎上』という、確か水上勉原作の、金閣寺炎上に材を取った映画のシーンで、後に金閣に火を放つ雷蔵が、たまたま寺を訪れていた高位の僧、中村鴈治郎(実は生臭坊主なのだが)に、「どうかわたしを、わたしを見抜いてください!」と懇願する場面があり、そこだけが何故か強く印象に残っている。僧は酒と女に夢中で、彼の願いなど黙殺されていたが。

大学時代から常に孤独と二人連れであったわたしは、自分がナニモノカを知りたいと思っていた。わたしという人間がどういう存在なのかを、誰かに見抜いて欲しかった。

犯罪者の精神鑑定などが時に話題になるが、たとえば、木村敏と中井久夫両氏がわたしを「鑑定」したら、どのような人物像が浮かび上がってくるだろう?
仮に木村判定と中井判定が大きく異なるようなら、それは何に因るのか?

・・・そんなことを考えるのは、今でもわたしは誰かに「わたし」という存在を「定義」してもらいたいという欲求があるからだろうか?
そして鑑定の結果、わたしという人間は、木村あるいは中井鑑定に基づく存在となるのだろうか?

「わたし自身」或いは「彼」という「わたし」、「彼女」という「わたし」・・・それらはいったいどのように「定義」され「規定」され得るのか?
或いはあらゆる「わたし」は、いかなる定義を下すことも能わざる存在なのだろうか?



ところで、わたしがインターネットですることといえば、海外のサイトでアートを渉猟し、You Tubeで古い音楽を聴きつつ、それらの絵や写真の美にため息をつきながらTumblrに投稿すること、そして主に、心を病んだ人、引きこもりの人たちのブログを読むこと、自分のブログを書くこと。それだけである。

いろんな人のブログに綴られた様々な考え方、物の見方に接していると、当然ながら、自分のそれと、合う、合わないが出てくる。この考え方はおかしいと感じることがある。
では、いったい「まともである」「まともじゃない」という選別は何を基準に行われているのだろう?

広くは、この国の首相及び、首相2号はまともであるか?それに対立する野党の何某とかいう人はまともであるのか?アメリカ合衆国大統領はまともか?ロシアの大統領は?中国の国家主席は?
そもそも「まともな政治家」=「まともな権力者」なんて存在するのか?

ヴィンセントはまともか?彼の画業がなくともマトモか?逆に彼の遺した絵があるから、マトモと見做されているのか?
ヴァージニア・ウルフはどうか?シルヴィア・プラスは?ダイアン・アーバスは?ジャクソン・ポロックは?
すべて自殺したアーティストたちだ。「自殺」とは、マトモな人のすることなのか?
ホームで、電車の来る方角を見ることもなく、見事に揃って下を向いている人たちはマトモか?
今の社会でマトモでいられることはマトモか?

「まとも」とされていることと、個人的、主観的「好悪」とはどのような関係にあるのか?



わたしには、なにがまともで、なにがまともではないのかの判断はできない。それは、もとより「まともであること」の客観的基準が存在しないからだ。
ただ、僅かに言えることは、わたしは「正統」よりも「異端」、「正気」よりも「狂気」に、より親近感を覚えるということだ。

そして少なくない「狂気」は世の「常識」「社会通念」「正気」によってもたらされていると感じている。
何らかの理由に因って働くことができない人たち、彼らが、もし、「自己責任」という、一見「正気」を装った狂気または錯誤に染まって自殺したとしたら、彼を死に追いやったのは「狂気」ではなく「正気」に他ならない。

「狂気」とされているものはまともではなく、「正気」イコール「まとも」という考えに与することはできない。どころか、今は正に、その逆こそが真っ当な状態であるような「さかしま」な世界であるという認識が必要に思われる。

ある考え方が一般に「正気」と見做され、多数の支持を集めている場合、ひとまずそれは疑ってかからなければならない。幅5~6メートルの横断歩道を渡るとき、右を見ても左を見ても車の影ひとつ見えない、それでも「赤信号」だからと信号が替わるまでじっと待つ。これは「正気」であろうが、しかし、「まとも」だろうか?

わたしには今の若者が、嘗てなかったほどに、体制に、そして既成事実に、現状に、従順であるように見える。その、思考力を失ったかのような「真面目さ」「疑うことなき順応性」に慄然とする。

「個の内面」乃至「自己」というものがない場合、人は「狂う」ことはできない。
何故ならそれは、今、目の前の現実との確執葛藤の故であるから。
彼らはひたぶるに「正気」であることしかできない。
「自己責任」という罪名で自らを断罪すること、それは畢竟「過度の正気」に他ならない。(蛇足乍)


不悉










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