2020年11月18日

敵対者

 
以下、ラグーナ出版の編集の方に宛てたメールより抜粋引用します。


ブログに関しては、しばらく別の形で、別の場所でやろうかと思います。
現在のブログは、主に、普通と違う自分を表現してきましたが、それを突き詰めてゆくと、
健常者はもとより、精神に障害を持った人たちとも、ある種の敵対関係が生じるようです。

健常者はいうまでもなく、精神を病んだ人たちの言葉もわたしには届かないし、わたしの言葉もまた、健常者にも、障害者にも届きません。

昨年1年間のデイケアを通じて、また当事者たちのブログを読むにつけ、「何故!?」という想いばかりが頭の中に浮かんできます。
いちばんの大きな違いは、わたしは現代という時代、そしてこの社会を憎み、嫌っています。けれども、わたしの知る限り、殆どの(或いは「多くの」)障害者は、一刻も早く(何らかの形で)「社会復帰」をしたいと望み、それがはかばかしくない状態にある自分を責めているように見えます。
わたしはこのブログで、「治癒するということの意味」を問い続けてきましたが、多くの当事者たちにとっては、(現行の社会の姿がどうであろうと)とにかく一刻も早く良くなりたい=社会に戻りたいの一点張りに見えて仕方がありません。
そんなにまで「この社会」が好きか?と呆れる思いです。

そしていま、わたしはいわば「障害者と敵対する者」という位置に自分が立っていることに気づきます。

そのような対立は単に不毛なだけだと感じます。もう少し自分の内面から離れたところでブログを続けたいと考えています。(そもそも初めはアート・ブログから始めたわけですから)

「障害者だから障害を持った人の気持ちがわかる」「引きこもりだから、引きこもっている人たちの気持ちがわかる」ということは、わたしに限って言えば、当てはまらないようです。

最初は、ああ、ラグーナ出版が、あるいは「ラグーナ出版のような」場が近くにあれば・・・などと考えていましたが、仮に「ラグーナ出版」が東京にあったとしても、〔やはり〕わたしはみなさんの仲間にはなれそうにありません。

わたしの言葉は、心の病を持った人にも、そして誰にも届きません・・・









2020年11月17日

断想(わたしは誰とも似ていない)


 ● 明日は多摩総合医療センターで、初めての心理テストをする。カウンセリングの初回である。カウンセリングは1回30分。わたしとしては1回2時間・・・とは言わずとも、せめて80分、最低でも1時間のセッションを週に2回。それを2年間くらいは続けないと本当の「カウンセリング」にはならない気がする。


● ロールシャッハというものは、随分子供の頃に学校でやった気がする。
あれは必ず「何か」に見えなければいけないのだろうか?わたしはどのような図形(?)を示されても「インクの染み」にしか見えない気がする。


●「わたしは誰にも似ていない。」その言葉に多摩総の医師は興味を示したように感じられる。
「ワタシハダレニモニテイナイ」極言すれば、精神の障害の有無にかかわらず、「人間といういきもの」と似ていない、ということ。けれども、仮に人間誰もが「世界の孤児(みなしご)」であり、「ただひとり世界に遺棄された者」であり、「誰もが本来的に孤絶した存在」であるならば、そもそも「自分に似た者がいる」ということは矛盾してはいないか。


● わたしにはこのおぞましくもグロテスクな社会への復帰を目指す障害者の気持ちが全く理解できない。


● わたしには、「先のこと」を考える障害者の気持ちがわからない。
この時期方々のブログに「来年は・・・」などと書かれているのを見て不思議の念に囚われる。何故「明日」のことを計算に入れられるのだろう?基本的に人間の存在は「明日ありと 思ふこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」ではないのか?
「来年のことを言うと鬼が笑う」というのは全く眞實である。
「明日も生きている」という前提はなにを根拠にしているのか?


●「いま苦しめられている様々な症状が完全に消滅し、なおかつ今後衣・食・住に関する一切の心配の必要がなく心身ともに完全に健康な状態で百歳まで生きる」という条件と、「向こう三日のうちに、一切の苦しみもなくこの世から消滅することができる」という条件の選択を迫られた時に、「引きこもり」を含めた多くの「精神障害者」たちが前者を選択するであろうことをわたしは頗る怪訝に思う。
治癒とは畢竟、この醜悪極まりない世界と懇ろになることに他ならない・・・







2020年11月14日

孤独と生

 
このところ、「生きる意味」というものがますますわからなくなっている。

「孤独の中で生きるということ」・・・

「生」が自己一身の中で循環し完結しているということがわたしには理解できない。

孤独の中に生き、自分のために飯を炊き、自分のために飯を食い、自分のために本を読み、自分のために展覧会に行き、映画を観に行く。それに一体何の意味があるのかがわからない。

「人生はひまつぶし」というやつだろうか?

"Mostly I just kill time" he said. "And it dies hard" 
ーRaymond Chandler  'Long Goodbye' 1953

「時間をつぶす」、英語では”Killing Time”という。”Die Hard”は「容易には死なない」

人生は時間をつぶすことであり、それがなかなか容易ではないのなら、時間ではなく、自分を殺す方が手っ取り早いのではないかと考えてしまう。

わたしには孤独の中で絵を観ることや読書することに「時間をつぶす」以外の(以上の)意味を見出すことができない。

読んだ本について、観た絵や映画について語り合える存在のいない人生は、少なくともわたしにとっては無に等しい。


或る人からのメールの返事がなかなか書けない。

仮に人間というものが本来的に「孤絶した存在」であるのなら、(しかしこれは”No man is an island”=「誰も島ではない」というジョン・ダンの説に真っ向から対立してはいないか?)そのような過酷な生を人は生きることが可能なのだろうか?

わたしの、ひとつ前からのブログに頻繁にコメントを寄せてくれていた女性が好きだと言っていた言葉・・・「人は誰しも世界の孤児(みなしご)だから、時々手を繋ぐ必要があるの」
しかし、世界の孤児同士が一体どのように「手を繋ぐこと」が可能なのか。誰とも手を繋ぐことができないからこそ「この世界の孤児」であり「世界にたったひとり遺棄された者」ではないのか?


人が本来「孤絶した存在」であり「世界のみなしご」であるのなら、わたしは「生まれてきたことが敗北なのだ」というシオランの言葉に深く頷かざるを得ない。
同時に、自分のために読み、自分のために書き、自分のために食べ、自分のために観、聴き、学ぶこと・・・自己という一個の存在の中で完結する生の在り方というものが理解できない。

或いはわたしには自己を分割するという能力が欠如しているのかもしれない。
「本を読む自分」「それを愉しむ自分」「音楽を聴かせる自分」「それを聴く自分」「食べ物をつくる自分」「食べる自分」

人が完全なる孤独な存在であるなら、最早自分自身を「与える側」と「受け取る側」に分割する以外に「孤」から「独」から抜け出す方法はないのではないか。

人は誰しも孤独だからこそ、本があり、音楽があり、芸術・芸能があり、映画があるのだという意見もあるかもしれない。けれども、人が本当に孤独な存在であるなら、一体、本が、音楽が、芸術が何の役に立つだろう。その「生という地獄」の中に在って・・・

わたしはよく「喪失後の世界」ということについて語って来た。
愛弟子、顔淵を喪った時、孔子は「天、予を喪(ほろ)ぼせり!」と慟哭した。
けれども孔子は顔淵亡き後も生き残った。

辺見庸は親友=心の友ともいえる者をふたりも獄中で亡くしながら(ひとりは執行前に病死、ひとりは死刑)も尚生き延びている。

何故か?

つまり、孔子にも、辺見にも、「顔淵」に代わる代替品がいたからだ。

言い換えれば、孔子にとっての顔淵にしても、辺見にとっての大道寺将司にしても、決して「かけがえのない存在」「それなしでは生きて行くことができない」ような存在ではなかったということだ。

我々・・・否、わたしは、なにものかの存在(他)(との関係性)によって「生かされている」そして、あたりまえのことながら、その存在とともに滅びる。何故なら「孤独な生」などというものに何の意味も見出すことができないから・・・いや、「意味を見出す」などと言う以前に、孤独では生きてゆけないから。


[関連投稿] 「誰がために鐘は鳴る

cf  ' I am a rock' Simon and Garfunkel / ' Every time we say good bye (I die a little)...' Ella Fitzgerald  


ー追記ー

人が、「喪失後の世界」にも尚生き永らえることのできる存在であるとしたら、人間とはなんと厚かましくも図太い存在なのか・・・
















2020年11月12日

生きる意味

 
わたしとおなじように孤独で、たいして美味くもないコンビニ弁当をひとりで食べている独居老人に、「あなたは何のために生きているのですか?」と訊いてみたいという興味はわたしにはまったくない。ひとはこれこれという「生きる意味」を持たなければ生きられないのか?
そうではない。彼は、彼女は存在している。いま、現に生きている。まさにそれ自体が生きる意味ではないのか。

生きる意味を問いかけることは、ある意味、問いかける対象の生の在り方に対する懐疑である。わたしはホームレスにも、生活保護で細々と生きている老人たちにも、その生き(てい)る意味を問う資格を持たない。彼らはその存在自体で既に貴いからだ。

けれどもわたしは自らに問いかけずにはいられない。

お前は何にために生きるのか?と。

何故か?

わたしは「生自体」を、その意味と、目的とすることができないからだ。

わたしには生きるために拠って立つ瀬、足場が必要なのだが、自分にはそれが見えないからだ。

自分自身の内側に生の根拠を持つ者もいれば、わたしのように、わたしという存在を支える、「外部」が不可欠な者もいるのだ。












2020年11月11日

生き残る、ということ

 
松竹の『男はつらいよ』シリーズ第一弾の最初のセリフは、花見客でにぎわう江戸川沿いの様子を映し、そこに、車寅次郎の「さまざまなこと 思い出すさくらかな」というナレーションが被るのだと記憶している。

今東京立川の団地の周囲は桜紅葉が散り敷いている。

さまざまなこと 思い出す 桜紅葉かな ・・・である。(チト字余り)


荷物の荷解きをしていたら、詰め物に使った新聞紙・・・10月31日付けの東京新聞第一面の記事が目に入った。見出しは「東京老舗の味 相次ぐ閉店」その横に、「コロナ直撃 政府支援息切れ」と書かれている。

30日で暖簾を下した新橋駅前の居酒屋「新橋三州屋」について、記事では、

「四月以降の売り上げは前年比九割減。最近はやや持ち直したものの七割減が続いた。持続化給付金なども受け取ったが、人件費や家賃を「とても穴埋めできなかった」と店長の見米(みこめ)さん(六十歳)は語る。政府の「Go To イート」の恩恵を充分に受けるには予約サイトへの登録が必要で、六十~八十代の従業員に対応は難しかった。

この記事の最後に亜細亜大学の教授は、
政府の「Go To イート」についても、「ネットを使えない店や客は恩恵にあずかれない。ほんとうに困っている人を助けられているか疑問」
と指摘した、とある。

しかしこの文章はおかしくはないか?

「ほんとうに困っている人を援ける」のは国=政府の責任であって、それが何故「恩恵にあずかる」というような妙な表現と結びつくのだろう?
飲食店は、「援けてもらう」のではなく、国が彼らを「助けなければならない」のだ。

「新橋三州屋」についての 、政府の「Go To イート」の恩恵を充分に受けるには予約サイトへの登録が必要で、六十~八十代の従業員に対応は難しかった。」云々という文章の当否は一先ず措くとして、わたしは三州屋の店仕舞いを必ずしも悲しいとは思わない。

つまりわたしが言いたいのは、このような時代に、ネットに縋ってまで生き延びる意味とはなにか?ということだ。

めまぐるしい時代の変化に易々と順応して生き残ること。それは人であれ、店であれ、文化であれ、ひどく見苦しい。


わたしは人工の音声と言うのが苦手で、電車にもバスにも乗ることが難しい。
府中にいた頃、昨年末の駅ビル、東武ストアの改装で、レジのほとんどが自動精算に切り替わった、それまでは「お会計」という札が下がっていたところが、Casher (キャッシャー)になっている。

以前「そうだ、京都行こう!」というJRのコピーがあった。「日本語」である。
それが今はGo to イート、Go to トラベル・・・正に植民地根性丸出しである。

券売機で切符を買うことさえ苦痛なのに、スーパーマーケットで食料を買う時でも、
「オカネヲイレテクダサイ オツリト レシートヲ オトリクダサイ」等と聞かされなければならない。


行き着くところは、結局いったい何のためにわたしは未だに生き永らえているのか?という大いなる疑問である。

母は、しばらくは週に2度くらいはわざわざ電車とバスを乗り継いで、ここまで来てくれる。しかしそれが週に一度になり、10日に一度になり・・・

わたしがここでたったひとりで生きている意味とは何だ?

わたしがここに来たことは間違いではなかった。父が、劣悪な環境のケアハウスから解放される。母にとっても、わたしが常に思っていた、2マイナス1が成ったわけだ。いづれにしても、母が3人の面倒を見ることは最早不可能な状態であった。

そしてわたし自身を振り返った時、母の負担が多少でも減った今、「自動支払機」だの「キャッシュレス」などという時代の中で尚、生き永らえる意味とはなにか?

相次ぐ「これからのあたりまえ」によって、最早スーパーでの買い物すらも難しくなった。わたしをわたしたらしめていたもの・・・わたしと「世界」を接続していたモノは既にどこにもない。そんな真空地帯の中で、「わたし」という、世界のなにものとも繋がっていない完全なる「孤立」にして「無援」(且「無縁」)なる者が、尚、めしを喰いつづける意味とはなにか?















 










































2020年11月3日

 
「人間」の廃業にともない このブログを終了します。







正しさについて

 
「間違ってもいいんだ」と人は言う

しかし

「間違っていてもいいんだ」と彼らは言えるだろうか?










多様性への懐疑、或いは人間廃業宣言


弟と話していると、自分が本当に救いようのない愚か者のように思えてくる。弟もまたわたしを愚図のうすのろだと思っているのだろう。そしてその見方は正しいのだ。

人それぞれの多様性、違い、と言うけれど、やはり「正しい生き方」「誤った生き方」というものが客観的にあるように思えてならない。
そして弟は正しく、わたしは、嘗ていろいろな人に指摘されてきたように、「誤った存在」なのだ。

「わたしはわたし」などというのは所詮は言い逃れに過ぎない。「正しさ」「正しい生き方」を目指さなければならない。けれどもそれができない、それをしたくない人間がいる。

それは最早まっとうな「人間」ではない。「人間をやめた」存在だ。

これまで様々な講演会に行き、その道の専門家に対して、遠慮なく異論を申し立ててきた。
「そうではないだろう」と思ったからだ。

多くの講師はわたしの言い分にきちんと耳を傾けてくれた。ある評論家は、わたしの発言をそのまま自著に引用した。

けれども、弟には何一つ言い返すことができない。100%わたしが間違っているのだとしか思えないからだ。

弟の前にでると、正に蛇に睨まれたカエルのようになってしまう。

そして弟の傍にいると、引きこもりである自分が完全に無能なアホウのように思われ、
その想いが広がり、果ては、世の反・引きこもりの意見は決して間違ってはいないのではないか、とさえ思えてくる。

しかし、嗤われ、蔑まれ、鞭打たれるのはわたしだけでいい。

「正しさ」それはその完全なる「正当性」故に、「正しく」「強く」生きることのできない人間を傷つける。








2020年11月2日

こわい こわいこわいこわい

 
弟がこわい・・・






「現実」

 
滅多にそういう機会はないが、弟と言葉を交わす度に痛感するのは、大事なのは「いま・目の前にある現実」を知ること、そしてそれを否も応もなく宿命として受け入れることであって、数百冊の文学書や哲学書など(もしそれが現実の世界(=リアル)を知り、受け容れるために役に立たないのなら)一文の値打ちもないということだ。

レイ・ブラッドベリやオルダス・ハクスリー、ジョージ・オーウェルは教えてくれる。「本を読み、考えるような人間は、盗みを働く人間よりも罪が重い」と。
何故ならそれは「いま、そこにある社会そのものに対する不敬罪」に他ならないからだ。
もってけ泥棒!」 









わたしの狂気 弟の正気

 
数日前の投稿「言葉と社会」で紹介したブログ生き地獄の日々」。このブログの筆者は、ご自身を「人間の屑 廃人」と称されています。

わたしのブログのタイトルは、昨日、11月1日を以て『ぼく自身或いは困難な存在』から『人間 廃業 宣言』と改めました。それは「人間であるということ」に疲れ果てたこと、最早「人間」「ヒト」という生き物ではありたくないという気持ちの表れでもあります・・・
「生き地獄の日々」の筆者を、わたしは親しみを込めて、「廃人さん」と呼んでいます。

ここで過去の自分の言葉を三度(みたび)、繰り返します。
ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。

このような気持ちを別の言葉で言い換えたものが「人間 廃業 宣言」なのです。

ただし、「廃人さん」はわたしとはまったく逆に、このどん底からなんとか這い上がり、社会復帰を目指しています。「自称」ではなく正真正銘の廃人であるわたしには到底真似のできないことです。

またわたしの知っている「底辺」を名乗る方もやはり、廃人さんと同じ精神の病に苦しみながらも、「日の当たる場所」へ歩を進めていこうと日々努めていらっしゃいます。

「人間廃業」を宣言したわたしと、「廃人さん」「底辺さん」とはここでお別れのようです。


引っ越しの業者をなかなか決めることができないわたしを心配してか、或いは業を煮やしてか、弟が、全部自分がやるからと言ってくれました。ところが弟は、わたしが決められない理由を改めて聞いて、真から呆れ果てているようでした。
弟の考えを一言でいうなら、「いったい人に何を求めてるんだ?」ということではないかと思います。
「電話の切り方が無礼」だとか「消費税分の金額を後から言うとか」そんな些細な事を気にしてたんじゃ永遠に業者なんて決まらないよ。というのが弟の言い分のようでした。
彼の基本的なスタンスは、わたしや母と違い、「世の中ってそんなもんだもん。しょうがないよ」。つまり「そんなもの」である世の中の在り方に不平不満を言っていたのでは、そもそも生きて行けないという、まったく反論の余地のない正論でした。

以前弟は、わたしの主治医に、わたしが本ばかり読んでいるが大丈夫なのかと尋ねたことがあります。これもまた一理もニ理もあるのです。

嘗て「ぼく自身・・」に書いたことがあります。


「何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」ことは確かだ。しかし、そのことと、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」ということを混同することはできない。
わたしが自己の感受性や美意識によって取捨選択し構築した世界、それはあくまでも「わたしという一個人」の「内的世界」「内宇宙」でしかない。そして自己の内側に、自己の美意識に基づいた世界を持つことは、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」どころか、逆に現にわたしの外側に、「わたしとは全く無関係に厳として存在している客観的世界」との乖離を深めることすら意味している。

「何かを読み、何かを見、何かを認識し何かを考え何かを感じたかがさらなる世界像を作る」そのことによって、わたしはますます現実の世界から遠ざかってゆく。

繰り返す。

自分の美意識によって形作られた内面世界は、客観的世界と相容れない。
もし「今・そこにある世界」になんの不満も欠乏も感じていなければ、「内的世界の創造」の必要などないからだ。

 


弟が重視するのは、料金の安さです。自ら運送業界で働いていた彼には、料金の高さと業者の質とはまったく無関係であるということ、そしてそもそも、わたしが求めているレベルの「親切・丁寧」等を求めるのは、現実を知らなすぎるということ。所詮5万円のところも、2万円のところも大差ないのだから、それなら無駄な金を使うことは馬鹿々々しいと彼は言います。これもおそらくはその通りなのでしょう。

わたしが2度目に決めた業者の値段が、昨日キャンセルした業者よりも更に1万数千円も高いので、(弟が)キャンセルしようとしたら、先方は、「本人でないとキャンセルはできない」と言っている、と。わたしが「人が怖いので、電話には出られない」というと、再び呆れたように、「断ることができない契約だったらはじめからしないことだね」と。

弟は、徹底した現実主義者のように見えます。ある種の人たちのように、「現実を肯定」しているのではなく、「どのような現実であろうとも、それが現実である以上はそれが現実なのだ」という思想です。

わたしとしては、弟がいうように、「あまりにも現実世界を知らなすぎる」と言うことに、まったく反論の余地がないので、自分がボロ布のように感じられます。

そしてわたしがもっとも苦手とするのは、威圧的、暴力的な人と同じく、世の中で生きてゆくうえでの「正解」を知っている人たちなのです。
極めて俗な言葉で言うなら、わたしはどのような意味に於いても、「利口な人たち」が苦手なのです。「利口な人たち」は迷いません。自分を疑いません。何故なら彼らは既に、「正しい位置」に立っているのですから。

一方で、わたしのように無知な者は、今回のように、当然周囲の人間に迷惑を掛けます。

わたしは・・・わたしこそが、救いようのない「人間の屑 廃人」なのです。










2020年11月1日

人が怖い

 
引っ越し業者にキャンセルのメールを送りました。
情けないけれど、わたしは人が怖いのです。

確かに、500人以上の講演会場で、著名な講師に向かって異議を申し立てることはしてきました。
何故か?講師は決してそのような場で声を荒げないし、わたしを罵らない。まして暴力を振るうこともないと知っているからです。

確かに、インターネットの匿名の世界よりも、対面の方が、一対一の方が話しやすい。
でもそれもやはり人に拠ります。言葉であれ、態度であれ、表情であれ、威嚇的な人間はコワイのです。

以前もお話しましたが、デイケアの体験参加の際に、出席者の若い男性から、わたしの声や挙措に威圧感を感じると言われました。ひとがこわいわたしが、ひとをこわがらせていたのです・・・


今回のことで、やはり「社会に出ていない人間は」「ダメ」なのかと自問しています。

この度のキャンセル料、もらった段ボール代金は自分の貯金から払うつもりです。

断りを入れた業者の3倍かかっても、親切で丁寧な業者に頼みたい。

何故なら今は親切は金で買う時代です。

「無料の親切」などというものは撞着語法です・・・

とはいえそういう業者を探すことは、「親切な医者」を捜すのと同じくらいに困難なことでしょうけれど。金を払う客でさえ、親切にされるかどうかは、運次第。まして「患者」は客ではない。壊れた生物ですから。



ワタシハ ヒトガ コワイノデス












生きている資格

 


自分一人ですべてできない者が生きていてもいいのか?







わたしの傷・・・ わたしの狂気・・・

 
数日前のメールで、ラグーナ出版の川畑さんは、

「自分の異質性に気づけば気づくほど、他者(特に思考停止状態の他者)に期待することが少なくなってきました。」と書かれていた。

わたしはここで躓く、「期待すること」が「少なくなってきた」ということは、いまだ「他者」に対し、幾許かの期待は持っているということなのだろうか。

いったい他者というものに、「どのくらいなら」期待できるのだろう?


昨夜からほとんど寝ていない。配送業者が決まらないのだ。

日本通運は老舗であるにもかかわらず料金が安いが、わたしが利用したいと思っていたプランには「時間指定」がない。以前にも書いたことだが、わたしは待つということができない。
宅配便に「12時から2時の間に伺います」と言われると、もう11時半ごろから落ち着かない。呼吸が浅くなり脂汗が流れる。これは「修理・点検」などの「訪問」でも同じだし、また電話の「折り返し」というものもすべて断っている。「またこちらからかけ直します」と。

日通のこのプランでは、午前か午後という枠しか決めることができない。これではたとえどんなに安価であってもわたしには無理だと諦めた。

結局、先日弟が立川から戻って来た時に利用した業者に再度頼むことにしたのだが、今になって、まだ迷っている。所謂「赤帽」で、引っ越し業者ではない。

昨日は、母が電話で、最後にもう一点確認をしたいことがあったのだが、「忙しい」のか、ブツリと電話を切られた。
今日(土曜日)の午前中にダンボールを持ってきてもらうはずだったのだが11時半過ぎても何の連絡もないので、こちらから確認をしたら、「ここ」ではなく、「これから引っ越す先」へ持って行っていたという。そして料金について。最初に、いくらと決めてあったのだが、最後の最後になって、「それと、消費税10%プラスです」と後出しをして来た。わたしの常識では、「じゃあ〇〇円。それと消費税で全部で〇〇円になります」と言うものだろうと思う。


わたしや弟が無能な障害者であるがゆえに、母は未だに、この薄汚い世間の矢面に立たなければならない。そこでわたしは考える「人の世話にならなければ生きてゆくことのできない障害者の生きる権利」とは何か?と。

わたしは今でも、そしていつまでも決して忘れない。三鷹にあるSS堂という古書店が、わたしの売った本・・・それぞれに買った時の価格を合わせれば10万円は下らない古本を、4千円だと見積もったことを。そしてわたしが、その金を現金書留で、手数料を払ってSS堂に送り返したことを。
この時も最初に対応したのが母であった。

わたしは日本の男たちが、老いた女性を軽く見ているように思えてならないのだ。
そして今回、この業者に頼むことが、わたしの生涯の新たな怨念の元になるように思えてならない。

金で済むことならば、今回の10万円そっくり使ってでもまともな=親切な業者に乗り換えようかとも思っている。

わたしは人を信用していない。

何故か?

わたしは書いたはずだ。

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づかなければ十分だ。”
ーフェルナンド・ペソア

*

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づけばいい・・・”
Takeo 

わたしが人を信用しないのは、わたし自らが「愛されざる者」であるということを知悉しているからだ。

神は或いはユダを赦せるかもしれない。けれども、神は決してわたしを愛することができない。ゆえに万能ではない。


ロビンソン・クルーソーのような人間でない限り、人は他者に依存しなければ生きてはゆけない。ではわたしが依存できる存在が、この世界で、母以外に誰がいる?

そしてその母は、この日本では、わたしという無能な障害者同様、無価値な老婆に過ぎないのだ。