2020年4月27日

辺見庸ブログより・・・


久し振りに、本当に久しぶりに辺見庸のブログを読む。

その前に、これも久しぶりに昨年2度ほど(?)出入りした「メル友募集」ーこれも(?)サイトにできた「ツイッターのようなもの」も読む。

辺見庸の言葉が、「彼ら/彼女ら」の言葉よりも数段深いのは「あたりまえ」なのだろうか?この「ツイッターのようなもの」に比べて「ツイッター」は遥かに深いのだろうか?
とてもそうは思えない。規模の違いが質の違いに比例する理由はなかろう。

しかし辺見の言葉を読んで、ほんの、ほんの少しだが、気が休まった気がする。





「みんな疲れている。しんそこ疲弊している。けふ、「エッセンシャル・ワーカー」ってどういう意味かおしえてもろた。ふざけやがって。」



「巣箱。けふも空き家。視床痛。助辞も繋辞も面倒くさい。まだまだこれからだよ。まだ先。ひとの目が獣じみるのは。
記憶がある。寂れた夕まぐれ。駅前。失業者たちの目が
赤く、ときに金色に血走る。知っている。見たことがある。

忘れてしまっているのだろう。そのような時代の、かわたれどき。ひとの輪郭が煮こごりみたいに崩れる。瞳がなぜか煮こごりのなかに奥まって、凝りのなかから哀れがましく、恨みがましく光る。燐光の殺意。

60すぎの失業者がスーパーでカップ麺をまんびきして捕まりました。
81だかの無宿者が、野球部員たちに何百メートルも追いかけ回され、激しい投石をうけて死にました。ひとりぐらしの、少しニンチ入ったおばあちゃんが、アパートで飢え死にしてました。

本ブログをご覧になっているがんのひと、パーキンソンのひと、ウツのひと、統合失調といわれているひと、もやもや病のひと、反社性向のひとびと、片マヒのかたがた、神経障害性疼痛のみなさん・・・きましたね、ついにやってきましたね!

きたということをまずかくにんして、それから、予想どおりと思いませんか。ほぼ予感どおり。そして、ほんのちょっとだけ〈ざまあみやがれ〉てな気分も。しかしながら、世界の全的瓦解はまだ始まったばかり。

夕暮れの駅前では、影をなくしたおとこたちが力なく咳をしている。言葉と結果がたがいに反駁しあい、どこまでも空しく毀損しあう夕暮れ。だが、まだだ。〈完了〉にはほど遠い。こんご、おとこたちの頬骨はもっともっと高く、最終的には見ちがえるほど尖るはずだ。

とりあえず、すべてのアウラというアウラは剥がされたのだ。
〈自己責任〉をかたるものを信じてはいけない。ぜったいに。



「つい2、3か月前のことでも、はるか遠い昔のことのように懐かしいのだ。」




「某紙編集委員と話す。これからどうなるのか?順不同で・・・コジキ、強盗、殺人、自殺、監視、告げ口、ホームレス、DV、抑うつ、ドラッグ、各種差別およびヘイト増大、全体主義とそのニューノーマル化、ウイルス再変異、米中戦争の可能性・・・。


「友人の会社でも感染者がでた。あれはものごとをことごとく「無意味」にしてしまう。疫病にしたって味も翳りもありゃしない。あれの報道はおそろしくつまらない。
あれの功績はニンゲン世界の薄っぺらさを証明したことだろう。大したものだ、とも言える。」


「アソーを殴ろう。あのひん曲がった傲慢な口を左ストレートで殴ろう。

BSで「世界の知性」のありがたきお話。マルクス・ガブリエルとか。
つまらなかったぜよ。視点がどうも為政者的なんだよ。

鼻水たらして泣いている失業者の涙の奥から世界を見ていない。


犬がおれに言う。「おっちゃんも10万円もらえるの?コルト・ダブル
イーグル買うと?バンバンいてこますの?」。おれ無言。」


「国家とは、そういうものなのだ。コロナで何十万、何百万人が死のうとも、
軍事訓練だけはおさおさ怠らない。ニンゲンというのはそもそもが毒性ウイルスなのである。」


「「社会の共同性に対する強い違和感・・・」と表4にはある。3.11を経てもそれはある。というか高じている。災禍そのものより、腕を組んで"団結"し声を合わせて歌いたがる質の共同性を怖じ、怪しみ、甚だしくは敵視さえする癖。



「ふとNBCテレビをみたら、いま少なくとも600数十万人が失業中という。画面はシカゴだろうか、食糧配給に列をなしている。コロナ感染者も並んでいるようだ。

大恐慌時代をおもう。あれは1929年から3年くらい続いた。2020年も新大恐慌時代のはじまりだ。これからはもっとひどくなるだろう。コロナとダブルパンチだし。

こんなときにはなにをすべきか。銃を乱射するか、それともチェット・ベイカーを聴くか・・・だな。」



以上辺見庸ブログより個人的な嗜好で抜粋引用した。(下線は引用者ーTakeo)

けれどもわたしは以前のようには彼を好きにはなれないのだ。

猫額洞にしても辺見庸にしても、言っていることは悉くその通りであっても、既に「ニューノーマル」に順応している者とは馴染めなくなっている。

それでも「読む」のか・・・











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