2020年4月30日

「人間は慣れる動物である・・・」


わたしに「精神科」或いは「精神医療」というものが必要だろうか?
なるほどわたしは正真正銘、混じりっ気なしの気狂いである。それに異議を唱えるものはどこにもいないだろう。では混じりっ気なしの完全な狂人/狂気と精神医療との接点はいったいどこにあるのだろう?
精神科医はキチガイを治癒できるのだろうか?そして「キチガイ」の、乃至「狂気」の「治癒」とはどのような状態のことを言うのだろう?

現在の状況・状態がコロナのストレスと全く関係がないとは思わない。けれども、その多くは、毎日繰り返される「フチュウシカラノ オシラセデス シンガタ ウィルス カンセン カクダイ ボウシノ タメ フヨウ フキュウ ノ ガイシュツハ ヒカエマショウ・・・」という放送と、You Tubeで突然地雷を踏んでしまったように流れてくる「若きバカたち」の、同様の内容の「国のコマーシャル」への不快感が耐えがたい。

嘗て、毎日夕方に流されるチャイム(?)メロディー堪え難しと、地元自治体を相手取って精神的苦痛への賠償金を求める訴訟を起こした評論家がいる。名前を呉智英という。

訴訟の経緯も結果も知らないが、そもそも「人間は慣れる動物である」とは、いったい誰が、どのような根拠に基づいていて言っているのか?もしそれが常識なら、事実ならば、呉智英はそんなことすら知らなかったのだろうか。

いづれにしても、ここまで状態が悪化してしまったからには、精神科との接点を無理やり求めるとすれば、薬漬けで、常時ぼんやりした、何も感じない、何も考え(られ)ない状態に向かわせる(押し込める)ことしか考えられない。

最早「精神療法」「カウンセリング」など全く無意味だ。
クスリによって脳の機能をマヒさせる・・・ほぼ仮死状態、乃至痴呆状態にさせる以外に精神科にできることはないだろう。

いまのわたしはいつ人を殺しても不思議ではない状態だ。けれども、入院を勧められるくらいなら、射殺してくれた方がいい。ほんとうに、今何が欲しいと訊かれれば迷うことなく「銃」というだろう。

お前に銃を持たせると人に危害を加えかねないという危惧があるなら、頼むから誰かわたしの脳天を吹き飛ばしてくれ。しかしそれならハリー・キャラハンが持ってるような44マグナムだっけ、首から上が跡形もなく飛び散るくらいの破壊力のあるものでなければ・・・



現実的に、これまでかかっていた精神科には電車に乗らなければ行くことができないという点で、ほぼ不可能だ。かかりつけの内科医は、紹介状があれば、現在の精神科医が出している薬を処方してくれると言っていた。けれどもあそこにはテレビがある。少なくとも、テレビから突然「フヨウフキュウノ ガイシュツハ・・・」などというコマーシャルが流れているうちはあの医院にも行けない・・・

わたしに関して言うなら「障害者は不幸しか生まない」というテーゼは、最早揺るぎなく正しいものとなっている。

おそらく誰もわたしの死を悲しむ者はいない。母でさえも。そのことも今は確信に近くなっている・・・











2020年4月29日

なぜわたしは「正しい」のか・・・


外に出るということが非常なストレスだ。昨日は弟が泊まった。わたしの自転車が壊れていて、内科に行くのに自転車が無ければ(少なくともわたしは)とても行くことができないので、午後4時からの診療に弟の自転車を借りて行った。

以前底彦さんが、眼科だったか、内科だったかに行った時に、待合室がごった返していたわけでも、長く待たされたわけでもないのに、受付や医師とのごく短いやりとりで非常に疲れたと書かれていた。昨日のわたしもそれと同じだが、それにプラスして、医院の待合室の窓が何処も少しも開けられていないことが気になって仕方がなかった。換気扇が回っているとか、空気清浄機が働いているのかはわからないが、この時期、窓の開いていない病院・クリニックは、特に内科は、落ち着かない。
そしてそれ以上に苛立たされたのは、いつもつけっぱなしのテレビだ。
普段は気にも留めないが、医師会武見会長の会見だとか、例によって、若いアホウたちの「不要不急の外出は控えましょう」・・・無論画面など視ないが声は聞こえてくる。今はこの馬鹿さ加減につくづく疲弊させられる。

弟の自転車を借りて行ったわけだが、電車に乗らないからと高をくくっていた。これほどのストレスとは・・・帰って、当然ながら弟がいるということにほとんど耐えがたい気持ちだった。ほんとうに下手をすると弟を刺し殺すことさえやりかねないと痛感した・・・

わたしは人を、ましてや家族を殺すこと等絶対にありませんなどとは「絶対に」言えない。

コロナで死ぬことを極度に怖れているが、それとはまったく別のところで、「自死」のことはいつも考えている。仮にいつの日か、この疫病で死ぬ危険がほぼゼロに等しくなった時にまだ生き延びていたとして、今回の経験で、世界はますますデジタル化が急加速し、それが西部邁が言っていた「新たなる信仰」となるだろう。

ところで、わたしが電話をかける場所といえば、クリニックとか、図書館とか、保健所とかいう場所に限られているが、例えば今の時代、「友達と電話で話す」って、いったいどうやって話すのだろう?わたしは高い料金を払って携帯電話にかけてまで「世間話」をするつもりはない。というよりも、そんな余裕はない。それは駅前のスーパーに夕食の材料を買いに行くのにタクシーを使うのと同じだ。

ほんとうに、携帯電話を持たない者が、きょうび、個人的な電話をするにはどうするのか、誰か教えてくれないか。



大学時代に、古代中国のこんな小話を読んだことがある。
人々が飲み水として使っていた川の水で、みな気が狂ってしまった。王様ひとりだけは城内の井戸から水を飲んでいたが、自分一人だけが狂っていないことが苦しくてならない。いっそ「狂水」を飲んでみなとおなじになって楽になろうかと王様は日々煩悶する。

結末はあったのかなかったのか覚えていないが、印象に残っている話だ。

この場合王様ひとりだけが「正気」で、彼だけが「正常」「まとも」だったのだろうか?
そうではない。王様ひとりだけが狂っていたのだ。だから苦しいのだ。

狂気と正気は、正しいことと間違ったことと同じく、あくまでも相対的なものだ。
わたしがよく引用する「99人の狂人が集まっていて、そこにひとり正気の人間が加われば、「彼」が狂人だ」という、誰の言葉かは忘れたが、これは全く正しい。

王様が自分だけは狂ってはいないといっても、それは通用しないし、わたしもその言葉には同調できない。何故なら「正しさ」とは「多数派」の謂いに他ならないのだから。
相対性を超えた絶対的な正しさというものは存在しない。『肉弾』で、若き主人公が、「にっぽんよい国エライ国、世界でひとつの神の国」と小学生が教科書を暗誦しているのを聞いて「狂ってる」といったが、彼の「正気」なるものは限りなく「無」に等しい。

「自分一人だけが正しい」ということはそもそもあり得ない。「ただしさ」とは大勢と共有されることによってはじめて「正しい」と呼ばれるようになる。「私だけの正しさ」などというものは、存在しない。

わたしの生きることの困難さは、わたしの正気に、そして世間の狂気に起因するのではない。正しさ云々というのなら、寧ろ正しいのは「多数派」である世間の方だ。
唯一客観的な事実いうのは、「わたし」と「世間」乃至「社会」が、丁度王様と、その他のすべての人と同じように、絶対的に「違っている」ということだけだ。

「私が私である」ということは、「私は正しい」ということとはまったく無関係だ。
そもそも人間存在という一回性に対して、「普遍的な正しさ」など求めようがない。

誰も「正しく」は成り得ない。サルトルも、キルケゴールも、ニーチェも、ゲーテも、エマソンも。
ただ、多数派にはなれる。そして正しさとは畢竟多数派に属している、皆と同じように考え、ふるまっていることに他ならない。故にわたしは自信をもってわたしは決して正しくはないといえる。

以前のブログに「わたしは間違ったことしか言っていない」と書いた記憶がある。
「わたしの言ったことで、いちどでも間違いじゃなかったことがあったか!」と。

繰り返すが、わたしの生の苦痛はわたしの正しさ、感覚・感受性の「正常さ」に由来するものではない。それは多数派との「違い」に起因する。

「少数派」(少数であること)は「正しさ」を意味しない。けれども、だからこそ、それを「ただしさ」(と見做されていること)とひとし並みに扱うということが、社会の成熟度の目安になる。


ー追記ー

何かを「醜い」と感じ、これはマズイと思い、うるさいと感じ、クサイと感じ、不快だと感じるのは、なんらわたしの感覚の「正しさ」を根拠としない。証明しない。
そこにあるのはただ、わたしという個人の感受性でしかない。

ある絵を美しいと見做すか、醜いと思うか?「いったいどちらが正しい」なんて議論はそもそも愚かしくナンセンスなのだ。

「みんなちがってみんないい」とかいう絵空事には、オルダス・ハクスリーのことばで答えよう。

「違うということは、必然的に孤立を意味する」『素晴らしき新世界』より


















2020年4月27日

辺見庸ブログより・・・


久し振りに、本当に久しぶりに辺見庸のブログを読む。

その前に、これも久しぶりに昨年2度ほど(?)出入りした「メル友募集」ーこれも(?)サイトにできた「ツイッターのようなもの」も読む。

辺見庸の言葉が、「彼ら/彼女ら」の言葉よりも数段深いのは「あたりまえ」なのだろうか?この「ツイッターのようなもの」に比べて「ツイッター」は遥かに深いのだろうか?
とてもそうは思えない。規模の違いが質の違いに比例する理由はなかろう。

しかし辺見の言葉を読んで、ほんの、ほんの少しだが、気が休まった気がする。





「みんな疲れている。しんそこ疲弊している。けふ、「エッセンシャル・ワーカー」ってどういう意味かおしえてもろた。ふざけやがって。」



「巣箱。けふも空き家。視床痛。助辞も繋辞も面倒くさい。まだまだこれからだよ。まだ先。ひとの目が獣じみるのは。
記憶がある。寂れた夕まぐれ。駅前。失業者たちの目が
赤く、ときに金色に血走る。知っている。見たことがある。

忘れてしまっているのだろう。そのような時代の、かわたれどき。ひとの輪郭が煮こごりみたいに崩れる。瞳がなぜか煮こごりのなかに奥まって、凝りのなかから哀れがましく、恨みがましく光る。燐光の殺意。

60すぎの失業者がスーパーでカップ麺をまんびきして捕まりました。
81だかの無宿者が、野球部員たちに何百メートルも追いかけ回され、激しい投石をうけて死にました。ひとりぐらしの、少しニンチ入ったおばあちゃんが、アパートで飢え死にしてました。

本ブログをご覧になっているがんのひと、パーキンソンのひと、ウツのひと、統合失調といわれているひと、もやもや病のひと、反社性向のひとびと、片マヒのかたがた、神経障害性疼痛のみなさん・・・きましたね、ついにやってきましたね!

きたということをまずかくにんして、それから、予想どおりと思いませんか。ほぼ予感どおり。そして、ほんのちょっとだけ〈ざまあみやがれ〉てな気分も。しかしながら、世界の全的瓦解はまだ始まったばかり。

夕暮れの駅前では、影をなくしたおとこたちが力なく咳をしている。言葉と結果がたがいに反駁しあい、どこまでも空しく毀損しあう夕暮れ。だが、まだだ。〈完了〉にはほど遠い。こんご、おとこたちの頬骨はもっともっと高く、最終的には見ちがえるほど尖るはずだ。

とりあえず、すべてのアウラというアウラは剥がされたのだ。
〈自己責任〉をかたるものを信じてはいけない。ぜったいに。



「つい2、3か月前のことでも、はるか遠い昔のことのように懐かしいのだ。」




「某紙編集委員と話す。これからどうなるのか?順不同で・・・コジキ、強盗、殺人、自殺、監視、告げ口、ホームレス、DV、抑うつ、ドラッグ、各種差別およびヘイト増大、全体主義とそのニューノーマル化、ウイルス再変異、米中戦争の可能性・・・。


「友人の会社でも感染者がでた。あれはものごとをことごとく「無意味」にしてしまう。疫病にしたって味も翳りもありゃしない。あれの報道はおそろしくつまらない。
あれの功績はニンゲン世界の薄っぺらさを証明したことだろう。大したものだ、とも言える。」


「アソーを殴ろう。あのひん曲がった傲慢な口を左ストレートで殴ろう。

BSで「世界の知性」のありがたきお話。マルクス・ガブリエルとか。
つまらなかったぜよ。視点がどうも為政者的なんだよ。

鼻水たらして泣いている失業者の涙の奥から世界を見ていない。


犬がおれに言う。「おっちゃんも10万円もらえるの?コルト・ダブル
イーグル買うと?バンバンいてこますの?」。おれ無言。」


「国家とは、そういうものなのだ。コロナで何十万、何百万人が死のうとも、
軍事訓練だけはおさおさ怠らない。ニンゲンというのはそもそもが毒性ウイルスなのである。」


「「社会の共同性に対する強い違和感・・・」と表4にはある。3.11を経てもそれはある。というか高じている。災禍そのものより、腕を組んで"団結"し声を合わせて歌いたがる質の共同性を怖じ、怪しみ、甚だしくは敵視さえする癖。



「ふとNBCテレビをみたら、いま少なくとも600数十万人が失業中という。画面はシカゴだろうか、食糧配給に列をなしている。コロナ感染者も並んでいるようだ。

大恐慌時代をおもう。あれは1929年から3年くらい続いた。2020年も新大恐慌時代のはじまりだ。これからはもっとひどくなるだろう。コロナとダブルパンチだし。

こんなときにはなにをすべきか。銃を乱射するか、それともチェット・ベイカーを聴くか・・・だな。」



以上辺見庸ブログより個人的な嗜好で抜粋引用した。(下線は引用者ーTakeo)

けれどもわたしは以前のようには彼を好きにはなれないのだ。

猫額洞にしても辺見庸にしても、言っていることは悉くその通りであっても、既に「ニューノーマル」に順応している者とは馴染めなくなっている。

それでも「読む」のか・・・











来週の生存確率・・・


これまではなかったことだが、ここのところこのブログに書いた投稿は、思いつくままを書いて読み返すことも推敲することも無くなった。これまでは書くのに半分、推敲に半分の時間を費やしていたのだが・・・

苛立ちと不安が募る。「死」というものが、観念的なものではなくなっている。一週間後にこの世にはいないかもしれないのだ。その厳然たる事実は、わたしや母だけのものではないはずなのに、なぜか皆左程「一週間後のいのち」についての不安におののいているという風には感じない。何故か?

パソコンで映画を観る習慣はないが、たまたま(勿論海外の人の投稿した)日本映画、岡本喜八監督の『肉弾』をお気に入りに入れていて、音声を主に聞いていた。原爆投下後、敗戦までの数日、特攻(といっても戦車に体当たりだが)に決まった若者の数日を描いた名作だが、「あすのいのちのないものを」という点で、今は驚くほど戦時中に似ている。
猫額洞のいうように、気狂いの指導者を頂いている、という点に於いても。キチガイというよりも、単なるアホウなのだが。

You Tubeで何よりも腹立たしいのは、若い芸能人だかミュージシャンが出てきて、「(感染拡大を防ぐために)外出は控えましょう」と。
そんなことはわかっている。お前らは安倍の、小池の犬か!

今、外に出られないことで、追い詰められ、窮地に陥っている人たちがどれだけいるか、お前らにわかっているのか。同じことを言うにしても、もっと苦渋に満ちた表情で言えないのか。その人たちのことを思えば「外に出ない。そんなの当たり前だよね」といった正義面は反吐が出るぜ!

多くの人たちが、外に出られないことで、疫病に等しい苦悩に呻吟している。
「若いからバカでもいい」とは言わせない!

今回のことで、また久しぶりに海外のブログ漬けになってみると、つくづくこの国の文化の底の浅さがよくわかる。

そして同時に、今改めて「障害者は不幸しか生まない」という命題が、いかんともしがたく正しく思えて仕方がない。

今日のタイトルは「猫額洞」のタイトルを拝借した。

ー追記ー

わたしの投稿を読み、コロナの恐怖であたまがおかしくなったと思う者もいるかもしれない。何故その者たちは「死ぬのが怖くない」のだろうか?つまりは戦時中の日本と同じで、「死ぬのが怖いなどといっている臆病者」ではない、といいたいのだろうか・・・

だとしたらつくづく恐ろしい国だ。

「にっぽんよい国 エライ国。世界でひとつの神の国」-『肉弾』で小学生が読んでいた教科書だ。主人公の若者はそれを聞いて一言。「狂ってる・・・」


[関連投稿]  「憂うべき自殺者の減少








2020年4月25日

4月25日


府中市の全図書館の休館は4月11から5月7日までの予定だった。
今日、次に何を借りようかと図書館のHPを見ると、休館期間延長のお報せが表示され、
休館は6月2日までということになった。

無論何もかもが来月の7日に収まるとは誰も思ってはいないので、8日から数日開けて、また暫く休館という形になるのかと思っていたが、既に今日の時点で6月までとは。

この決定は現在の状況では仕方がないともいえるけれど、本がないと困る人も少なくないのだ。

デジタルコンテンツ云々というが、何のことかわたしにはわからない。
例えば「青空文庫」のようなもののことか?

「電子書籍」なるものは、本の「代用品」に成り得るか? 馬鹿々々しい。
あんなものは本ではない。

そしてまた、今の時点で、「終わった後」のことを考えられる人とはどのような人たちなのだろうか? わたし個人は生き残っていれば、それは奇蹟だと思っている。








2020年4月24日

断章


暫く更新が途絶えていた底彦さんのブログをまとめて読んだ。

今月の11日から図書館が休館になっているが、それ以前から既に2週間ほど借りている本もまったく手を付けていない。中井久夫も、木村敏も。つげ義春、業田良家のまんがは借りては読まずに返しの繰り返しだ。

目の手術から1か月経っていない、ということもあるのかもしれないが本に手が伸びない。『八本脚の蝶』も、しばらく訪れていない。

なんというか、これまでになく生きている実感がない。

繰り返しになるが、仮にこの疫病の流行が収まった後も生き延びていたとしてもわたしにはもう何もないのだ。

Tumblrは、「距離を置く」といった中途半端な態度だったが、やはり現在のダッシュボードで再びあそこに投稿することは今の時点ではもう考えられない。現在のブログが「エロ・グロ」を超え、「エロティック・アート」などという紛らわしいカテゴリーからも外れ、「ポルノブログ」になった時点で、わたしの現在の居場所を友達、そしてフォロワーに報せる最後の投稿も昨日削除した。

「ポルノブログ」というのも、それがあまりにもそのものであってもなくても、当然ながら人は集まってくる。けれどもわたしはポルノならポルノに徹することができない。
それこそピーター・ビアードの「日記」ではないが、ポルノ写真の上下に平気で、ヴィクトリア朝の水彩画を投稿するのだ。このどっちつかずの態度がタンブラーに於いても、結局フォロワーの数が一定数=(2万人)を超えられなかった原因でもあろう。

コロナは災厄ではある。けれども辺見庸が夙に指摘しているように、安倍政権そのものが災厄なのだ。とはいえそれは降ってわいた災難ではなく、日本人が主体的に選択した「厄災」だ。

けれども、けれども、安倍政権が倒れ、コロナが無くなっても、わたしの居場所はどこにもないことに変わりはない。

いまわたしは死んではいないようではあるが、本当に生きているのかすらよくわからない。

そしてわたしが生きているのか?に対する答えを誰も持たないということがわたしの絶望でもあるのだ。




2020年4月23日

本性を現わす・・・


「ブロガー」には、閲覧前に、「このブログにはアダルト・コンテンツが含まれているので閲覧を止める」或いは「了解の上閲覧する」という表示を出す設定がある。

これまでは「エロ・グロ」のブログももちろん、もう一つのブログにもそのような表示を出したことはなかった。けれども、今日思うところあって、双方のブログに「警告」表示を出すことにした。

おそらく5~6年前にタンブラーでフォローしていたフランスの女性と同じ人物だと思うが、当時彼女のブログをフォローしていて、最近になって、往時フォローしたそのブログを見直してみると、彼女のブログには「成人向け」表示が出されている。

以前からドロローサのブログが何故そのような表示を出さないのかと訝っていたが、やはり絵と写真とでは違うと感じた。

そしてわたしは最近になってそのフランスの女性の、もうとうの昔に更新を止めているブログの影響を受け(?)「成人向け」としか言いようのない内容を投稿し始めたからだ。

わたしが惹かれるブログは大抵女性のものだ、ドロローサ、オーファン、そしてタンブラーの時からそのセンスの良さに舌を巻いていたそのフランスの女性。彼女もまたマイスペースでわたしがドロローサやオーファンと「友達」であったように、Tumblrでわたしのブログをフォローしてくれていた。

わたしのTumblrを知っている人は、わたしがあのような「あからさま」なポストをするような人間だとは到底思わないだろうが、そうではないのだ。

もともとがドロローサやオーファンに惹かれる人間である。わたし自身にそのような「あからさま」さが無いはずがない。

加えて、Tumblrで始まった「検閲」への反発反動もある。

いずれにしても、これからは(あたりまえだが)自由にやらせてもらう。
これまでのTumblrやClock without hands をずっと見てきた人たちは離れてゆくだろう。
これがTakeo (poboh)か!?と。

フォローしていたブログを見直すと、驚くほど「アダルト系」のブログが多く、「キレイ系」はほとんどない。

最期もちかいことでもあり、今更本性を隠しても仕方あるまい。

尚「猫額洞」とはさまざまな点で「違い」があるが、彼女の書いた、「私たちが死ぬのが安倍の無能のせいであることが無念だ・・・」という言葉に全面的に同意する。

いずれアジア各国からも憐れまれ、ちゃんとしたマスクが寄付されるかもしれませんね。




2020年4月17日

すべてが終わっても・・・


猫額洞の日記にこのように書かれていた。

「夜、友人と電話で話す。生き延びたら、また会って喋りたいが。
 バラードではないけれど、風にさよならをいおう、って気分。」

バラードとは、歌の「バラード」ではなく作家の名前。正しい名前は忘れたが。

仮に生き延びたとしてもわたしには会って話せる友人も、話したい人もいない。

「すべてが終わった時に」まだ生き延びていたとしても、わたしには最早どこにも所属するところはない。繋がる人もいない。

ただそれにしても、病院で死ぬのだけは御免だ。

コロナにかかって入院を強制されるくらいなら、その場で射殺してもらいたい。

母が多摩総合医療センターに入院した時に、「もしも患者が暴れるようなことがあったらその時は拘束をする」という同意書にサインを求められた時に随分迷った。わたしなら確実に暴れるからだ。それで拘束されるくらいなら舌を噛み切るか?しかしそれでは死ねないだろう。そのような非人間的な扱い=「虐待」「拷問」を受けてまで生き延びる意味とは何か・・・












2020年4月16日

「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」


ここのところ、また小賢しい言葉に対する嫌悪感が強まって来ているような気がする。

気が向くとごくたまに覗きに行くブログがある。元古書店主夫婦の妻の方が書いている「猫額洞の日々」という。書いていることはいちいちもっともで文句のつけようもないのだけれど、どうしても波長が合わない。その「波長の合わなさ」について今は考える気になれない。

「リツイート2本」-ここで猫額洞が引用している記事も、著者が1982年生まれ、つまりわたしよりも約20歳若いという時点で熱心に読む気になれなかった。
もうこれは山田太一の『男たちの旅路』の鶴田浩二が、「俺は若い奴らが嫌いだ!」というのと同じ生理的なレベルの拒否反応なのでどうしようもない。

「戦争」と「疫病」のアナロジーについても、言いたいことはあるが、今は考えがまとまらない。ごく簡単に言うと、確かに数十万、数百万単位で人が死んでも窓ガラスひとつ割れない「戦争」というものはない。「戦争」とはいわば「都市を破壊する行為」に他ならない。戦争の勝ち負けは如何にして敵国の首都を制圧するかにある。

しかし一方で、常に死の危機にさらされているという点に於いて、比較できるのは「戦争」以外にはない。コロナに対する「戦争」の比喩は完全に的外れということはできない。




すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか

そのように問うまでもなく、世界は以前と全く変わらぬ状態で再び動き出すだろう。
少なくとも、戦争に伴う「都市の壊滅」という目に見える喪失が存在しないかぎり。
そして無論わたしはそんなことを望んではいない。「現代」が如何にわたしにとって生き難く、生きているのが苦痛であったとしても。


もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。(下線Takeo)

「現代」が「現代」である以上「どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。」のは当然だ。

少なくとも我々が進歩とか成長とか便利さとか、効率という発想を棄てきれないかぎりは・・・そしてそのような発想を棄てるということは限りなく不可能に近い。否。絶対に不可能だ。

「人にやさしい現代」というものがそもそも撞着語法なのだ。

彼は今回のことから何かを学ばなければならないと書いている。

彼にバイロンの言葉を贈る。

「我々が歴史から学んだ唯一のことは、我々は歴史からなにも学ばない、ということだけだ」


ー追記ー

今日母が病院にいつもの薬を取りに行った。処方箋をもらうだけだが、人が多く、処方箋を出してもらうのにも、そしてその後の会計にも結構な時間がかかったという。
その点「多摩総合医療センター」や御茶ノ水の眼科は自動会計で、機械でやるので、手間が省ける。
そこで「戻ってほしくない世界」というものが、人の手で何でもやる、いわば「手間と時間のかかる世界」のことを言うのだとしたら、わたしはその考えに到底与することはできない。

全国の図書館の休館によって、「デジタルコンテンツの充実をおろそかにしてきたことが悔やまれる」と図書館協会(?)の長か誰かが言っていたが、それもおかしい。休館前にそのことを地域住民に知らせる方法が拙かったことを、これを奇貨としてデジタル書籍への大幅な転換を図っているとしたら。

スピルバーグが近未来を描いた映画、『マイノリティー・リポート』はCGを多用していることもあって稚拙な、見るに堪えない作品であったが、未来を予測できる能力を持った者たちが「解放され」人里離れた村で、ログハウスのような家に住み、暖炉の火で暖を取りながら、昔ながらの「紙の本」を読んでいるラストシーンで終わる。
稚拙な比喩だが、スピルバーグは、我々が「戻るべき世界」はこういう世界ではないのか?と言いたかったのではないだろうか。或いは我々が夙に「喪ってしまった世界」とは・・・

取って付けたような幼稚なラストシーンも含めて、わたしはこの映画を全く評価しない。ただただ、近未来都市のグロテスクさを、これでもかというくらい見せつけられる。
その点で、トウキョウのグロテスクさを余すところなく描いたソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』と双璧を成す気味の悪い、そして気の滅入る映画である。
「気が滅入る」というのは、それが1つは現在の東京という「現実」を映し出し、もうひとつはこれから来(きた)るべき世界の様子を、ほぼ正確に描き出しているという点に於いてである。唯一そこに救いと希望を見出すとすれば、「今の現実」「すぐ目の前の現実」の醜さに、「生への執着」が薄らぐ、ということだろう。











2020年4月12日

なんだか人が恋しくて・・・


現実から逃避するということは現実を見ないということ。それについて考えないということ。

このブログをいつ再開するのか、今はわかりません。再開?どのように?

今わたしはアートブログにいます。

Myspaceが崩壊した後、Tumblrを始める前から投稿しています。

その後2011年3月から2020年3月まで、タンブラーでおよそ2万2千点の絵や写真を投稿してきました。現在はTumblrから距離を置いています。Tumblrが今風に仕様変更して、なんとなく気分が乗らなくなってしまったからです。

Junkoさん、先程先のコメントをメールでも読みました。こちらに残してくれたコメントに書かれている以上の大事なことが書かれていました。今は人のちょっとした気遣いが身に沁みます。

目の状態以前に、今のわたしは書けないし、話せません。
フォロワーもいず、「いいね」もない旧式なブログで、静かにアートで心慰めています。



今日の新聞の歌壇の欄に

「死にたいと思ったことのない人のこころを家宅捜索してみたい」

という歌が選ばれていました。

気持ちは全く同じですが、現代短歌はやはりわたしには情緒に欠ける気がします。

このブログを中断することで、Junkoさん、底彦さんとの音信が途絶え、9年間続けてきたTumblrからも距離を置いて、今、とても孤独です。



仮初の 人の情けの身に染みて まなこ潤むも 老いのはじめや






2020年4月9日

断想


4月2日に御茶ノ水の眼科で右目の白内障の手術を受けてきました。
そのことを後悔しているか、といえば正直わかりません。ただ言えることは、
そもそもわたしには御茶ノ水まで行って手術をし、その後の1週間に3回通院すること自体が無理なことだったと思っています。

この間、厭世観・厭人観はいやまして強まりました。

けれども、今はもう少し元気になりたいと思います。

もっとちゃんと引きこもるために。ちゃんと「外界」「現実世界」から「逃避」するために。