2020年4月24日

断章


暫く更新が途絶えていた底彦さんのブログをまとめて読んだ。

今月の11日から図書館が休館になっているが、それ以前から既に2週間ほど借りている本もまったく手を付けていない。中井久夫も、木村敏も。つげ義春、業田良家のまんがは借りては読まずに返しの繰り返しだ。

目の手術から1か月経っていない、ということもあるのかもしれないが本に手が伸びない。『八本脚の蝶』も、しばらく訪れていない。

なんというか、これまでになく生きている実感がない。

繰り返しになるが、仮にこの疫病の流行が収まった後も生き延びていたとしてもわたしにはもう何もないのだ。

Tumblrは、「距離を置く」といった中途半端な態度だったが、やはり現在のダッシュボードで再びあそこに投稿することは今の時点ではもう考えられない。現在のブログが「エロ・グロ」を超え、「エロティック・アート」などという紛らわしいカテゴリーからも外れ、「ポルノブログ」になった時点で、わたしの現在の居場所を友達、そしてフォロワーに報せる最後の投稿も昨日削除した。

「ポルノブログ」というのも、それがあまりにもそのものであってもなくても、当然ながら人は集まってくる。けれどもわたしはポルノならポルノに徹することができない。
それこそピーター・ビアードの「日記」ではないが、ポルノ写真の上下に平気で、ヴィクトリア朝の水彩画を投稿するのだ。このどっちつかずの態度がタンブラーに於いても、結局フォロワーの数が一定数=(2万人)を超えられなかった原因でもあろう。

コロナは災厄ではある。けれども辺見庸が夙に指摘しているように、安倍政権そのものが災厄なのだ。とはいえそれは降ってわいた災難ではなく、日本人が主体的に選択した「厄災」だ。

けれども、けれども、安倍政権が倒れ、コロナが無くなっても、わたしの居場所はどこにもないことに変わりはない。

いまわたしは死んではいないようではあるが、本当に生きているのかすらよくわからない。

そしてわたしが生きているのか?に対する答えを誰も持たないということがわたしの絶望でもあるのだ。




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