2020年4月29日

なぜわたしは「正しい」のか・・・


外に出るということが非常なストレスだ。昨日は弟が泊まった。わたしの自転車が壊れていて、内科に行くのに自転車が無ければ(少なくともわたしは)とても行くことができないので、午後4時からの診療に弟の自転車を借りて行った。

以前底彦さんが、眼科だったか、内科だったかに行った時に、待合室がごった返していたわけでも、長く待たされたわけでもないのに、受付や医師とのごく短いやりとりで非常に疲れたと書かれていた。昨日のわたしもそれと同じだが、それにプラスして、医院の待合室の窓が何処も少しも開けられていないことが気になって仕方がなかった。換気扇が回っているとか、空気清浄機が働いているのかはわからないが、この時期、窓の開いていない病院・クリニックは、特に内科は、落ち着かない。
そしてそれ以上に苛立たされたのは、いつもつけっぱなしのテレビだ。
普段は気にも留めないが、医師会武見会長の会見だとか、例によって、若いアホウたちの「不要不急の外出は控えましょう」・・・無論画面など視ないが声は聞こえてくる。今はこの馬鹿さ加減につくづく疲弊させられる。

弟の自転車を借りて行ったわけだが、電車に乗らないからと高をくくっていた。これほどのストレスとは・・・帰って、当然ながら弟がいるということにほとんど耐えがたい気持ちだった。ほんとうに下手をすると弟を刺し殺すことさえやりかねないと痛感した・・・

わたしは人を、ましてや家族を殺すこと等絶対にありませんなどとは「絶対に」言えない。

コロナで死ぬことを極度に怖れているが、それとはまったく別のところで、「自死」のことはいつも考えている。仮にいつの日か、この疫病で死ぬ危険がほぼゼロに等しくなった時にまだ生き延びていたとして、今回の経験で、世界はますますデジタル化が急加速し、それが西部邁が言っていた「新たなる信仰」となるだろう。

ところで、わたしが電話をかける場所といえば、クリニックとか、図書館とか、保健所とかいう場所に限られているが、例えば今の時代、「友達と電話で話す」って、いったいどうやって話すのだろう?わたしは高い料金を払って携帯電話にかけてまで「世間話」をするつもりはない。というよりも、そんな余裕はない。それは駅前のスーパーに夕食の材料を買いに行くのにタクシーを使うのと同じだ。

ほんとうに、携帯電話を持たない者が、きょうび、個人的な電話をするにはどうするのか、誰か教えてくれないか。



大学時代に、古代中国のこんな小話を読んだことがある。
人々が飲み水として使っていた川の水で、みな気が狂ってしまった。王様ひとりだけは城内の井戸から水を飲んでいたが、自分一人だけが狂っていないことが苦しくてならない。いっそ「狂水」を飲んでみなとおなじになって楽になろうかと王様は日々煩悶する。

結末はあったのかなかったのか覚えていないが、印象に残っている話だ。

この場合王様ひとりだけが「正気」で、彼だけが「正常」「まとも」だったのだろうか?
そうではない。王様ひとりだけが狂っていたのだ。だから苦しいのだ。

狂気と正気は、正しいことと間違ったことと同じく、あくまでも相対的なものだ。
わたしがよく引用する「99人の狂人が集まっていて、そこにひとり正気の人間が加われば、「彼」が狂人だ」という、誰の言葉かは忘れたが、これは全く正しい。

王様が自分だけは狂ってはいないといっても、それは通用しないし、わたしもその言葉には同調できない。何故なら「正しさ」とは「多数派」の謂いに他ならないのだから。
相対性を超えた絶対的な正しさというものは存在しない。『肉弾』で、若き主人公が、「にっぽんよい国エライ国、世界でひとつの神の国」と小学生が教科書を暗誦しているのを聞いて「狂ってる」といったが、彼の「正気」なるものは限りなく「無」に等しい。

「自分一人だけが正しい」ということはそもそもあり得ない。「ただしさ」とは大勢と共有されることによってはじめて「正しい」と呼ばれるようになる。「私だけの正しさ」などというものは、存在しない。

わたしの生きることの困難さは、わたしの正気に、そして世間の狂気に起因するのではない。正しさ云々というのなら、寧ろ正しいのは「多数派」である世間の方だ。
唯一客観的な事実いうのは、「わたし」と「世間」乃至「社会」が、丁度王様と、その他のすべての人と同じように、絶対的に「違っている」ということだけだ。

「私が私である」ということは、「私は正しい」ということとはまったく無関係だ。
そもそも人間存在という一回性に対して、「普遍的な正しさ」など求めようがない。

誰も「正しく」は成り得ない。サルトルも、キルケゴールも、ニーチェも、ゲーテも、エマソンも。
ただ、多数派にはなれる。そして正しさとは畢竟多数派に属している、皆と同じように考え、ふるまっていることに他ならない。故にわたしは自信をもってわたしは決して正しくはないといえる。

以前のブログに「わたしは間違ったことしか言っていない」と書いた記憶がある。
「わたしの言ったことで、いちどでも間違いじゃなかったことがあったか!」と。

繰り返すが、わたしの生の苦痛はわたしの正しさ、感覚・感受性の「正常さ」に由来するものではない。それは多数派との「違い」に起因する。

「少数派」(少数であること)は「正しさ」を意味しない。けれども、だからこそ、それを「ただしさ」(と見做されていること)とひとし並みに扱うということが、社会の成熟度の目安になる。


ー追記ー

何かを「醜い」と感じ、これはマズイと思い、うるさいと感じ、クサイと感じ、不快だと感じるのは、なんらわたしの感覚の「正しさ」を根拠としない。証明しない。
そこにあるのはただ、わたしという個人の感受性でしかない。

ある絵を美しいと見做すか、醜いと思うか?「いったいどちらが正しい」なんて議論はそもそも愚かしくナンセンスなのだ。

「みんなちがってみんないい」とかいう絵空事には、オルダス・ハクスリーのことばで答えよう。

「違うということは、必然的に孤立を意味する」『素晴らしき新世界』より


















7 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちわ
    Takeoさんのブログにコメント入れましたが、念のためいつものようにメイルでも送ります。
    コメントは下に添付します。



    Ciao Takeoさん
    その後、目の具合はいかがですか?

    私はどっちが正しいとか正しくないとか、どっちが狂ってるとか、正気だとか、一切興味ないんですね
    大体正しいの基準がわかりませんし、
    私は私個人の感性によって、物事や人をジャッジし、私にとって不快なものや人は避けて生きる、それでいいと思っています。
    人との深い関わりがあんまりないので、それでやっていけるのでしょうが、
    勝手に皆さん好きにやってくださればよい、と思っています。
    今の皆さんが夢中になるものはことごとく私には趣味の悪い、もしくは頭の悪そうな、、としか映らないので、、。

    正しい、正しくない、美しいと思うか、醜いもしくは胡散臭いと思うか、それは多分人それぞれで、所詮私の好みを誰かに理解してもらおうなんて、考えたこともありませんし、不可能だと思いますから、逆に他者の好みを理解しようなどと思ったこともありません。
    ここでもまた、勝手にやっててくださいと私は目を背けるか、距離を置くかで済ませます。
    元々みんな一緒に仲良くお手手繋いで、仲良く同じことをやりましょうーー!なんて死んでもできないですから、皆と違ってて、皆と協調できなくて、それでいい、、と言うか。そっちの方が息詰まり感が減ります。
    と言うか、違っているからこそ私なのだと思いますので。
    自分の自由な孤独を手放してでも、一緒に居たい。などと思える人はいませんから、孤独がいいです。

    私は小さい時から、多数の多になったことがありません
    いつでもマイノリティ、子供の頃から自分のことを誰かに分かってもらうなんて所詮無理だと思っていましたから、それを誰かに求めたことがありません。
    自分の誕生日が嫌いで、プレゼントをもらうのが嫌いな子供なんてあんまりいませんもんね 苦笑

    先日東京の弟のお嫁さんから電話が来て、私の日本の携帯の機種を変えてくれとなん回もプロバイダーから連絡が来るのだそうで、どうも2024年から私の機種が、つまりガラ系が使えなくなる、、らしいです。
    まあ、後4年あるから、と心配してるお嫁さんには言っておきましたが、2024年になって、いよいよガラ系が使えなくなったとしても、スマホみたいなおぞましいものに替える気は全くなく、公衆電話など最近とんと見かけなくなってきていますから、そうなると、、はてどうしたもんか?と考えています。
    今コロナ騒動で大学の授業が皆オンライン
    そして私はスマートフォンを持っていませんから、what’s upってやつにも繋がっておらず、そのwhat’s upで送られてくる授業のスケジュールが流れてこない。
    ああ、ここでもスマートフォンを持たない故の過疎化か、と思いましたし、大学のような組織はそんな簡単なアプリではなく、せめてメイルで全員に伝わるやり方で伝えてくるべきではないかと毒づきましたが、私個人的には、オンラインの授業ってやつも電子辞書、電子書籍と同じく、絶対に触れたくない胡散臭いものであり、スケジュールがわかったところで、そんなエセの授業は受けていなかったでしょうから、いいんですけどね
    自分が断固として「持ちたくないものを持たない」その主義を貫くために孤立しますが、それでいいと思っています。
    そう言う「くだらない」ものを後生大事にしている人々となど繋がりようがないと思っています。

    この全ての店が閉鎖している中で、イタリアの私のガラ携帯がいよいよ壊れました。
    皆にほれみたことか、と言われましたが、、
    でも、無かったら無かったで済むものなんですね
    緊急に伝えたいことがあったら、あちらだってなんとしても伝えてくるでしょうし、
    元々携帯では用事の伝達しかしてませんでしたから。
    無かったら無いで済むもの、結構あるなあと思い直しています。
    だから日本でももう携帯など無くてもいいかもと考えています。

    こうくだらないものがやたらに溢れている社会になってしまうと、もうそれだけで暑苦しい。
    ものがあり過ぎ、だから一個一個のものに対する感謝みたいなものも薄れるのでしょうね。

    書き始めると次から次へとつらつら色々なことが溢れ出して来て、取り止めのないコメントになってしまいました。苦笑

    最後に、
    「違うということは、必然的に孤立を意味する」

    同感です。一人一人がもっと孤立すれば、もっと風通しが良くなるのではないでしょうかね、、
    そして、何よりもそして私はその孤立の中でしか真の自由は味わえない気がしているのです。


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    1. こんばんは、Junkoさん。

      こちらには、2日にいっぺんくらいログインしていましたが、ここ数日コメントが入っているという表示がありませんでした。メールは先程久し振りにチェックしたところです。

      わたしが正しいとか間違っているとか、どうでもいいのですが、先日ちょっと覗いたブログに、「自分だけが正しいと思っていると孤立する」という論旨のコメントが書かれていて、あまりにもピントのズレたことを書いているなぁと思い、そのことについて書いてみました。

      例えば、わたしも、辺見庸も、猫額洞さんも、今の社会を痛烈に批判・・・というよりも、罵倒し、嘲弄しますが、それはなにも、自分の正しさを根拠にものを言っているわけではない。なにかそういう当たり前のことがわかっていない方のようだったので、つい皮肉のような気持ちで書きました。人は正しさを根拠にものを言うのではない。それが自分の感じ、考えていることだから、発言するのだ、ということです。



      2011年に、一斉に「地デジ」とかいうものになるということを機に、既にその前年からテレビを見ることを完全に止めました。それ以前から、見るのはNHKの3チャンネルと総合テレビ(NHK1)くらいでしたし、今でもなくても困っていませんし、あちこちで、最近のテレビ番組のつまらなさにたいするボヤキを聞きます。
      わたしはいまでもDVDやビデオで映画を観るのに、ブラウン管のテレビを使っていますが、これが壊れたらどうしようと思っています。少なくとも液晶テレビよりブラウン管テレビの方が明らかに画質がいいので。
      映画が観られなくなるのは困るのです。30代から10年くらい前まで、2千本くらいの映画を観てきました。わたしにとって映画は、本よりも身近な存在なのです。

      つまり、コロナの後、仮に生き残っていたとしても、最早この世界はわたしにとって何もない世界であるというのはそういうことです。生き残る意味がわからないのです。だからこの世界になんの未練もないのですが、だれの言葉だったか「死を恐れているのではない、死に至る過程の苦しみを恐れているのだ・・・」そういうことです。

      Junkoさんにはしかし、それでもまだ「言葉の通じる」人がいます。そして孤立を「希んでいる」わけではないでしょう?

      わたしはもう人間とは誰とも言葉が通じません。少なくともそのように感じています。死を前にして、既にわたしは「無」です。

      このような投稿にコメントをありがとうございました。

      今は日本の社会に生きることの苦痛を日々感じながら、生きています。
      「自粛」しない者への「差別」が始まりつつあると新聞に書かれていました。
      日本はどうしても「まつろわぬ者たち」が嫌いで仕方がないようです。

      最近思うのですが、安倍政権がこれだけ長期にわたって安定して政権の座についているのは、安倍政権というものが、かつてないほど日本人の本質とぴったりと合うからではないかと。強い者の尻を舐めたがり、一方で、少しでも弱い者を見ると喜んで差別し、鞭打つ、それが病人であろうが、差別する。ああ、安倍政権とはニッポンジンのエッセンスなんだと感じています。


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  2. Takeoさん
    Junkoさんにはしかし、それでもまだ「言葉の通じる」人がいます。そして孤立を「希んでいる」わけではないでしょう?

    「言葉」としては通じていますが、私の魂の感ずるところは、全く伝えきっていないだろうと思っています。
    私と takeoさんの違いは、まあ人との理解などこんなもんでしょうと、お茶を濁していられる。か いられないか。だと思います。
    互いの理解度が3割切ったら付き合いませんが、6割辺りだったらとりあえず良しとします。
    これって、私たちだけでなく、互いに完璧に理解しあっている人などどこにもいないのだと思うのですね。
    ただ、みんな結局どーでもいいんです、理解されていようがいまいが、、
    だから、自分の言いたいことを聞いててくれる振り、わかってる振りをしてる誰かに向かって、文字の羅列を吐き出して満足しているのではないかとさえ感じます。
    私はそれをコミュニケーションとは呼びませんけどね。
    最近言葉の詭弁性という事をしばしば考えます。
    言葉なんてものがあるからこそ、人間は伝えた気分、伝わった気分になる。
    わかり合ってるなんて言う大きな幻想を抱く。
    大体そこまで理解し合う事を求めているのかも疑問です。
    言葉を使いこなしてどうにかして自分の考えを伝えようとか、相手の言いたいことを理解しようと必死になりませんもん。
    だから、尚更言葉を持たない草や木や虫や動物たちと一緒にいる方が私にはずっと快適なんです。
    彼らは、彼らそのままで、言葉で繕ったり、お世辞を言ったり、嘘をついたりせず、実に誠実ですから。

    孤独でいる事?希んでいますよ
    互いに全部とは言わないまでも、感性とか趣味とか考え方とか何か共通のものを持たない人と一緒にいるくらいなら、(共通のものを持っている相手であっても長時間はお断りです 苦笑)
    一人でいる事を選びます。

    最近ふたつさんをお見かけしませんが、お元気なのでしょうか?
    Takeoさん、目の具合はどうですか?
    お大事にしてください。

    はい、同感です
    Takeoさん
    Junkoさんにはしかし、それでもまだ「言葉の通じる」人がいます。そして孤立を「希んでいる」わけではないでしょう?

    「言葉」としては通じていますが、私の魂の感ずるところは、全く伝えきっていないだろうと思っています。
    私と takeoさんの違いは、まあ人との理解などこんなもんでしょうと、お茶を濁していられる。か いられないか。だと思います。
    互いの理解度が3割切ったら付き合いませんが、6割辺りだったらとりあえず良しとします。
    これって、私たちだけでなく、互いに完璧に理解しあっている人などどこにもいないのだと思うのですね。
    ただ、みんな結局どーでもいいんです、理解されていようがいまいが、、
    だから、自分の言いたいことを聞いててくれる振り、わかってる振りをしてる誰かに向かって、文字の羅列を吐き出して満足しているのではないかとさえ感じます。
    私はそれをコミュニケーションとは呼びませんけどね。
    最近言葉の詭弁性という事をしばしば考えます。
    言葉なんてものがあるからこそ、人間は伝えた気分、伝わった気分になる。
    わかり合ってるなんて言う大きな幻想を抱く。
    大体そこまで理解し合う事を求めているのかも疑問です。
    言葉を使いこなしてどうにかして自分の考えを伝えようとか、相手の言いたいことを理解しようと必死になりませんもん。
    だから、尚更言葉を持たない草や木や虫や動物たちと一緒にいる方が私にはずっと快適なんです。
    彼らは、彼らそのままで、言葉で繕ったり、お世辞を言ったり、嘘をついたりせず、実に誠実ですから。

    孤独でいる事?希んでいますよ
    互いに全部とは言わないまでも、感性とか趣味とか考え方とか何か共通のものを持たない人と一緒にいるくらいなら、(共通のものを持っている相手であっても長時間はお断りです 苦笑)
    一人でいる事を選びます。

    最近ふたつさんをお見かけしませんが、お元気なのでしょうか?
    Takeoさん、目の具合はどうですか?
    お大事にしてください。

    はい、同感です。
    安倍さんと言う人は、日本人の典型的な性格を兼ね備えているのだと私も感じています。
    日本という国と国民の根拠のない傲りと貧相さ、薄情さ
    なんか哀しくなりますね

    それではまた

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    返信
    1. ウワー!

      今お返事を書いて公開ボタンを押したら、接続が切れていて、書いたものが全部消えてしまいました。

      こちらはここ数日いきなり夏になったような気温で、また書き直す元気がありません。

      目は手術をして1か月が経ちました。とりあえず問題はなさそうですが、近いうちにまた駅ビルの眼科に行かなければなりません。

      本も全く読んでいません。その代り、図書館で借りたCDは繰り返し繰り返し聴いています。全部ではなく、シナトラの40年代の録音と、ルネサンス期のミサ曲です。

      ネットでは日本のサイトはここに書いてあるようないくつかの「辺見庸」「猫額洞」そして底彦さんのブログを見る(読む)くらいで、あとはほとんどアートを渉猟しています。それからタンブラーを再開しました。
      メーデーが、EU諸国では休日であるということを知りませんでした。
      そこで、メーデーの挨拶代わりにいくつかの投稿をしたのですが、辞めると言っているにもかかわらず、わたしの投稿を喜んでくれる人がいることを知り、また情けない話ですが、時間を持て余しているということもあって・・・

      タンブラーに投稿すると、ブログの方にも人が来るのに気が付きました。それはタンブラーで、わたしはいまここに居ますと、リンクを貼ったからではなく、タンブラーは a man with a past というタイトルよりも、poboh tumblr.comで知られています。そしてClock without Hands の投稿者もpobohです。
      今気が付きましたが、TumblrにはWithが、ブログにはWithoutという言葉が使われているのですね。
      同じように「止まった時間」を表現しているのですが・・・

      言葉の欺瞞性についてはここでも何度か書いています。少なくとも身体性を伴わない言葉には屡々疲れます。

      ふたつさんは、前から言われていたように、インターネットから距離を置いているのか、タンブラーでフォローできる上限の5千人をフォローして、「見てもらうために見る」という作業に追われているのでしょうか。これは皮肉ではなく、ネットでの発信にはどうしてもそのような相互依存性がつきまといます。

      ほんとうにどうされているでしょうね。


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  3. Takeoさん
    別にところで下書きしたものをコピーしてペーストしたら、なんだかダブってペーストされています。ごめんなさい
    元のコメントを削除して、Takeoさんにメイルでお送りしたものを再度貼り付けていただけるときれいに上がると思います。
    お手数でなかったら、よろしくお願いします。

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    返信
    1. ああ、そうでしたか、メールはまだチェックしていませんでした。
      このコメントにも今お返事(?)を送信してから気が付きました。

      わたしはこのままで全然構いませんよ^^

      削除
  4. こちらこそ不充分な返信しかできずに申し訳ありません。もっとも、消えてしまったものも「充分」だったわけではありませんけれど。

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