2018年6月1日

呟き人との対話、または「エアー・リプライ」


わたしはツイッターをやっていないが、時々、政治(リベラル系)や文学系の投稿をのぞく。たまに目を惹く言葉が記されていて、本の余白に書き込みをするように、それらの言葉に勝手に反応している。

彼・彼女たちの短い言葉と、それへのわたしの反応を書き記しておこうと思う。

それはひとつには、彼ら・彼女ら、一般にまっとうな見識と高い知性をもった人たちとの齟齬・乖離を明らかにするためでもある。

簡単に言えば、普通の人達との違いを知りたいのである。





Nさん(弁護士)

日本人ってマナーを守るのは得意だけど、ルールについては守るのも作るのも不得意という印象。ルールを守らない人よりもマナーが悪い人に対する非難の方が激しいこともざらだし。

Takeo:まったく逆の印象です。ルールは「規則」決まり事だから嫌々でも守る。(=お上の決めたことだから。)マナーは人としての良識、センスに基づく不文律。基準が自己の内面にしか存在しない。つまり「お隣」を基準に出来ないので、センスの鈍い人にとってはマナーを守ることは難しい。


Sさん(政治学者)

支配されていること、つまり不自由を自覚するところから自由への希求と知性の発展が始まりますが、そもそも支配されているとの自覚がなければ、何も始まらず、奴隷根性だけがはびこります。

Takeo: 自由ー不自由というのは相対的な概念で、そもそも「自由」を呼吸したことのないものが「不自由さ」を苦痛に感じることはないはず。かつては日本にも真の自由が存在していたという前提が必要では?奴隷として生まれた者は、果たして自由という概念をどのように知るのか?



Nさん(ルベラル派)

自民党「一強」政治は常に低投票率に支えられています。現状の政治に不満を訴えながらも選挙には行かないという「選択」をすることにより、現在の閉塞した社会状況が結果的に継続してしまう恐れが高い現状を私は何よりも恐れているのです。どうか、決して選挙の棄権だけはしないでください。

Takeo:では白票を投じます。汚い話で恐縮ですが「カレー味の雲固」か「雲固味のカレー」か、どちらかを「選ばなければならない」という「義務」をわたしは負わされてはいません。残念ながら我々は日本人です。中国人でも朝鮮人でもありません。分を知ることだと思います。

政治へのコミットメントが「投票」「粛々たる」「暴徒たらざる」デモ(乃至パレード)に限定されるという思考の限界・・・


Bさん(読書と散歩好きのおとうさん)

人間としてあることに疲れたら、一度、とことん動物になればいい。鬱による2年の引きこもり生活の末に僕が選んだのは四国遍路だった。百薬に勝る遍路に出にけり─この句に背中を押され、一人用テントを買い、夜行バスで高松に降り立った。かくして人間であることを捨て、野生動物になる冒険は始まった

Takeo : わたしは「人間でなくなって久しい」ことに疲れました。同行二人の道行きは、弘法大師よりも「友」でありたい。人は人に愛されてはじめて人になるのだと思います。
You're Nobody Till Somebody Loves You ...


Kさん

腹を割って話すことはまずない。そこはたぶん、胸にある思いが時を経て沈殿した昏い沼のようなところだ。意を決して切開したら、タール状の重くどろりとした黒い不穏が流れ出すに違いない。 だから私は心の上澄みだけを掬い上げ、更に濾過して不純物を除いた言葉ばかりを日々話しているのだろう。

Takeo : わたしは長い年月をかけて積み重なったその「澱」こそが「わたし」の核だと感じています。だからわたしは透明澄明にはなれませんし、それを自分とは認められないのです。

「淀みを話さないこと」と「核が存在しなこと」とは同じではありませんね。 おそらくわたしが言いたかったのは、「本来のわたし」として人と接したいがために、透明な自分を見せることはできない(しない)ということだったのかもしれません。


Kさん

幼い頃、ゆっくり坂を上ってゆく老いた人の左側を軽やかな足取りで追い抜くとき、その人の横顔をそっと窺うのをやめられなかった。 優越でも侮蔑でもなく、憐れみでも同情でもない。幼い私には名付けようもない感情がそうさせた。 今ならあれは畏怖であると言える。衰える、ということへの畏れ。

Takeo : わたしは若い女性の顔には関心ありませんが、障害を持った人や老人の横顔を見てしまいます。老いや、障害を負った生に、何か(言葉にすると薄っぺらに聞こえますが)神聖なものを感じるからです。衰えや、傷を負った生の持つ美、でしょうか。


Kさん

四月の庭はひねもす黄色、五月の庭は白ときどき青、六月の庭は白ところにより紫だ。緑は愈々濃く、暗くなる。 名もない人がいないように、名もない花もない。名もない、というのは語り手の緩慢で、言われた花は密かに憤慨しているかもしれない。

Takeo :「雑草という草はない」と言ったのは牧野富太郎ですが、
わたしは「名もない花」「名もない人」という語感とその存在の在り様が好きです。 「名を上げる」「名を求める」「名を成す」「名を欲す」という心情が好きになれないように。 「名前はまだない」がわたしの生涯だったように。


Kさん

"ヨバノビッチ先生は、言った。「外科医にはメスがある。私たち、精神科の医者には『言葉』がある。あたたかい言葉は、傷を癒すのです」。" 山崎佳代子 『そこから青い闇がささやき』抜粋

Takeo:しかしそれが「あたたかい言葉」であるかどうかはどのようにして解るのだろうか?


Mさん(編集者、ライター)

作家を褒めたりする必要はないと思う。作家のものの見方に、賛成か、反対かを言うべきだと思う。作家自身が批評家なんだから。作家が批評される必要なんてない。評論家の多くは、批評する対象を間違えている。批評するべきは作家じゃない。作家とともに、批評するべき対象について考えるべきだと思う。

Takeo : 何を言っているのか理解不能・・・




10 件のコメント:

  1. >Takeo : 何を言っているのか理解不能・・・
    ははは!w

    「作家」に「読者」を代入しても、
    なんとなく意味が伝わるw。

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  2. こんばんは、青梗菜さん。

    う~ん。確かに「作家」より「読者」の方が意味が通じやすいようだけど、やっぱりわからない。

    そもそもツイッターという限られた文字数の中での表現だから文脈が存在しない。それに、「誰が」作家を褒めるのか?「誰」が作家の視点に同意したり反対したりするのかが不明。
    この文章の主語が「評論家」だとしてもやはりわからない。
    プロの文章ほど難しいのか?やはり文章にも相性ってあるなぁ。

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  3. Nさん(弁護士)のツイートはとても判りにくいですね。なんのこっちゃ、といった感じです。だから、何度も読み返してしまいました。
    以心伝心と云いますが、日本人には通用しても西洋人には通用しないようで。

    西洋人の意思の伝達は言葉が全て、と云った感じのようですが日本人は言葉を通さずとも判りあえる、と云う心の特性があります。

    ここで云うマナーとはこの日本人の特性が生み出すルールのことだと思います。

    対してここで云うルールとは、道路交通法のようなルールの事で日本人はよく守るけれど“規則だから仕方なしに守る”と云ったところがあり、それはルールに縛られていると云え、活用しているとは云えない、不器用である、との思いが不得意という表現になったように思います。

    そしてマナー(日本人的ルール)は個人主義的西洋人に対して、他者をより重んじる日本人の心情から作り出されたものだから、それに反することへの非難は厳しくなる、ということを云っているのだと思います。

    ☆うまく言えたかどうか、ちょっと不安ですが。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      日本と西洋では「ルール」(=規則)と「マナー」(=作法・礼節)が逆転しているということですね。

      以心伝心、言葉なしでもわかり合えるという時代ではもうないような気がします。つまり共有する「文化」が無くなっているから。
      「人になにかを為す」それは先に書いた「自己の状況を客観的に見つめる」ことができて初めてなりたつことだと思います。

      今の日本人は、西洋のように「個」が確立しているわけでもなく「共同体としての暗黙の了解事項」(ー困った人に手を差し伸べる、声をかける)も失ってしまって、単に「思考しない存在」として「そこにある」という風に見えます。

      ただそれはわたしの極端な見方かもしれないので、yy8さんへの反論ではありません。

      ルールを守るというよりも、ルールに縛られているというのは正にその通りですね。皆と行動を共にしていると、臨機応援な対応ができなくなります。だって、それはその人個人の機智であり、直観的な状況判断によるものだから。

      「他者を重んじる」という美徳も今ではどうでしょう。確かに他者=公は、個よりも重んじられるようになっているのかもしれません。

      わたしも上手くいえませんが、久しぶりですねこういう議論。

      よい週末をお過ごしください^^

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  4. ルールにも縛られない 無法地帯から、、こんにちわ 笑

    こちらでは、ボン センソ と呼びますが、ルールであろうが、マナーであろうが、
    今の日本の、(世界中どこも似たり寄ったりではありますが、、)
    とりわけ日本の問題は、このボン センソ 良識ってのが、ことごとく不在ってことではないかと思います
    ボンセンソは、さじ加減という機能もそしてそこはかとない情緒みたいなものも内蔵していますから
    大抵のことは このボンセンソで上手くいくものです

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    1. ボナセーラ、Junkoさん。

      ははは、ルールにも縛られない無法地帯(笑)
      日本では一般には「ボン・サンス」とフランス語を使いますね「良識」というのかな。英語のコモン・センスとはちょっと違うんでしょう。あれは「常識」か。

      もうね、今更って感じですよ。日本での礼節の消滅なんて。
      センソもサンスもセンスもどこへやらって感じです。

      でもそれもまた例によってわたしの極端な感じ方なのかもしれません、と、一応留保をつけておきます。

      明日も無法地帯で元気な日曜日をたのしんでください。(笑)

      PS.

      管理という蓋をしてしまうと、内圧が高まって不穏な空気が充満するんですよ。
      蓋をするのも適当にして、風通し良くしないとね^^




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  5. Ciao Takeoさん
    こっちはボンジョルノ
    どうやら今日もピッカピカのいい天気
    こっちは梅雨がないのが嬉しいです

    さて
    模範的市民 ヅラした 無関心な人々がうろうろしている 味もそっけもないくせに 「イケメン」ぶってる都会より、、人の情とか まさに そのボンセンソで 切り盛りされる無法地帯を私は選びます ふふふ
    つまり 内に隠し持った狡さや非情さ、欲深さを誰も気づかねーだろうと、作り笑いしている政治家や宗教家よりも、そんな彼らに比べたら、よっぽど仁も義もありそうな堅気じゃない人々の方を好むのと同じく。

    日本語好きだけど、ボンセンソ の訳においては全く力不足だなあと思いますね
    良識と言ってしまうと、これまたまた決まりとか、常識とか そういう型にはまったものの、「お行儀のよさ」みたいな臭いがしてきて、
    ちなみに 良識の良って漢字も識という漢字もあんまり好きじゃないので、余計そう感じるのかもしれないけれど

    そうそう息抜き ガス抜き 必要です
    作物や食物も、KIMONE、風が吹かないと病気になります
    ちなみに私は圧力鍋ってのが、嫌いです
    嫌いと言うか 怖い
    都会はなんだか圧力鍋な気がします

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    1. 梅雨がない。日本は梅雨がなくていきなり夏になるともう熱帯地方になりますからね(既に日本の夏は亜熱帯ですが)。

      無法地帯のある種の快適さ、わかりますよ。
      Junkoさんのブログに「気を付けて」のメッセージがいくつか見られますが、わたしは、大都会だから安心なんてことは全くないと思います。いや、確かに物理的、身体的には比較的安心・安全ではあるだろうけど、都会は精神を、魂を蝕みます。ジワジワと・・・そちらの方がずっと恐ろしいと思います。

      まあ昔からどこでも「はぐれ者」というのは、良識を持った人たち(多数派)からは白眼視されるのが常ですが、そういうはぐれ者が好きというJunkoさんを強く支持します(笑)
      無機質な都会より、無法地帯の方がずっと人間らしく生きられるのでは?

      ボン・サンスと「お行儀の良さ」とは違いますね。やはり(いつも言ってるけど)結局は個々人のセンス・感受性の問題じゃないかと思います。

      「良」はね、わたしも苦手です「公序良俗」とかね。

      大都市って本質的に圧力装置なんだろうけど、東京はその度合いが一段と強い気がします。人の多さというのも当然その一因ではあるだろうけど。

      ほんとうの悪人て、見るからに悪党っぽい「なり」はしてませんよ。(笑)


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  6. ああ、今読み返してみたら、、なんとおバカな変換機能
    KIMONE は木もね。です
    念のため、、 笑

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    1. はは、何かと思った、イタリア語かと(笑)

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