もしもわたしがこのブログを書いている理由を訊かれたら、プロフィールにあるように、「孤独な精神障害者であり、引きこもりである自分が、折々に感じ、考えたことの記録」であると答えるだろう。つまり自分のための記録である。
けれども一方で、ブログ仲間がたくさんいて、記事を書けばたくさんのコメントが寄せられるようなブログに、羨望・嫉妬を覚えることもある。
それはブログの書き手が健常者であろうと、「うつ病」や「発達障害」であろうと、「引きこもり」「統合失調症」「社会不安障害」などであろうと、彼や彼女に人を惹きつける魅力があるからに他ならないからだ。
人気のあるブログを羨ましいとは思いながら、どうすれば「人に好かれるブログ」を書けるかと考えたことは一度もない。理由は「誰からも好かれない自分」「愛されざる者としての存在」こそが「わたし」のアイデンティティであると認識しているからだ。
人に好かれ、愛されるわたしは、もはや本来の意味での「わたし」ではない。
上のようにこころの病を持った人たち、「ダメ人間」と自嘲するブラック企業勤務の独身中年たち・・・
わたしはかれらの書く物に魅力を感じているし、彼らのブログは現に大勢に愛されている。
いくら「愛されざる者」の旗を高く掲げて強がってみたところで、結局わたしにはなんにもない。
人生の落伍者であることよりも、人に好かれる何物も持ち得なかったことがかなしい。
今尚世界中の人に愛され続けている映画、1946年のフランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生』のラストシーンで、人助けをした二級天使クラレンスが、無事に家族の元に戻ったジョージの目の前にあるクリスマス・ツリーにカードを送る。
そこにはこう記されている
「ディア、ジョージ、
ぼくからのメッセージだ。
友のいるものは敗残者ではない
翼をありがとう。
愛をこめて、
クラレンス」
若き日、この映画を観て、人生の敗残者である自分を知り、わたしは涙が止まらなかった。
「ディア、タケオ
返信削除わたしからのメッセージだ。
友のいるものは敗残者ではない
翼をありがとう。
愛をこめて、
ジュンコ」
追記。あの、 ところで、、愛され「ざる」者の 「ざる」 って何?
こんばんは、Junkoさん。
削除まだ翼を持たない二級天使たちは、人を救うことで、神様から正式な天使の印としての翼をもらいます。
クラレンスは人生に絶望して自殺を試みたジョージを救うことで本物の天使になることができました。
キャプラは4度のアカデミー賞をもらった監督ですが、孤独な大金持ち-愛される貧者たちというテーマで作品を創りました。
今では貧しいけれども友達がいるというスタイルも崩れつつありますね。
貧しく、そして孤独。
19世紀に生まれたキャプラはこんな時代を想像したでしょうか?
「ざる」は、今家にある広辞苑と国語辞典を見てみましたが載っていませんでした。
「許されざる者」といえば「許されない者」という意味です。
「なになにせざるべからず」は、「せざる」+「べからず」という二重否定なので、「何々すべき」となります。
「愛されざる者」は単純に「愛されない」者という意味です。ただ、許されざる者にしても愛されざる者にしても、単純に愛されない、許されないだけではなく、愛される・許される資格を持たない者、というようなニュアンスを込めて使っています。
「愛されざる者」というのは、わたしの親友だった女性が時々彼女自身をそのように表現していました。幼い頃の虐待の記憶があったからでしょう。
メッセージをどうもありがとう。^^
Takeo さん
返信削除あのね
なぜ 「ざる」 の意味を聴いたかと言うと、「ざる」って 誰かからその許可をもらう、というか、それに値する権利とか条件を有しないといけない。みたいなニュアンスありませんか?
まあ、これもまた許されざる と言う言葉から影響されてるのかもしれないけれど
私は、そうじゃなくて 愛すもの 愛されるもの 許すもの 許されるもの と言いたい。
愛す事 愛される事 そして許す事 許される事に大層な理由はないと思うからです
イタリアでは 化学反応と良く言いますが、その時々でその反応をころころ変える、未知の化学反応ですから、それに方程式ははめられない
Takeoさんのアイデンティティは、「誰からも好かれない自分」だそうですが、Takeoさん 人と付き合わないのに、どうしてそれがわかるのですか?
私はTakeo さん、好きですよ
という事は アイデンティティ ぶっ壊してます? ははは
二級天使たちは人を救う事で、、
私ね、思うんだけど
人を救うとか、誰かのために、って言うのって、やってる 本人自身が気づかないところで、知らないうちになにかの役に立ってることも少なからずあり、行為としては私はそっちの方が行為としては純粋でピュアだなと、そちらを好みます。
昔ね ボーイフレンドと喧嘩して うなだれて bar( お茶屋) に入ったんですよ
カプチーノを頼んで
そうしたら、バリスタが 今では当たり前になったけど、当時ではまだ珍しかった ミルクの泡でお花を描いてくれた
それでね 心がパッと明るくなった
そのバリスタはそんな事知らないと思うんですよ
つまり 私たちは 自覚していなくても誰かを喜ばせてたり、誰かを慰めてたり、つまりなんかの役に立っている
それと同じで 意識していなくても愛されてる場合もあると思うのです
すみません
こちらの生活がもう日本で暮らした時間の長さを越えてしまったので、しばしばこちらのたとえを出す羽目になっていますが、
指を見て月を見ない という言い回しがあります
TakeoさんはTakeoさんと言う指を見て Takeoさんと言う月を見ていないと思います
指の向こうに美しいものがあるんです
そして私はその月の方を見ています
アイデンティティ ぶっ壊してます ははは
Takeoさんを納得させたいのではなく、自分で 、、ざる と言いきることが、なんかしっくり来ないんです
こんばんは、Junkoさん。
削除先程Junkoさんのところに送ったコメントにも、いくつか言葉が重複しているところがあり、心身の状態の悪さが集中力の欠如に繋がっているのだなと、改めて思いました。
人との関係が途絶えたのは、30代。35歳の時に社会からリタイアするまではJunkoさんも知っているように、いろんなところで働きました(もっぱらアルバイト、パートですが)。そして悉く使い物にならなかったこともJunkoさんは知っています。
わたしは誰に後ろ指をさされても、加藤君の当時の気持ちがよくわかるのです。
けれども、職場でわたしに(使い物にならないから・・・とはあからさまには言いませんが))「明日から来なくていいよ」といった人たちには、何の恨みもないのです。それは事実だから。
わたしの20代30代の日記は、ほぼ、「何故好かれないのか?」(特に異性からはなぜこうも毛嫌いされ敬遠されるのか?)そんな悩み(?)で埋め尽くされています(苦笑)
そんな日々が10年15年とつづいて、「愛されざる者」という結論に辿りついたと言ったら、笑われるでしょうか?
わたしは自分を保って行くために、自分という存在を「愛されざる者」=愛される資格なり条件(?)なりを欠いている者と規定するしかないのです。
ひょっとして誰かが・・・という「夢」は15年がリミットでした。
これまでの人生で、女性と二人でお茶を飲んだり、食事をしたりして過ごしたことは、(40歳当時出会い、後に人生唯一の親友となる、20歳年上の女性を除いて、)ほんの数えるほどしかありませんが、それでも、こころから愉しかったと思えることはありませんでした。わたしは劣等感の塊ですから、ひがみ根性もあったでしょうが、相手がわたしといて、今、たのしんでいると感じることがどうしてもできませんでした。
単に不細工で鈍臭く、且仕事も無能な非モテという人は、わたし以外にも、加藤君以外にも幾らもいるでしょうが、わたしや親友の女性がいう「愛されざる者」というものは、もっと宿命的なもの、そのような星の下に生まれてきた者と言ったニュアンスがあります。
「性格とは運命である」という言葉にもその思いは込められています。
ただ、その女性だけは、おそらくわたしをありのままに、愛してくれていたと思います。6年間一緒にいてくれましたが、人を愛するという事を知らないわたしといて、最後には「愛想を尽かせて」というよりも、「疲れてしまって」去って行ったのだと思います。
非はわたしにあります。
そして皆が知っているように、それ以降今の状態が続いています。
孤独なひきこもり、という。(苦笑)
自覚しないで誰かをよろこばせていたり、好感を持たれていることがあるということは否定しません。このわたしでも、加藤君でも、先日の新幹線の彼でも。
しかし(いかにもひねくれものの科白だと取られるかもしれませんが)
人知れず誰かを傷つけていたり、また人知れず誰かに喜ばれていても、なんというか、それはあえていうならわたしの分身がやったことで、わたしにはかかわりのないことではないかと思うのです。
人知れず誰かを傷つけていたことに、十全な責任を負うことができないように、
人知れず誰かをよろこばせていたとしても、それはわたしには伝わらないし、対処の仕様がない・・・
わたしは否定されることに馴染みすぎていて、肯定されることへの受容の仕方を知らないのでしょう・・・
Junkoさんの「意見」を受け容れるかどうかは別にして、ご自分の気持ちをわたしに伝えてくれたこと(いつものことですが)には素直に感謝しています。
そしてこの負のアイデンティティを破壊しようとしてくれたことにも(苦笑)
親切な、そして正直なメッセージをどうもありがとう^^
来てますやん、コメントw。
返信削除あいさつでもなく、
SNSのほめ合い文化でもなく、
エントリの要請を充たすコメントが入ってますやん。
そして、コメントも、その返しも、
一字一句に、ぬくもりを感知できますよ。
こんばんは、青梗菜さん。
削除そうですね。わたしのブログは、誠実な(意見が異なっているとしても)コメントが来るか、そうでなければナシか。
そもそもお世辞や社交辞令的なものを求めていないので、自然とそのような書き方になるのかもしれませんね。
孤独孤独と言ってますが、心のこもっていない狎れ合いが一番嫌いですね。
コメントをありがとうございます。
平和な週末を。