続けてもうひとりのブログに投稿したら、こちらも「禁止ワード」の件でダメ。今更ながらこの社会とはつくづく相性が悪いと改めて痛感する。
※ 先程、昨夜「不正な投稿」とはじかれたコメントを投稿したブログに寄ってみた。
なるほどブログの運営側は、一つ一つの「言葉」に機械的に反応しているだけなのだろう。
けれども、言葉というのは「文脈の中」で生きている。「支那」だろうと「土人」だろうと、「人殺し」「自殺幇助」「勃起」…etc それらの言葉単独ではなんの色も持ってはいない。(「勃起」という言葉は、且て楽天ブログで、本文中に使ったところ、不適切であると投稿が叶わなかった事情がある)ー 文脈を無視して言葉のみを検閲するという無意味さ、そのナンセンスに気付かないということに、改めて呆然とする・・・
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昨日二人目に投稿できなかったコメントは1200字近くあったのだが、要点をここに書き写しておく。
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何を以て善とし、悪とするかは、結局個人の主観及びセンスに因るのだが、
例えば、パーティーで、コカインを吸引してハイになるとか、非合法ドラッグを使用するという類のものは、わたしの中では「悪」ー「クライム」にはカウントされない。
一方、目の前で、おばあさんがいっしょう懸命手を振っているのに、高々30秒や1分の間を惜しんでバスを留めない運転手の行為は、「悪」ではないにせよ「非・人間的」な行為といえる。
困っている人に気づきながら黙殺してゆくのも同じことだ。
こういう態度は自ずとハンナ・アーレントのいう「凡庸な悪」の伏流となっている。
規則や決まり事というものに従順なものほど、容易にアイヒマン化しやすい。
先にエリック・ホッファーの「自己認識」について反論めいたことを述べたが、
おそらくホッファーのいう自己認識とは、それほど形而上学的な意味合いのものではないのだろう。
今、自分がどういう状況にあって、その状況下で何をしようとしているのか?
何をしまいとしているのか?
「お年寄りがこのバスに乗りたがって手を振って走ってくるが、時間厳守を曲げるわけにはいかないので、お年寄りは置き去りにしてゆく」・・・という認識。それが「自己認識」なのだろう。
そう考えれば、ホッファーの言う
「自己認識の欠如は、しばしば粗暴さと不器用さとなって表れる。それに気づかないとき、人は厚かましく、粗暴に、そして不誠実にさえなれる」
という言葉も筋が通ってくる。
自己のオリエンテーション(座標軸)を見失った時、人は今自分が何をしようとしているのか?何をしていないのか?すべきこと、すべきではないことに気づかない。その時人は粗野になり、無作法になり、親切ではなくなる。
そして現代人を自己認識から隔てているのが、人びとの意識から時間的・空間的な広がりを奪い、「いま・ここ」に意識を縛り付ける「遮眼帯」であるスマホでありタブレットであり、携帯用パソコンの類であることは言を俟たない。
しかし同時に、冷酷なバスの運転手は「お年寄りを置き去りにしてゆくこと」を充分承知しているのかもしれない。時間厳守が至上命令であるという認識の下に動いているからだ。
人が非・人間的になるのは、エリック・ホッファーに従い、自分の置かれた状況を見ていない、気づこうとしないことに由来し、また同じように、ハンナ・アーレントの指摘するように、規則・命令を守ることを至上のこととする判断停止の状態、このふたつの状況から生み出されるのではないだろうか?
考える、ってことがない。
返信削除というよりも、そもそも、考える、ってことが、
どういうことなのかを知らない。
たぶん、多くのものごとは考えるものではなくて、
どこかに正解があって、
それを憶えるものに違いない、
そう思っている。
>そして現代人を自己認識から隔てているのが、人びとの意識から時間的・空間的な広がりを奪い、「いま・ここ」に意識を縛り付ける「遮眼帯」であるスマホでありタブレットであり、携帯用パソコンの類であることは言を俟たない。
だと思う。
考えなければ、個人はまったく置換えが可能で、
相手が誰であっても同じような話を繰り返し、
必然的に誰もが同じことをする。
知識が増えて、もの知りになっても、
自分の視点を固定させる役にしか立たない。
おそらく、一生に一度も考えない人がいる。
スマホもノートパソコンも持ち歩く僕がこんなことを言うのも、
どうかと思うけれど♪w
こんばんは、青梗菜さん。
削除青梗菜さんは、自らの言葉で語ること、自ら考えること、そしてそれは当然、自分の外側にある、なんらかの「解答」というものと同じではない。
そういうテーマでよく語られていますね。
わたしもそう思います。
だからわたしは「解答」や「正解」というものには興味はなく、「問い」そのものを重んじています。答えを得るための(手段としての)問いではなく、問いかけること自体が目的である問い・・・「何故?」と、問い続けることがつまり「わたし」です。
考えることイコール答えを得ることではあるかもしれないけれど、その答えは唯一無二の絶対的なものではなく、それぞれが自分の答えを持てばいい。
そしてその答えだって不変のものではなく、あくまで暫定的な「通過地点」に過ぎないかもしれない。
そのように考えると、「考える」ということは、ある特定の答えを得ることとはまるで無関係だということになりますね。
「正解」は誰に訊いても同じだから面白くない。
わたしは、おもしろい、独自の意見を聞きたい^^
それが世間一般に対して正しいかどうかなんか問題じゃない。おもしろさ、興味深さ、独自性こそが重要だ。
これを読んで、やっと自己認識とやらを何とか掴めたように思います。
返信削除要するに自分を客観視できるかどうか、と云うことですね?
わたしはそんな風に感じました。
削除その「場」の関係性の中での自分の在り方の認識。例えばバスの中であるとか、会社の中であるとか。乗客の一人である自分、上司である自分、そういう自分を認識したうえで、どのように振る舞うか?それがその人のセンシビリティ(考えること)でありセンシティビティ(繊細さ)ではないかと思います。
>自らの言葉で語ること、自ら考えること、そしてそれは当然、自分の外側にある、なんらかの「解答」というものと同じではない。
返信削除そして、僕は、自分の外側にある、なんらかの「解答」も知っています。
そこは強調したいっ。
僕は、極めて常識人なんだっ!
その世の中的に正しい「解答」については、
僕が書かなくても、みんなが書けばいいし、みんなが書いてるしw。
もうすでに、僕の中に2人の自分が棲んでいます。
常識的な自分と、非常識と世の中から思われそうな自分。
だから、自ら考えることが始まります。
自分の中に、独りの自分しかいなければ、考えたりしません。
ただの常識人か、あるいは、ただの非常識な人です。
ですが、常識的な「解答」については、僕には書く動機がありません。
だから、僕は、ただの非常識な人に思われても仕方がない♪
でも、もう一度言う。
僕は、極めて常識人なんだぞっ!
こんばんは、青梗菜さん。
削除ええ、それはいわれなくても最初からわかってます。
そこがわたしとの大きな、そして決定的な違いです。
わたしは外側にある普遍的なる「解答」を知らないし、それを知ろうと努力をしたこともない。
青梗菜さんの言葉を借りれば、わたしの中にはただひとりの無智なわたししかいません。
つまり「ただの非常識な人」です。これが皮肉でも反語でもないことは青梗菜も、またこのブログの読者もみな知っていることです。
このコメントを読んでいる人、或いは青梗菜さんのブログを読まれている人で、青梗菜さんをわたしと同じような非常識な人間であると考えている人はただの一人もいないと思います。
わたしが青梗菜さんのブログにあまりコメントしない(できない)のは、やはり自分とは本質的に異質の人、言い換えれば「真っ当な人」だという意識が強いからだと思っています。
よい日曜日を。
うん。
返信削除僕は、もの持ちだって言われたことがあるよ。
嫁がいて、子供が二人。
仕事があって、人に囲まれていて、
よく眠れて、食べものはおいしい。
8速の折り畳み自転車を日に2時間こいでいる。
取り立てて利口ではないけれど、馬鹿でもない。
ふつうだね~!
世の中に見事に沿っている。
そんな人は、せめて何も考えずに、
薄っぺらな内面でいてほしいんだって。
こんばんは、青梗菜さん。
削除世俗的に満たされていることと、深く思惟する(している)ことが両立するのか、正直わたしにはわかりません。
あくまで個人的な感想ですが、「考えること(人)」って、詩人であることと同様、ある種、異形であることと同義です。
言い換えれば「考えること」とは、ある種の病い、或いはその人の(業)のようなものだと思っています。
勿論哲学的スタンスも、「人生がマイナスだから(或いは生きることはそもそも苦行だから)哲学する」タイプと、別に自分が、或いは「人間」という存在そのものが苦しいから哲学しているわけではないというタイプに分かれますね。
きっと青梗菜さんは世俗的な充足と考えることが両立している稀有な例なのでしょう。