2018年5月31日

非・人間的なるもの


興味あるブログの記事にコメントをしようとすると、「禁止ワードが含まれているので投稿できません」という通行禁止表示に結構頻繁にぶつかる。昨夜などは「不正な投稿と判断されました」だって。わたしが自分の気持ちを率直に書いて、それが「不正な投稿」と「判断」されたということは、とりもなおさず、わたしの内面が「正義二不ズ」ということだ。

続けてもうひとりのブログに投稿したら、こちらも「禁止ワード」の件でダメ。今更ながらこの社会とはつくづく相性が悪いと改めて痛感する。

※ 先程、昨夜「不正な投稿」とはじかれたコメントを投稿したブログに寄ってみた。
なるほどブログの運営側は、一つ一つの「言葉」に機械的に反応しているだけなのだろう。
けれども、言葉というのは「文脈の中」で生きている。「支那」だろうと「土人」だろうと、「人殺し」「自殺幇助」「勃起」…etc それらの言葉単独ではなんの色も持ってはいない。(「勃起」という言葉は、且て楽天ブログで、本文中に使ったところ、不適切であると投稿が叶わなかった事情がある)ー 文脈を無視して言葉のみを検閲するという無意味さ、そのナンセンスに気付かないということに、改めて呆然とする・・・



昨日二人目に投稿できなかったコメントは1200字近くあったのだが、要点をここに書き写しておく。



何を以て善とし、悪とするかは、結局個人の主観及びセンスに因るのだが、
例えば、パーティーで、コカインを吸引してハイになるとか、非合法ドラッグを使用するという類のものは、わたしの中では「悪」ー「クライム」にはカウントされない。
一方、目の前で、おばあさんがいっしょう懸命手を振っているのに、高々30秒や1分の間を惜しんでバスを留めない運転手の行為は、「悪」ではないにせよ「非・人間的」な行為といえる。
困っている人に気づきながら黙殺してゆくのも同じことだ。

こういう態度は自ずとハンナ・アーレントのいう「凡庸な悪」の伏流となっている。
規則や決まり事というものに従順なものほど、容易にアイヒマン化しやすい。

先にエリック・ホッファーの「自己認識」について反論めいたことを述べたが、
おそらくホッファーのいう自己認識とは、それほど形而上学的な意味合いのものではないのだろう。

今、自分がどういう状況にあって、その状況下で何をしようとしているのか?
何をしまいとしているのか?

「お年寄りがこのバスに乗りたがって手を振って走ってくるが、時間厳守を曲げるわけにはいかないので、お年寄りは置き去りにしてゆく」・・・という認識。それが「自己認識」なのだろう。

そう考えれば、ホッファーの言う
「自己認識の欠如は、しばしば粗暴さと不器用さとなって表れる。それに気づかないとき、人は厚かましく、粗暴に、そして不誠実にさえなれる」
という言葉も筋が通ってくる。

自己のオリエンテーション(座標軸)を見失った時、人は今自分が何をしようとしているのか?何をしていないのか?すべきこと、すべきではないことに気づかない。その時人は粗野になり、無作法になり、親切ではなくなる。

そして現代人を自己認識から隔てているのが、人びとの意識から時間的・空間的な広がりを奪い、「いま・ここ」に意識を縛り付ける「遮眼帯」であるスマホでありタブレットであり、携帯用パソコンの類であることは言を俟たない。

しかし同時に、冷酷なバスの運転手は「お年寄りを置き去りにしてゆくこと」を充分承知しているのかもしれない。時間厳守が至上命令であるという認識の下に動いているからだ。

人が非・人間的になるのは、エリック・ホッファーに従い、自分の置かれた状況を見ていない、気づこうとしないことに由来し、また同じように、ハンナ・アーレントの指摘するように、規則・命令を守ることを至上のこととする判断停止の状態、このふたつの状況から生み出されるのではないだろうか?
















2018年5月29日

愛は翼に乗って [Wind Beneath My Wings] [日本語訳・英詞付き] ベット・ミドラー



1988年公開の映画「フォーエバー・フレンズ」の主題歌。

当時新宿の小さな会社で働いていたわたしが、ある時、同じ会社の女子社員たちと
お昼に行ったとき、この映画を観て、この曲で、ボロボロ泣いたと言ったら、
所謂「映画通」の彼女たちに苦笑されたことを覚えている。彼女たちに悪意がなかったことは、わかっている。

20代後半だった。昔から恋愛ものには全く興味がなく、「友情」をテーマにした映画ばかり見ていた。

未だに好きな映画に『ミナ』というフランス映画がある。
子供のころから親友だった、ミナとエテル。
この映画同様、一時喧嘩別れするが、或る日偶然再会し、今度の日曜に会って食事をしましょうとエテルに言われたミナは、人生が突然光と希望を取り戻したかのように感じた。
そこに、エテルから、キャンセルの電話がかかる。全てが崩壊するのを感じたミナは自らの命を絶つ。

おそらく多くの人はミナの自殺の理由はわからないだろう。
今でもこの映画はわたしのベスト5に入る。



アナタハ ドコヘ イクノカ?


ときどき大木実の詩を思い出す。
タイトルも忘れてしまったし、正確に憶えているわけではないが、何故か印象に残っている。

詩人の家では、家族がみなで夕食の食卓を囲んでいる。
するとまだちいさな娘が、「もうかえろうよ」とぐずりだす。「もうかえろうよ」・・・

父は困惑する

娘よ、ここにはおまえの父がいて、母がいて、温かい夕餉の支度が整っている。
いったいお前はどこへ帰ろうというのか・・・



ずいぶん前、境界性人格障害の当事者の書いた『ここはわたしの居場所ではない』という書名の本があった。その本は読んでいないが、どこへいっても安息を感じることの出来なかったわたしにとって、そのつぶやきは、わたしのものでもあった。

まだ普通に外に出られていた頃、ひとりで、或いは当時いた友人と、鎌倉ー江の島や、横浜を歩いた。太陽が真上にあるころから、夜まで歩いた。

今、日の暮れかかった江の島の入り口に、或いは横浜スタジアムの横に、たったひとり、ぽつねんと立っている自分を想像してみると、あまりに苛烈な惑乱と愁傷の中、その場に固く膝を抱え、慄えながら蹲ってしまうであろう自分を思う・・・

「人が恐怖で死んでしまうくらい弱い生き物だったらよかったのに・・・」と、二階堂奥歯は書いた。
もとより「孤独」と「恐怖」は異なるとはいえ、弱い生命を絶つことくらい、少なくとも狂気に引きこむことくらいはたやすく成し得る。

’quo vadis?’ クオ・ヴァディス=「あなたは何処へ行くのか・・・」

わたしはもう何処にも行きたくはない。

ただ、「帰りたい」のだ・・・



2018年5月28日

産経新聞掲載「モンテーニュとの対話」エリック・ホッファーについてを読んで、感じるままに


数日前、このブログに時々コメントを残してくれるYさんから、四月二十五日付、産経新聞の文化面に、エリック・ホッファーについて書かれた記事があるから、それについて感想を聞かせてくれないか、と言われた。

しかしよくよく考えるとへんなものだ。ふつう「この本を読んでどう思う?」というのが、本来の(?)感想であって、誰かが或る本について感想を語っているのを読んで、それをどう思うか?というのもやはり「感想文」に入るのだろうか?
いやいやYさん、別に嫌々書いているのでも、書くのを渋っているのでもないのです。つまり「何々を読んで」と題された文章を読んで書くこととは、いったいなんだろうと考えてしまうのです。

では能書きはこのくらいにして・・・



簡単にエリック・ホッファーについて紹介しよう。
1902年に生まれ83年に没したアメリカの哲学者・思想家である。といっても、アカデミシャンではなく、港湾労働者(=沖仲仕)として働きながら、自分一人で思索し、本を読んで、今日なお読み継がれるいくつもの著作をものした人である。

なぜYさんが、わざわざわたしにこの記事を薦めたか、それは、これを書いた産経新聞文化部の、桑原聡氏が目を留めた『エリック・ホッファー自伝』の中のエピソードが、わたし好みのものではないかと思ったからではないだろうか?

『自伝』とはいえ、書かれているのは、39歳頃までのことで、沖仲仕として働きながら、貪欲に読みかつ書いていた時期までの27のエピソードで構成されており、桑原氏は特に17番目の「柑橘類研究所」という話に大いなる興味を示す。

以下桑原氏の文を引用する

大学の教科書を読み込んで、化学、物理学、鉱物学、数学、地理学を独学でマスターした彼は、植物学にのめり込んでゆく。30代前半のころだ。ラテン語やギリシャ語が頻出する教科書に手を焼いた彼は、古本屋でドイツ語の植物用語小事典を手に入れる。どんな質問にも答えてくれる小事典を不思議な賢人のように感じ、常に持ち歩くようになっていた。
ある時、貨物列車の屋根の上で、植物学とは関係のない思想の難問について考え続けていた彼は、無意識のうちにナップザックに入れてある小事典を取りだそうとしていた。彼はこう記す。
「どんな問題であれ、つねに答えを知っている人間がそばにいたら、自分自身で深く考えることを止めてしまうだろう。そうすれば、私はもはや本来の思索者ではない」
不愉快な真実に気付いた彼は”賢人”を風の中に放り投げる。
私はこんな夢想をした。
スマホを使って解らない言葉や地名を確認しながら自伝を読んでいた人が、この部分に目を通したその次の瞬間、スマホを風の中に放り投げる。ああ、そんな光景を見てみたい。
昨年の夏、この場で「スマホなんか大嫌い!」と題して書いているので繰り返さないが、食事スマホや排尿スマホが普通の光景となるなど、マナーは悪化する一方だ。
「誰にも迷惑をかけていない。ほっとけよ」などと言うなかれ。少なくとも私の目は汚され、気分は害されている。

そして桑原氏は、自分はスマホこそ持っていないが、ものを書くとき、ついインターネットに頼ってしまう、インターネットがなかった時代に書かれたものに比べて、その後の文章はいかにも軽い、と。



思索者とは、決して何らかの「答え」を捜し求める者ではない。考える人、思惟する者、それが思索者の謂である。大切なのは問い続けることであって、答えらしきものを得て事足れりとすることではない。
人に答えを教えてもらうことは、考えないことに等しい・・・

と、まあ説教めいたことはどうでもいい。

この文中の白眉はなんといっても空にスマホを高々と放り上げる=放棄する場面である。世界中の人たちが、一斉に、スマホを空に放り投げる。踏みつける。火を放つ。ローラーで押し潰す。
嗚呼、そんな風景が見てみたい。その時こそ、人びとは失われていた本来の深い人間性を取り戻すだろう。

何故なら「答えは風の中に」こそあるのだから。



尚この文の後に、ホッファーとモンテーニュとの出会いについて書かれているが、わたしにはさほど興味深いものではなかった。

箴言集『魂の錬金術』から、いくつかのアフォリズムが紹介されている。

「感受性の欠如は、おそらく基本的には自己認識の欠如であろう」
「自己認識の欠如は、しばしば粗暴さと不器用さとなって表れる。それに気づかないとき、人は厚かましく、粗暴に、そして不誠実にさえなれる」
「われわれは自分自身を見通すときにのみ、他人を見通すことができる」

そしてこのコラムは次の一文で閉じられている。

この世界にはびこる悪の大半は、つまるところ、ひとりひとりの人間の自己認識の欠如に由来する。「沖仲仕の哲学者」はもっと読まれるべきだ。

わたしは「スマホ」に関する部分以外、特別耳新しいことが書かれているとは思わない。
かつてホッファーの箴言集を読んだ時に感じた「ツマラナサ」は、畢竟、人は自分自身を認識できるという彼と、「私とはひとりの他者である」(ランボー)というように、自分がナニモノカを知ることは不可能であると感じているわたしとの埋めがたい認識の乖離故だろう。

自己が自己を正しく認識することはできない。何故なら自己(わたし)とは、それ単体で存在するものではなく、諸々の関係の渦中で発現するものだと思っているから。

自己認識が欠けているから感受性が鈍く、粗暴で、不誠実だと言われても、またそれがないから世の中から悪が絶えないのだと言われても、わたしはただ困惑して肩をすくめることしかできない。なぜならわたしは未だに自分がナニモノカがまるでわからないでいるのだから・・・











2018年5月26日

ふと思う


「健康な障害者」という表現は矛盾しているだろうか?
「健康」とはいったい何だろう?『ジョニーは戦場へ行った』のジョニーは、戦争で、手脚と、目と、耳と、鼻と口を失い肉の塊となったが、しっかりした意識を持っている。 彼を「不健康」であると言えるか?手脚がないから?顔がないから?

確かに「病んでいる」時は「健康」ではない。しかし「障害」は「病気」だろうか?



「どうせわたしはダメな精神障害者ですから」ということは許されるだろうか?
わたしは精神障害についてダメと言っているのではなく、わたし個人の属性について述べているに過ぎない。
精神障害者であるわたしが「どうせ精神障害者ですから」と放言する時、それは差別に当たるだろうか?



ひさしく人間と言葉を交わしていないと、自分が「ニンゲン」であるという意識も次第に薄れていく。 引きこもりの人たちはどのように自らの(「人間としての」に限定せず)アイデンティティを保持しているのだろう? わたし自身は既に半分以上「ニンゲン」としての自覚を失っている。



わたしが「町に行くにはどうしたらいいですか?」と尋ねた時に、ここから町へ行く道筋を説明する以上のことは誰も教えてはくれない。
わたしはそれでもなお訊き続ける
「町に出るにはどうしたらいいですか?」






2018年5月25日

今日の天野はん


「古物」

いんきな風が吹き通る裏通りに
小さな古道具屋がある。
所狭しとガラクタが放り上げてある。
役に立つようなものもあり
立たないようなものもある。
もう少したてば必ず壊れるものなど
いろいろある。
よぼよぼと覚束なく杖にすがりながら
ときどき小さな老人が来る。
この店のおやじと同窓生である。
ガラクタの山の傍に二人
ちんまり坐って世間話をしていると
この店で一番値打ちのある
骨董品に見えてくる。
値札はない。



・・・余計なことだが、人間あまりスマートだったり役に立たない方がいい。
役に立つ人間になりたがったり、役に立つモノを追い求めない方が、きっと人間生き易くなる。



2018年5月24日

蛇蝎の如く、或いは「文化なき文明」


(再び)『ラ・バテエ』から、

今回中井は、当時(1980年)毎日新聞に掲載されていた読者コラムを取り上げる。それは三島由紀夫の死の二年前から三度に亘り作家を訪問した、元自衛隊陸将補、山本某氏の”三島由紀夫”という投稿で、その文中に、次のような一節がある。


「彼は人生を回顧して「鼻をつまんで通り過ぎたにすぎない」と言い置きした。」

この深い嫌悪感 ── 嫌悪というよりあまりに剥き出しな地上のものいっさいへの憎悪と拒否は、美と醜への鋭敏過ぎる嗅覚に依っているが、それよりも生得の生理と気質から堪え切れずに吐き出した罵りの唾であろう。
かつて江戸川乱歩は、もう一度生まれ変わるとしたら何になりたいかと問われて、どんなものだろうと二度と再び地上に生を受けたくないとニベもなく言い放ったが、三島もまた当然、吐き出すように同じ答えをしたことであろう。そしてこの二人が地上の名声とは裏腹に、自分を人外(にんがい)と規定し、無垢な少年の魂を保ち続け、そして同性愛の心情をあえて隠さず、それなればこそ、”身を撚(よ)るやうな悲哀”にしじふ浸されていたからには、この地上が腐鼻にみちた汚穢の海であり、二度とそこで暮らそうなどと考えもしないことは当然であろう。あれほど一面では人生を享楽しているように見せかけながら……。 
(死の方角)

わたしには中井が当然のこととして受け止めている彼らの厭世観が、はたして「本物」であったのか、或いは著名な芸術家にありがちな韜晦であったのかどうかはわからない。
けれどもそれが擬態にせよ本心にせよ、上に書かれているような言葉の数々は、正にわたしの心の在り方「死の方角」に正確に一致する。
いや、これは正にわたしのことだ、と思った。



わたしはテレビを持っていないし、インターネット上で、「動画」を視る趣味も持たないが、たまたまYou Tubeで音楽を聴いていたときにCMが入り、それをスキップしようとして、画面に目がとまった。

それは、今もあるのかどうか知らないが、昔ながらの居酒屋で大学生らしい若い男女たちが酒を飲み、賑やかに談笑しているシーンだった。一人の女性が立ち上がり、「ええと、今日の会計は一人当たり三千幾らになりまーす!」とみなに伝えている。銘々周りの連中とのあいだでゴソゴソし始める。
「オレ、万札しかないんだけど」「悪いけど、貸しといて!」「・・・ええと、じゃあ二百円のお釣りね・・・」はたまたこっそりその場から逃げ出す者あり、「ユキは遅く来たんだから、少なくていいよ・・・」と隣の女性の肩に腕を回し、この機に乗じて更なる接近を図る男、等々あって、ああ、なんのコマーシャルか知らないが、今どきまだこんな風景があるんだなぁと思って視ていた。すると、一人が集めたお金を持って来て、何かのはずみでそれを鍋のなかにざらざらと落としてしまう。飛び散る煮汁。それを避けようと顔を覆い、スロー・モーションで後ずさりする女性、そしてそのまま倒れ込み店の壁を突き破ってしまう。
呆然と見つめる一同と店の主人。

と、そこで画面が替わり、ニュース・スタジオに。女性のアナウンサーが隣の男性に「大変ですよね。飲み会での割り勘・・・」頷く男性キャスター、カメラに向かって「こんな時、使える言葉を教えます。”LINE Payで割り勘ね!”」
画面は再び居酒屋に戻り、幹事の女性はみなに一言。「LINE PAYで割り勘ね!」
というとその場にいた全員が一斉に「オー!」とスマホを高々と掲げる・・・
ナレーション ー「お金も送金できるLINE Payなら、割り勘機能で素早く割り勘ができます。LINE Pay で簡単割り勘!」



スマートフォン、iPad が席巻する世界は、「鼻をつまんで駆け抜ける」以外にはないではないか。

先日引用した言葉をここでもう一度

かつてオズワルド・シュペングラーがいっていた、「文明の冬」において流行するのは、「新技術への異常な熱狂」と「新興宗教の異常な高まり」である。今の自由民主主義は「新技術を新興宗教とする」ことによって成り立っている。それ自体が、サトゥルティ(繊細)の精神を要する活力・公正・節度・良識という平衡感覚に対するテロリズムである。
ー 西部邁 『ファシスタたらんとした者』(2017年)

クラーク博士と親交のあった祖父を持つ中井は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」に代わる「呪文」として Aberration =「常軌を逸すること」「倒錯」「脱線」を選び、
「ボーイズ・ビー・アバレイシャス」と説く。

プラスティック製の携帯端末が世を覆う酸鼻を極める現代社会で、脱線して「人外」となって生きることは誰にとっても困難だ。
「・・・誰にとっても?フン。馬鹿を言うな。携帯端末を蛇蝎の如く嫌う痴れ者など、お前以外にいないということがまだわからんのか?」どこかでそんなかすかな声がする。

アバレイシャス=逸脱、脱線の方角は最早「この世界からの遁走」以外にはないのかもしれない。










2018年5月23日

建礼門院右京大夫集 詞書(書き出し)


家の集などといひて、うたよむ人こそかきどどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず。
ただ、あはれにも、かなしくも、なにとなくわすれがたくおぼゆることどもの、あるおりおり、ふと心におぼえしをおもひでるるままに、我が目ひとつにみんとてかきおくなり


「これは歌人の私歌集というようなものではなく、時々にこころにとまった印象を、ただ自分のために書きおいたものです」




変わらないもの


1981年に出版された中井英夫の『ラ・バテエ』は、1979年12月から1981年3月までに書かれた計60篇のエッセイが収められている。3カ月に10篇づつで6章ある。ほぼ週に一本のペースという感じだろうか。おそらく同じ雑誌か新聞に連載されていたものだろう。(本には初出掲載紙が記されていない)

内容は文学的随筆というよりも、時々のスポーツ、芸能界の話題、有名人の訃報、そして時事問題などに触れていて、当時の時代背景が解って、文芸的なエッセイとは一味違った面白みがある。

中井の日本人論が垣間見られる1980年初頭の一篇から抜粋引用する。

一月半ばに大平首相がオーストラリアを訪問したことから、日本の新聞にも日豪両国の相互理解といった記事が多少は見受けられたが、中に”高まる豪の片思い”という見出しがあって一驚させられた(朝日1月17日付)いかにもこの国は白人となると躍起になって日本をどう思うかと聞きたがる妙な習性があるので、オーストラリアが日本紹介に力を入れ、日本語の勉強も年々盛んになっていると知ると悪い気はせず、経済大国の自信からつい”片思い”などという言葉も出るのだろうが、こうした卑屈さの裏返しの思い上がりを朝日までが平然と載せるとは情けない。私が出かけた1970年はGNPとか繁栄とかがまだ本気で信じられていたから、顔を合わせる商社マンは例外なく胸を張って日本の優位性を誇っていたが、こんな見出しが今もって通用するようでは、この十年の世界情勢も日本にはあまり教訓にならなかったらしい。
(「故郷の香り」)

日本という国は何故か変わらない。建物は壊しては建てまた壊しては建てして、外見は常に目まぐるしく変化するが、肝心の国民性というものはどうしても改まらないものらしい。

朝日新聞といえば、先日購読勧誘の電話があり、一週間の無料購読サービスがあるので、今読んでいる新聞と比較し検討してもらえないかという。
母は、暗黙の裡に「契約」を前提とした無料購読は、断るのが面倒だからと辞退したが、「ウチはオリンピックや高校野球の記事がとりわけ充実しています!」 とか。
当たり前だ!日本のメディアで東京オリンピックの記事が充実していなければ誰が読んだり視たりするものか!

わたしは母に「東京オリンピックには反対ですから」と言わなかったの?」と訊いてしまった。
この売り文句が利いて購読者数が伸びるとすれば、やはり日本は、ニッポンは変わらない、変わりゃしない。






2018年5月22日

孤独 コドク こどく・・・


Loneliness, 1852, Daniel Herman Anton Melbye. Danish (1818 - 1875)
「孤独な海」


アーフェ・ヘイニス(アルト)
J.S.バッハ「ビスト・ドゥ・バイ・ミール(Bist du bei mir)」 ー 「あなたがそばにいてくれたなら (If you are with me) 」(BWV 508)


< 夢を見た >



自己紹介代わり、一問一答



「年齢は?」 54歳

「職業は?」 23歳の時に大学を卒業して、その時に入った出版社を一カ月で馘になり、その後35歳まで、様々なアルバイト、パートをしてきたが、どれも長続きせず、35歳で社会から完全にリタイア

「それは何故?」 わたしに勤まる仕事がないことを、自分も、複数の精神科医も認めざるを得なかったから

「結婚は?」 結婚どころかガールフレンド一人いない。恋愛経験もない

「結婚願望は?」 全くない

「理由は?」 他人と同居することが困難。わたしという人間を理解し、受け容れられる人間がいるとは思えない。特に女性は

「今困っていることは?」 外に出られないこと

「何故出られないのか?」 ひとりで外に出てもつまらない。
外に出ればタバコの臭い、車のアイドリングに悩まされ、駅のホームには真夏でも真昼間から無駄な電気が灯っている。
電車を待ちながら、そして車内でスマートフォンに憑りつかれている人たちの不気味さ、電車やバスで執拗に流される注意喚起のアナウンスなど、不快な刺激に満ちているから

「趣味は?」 特になし

「苦手な人間は?」 自信家、陽気で屈託のない人、偏差値の高いバカ、音や臭いに対する感性の鈍い鈍感なバカ、とても知的な人

「特に劣等感をもっていることは?」 知性、肉体、文章

「何か望むことはあるか?」 心を許せる友達が欲しい

「健康になりたいか?」 「健康」とは一体何かわからない。
たとえば、奈落の底のような、音も光も一切無い無明無音の世界で、「健康である」ということはどういうことか?
言葉を換えれば、仮にわたしが紫外線のような存在で、確かに存在しているが、だれもわたしに触れることも、姿を見ることも、声や、わたしが立てる音を聴くこともできず、わたしの存在を知り得ない世界に生きていて、そのような世界で健康であるということは何を意味するのか?

「外に出られるようになりたいか?」 わからない。
今の世の中は最早わたしの住む世界ではないように思う。街に出ても公衆電話を探すのに一苦労する。昔は街中に、またどの店にも時計があったと思うが、今は自分で腕時計を持っていなければ時間も解らないような不便な世の中になった。

「政治が変われば生き易くなると思うか?」 全く思わない

「今の年齢で30年前にもどるのと、今現在で30歳若くなるのと、どちらを選ぶか?」
 いうまでもなく前者

「殺したいくらい憎んでいるものはいるか?」 いる。

「殺人は悪か?」 場合に因る。良い殺人もある。

「自殺は悪か?」 とんでもない

「盗みは悪か?」 持たざる者、餓えた者が、 富める者から盗むことは認められなければならない

「一番嫌いなことは?」 無視されること、軽んじられること

「具体的には?」 こちらが声をかけているのに無視されること、質問に答えてもらえないこと

「自分を一言で表すと?」 狂人

「精神科医はあなたの病気を何だと言っているのか?」 不明。
そもそも精神的な「病気」と呼ばれるものではないのかもしれない。

「あなたの人格形成上最も影響を受けた人物は?」 母。
そして40代の時に初めてわたしの親友(Soul mate)になってくれた二十歳年上の女性。
そして反面教師、というか自分にどうしても自信が持てない理由のひとつになっているだろう、若い頃から母が嫌い続けた父
この三者から受けた影響は、どんな本も映画も比較にならない。

「最後になにか一言」 母の話を聞いたり、見知らぬ人のブログを読んだり視たりしていると、まだ世の中には人間らしい人間が存在がしているような不思議な気になるし、まだ昔ながらの自然が、緑の木々が残っている場所があるような「錯覚」を覚える。
仮にまだ人間らしい人間が存在し、(わたしはもう何年も見たことがないが)、心洗われるような自然が残っているとしたら、わたしは、では、いったい今何処にいるのかがわからない。
つまり、わたしがまだ子供だった頃、まだ若かったころに「ニンゲン」と呼ばれていた生物が老若男女を問わず未だ存在しているのか?それが是非知りたいが、その方法が見つからない

「あなたの母は?」 おそらく(わたしの知っている限り)最後の人間。
そしてわたしも

「では街に歩いているのは何?」 ワカラナイ













2018年5月21日

名刺代わりの本10選

「黒旗水滸伝・大正地獄編」竹中労(原作・絵コンテ)かわぐちかいじ(画) 
「光る風」山上たつひこ
「はだしのゲン」他、中沢啓治作品
「真夜中の戦士」永井豪
「アドルフに告ぐ」手塚治虫
「テロルの系譜」かわぐちかいじ
「回転」山上たつひこ
「侏儒の言葉」芥川龍之介
「一千一秒物語」稲垣足穂
 辺見 庸作品 (詩集除く)

& 尾崎放哉句集







新しい下駄、新しい靴


もう五年も前のことになるが、弟の入営を郷里まで見送りその帰りに日和下駄を一足買って戻った。軽い桐の台の、赤い緒の、値段も廉いものであったが、どこか、がっちりとした恰好が好もしく、気軽に足を載せてみたくなるような品であった。病床の妻はそれがよほど気に入ったらしく、気分のいい時など畳の上で履いてみたりしたが、早くその歯をぢかに黒土に触れる日を待ち望むやうに、そっと履物を労わって仕舞込んで置くのであった。
けれども下駄の履ける日はなかなかやつて来なかった。重態になってからも、妻はよくその下駄を枕頭に持って来て見せてくれと云った。緒の色も今は少し派手であった。が、矢張その下駄をきりつと履きしめて歩ける日を夢見てゐたやうだ。
天気のいい日など、私は今もあの下駄を履いて身軽に歩き廻る姿を思ひ浮かべ、その足音を耳の底に聴きとらうとするのである。
ー 原 民喜「忘れがたみ」より「日和下駄」(1946年)




昨年春、数年ぶりに都心で人と会うというので、わたしは新しい靴を買った。
地元のスーパーの靴屋の安いものだが、薄いブルーの細かい格子模様が気に入っていた。
その人とは三月と四月に一度づつ会い、その後もまたどこか歩きましょうと話ていたのだが、五月ごろからまたわたしの体調が優れずに、夏には、秋には・・・などと言っているうちに年を越してしまった。

その後靴は医者に行く時に履かれるだけになっている。
靴を買ったのと同じ時期に腕時計を買ったのだが、結局それもその時に嵌められたきり抽出しのなかに眠っている。

空色の靴を履き、大きな文字盤の腕時計をはめて、身嗜みを整え、医者以外の人と会うため、病院以外の場所に行くために外に出る機会は、もうないのだろうと思っている。

そうそう。ことしの春、同じ靴屋で、もう一足靴を買ったのだっけ。どこに行く予定も、会う人もいないのに、何故かその靴が欲しくなって・・・
月に一度かニ度、医者に行くだけなのだから、新しい靴など買う必要はなかったのに。
今もその靴は一度も履かれることなく靴箱のなかに仕舞われている。







2018年5月20日

無題

「夜」 / Nat, 1892, Christian Skredsvig. Norwegian (1854 - 1924)




今この瞬間
わたしはこの世界中の誰とも、何ともつながってはいない
生きる意味ではなく、「生きている」という状態とはどういうものかを先ず問わなければ。


今夜も暴れてしまった・・・

生きられない・・・







2018年5月19日

ナメクジの痴れ言・・・


最近、つまりブログを移転したころから、死を考えない日はない。
死に方というよりも、ここから誰にも気づかれず、着の身着のままでふらりと出ていって帰らない。
そんなことを頻りに考える。

孤独を感じている。
同じようにわたしの「世話」を焼いてくれる家族への申し訳なさを・・・
「わたしさえいなければ」そんな思いが何遍となくこころのなかで繰り返される。
いや実際にはもっと激しい、「役立たずめ、死んでしまえ!」というような罵りのような気もする。

「何者かの不幸の上に成り立つ幸せは・・・」クローチェはその後どう続けたのだったか?
何者かの犠牲の上に立った幸福などあるはずがないのだ。

わたしは「楽」であっても決して快適ではない。どころか常に自責の念に苛まれている。
では「楽」を捨てよ。
「楽」を捨てよ。

「楽」を捨てんとは思えども・・・



「ラク」

ずいぶんと長い間
苦労苦労できたけれど
この年寄りになって
なんの望みも捨てた今
やっと
ラクな気分になったようだ

残った苦といえば
さあ
死ぬときの
苦くらいか…

その苦のことを思うと
今のラクも
そんなに
ラクでもない気がしてくる…。

ー 天野忠





「問い」

サクラメント市の
インデアンアベニュの
A・ジャドソン氏の
地階にある物置き場の
水道の蛇口の
ま下で
一日中
とつおいつ
なめくじが考え事をしていた

どうして
わしは
生れてきたか?

ー 天野忠



ナンシー・グリフィス


わたしの最も好きなミュージシャンのひとりです。

『スピード・オブ・ザ・サウンド・オブ・ロンリネス』

” Other Voices, Other Rooms ”「遠い声 遠い部屋」(1994年)のアルバムから




2002年テネシーでのライブバージョン

*


「五合庵」


かつてオズワルド・シュペングラーがいっていた、「文明の冬」において流行するのは、「新技術への異常な熱狂」と「新興宗教の異常な高まり」である。今の自由民主主義は「新技術を新興宗教とする」ことによって成り立っている。それ自体が、サトゥルティ(繊細)の精神を要する活力・公正・節度・良識という平衡感覚に対するテロリズムである。
ー 西部邁 『ファシスタたらんとした者』(2017年)




引用が多い小説やエッセイが好きな人と、そうでない人がいる。引用嫌いの言い分は、「自分の言葉で語って欲しい」ということらしいが、では「引用」は自分の言葉ではないのだろうか?

「引用」或いは「人の言葉」と「自分の言葉」については、過去に何度も書いているのでここでは繰り返さないが、わたしは、小説であれエッセイであれ評論であれ、引用が多い方が好きだ。

わたしがブログを始めた2008年前後、ひとつの素晴らしいブログがあった。「五合庵」という、良寛さんの庵の名をタイトルにしたHPで、福井県の男性(おそらく六十代くらい?)が書いていた。
タイトルが示すように、詩、和歌、俳句などが多く紹介されていて、使われている絵も、東山魁夷や小野竹喬、菱田春草などの日本画から、鴨居玲や青木繁などの洋画まで、そのセレクションも素晴らしかった。

そのブログ(当時はホームページと呼んでいたように思う)は既に「文藝」の域に達しているように思っていたが、一年経過してもアクセスはあまり伸びず、その他の、所謂ファッション雑誌のような、グルメ、ファッション、インテリア、旅行などをテーマにしたブログは五合庵の一年分のアクセス数を一日で軽く叩き出していた。
そのせいもあるのだろうか、暫くしてから五合庵は閉鎖されていた。
わたしは慌てて、Q&Aサイトに、「消されたブログの内容を見ることはできないか?」という質問をして、「キャッシュ」というのを使って、五合庵の瓦礫の中からいくつかの絵や引用を拾い集めた。
当時何故ブログの筆者にひとこと、愛読している、素晴らしいブログだと思うと伝えなかったかと悔やまれた。

それから十年、いくつかの興味深いブログに出会ったが、その格調の高さ、気韻・香気、教養の深さ、選択眼・審美眼の高さに於いて、五合庵に匹敵するようなブログにはいまだ出会ってはいない。

確かに「五合庵」は引用が主だった。筆者自身の意見感想を聞く機会はほとんどなかった。けれどもわたしはそれらをセレクトした人のセンスを高く買っていた。いくつものすばらしい和歌や思索の言葉、あまり馴染みのない日本画の美しさなどを教えてもらった。
それらの「引用」がなによりも雄弁に「その人」を語っていた。

今わたしは自分自身でどのようなブログを作ろうとしているのか、正直まるで方向性も一貫性もない。わたしのブログのピークは、書き始めた2008年だと思っている。
今ではとてもあのようには書けない。

これは謙遜でも何でもなく、わたしのブログは「五合庵」には遠く及ばないが、
あれもひとつの憧れのモデルだと思っている。



ー追記ー


「五合庵」とは全くスタイルもテイストも違うが、過去にわたしが愛読し、影響を受けた二つのブログを紹介しておこう。


microjournal イラストレーター 鈴木博美さんのブログ。
(ただし個人的には、素晴らしいのは2003~2010年くらいまで)

八本脚の蝶 国書刊行会編集者 二階堂奥歯さん(1977-2003)
のブログ。(好き嫌いの分れるブログだと思いますがわたしは好みです。)




2018年5月18日

「師」について


中井英夫の『LA BATTEE』(ラ・バテエ)に太宰治と三島由紀夫について書かれた一篇がある。

有名なあのエピソードから書き起こされる

三島由紀夫が太宰治に会いに行き、
「ぼくは太宰さんの文学はきらいなんです」
といった昭和二十二年一月二十六日のことは、三島自身『私の遍歴時代』に記してすでに伝説化しているが、今年(1980年)出た野原一夫氏の『回想太宰治』によれば、人間の記憶がいかにあてにならないかを思い知らさせる見本のようなものらしい。三島説では『斜陽』熱に文学青年どもが浮かされていた二十二年秋となっているが、実は一月で、『斜陽』はまだ構想の段階にすぎないし、太宰の返事も「そんなこと言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」云々ではなく、野原説では、
「きらいなら、来なきゃいいじゃねえか」
吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた。
という、ニベもないものであったらしい。これはやはり野原説を取りたいところだが、喋りくちとしてはいかにも三島説が妥当であり、もしかすると三島はここで、大きらいな太宰の文体模写をやって見せたのかもしれない。
『回想太宰治』は、三十余年の思い出をこめただけあって、実に重厚濃密な描写に満ち、なかんずく死の前年に太宰に向かって、
「先生、養生してください」
というくだりでは思わず泣かされた。これに較べたら私など、いかに軽佻浮薄に太宰や三島に対していたことだろう。

・・・云々とある、

この一篇の結びには、

記憶があてにならないといえば野原氏の本で一番おどろいたのは、氏がついうっかり「太宰さん」と呼んで本人から「太宰さん!?」とけわしい表情でふりむかれたとあるところで、私の記憶では当時集まっていた誰もがなれなれしく「太宰さん」というのを嫌って、私ひとり頑なに「先生」といっていたのだと信じていたからである。

と書かれ、これは次号につづき

これほど太宰に親炙した野原氏が思い違いをする筈もないが、若者からさんづけで呼ばれて腹を立てるというのが、どうしてもイメージにそぐわず、二重に首を傾げざるを得ない。




野原氏がうっかり「太宰さん」とよび、それを聞いた太宰が憮然として「太宰さん!?」と顔を歪める場面を想像して思わず吹き出してしまった。

わたしは若い頃から、何故か「師」「師匠」という言葉が好きではなかった。
「わたしの師匠が」などと言っている人間をどこか胡散臭げな眼で眺めていた。
多くの一般人にとって「師」や「師匠」などと呼べる人物がいるとは思えない。これはやはり「職人」や「芸人」あるいは「アーティスト」「学者・研究者」と呼ばれるような、ごく限られた世界の住人たちの間に存在している特殊な人間関係なのだろう。
そしておそらくその関係は、単に「技術・知識」を伝授するにとどまるものではないはずだ。だとするとますます「師ー弟」の間柄とは如何なるものか想像がつかない。

仮にその人から教わるものが、「生き方」とか「人の道」などといった人生訓めいたものだとしたら、なおさらそういう関係はわたしには縁遠くなる。

いずれ人生論好きの作家の言葉だろうが、「我れ以外みな我が師」という言葉がある。
たしかにこれは真実だと思う。人生は誰か特定の「師」なる人物に教えてもらうものではなく、「世間」という、好悪愛憎とり交ぜた様々な人間関係の坩堝の中で体得してゆくものではないのか。

「わたし」と「彼・彼女」は異質の存在であり、わたしはあなたでなく、あなたはわたしではないという当たり前の前提を踏まえれば、人生いかに生きるかなど、人に教えられたり教えたり出来るはずもなく、親しくしている年下のものに「先生」と呼ばれて当然という発想は、どうしても理解できない。

わたしは「師」を求めない。不様に、不器用に、こけつまろびつしながらも、わたしとしての「失敗者の」人生を生きてゆく。
「性格とは運命である」という言葉を奉じてはいるが、別にノヴァリスやその他誰彼の本が「師」であるとも、思わない。
ドストエフスキーであろうが、ニーチェであろうが、芥川であろうが、辺見庸であろうが、わたしは彼らのことを、彼らがどういう人間であるのかを、まったく知らない。知りもしない者を尊敬したり、信奉したり、まして愛することができるはずがない。
わたしは偶然めぐり逢った本に書かれている言葉を、その時々の糧とし、慰めとし、思索の素とし、装飾とするに過ぎない。

いかにもわたしは中井英夫にいわせれば「軽佻浮薄」に作家や芸術家に接しているに違いない。涙を誘う麗しき師弟関係などはわたしの柄ではない。

わたしの不備欠陥狂気を知り抜き、その上でなおわたしを愛してくれ、わたしも又、彼らを知り、そして愛することができる、そんな人たちがいてくれたら、それで充分だ・・・




2018年5月17日

今日の天野はん


毎日新聞をひらくと気が滅入るニュースばかりですね。できればそんなことには眼を背けて生きていたい。けれどもそんなことができるひとは、おそらく、いません。

自分の気持ちを少しでも朗らかにしようと、また天野忠さんの詩を書きます。
わたしはテレビも視ないしラジオも聴かないので、最近の「笑い」を知りませんが、
天野さんの詩を読んでいると自然にほほえみが浮かんできます。





「伴侶」

いい気分で
いつもより一寸長湯をしていたら
ばあさんが覗きに来た。
── 何んや?
──・・・ いいえ、何んにも
まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい…。

フッと思い出した。
ニ三日前の新聞に一人暮らしの老人が
風呂場で死んでいるのが
五日後に発見されたという記事。

ふん
あれか。



もひとつおまけ



「文字」

文字は大事にせねばならない
文字こそ私たちの命をあらわすものだから。
書かれた文字の上をまたいではならない。
たとえ印刷された文字の上でも
踏んづけて通ることは乱暴至極である。
むかしの人は
びっくりする程文字を大事にした。
泉鏡花という明治の文豪は
指で空中に書いた文字でさえ
きれいに消す真似をして清めた。
十分に消したかどうか
もう一度空中をたしかめたという。

お判りか。






2018年5月15日

どちらが怖いか?(相対的な狂気)


五月の美しい夕暮、のんびり散歩をしていると、突然に逮捕されて牢屋に入れられてしまうという短篇がブラッドベリにあるけれども、散歩そのものを罪とする風潮は、現代の日本でもそろそろ兆しかけている。細い路地に目立つ” ち漢に注い ” とか ” 怪しい人をみたらすぐ一一〇番 ”などという貼り紙がそれで、その心の狭さ・村人意識には呆れ返るしかない。もともと東京は都市などではなく、大きな村落に過ぎなかったけれども、こんな” 他人を見たら泥棒と思え ”式の、みみっちい貼り紙を許すことだけはなかった。
 (略)
” 怪しい人 ”という発想もまた、少年探偵団の好奇心とは無縁な、ふだん見かけないよそ者の意味だろうが、見知らぬ他人こそ旅びとであり、未知の海への案内者かもしれないのだ。どこの社会に行きずりの旅人を警察へ売るしきたりがあるだろう。ましてそれを得々と奨励する社会に到っては!
こういうせせこましい地域内の同族意識をかき立てるために、戦争中の隣組制度があった。顔見知り・わけ知りの既知の人しかいない社会の息苦しさはもうあの体験だけで充分だろうに、無限の可能性を秘めた赤の他人を閉め出す閉鎖部落はそこここに殖え、風薫る五月の散歩もどこかうしろめたい、犯罪者の意識なしには出来なくなる日も近いらしい。
ー 中井英夫『LA BATTEE』(ラ・バテエ)より「痴漢」(1980年5月)

以前大田区の馬込に住んでいた時か、それとも10年前に郊外に越してきてから馬込に行ったときであったか、住宅街の壁に『この町は 監視する町 見てる町』というポスターが堂々と張ってあって慄然としたことを覚えている。かと思うと、しばらく歩くと大きな「邸宅」の玄関脇に『おい!そこのお前 見てるぞ!』という貼り紙。
それはなにも馬込に、都心に限ったことではなく、国立に住んでいた頃には、古書店の書架の隙間に、文句は正確に憶えていないが、『誰かがきっとみているきみの罪』という短冊状の貼り紙がしてあった。言うまでもなく万引き防止のためだろうが、万引きは「窃盗罪」ではあっても、はたして「きみの罪」というような類のものだろうか?この場合、店側は「罪」を「クライム(Crime=違法行為)」として書いているのか、或いはもっと根深い、人としての罪「スゥィン(Sin)」だぞと言いたいのか判別しにくい。
その書店の、道を隔てた向かう側に建つ比較的規模の大きな書店にも、御多分に漏れず「その手の」貼り紙があって、そこには『地域ぐるみで万引き撲滅中』と印刷されている。「地域ぐるみ」「撲滅」・・・この言葉の強さ、激しさ、そこに込められた、「万引きであろうと容赦はしないぞ!」という憎悪・・・どこか常軌を逸しているようなうそ寒さを感じさせる。

中井の文章は、約四十年前に書かれたものだが、「よそ者への排他意識」は、強まりこそすれ、「あの当時はなんであんなにピリピリしてたんだろうねえ」などという意識の変化や、異質の他者への寛容性の増大など、影も形も見えはしない。
同じ日本人であると認めながらも、自前の民族性なのか、長い歴史の中で蓄積されてきた習性だか知らぬが、見知らぬ人物イコール危険物という眼で見る人たちである、よその国から来た素性も知れぬ人たちに牙を剝くのは当然の仕儀だろう。(とはいえ「白人」は例外であることは言うまでもない)

数十年前、わたしがまだ学生の頃に書かれた本などを読むにつけ、その時々の「今現在」の「政治・政権」が替わろうと、日本人というもののエッセンスは「とわに」変わることはないのだろうなぁと、五月の日差しを窓の外に感じながら、憂鬱を噛み締めている。


ー追記ー

未知の人への警戒心・恐怖心は人一倍強いくせに、新しもの好きで、人間に楯を突かず従順な「機械」には滅法弱く、新しい機械(機能)が出ると聞くや眼の色を変えるといった人間離れの傾向もますます強まり、今や日本全国どこへいっても「罪人」と「赤の他人」ばかり、といった様相を呈している。










2018年5月14日

また、夏が来ます・・・


夙に季節感というものは失われているが、同時に距離の感覚というものも失われつつあるように感じる。
三十歳前後の数年間、夏休みになると高校時代の友人二人と(時にはわたしともう一人で)国内旅行をしていた。わたしは海外はおろか、本州からすら出たことはないが、或る年三人で仙台旅行にいった。松島や伊達のお城よりも、野蒜海岸という海辺を独りで歩いていたときの思い出が強く残っている。日暮れが近かった。漁船が数艘、砂浜に曳き上げられていた。力強い波の音がしていた。
人が聞けば苦笑されるだろうが、ああ、いま、東北に、宮城まで来てるんだなぁという感慨は深かった。

「遠さ」というものを感じられなくなったのは、乗り物がおしなべて当時より遥かに速くなったことと、いづこもおなじような風景が広がり、「あそこ」も「ここ」も区別が付かないくらいにどの都市も、どの町も似ているので、距離がどんなに縮まろうと「ここ」と大して変わらぬ景色を見るために、わざわざ「あそこ」まで行く必要があるのだろうかという気怠い思いもある。
あの頃は、「あそこ」に行けば「ここ」では見られないものが見られる、ここにないものがあるという期待があった。見知らぬ土地へのあこがれとときめきは、現実の時の長さを忘れさせた。





掘辰雄の妻である堀多恵子が、夫の死後、博多に夫の叔父叔母に会いに行った帰路、大分の由布院に立ち寄った時のことを回想した文章がある。

多恵子は由布院という温泉町を知らなかった。由布嶽の麓にある温泉街らしからぬ静かで落ち着いたところだという印象を持つ。偶然入った店で見つけた観光用の絵葉書には「九州の軽井沢」と書かれていた。

由布川という名の川沿いを、毎日所在なく散歩していた。
鬱蒼とした森があって、そこにさほど大きくない湖が静かに水を湛えている。湖の畔に、小さな茅葺き屋根の家があって、多恵子はいつもその家を散歩の目標にしていた。
湖には、森を背にした茅葺き屋根の家が、逆さまになって映っていた。
或る日散歩の途中にわか雨に遭った多恵子は、そこの老夫婦に迎えられた。


それがその小さい茅葺き屋根の家に入れてもらった最初の日だったような気がします。
湖には小さな丸いたらいのような舟が繋いでありました。おじいさんとおばあさんは、夜になると月の光の中をこのたらいの舟を漕いで、お湯に入りに湖の向こうに行くのだと言っていました。
おじいさんの顔も、おばあさんの顔も、もう思い出せませんが、不思議にその一軒家ははっきりと記憶に残っているのです。あれから由布院にはゆく折りもありませんでしたし、私を呼んで世話をしてくれた信仰の厚い老婦人も今は亡き人となってしまいました。
私が今も心を馳せるあの淋しい森も、あの逆さまに湖水に影を落としていた家も、あのままの筈はありません。おじいさんおばあさんはどうしてしまったでしょう。私はその昔、そこに住む老夫婦の暮らしが羨ましくてたまりませんでした。もう一人ぼっちになってしまっていたのに、自分たち二人がその森の家に住み、月の光がきらきらする湖上をたらいの舟で私が漕いで渡る。そんなことを夢みたものです。
夏が来て、なんとなく自分の身辺が騒々しくなったり、車の騒音が気になってねむれない夜があったりしますと由布院で送った日のことを思いだします。
ー 堀 多恵子『片蔭の道』より「又、夏が来ます…」(1976年)



2018年5月13日

母の日の日曜の夕べの一曲 セヴン・イヤーズ



マーティン・シンプソン(ギター)、ナンシー・カー(フィドル)、アンディ・カッティング(メロディオン&作曲)



◇ Happy Mother's Day and Thank you so much !  ◇


“ It's enough for me to be sure that you and I exist at this moment .” 

― Gabriel García Márquez   One Hundred Years of Solitude 



「あなたとわたしが今、この瞬間に存在しているという確信、それで充分なのです」

ー ガルシア・マルケス 『百年の孤独』


正身のところ・・・


坪内祐三は或る対談で、「完璧な本なんて書けるわけがない、きわめて不完全なものであっても、とにかくひとつの形として出す。そこに読み手が、自分にとって不完全だと思われる部分をどんどん足して行ってくれればいい。そうやって読者が補足・補填していくことで本は成り立っていると思う。読み手がどんどん広げていけば・・・」というようなことを言っていて、まったく共感する。

どれだけ多様な解釈が成り立つか、それがわたしにとっての「いい本」の定義だともいえる。



詩人、天野忠については、山田稔の『八十二歳のガールフレンド』ではじめて知り、同じ著者の『あ・ぷろぽ それはさておき』に引用されていた或る詩を読んで、是非この詩人の他の作品も読んでみたいと思った。

その「或る詩」


「新年の声」

これでまあ七十年生きてきたわけやけど
ほんまに
生きた正身のとこは
十年くらいなもんやろか
いやあ
とてもそんだけはないやろなあ
七年くらいなもんやろか
七年もないやろなあ
五年くらいとちがうか
五年の正身……
ふん
それも心細いなあ
ぎりぎりしぼって
正身のとこ
三年……

底の底の方で
正身が呻いた。

── そんなに削るな。





七十年生きてきて、本当に生きたと言えるのは、十年、いや、七年、五年、三年・・・うーん・・・

わたし自身、これまで54年生きてきたが、少なくとも、ここ6~7年はとても生きているとは言えないと思っている。繰り返しになるけれど、2009年に6年間親友として一緒にいてくれた人に離れられてからは、全くの蛻の殻といっていい。

上に書かれている詩のように、自分の年齢と、正身生きた年を分けて考える人はあまりいないだろう。
五十歳なら五十年間生きてきたというだろうし、七十歳なら七十年生きてきたと主張するだろう。

けれども詩は「理」ではない。「ああ、なんとなくわかるなあ」という人がいればそれでいい。

わたしに関して言えば、存在していることと、生きることとは違うのだ。存在が充たされた状態、それがわたしにとっての「正身」なのだと思っている。そしてわたしは既に自分に与えられた「正身期限」がとうに過ぎていることを、今切実に感じている。







2018年5月12日

或る挿話


文豪が多数眠っているパリのモンパルナス墓地で、日本人の一旅行者が、新しい墓の碑銘を目にした。
「おまえの来るのを待っている」
数年後、たちよったその墓の隣に、さらに新しい墓の碑銘を彼は読んだ。
「ただいま」

わたしはこれを素直に「いい話」として受け取れ切れないところがある。
こんなに絵にかいたような夫婦愛なんてあるんだろうかと、どうしても醒めた気持ちで見てしまう。
名作『モンパルナスの灯』のジェラール・フィリップとアヌーク・エーメ、すなわちモジリアニとジャンヌのような夫婦ならいざ知らず、(ジャンヌはモジリアニの死の2日後に自ら命を絶っている)大抵のオトコは、墓の中で、待てど暮らせど来ぬ人を永遠に待ち続ける運命にあるのではないだろうか?

それともわたしは、自分自身を含めた日本の駄目な男ばかり見過ぎていて、夫婦の間の変わらぬ愛というものが(あたりまえに)存在することを知らないだけなのだろうか?

もっとも、この墓に眠る二人が「夫婦」であるとはどこにも書かれてはいないのだが・・・







2018年5月11日

愛すべき老人たち、 ラブリー・オールドメン


天野忠という詩人を知らなかった。つい先日、山田稔の『八十二歳のガールフレンド』という本を、タイトルに惹かれて読んだのだが、その中にこの詩人のことが書かれていた。『八十二歳のガールフレンド』は、著者自身が書いているように、小説でもあり評論でもあり、またエッセイでもあるような「散文集」で、個人的にはわたし好みの、やわらかでぬくもりのある短編小説のテイストがあって、こんどは同じ著者の「エッセイ集」を読んでみようと、『あ・ぷろぽ それはさておき』という本を借りてきた。そこにもやはり天野忠に関する一篇があり、その中で紹介されていた数編の詩に興味を引かれて彼の詩集を借りてきた。

『あ・ぷろぽ』(=英語で言う 「バイ・ザ・ウェイ」)は、1930年生まれの山田稔が、京大定年退官後(2000年代初頭)に書かれた文章ばかりで、いってみれば「おじいさんのエッセイ」なのだが、説教臭くなく、辛気臭くないところがいい。
男女を問わず、老年作家の説教臭く悟りクサイ文章はどうにも苦手だ。

天野忠は明治42年生まれで、「天野さんほど年齢や老いにこだわり続けている詩人も珍しい」(吉野弘)など、詩集の解説を書いている諸詩人が口をそろえて言うように、「老年」にこだわった詩人らしい。たしかに老人が主人公の作品がおおい。

しかしそれらの作品の多くは、どこかユーモラスで、こういう作品たちをわたしは愛する。





「夜中」

夜中に何べんも目がさめて困る。
一人の老人がこぼす。
それは便利なことだよ。
もうひとりの老人が言う。
だって
自分が
死んでいるかどうか
たしかめるのに
好都合じゃないか・・・
それから二人とも
しわがれた声で
小さく笑う。


こんな詩もある


「パンセ」

パンセ・ニ三九
── 人はあまり若いと
正しい判断ができない。
あまり年をとっても同じである。

偉大なる人、不世出の頭脳、パスカル。
彼は四十歳になるまでに死んだ。
若くもなく
老人でもなく。
ただし、
自分の書いたものに
義理立てしたわけではない。

念のため。


『天野忠詩集』思潮社 現代詩人文庫 85 (1986年)




『あ・ぷろぽ』にも、著者本人を始め、愛すべきおかしな老人たちがいろいろと出てくる。
どこか現在とズレている。特に(「オートなんとか」とか「自動なんとか」といった)機械の変化になかなか対応できない。

頑固でもなく、新しい機械の前でオロオロすることもない。苦もなく「現在」に順応してしまう、若い人たちと同じような老人ばかりになってしまったら、世の中なんて味気なく干からびてしまうことだろう。(若々しく瑞々しい老人なんて気味が悪いばかりだ!)
しかしそういう時代ももう遠くはない。

ところで、そもそもわたしはいつどこで『八十二歳のガールフレンド』を、山田稔を知ったのだったか?「つい先日」のことなのにもう忘れている・・・









2018年5月10日

わたしを表す漢字

或いは、もしわたしをまるで知らない人に、わたしという人間(?)をいくつかの漢字だけで伝えるとしたら。


「異(違)」

「変」

「狂」

「独」

「反」

「離」

「思」

「求」

「哀」

「無」

「憂」

「空(くう)」

「嫌」

「醜」

「滅」

「稚」

「狷」

「不」

「遁」

「懐」

「屈」

「拒」

「難」

「負(ふ)」

「否(ノン)」

「過」


たぶん、もっと・・・






2018年5月9日

人を「助ける」ということ


同じようなことを書いているんだから、わざわざブログを替えなくたってよかったのに。そんな声も聞く。けれども、わたしの中では、以前と今とでは、なにかが大きく変わっているように感じている。



もう20年以上前、NHKで山田太一脚本の『風になれ、鳥になれ』というドラマが放映された。レンタル・ヘリコプター会社の社員たちと、そこを訪れる客たちとの物語で、一話完結の四話シリーズだった。どれも秀作だったが、中でも個人的に忘れられないのは日下武史主演の「山からの帰還」というストーリーだった。

脚の悪い老人(日下武史)が、ヘリコプターで山に登ってみたいという。昔は仲間たちとよく登山を楽しんだが、今は脚の自由も利かず、仲間たちもみないなくなってしまった。もう一度あの山の頂に立ってみたい、という依頼だった。

元航空自衛隊のベテランパイロット渡哲也と、整備士長山田吾一と共に、老人は山へ向かう。
午後の山頂で、老人は切り出す。すまないが貴方たちはいったん帰って、明日の朝、また迎えに来てはくれないだろうか、と。
とんでもないと整備士長は怒る。こんなところに老人一人残して行けますか、凍死しちまう!老人は落ち着いて、構わないじゃないか。わたしはもう一度、山の静かな夜の中で空に輝く満点の星空を見てみたい。朝になり、鳥たちが啼きだし、空の色が次第に変化してゆく様をもう一度この目で見たいのだ・・・仮にわたしが死んだってあんたたちの責任じゃない。なんなら、一筆書いてもいい。

何と言われてもダメなものはダメなんですと、はねつける整備士長。
老人は言う、自分は、喰うのに困っているわけではないが、孤独で、もう一緒に山に登る仲間もいない、何もすることがない。わたしが死んで悲しむ人間はおろか、わたしの死を聞いて心動かされる人間なんて、誰もいないんだ。

日は暮れてゆく、機長の渡哲也は、既に老人の希望を叶えてやってもいいじゃないかという気持ちになっている。老人と話しているうちに、年がそう離れているわけではない整備士長も、次第に老人の虚しさに共感を示すようになってくる。

一方、予定のフライト時間を大幅に超えているのに何の連絡も取れない状態を案じて、若手のパイロットと社長の娘の二人が、彼らの居る山へ向かう。
山頂に降り立った彼らに、スマンスマン、あんまり眺めがいいもんで、ちょっとサボっちまうかってね。と機長が言う、そして老人に向き直り、静かに「どうしますか、彼らに、人生は所詮虚しいと言いますか?」

結局老人はみなと一緒に飛行場に戻るのだが、帰りのヘリコプターの中で遣り切れない老人の嗚咽が響く。それは並行して飛んでる若者たちの機にも無線を通じて聞こえている。
二機のヘリが並んで、夕日の中を、都会へと帰還してゆくシーンで物語は終わる。



要約が下手なのでこんな風にしか説明できないが、ラストの、人目を憚らぬ老人の嗚咽と頬を流れる涙が胸を打つ。

また生きなければならない。なんにもない、だれもいない人生を。今日も明日も明後日も味気なさに堪え続けながら生きなければならない。そんな身も世もない悲しみ、絶望が胸を締め付ける。

自分が生涯愛し続けた山と自然の中で死にたいという老人の願いは叶えられなかった。何故なら彼は脚が悪く、誰か他人の力を借りなければ山に登ることができないからだ。



人を「助ける」「いのちを救う」とはどういうことか?
死を望むものを助けることほど残酷なことがあるだろうか?

人は誰も生まれた瞬間から生存する権利を有しているというのなら、死を選ぶ権利もまた同時に授かっていなければならない。
人は「生存する義務」を科せられてはいないのだから。

かつてジャン=ジャック・ルソーは言った。

「人の自由は欲することを行うことにあるのではない。それは欲しないことを決して行わないことにあるのだ」と。

「生きること」を欲しない自由というものがある。
そして生きることを止めるという自由も。

彼はこうも言っている

「ひとの不治の病を治せるのは緑の野山だけだ。」

自然のみが人を癒せるという。しかしその癒され方は、必ずしも、「生きる」こと、「生の継続」とは限らないのではないだろうか。
「不治の病」とは、ときに人間の「生の在り方」そのもののことでもあるのだから・・・










2018年5月8日

見つけた言葉・・・


そのとき、すでに彼らは、掌をとりまく指のように、静かにぼくのまわりに立ちふさがっていた
 ー サン=テクジュペリ


死をえらぶということも、息のたえるまでのあいだは、生き方のひとつではないか
 ー 松田道雄



『蒼い影』プロコルハルム

ぼくたちの世代にとっては知らぬ者のいない曲だが、今どきはこの歌を知らない人もいるのだろうか?
まさかビートルズの曲を知らない若者も・・・?


2006年デンマークでのライブ・バージョン



2018年5月7日

サン=テクジュペリの「ほほえみ」について

サン=テクジュペリの「ある人質への手紙」のキーワードともいえる「ほほえみ」について、どのようなことが書かれていたのかという質問をもらった。

先日『暮しの手帖』のバックナンバーを読んでいたら、たまたまある人が、この作品にでてくる「微笑み」について語っていた。「微笑み」というような陽性の言葉に、何故反応したのか、よく憶えていない。しかしわたしだって、なにも日暮れや廃墟の画ばかりに心惹かれているわけではなく、「同じように」とは言えないが、大地を照らす日差しの下で、汗を流して働く農夫や、きらきら輝く陽光の中、春の草原で花摘む子供たちの姿に思わず知らず微笑みを漏らしている時もあるのだから、きっとなにか心に触れるものがあったのだろう。
雑誌は図書館に返してしまったので、手元にある「ある人質への手紙」から、引用されていた箇所と「微笑み」にかんする部分を書き写してみる。



あの船頭たちや、きみや、ぼくや、あの給仕女などのほほえみの持つ或る独特の質、幾千万年もまえから刻苦して輝き続け、遂にぼくたちを通して、見事に花開いたほほえみの質にまで到りついたあの太陽の独特の奇跡、それらを救うためなら、ぼくたちは快く戦いに身を投じただろうなどと言ってみても、なんのことやらわかってもらえまい。

本質的なものは、たいていの場合、なんの重さも持たぬものだ。今の場合本質的なものは、見たところ、ひとつのほほえみにすぎない。ほほえみとは、しばしば、本質的なものなのだ。人はほほえみによってつぐなわれる。ほほえみによって報いられる。ほほえみによって生気づけられる。そしてまた、ほほえみの持つ質が、人に命を捨てさせることもできるのだ。また一方、この質は、ぼくたちを、現在の不安から充分に解き放ち、確信と希望とを与えてくれたから、ぼくたちの考えをなんとかもっとよく説明するために、ぼくは今日、もうひとつの別のほほえみの物語をも語りたいと思うのだ。
 
 (中略)

ぼくは、彼らのほほえみに身を投じた、ちょうど、昔、サハラ砂漠で、救援隊の人びとのほほえみに身を投じたように。あのとき、仲間たちは、幾日もの探索ののちぼくたちを 
発見すると、できるだけ近くに着陸し、よく見えるように腕の先に水の袋をふり動かしながら、大股でぼくたちの方へ歩いて来てくれたのだ。ぼくが遭難したときの救援隊員のほほえみ、ぼくが救援隊だったときの遭難者たちのほほえみ、ぼくはそんなものも今思い出すのだ、以前ほんとうに幸福を味わった国のことでも思い出すように。真のよろこびとは、共に生きるよろこびだ。救助は、このよろこびの機縁に他ならなかった。もし水が、なによりもまず、人びとの善意の贈り物でないならば、人を魅する力を持ちはしないのだ。

病人に注がれる心づかいも、追放者にさしのべられる歓迎の手も、また許しでさえも、この祝福を照らし出すほほえみがあってこそはじめて価値がある。ぼくたちは言語を越え、階級を越え、党派を超えて、ほほえみのなかで再び結ばれるのだ。ある人間にはその人間のならわしがあり、ぼくにはぼくのならわしがあるが、ぼくたちはそういう姿のままで、同じ教会の信者なのだ。



雑誌に引用されていたのは、上記の一部分だけだが、わたしは後半の部分により興味を覚えた。

新聞記者時代、あるとき彼は、内戦中のスペインで、アナーキストたちに捕らえられてしまった。スペイン語が通じず、カタルーニャ語が話せないサン=テクジュペリは、不審者として処刑されるかもしれない運命にあった。
静かな地下壕で、彼は民兵のひとりに煙草をもらえないかといってほほえんだ。そのとき、言葉の通じない相手も同じようにほほえんだのだ。「まるで朝日が昇ったようだった」と彼は記している。そしてそのほほえみが交わされたのち、「すべては変わったのだ」と。

人は微笑みながら処刑者たりうる。ほほえみながら鞭打つ者たりえる。
けれども同時に、ほほえみなくして人と人が結びつき、愛情と友愛を交わし、信頼と敬意を表することはできない。

あたたかいスウプも、清潔な寝具も、ほほえみと共に手渡されない限り、与えられた者の尊厳を傷つけず、その心を安らげることはできない。

わたしは常に微笑む者であることはできない。わたしは自らに憎む者、恨む者であることを禁じない。けれどもまた微笑む者であるときの多からんことを願う。

” 彼には彼のならわしがあり、わたしにはわたしのならわしがある。けれどもそのままの姿で、わたしたちは同じ教会の屋根の下に憩う ”

ー追記ー

わたし自身、こころから人の誠意、善意というものを無条件で信じることができない。
だから「ほほえみ」について考えるとき、与えるものの欺瞞や、内と外の二面性ー外面如菩薩内心如夜叉などというイメージの切れ切れが付きまとい、手放しで「ほほえみ」を称賛することができないのだ。



東京入国管理局前での抗議
[ Via ]

2018年5月6日

ムーンライト

River Landscape in Silver Moonlight, 1843, Petrus van Schendel. Dutch (1806 - 1870)  
「銀色の月の光に照らされた川の風景」ペトルス・ヴァン・シェンデル

書くことは自分との対話だが、アートや音楽は語りかけてきてくれる。
わたしは黙って耳を傾ける・・・

2018年5月5日

卒塔婆小町のたとえもあるぞ

プーシキンが南ロシアのキシェニフにいたころ、ある参謀将校とバカラ賭博のことで決闘になった。その場に臨んだプーシキンは、桜ん坊の一杯はいった帽子を手にしていた。そして、相い手が狙いをつけている間、帽子の中から熟した桜ん坊を選りだしてムシャムシャやりながら、パッパッとあたりに種をはき散らしていた。ピストルが鳴った。が、狙いは外れた。
プーシキンは「どうだ、得心がいったか?」といってカラカラと笑った。これが実話である。
しかるに、プーシキンの『その一発』という小説の中では、相い手はピストルを射たない。平然として桜ん坊を頬張りつづける男をみて、まるで命をおしがらないような人間を射ち殺したところで張り合いがないと考え、その一発を射つことを保留し、敵の生涯の最良の年のくるのを待つ。そしてその桜ん坊男が、絶世の美女と結婚して、幸福な蜜月をすごしている瞬間を狙って、突然、その眼の前に現れ、「お見忘れかね?」とかなんとかいいながら、おもむろに保留していたみずからの権利を行使しようとするのだ。敵が内心のロウバイを隠しかねたのも無理はない。ただならぬ雰囲気を察して、ふるえあがっている新婚の女房をみると、ますます、かれは、人生から足を洗うのがイヤになった。
「犬死礼賛」という文章の中で、花田清輝は、この小説の結末を書いてはいない。

さて、ではこの後事態はどのように展開したのか?
わたしも結末を知らない。
仮にわたしがこの決闘相手であったらどうするだろう?
元はといえば、たかが賭博のいざこざ。故郷はなれて幾星霜、草の根分けて瓦を起こして探し求めた仇敵ではないのだから、必ず仕留めなければならないという相手ではない。
いっそ彼の変わり果てた姿を見て、またしても射つ気を失くしてしまうかもしれない。
彼を射ち殺したところで得るものは何もないのだから。
周章狼狽し、醜態をさらすかつての豪胆不敵な桜ん坊男の姿を目にしただけで充分ではないか・・・
と思うような気がする。まぁこのあたりは人それぞれの心の内にひそむ残虐性によるのかもしれないが。

人が幸福の絶頂で死ぬのは果たして本当に不幸なことなのだろうか?
これ以上ないという幸せの頂点に立って、そのまま昇天してしまうことは悲劇だろうか?
奢れるものは久しからずといい、朝に紅顔ありて夕べに白骨となるという。幸せは永遠には続かない。いつ人は変わり果て、誰に狙われずとも自らの心臓に、こめかみに、銃口を押し当てる日が来るかもしれないのだ。

こ れ が ま あ 終 の 棲 家 か 雪 五 尺  
一茶晩年の句に呼応して、矢川澄子はこう詠んでいる
こ れ が ま あ 終 の 女 か お 澄 ち ゃ ん (1971年)

「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」 というシオランの嘆息を、くたばり損ないの自嘲として付け加えておこう。












2018年5月3日

関係性の中で、サン=テクジュペリ「ある人質への手紙」より


Flower Meadow in the North,  1905, Harald Sohlberg. Norwegian (1869 - 1935)  

先日の「アナタハ「ニンゲン」デスカ?」という投稿について、コメントを頂いた。それへの返信を書く前に、わたしの舌足らずの問いかけの意味について、自分自身、もうすこし明確にしたいと思い、以下、アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリの「ある人質への手紙」から、少し長くなるが、抜粋、引用したい。


◇◆◇


港湾の商船にも、例の亡命者たちの姿が見られた。この船もまた、なにか軽い不安の念を辺りにふりまいていた。あの根のない植物たちを、大陸から大陸へと運んでいたのだ。ぼくは思った、「旅人にはなりたいが、亡命者にはなりたくないな。国で、多くのことを習い覚えたけれど、よそへ行けばなんの役にも立たないだろう」と。ところが、こういう亡命者たちは、ポケットから、小さな住所録や、彼らの身分を示す残片をあれこれと引っぱり出した。なおも、何者かであるようにふるまっていたのだ。なにか意味のあるものに、必死になってすがりついていたのだ。彼らはこんなことをいっていた。
「よろしいですか、私はこういう者なんです。こういう町のものです・・・こういう人の友達です・・・あなたはこういう方をご存知ですか?」
そして誰か或る仲間のことや、自分が背負っている責任のことや、失敗のことや、その他自分を何かに結びつけてくれそうなことを、手当たり次第に物語るのだ。だが、祖国を離れ去って来ているのだから、もはやそのような過去は、何ひとつ彼らの助けとはならないだろう。過去は、冷めやらぬ恋の思い出のように、まだ熱く、みずみずしく、なまなましかった。
 (略)
だからぼくは思うのだが、仲間も、責任も、生まれ故郷の町も、自分の家にまつわる数々の思い出も、もはやそれがなんの役にも立たなくなれば、色褪せてしまうのだ。

彼らもそのことははっきりと感じている。リスボンが幸福を装っているように、彼らも、近く帰れると信じているかのようにふるまっていた。放蕩息子の出奔など、なんと甘美なものだろう!彼の出奔は、ただ見かけだけのことにすぎない。背後には、彼の家が残っているからだ。隣の部屋にいて留守だろうが、地球の反対側にいて留守だろうが、そのような相違は重要なことではない。見たところ遠く離れている友人の存在が、現に眼の前にいる場合よりもひしひしと身に迫ることもある。それは祈りによる存在なのだ。ぼくはサハラ砂漠にいたときほど、わが家を愛したことはない。十六世紀ブルターニュの船乗りたちは、ホーン岬を廻ろうとしては、壁のように立ちふさがる逆風に行く手を遮られて年老いていったが、かつてどのようないいなづけも、彼らほどいいなづけの女のそば近くにいたことはないのだ。彼らは出発の時からすでに帰路を辿り始めていた。出航準備に帆を引き揚げるとき、その武骨な手は、帰還への第一歩を準備していた。ブルターニュの港からいいなづけの女の家へ行くための最短の道は、ホーン岬を通っていたのだ。だがぼくには、あの亡命者たちが、ブルターニュに待ついいなづけを奪われた船乗りのように見えた。もはや、彼らを待って窓辺のつつましい燈火の火を点けるいいなづけはいはしないのだ。彼らは放蕩息子でもなかった。立ち戻るべき家のない放蕩息子だった。このとき真の旅が、自分自身から放り出された旅が始まるのだ。

どのようにすれば再び自分を築き上げることができるだろう?どうすれば自分のなかに、重い思い出の「かせ」を再び作り上げることができるだろう?この幽霊船は、冥界のごとく、生まれ出るべき魂たちを乗せていた。この船に乗り組みながらも、真の仕事を持っているためにいかにも品位ある態度を保って、皿を運んだり、銅器の艶出しをしたり靴を磨いたりしている連中、こういう連中だけがじつに現実的だった。指で触ってみたくなるほど現実的だった。亡命者たちが乗組員のなんとはない侮蔑を招いているのは貧しさのせいではなかった。彼らに欠けているのは、金ではなく、中身の詰まった感じなのだ。
もはや彼らは、なにか決まった家や友人や責任を持った人間ではなかった。そのようにふるまってはいたが、もはやそれは現実のことではなかった。誰ひとり彼らを必要とはしなかったし、彼らに助けを請おうともしなかった。真夜中に人を動転させ、起き上がらせ、駅へ駆けつけさせる、あの「スグコイ!キミガヒツヨウダ!」という電報はなんとすばらしいものだろう。助けてくれる友人はすぐに見つかるものだ。だが、友人に、助けてくれと言ってもらえるようになるのは、なかなかのことなのだ。確かに誰ひとりあの亡霊たちを憎む者はいなかった。嫉妬する者もいなかった。うるさくつきまとうものもいなかった。だが、愛こそ重要なものなのに、誰ひとりそういうかけがえのない愛で彼らを愛しはしなかったのだ。
 (略)
それでぼくはこんなことを思った。「大切なのは、生きるよすがとなってきたものが、どこかに残っていることだ。慣習でもいい。家族のあいだの祝いごとでもいい。さまざまな思い出に満ちた家でもいい。大切なのは、再び立ち戻ることを目指して生きるということだ・・・。」

「ある人質への手紙」『サン=テクジュペリ著作集 第5巻』粟津則夫 清水茂訳(1966年)



人は関係性の中でしか「わたし」たりえないとわたしは思っている。

こうして人々は、おのれを引きつけたり突き放したり、働きかけたり抵抗したりする数々の磁力の場によって、緊張し、生気づけられるのを覚えるのだ。今や人びとは、しっかりと支えられ、しっかりと限定されている。基本的な諸方向の中心でしっかりとおのれの座を占めているのだ
ぼくにはあの人びとが、ぼく自身よりももっと堅固で永続きする存在だと感ずる必要があった、進むべき方向を定めるためには彼らが必要だったのだ。立ち戻るべきところを知るために、現実に存在するために、彼らが必要だったのだ。(同上)

「ねえきみ、ぼくには息のつける山頂の空気のように、きみが必要なのだ!」






2018年5月1日

アナタハ「ニンゲン」デスカ?


わたしが前のブログを中断したのは、現在わたしの書く物が、読み手にとってほとんど理解不能の領域に入り込みつつあるという感覚からだった。
そして相変わらずわたしは、自分の納得のいく文が書けていない。
つまり「聴き手」が耳を近づけチューニングを合わせようと努力しても、最早そこから流れてくるメッセージが、音としても、また意味としても明瞭に伝わらない状態になっていることを感じ始めている。

それはなぜか・・・

徒然にツイッターの投稿を覗いてみる。別にツイッターである必要はないのだが。
そこには日本の美しい風景が写された写真が掲載されている。
それらを見ながらわたしは訝る、「ではわたしはどこにいるのか?」と。

わたしはいったいどこに、どのようなかたちで存在しているのだろうか?
わたしにとって、世界はとうに滅びたはずなのに、相変わらずインターネット上では、
まるで世の中は昔からなにひとつ変わらずに、元のままの姿でそこにあるように見える。

「わたしはナニモノか?」という問いには、「あなたは○○である」と応答してくれる他者が必要になる。
そして現在、わたしが「ワタシハナニモノか?」と問う時、そこにはそもそも自分が「人間」(或いは「ヒト」)であるという前提すら欠いている。

誰であれ、人は外部との関係性を失った時に、自分をも失うのではないだろうか?
「わたしは誰々の母である」「わたしは誰々の夫である」「わたしは誰々の娘である」
「わたしは誰々の友人である」「わたしは誰々の上司である」「わたしは誰々の恋人である」「わたしは何処そこの社員である」「わたしは○○病院の患者である」・・・エトセトラ・・・

わたしとて、いくつかの関係、或いは肩書をもっている。けれども、それが果たして、わたしが人間であるという動かしがたい根拠になるのか?

よく憶えていないのだが、昔、永井豪のマンガで、ひとりの若者が、仲間たちにからかわれて、お前は人間ではなくどこか遠くの星から来た異星人だと言われ続け、それを否定し続けた若者は、最後には精神に異常をきたす・・・のではなく、みなの目の前でその姿がまったく異形の生物に変貌してしまうという作品があった。
それを見た時に、わたしは「彼」ははじめから地球人=人間ではなかったのではないかと思った。

「孤独である」という、「友達がいない」と歎く、しかしそれらはいずれも「人間として」という自覚が、暗黙の裡に前提されてはいないだろうか?その「誤った」前提を取り除いてみれば、人間でない者が、人間社会で孤独であることも、人間の友達を持てないことも特に不思議なことではなくなるのではないか。

仮にわたしが「ニンゲン」であるとして、わたしはしかし、どのように世界と接点を持つことができるのか?わたしはどのようにして、この窓の外に広がる「世界」に自分を位置づけたらいいのか?それが解らないうちは、わたしはこの世界に「人間」として存在しているとは言えない。

わたしは日本語を話し、このように日本語で書いている。日本のお金を使って買い物をし、店の日本人と言葉を交わす。たったそれだけのことで、わたしが人間だと特定できるのか?

それ以外のほとんどの部分で、所謂人間と呼ばれている存在と交流することができず、「世界」とも融和できずにいるわたしが、何故人間なのか?

わたしはあなたに問う、

「あなたは人間ですか?もしハイと答えるなら、その根拠はなんですか?」

人間と番っているから?
人間の子供だから?
人間の親だから?
人間の友達を持っているから?

けれどもそれは本当に「あなたが」人間である証明に成り得るのでしょうか?



数日後、わたしはまたそ知らぬ顔をして、あたかも人間が書くような文章を書くかもしれない。そしてもらったコメントに対し、人間であるかのような受け答えをするかもしれない。

けれどもわたしも胸の底流には、今にも氾濫しそうな勢いで、「わたしはいったい何だ?」という問いが渦巻いている。

自分が人間であるという実感がない?何を言っている?狂ったのか?

それもよかろう・・・