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2022年3月31日

保身に腐心するウィル・スミスの堕落

日頃知的ぶっていても、高踏を気取ってみても、何かの折に、いま巷で話題になっている所謂「ゴシップ」・・・俗世間の出来事について何事かを語ろうとするときに、その人物に本当の教養が備わっているかどうかが分かるのだろう。 

のっけからこんなことを書いて自分の首を絞めているようなものだが、この手の話題について書くことに慣れていない。第一わたしは、人がどう見るかは知らないが、「知的」や「高踏」であることを以て自ら任じたこともないし、自分に相応の教養があるなどとも思っちゃいない。


さて、所謂「ゴシップ」だが、29日火曜日、30日水曜日の朝日新聞朝刊に、例の(といっていいのかな?)アメリカの黒人俳優、ウィル・スミス氏のアカデミー賞授賞式会場での、司会のコメディアンに対する「平手打ち事件」が報じられていた。

29日の新聞より引用する。

アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスさんが舞台に上がり、コメディアンのクリス・ロックさんの顔を平手打ちする一幕があった。米国ではテレビ中継が一時止まる騒ぎとなった。
 ロックさんは、ドキュメンタリー部門の受賞者を発表している最中に、スミスさんの妻を指して、「(丸刈りの女性兵士が登場する)G・I・ジェーンの続編も楽しみにしている」という発言をした。スミスさんの妻の短髪をジョークにしたとみられ、直後にスミスさんが客席から舞台へ上がり、ロックさんの顔をたたいた。スミスさんの妻は脱毛症であることを公表している。
 米国での放送はその直後に止ったが、スミスさんは席に戻った後も、放送禁止用語を使いながらロックさんに「妻の名前を口にするな」と怒鳴った。
 その後スミスさんは主演男優賞を受賞。スピーチで、「(自分が)悪口を言われても、自分が軽蔑されることに慣れなくては。愛情のための船のような存在になりたい。みなさんに謝罪したい」として、自分の行為を謝罪した。

本日(30日)付けの記事では、

暴力は全ての形において有毒で破壊的だ。私の行動は許容されるものではなく、言い訳もできない」。スミスさんは28日、「インスタグラム」にそう投稿した。ロックさんにも直接謝罪した。
授賞式ではロックさんが、脱毛症を公言しているスミスさんの妻ジェイダ・ビンケット・スミスさんの短髪についてのジョークとみられる発言をした。その直後、客席にいたスミスさんが舞台に上がり、ロックさんの顔を平手打ちした。
 アカデミー賞を運営する「映画芸術科学アカデミー」は28日に声明を出し、「アカデミーは昨晩のスミス氏の行動を非難する。正式な調査を始めている」と述べた。俳優らでつくる労働組合「米俳優組合(SAG-AFTRA)も、28日の声明で、スミスさんの行動は「受け容れられない」と批判。「この行動が適切に対処されるよう働きかけてゆく」とした。
(下線Takeo)

さて、私見を述べれば、ウィル・スミスの取った行動は、単純にいえば「正当防衛」ではないかと思うのだ。
この一件については、わたしは、上記の2つの新聞記事以外の情報を一切持たないが、ここにはウィル・スミスの「平手打ち」という「身体的な暴力」のみが喋々されていて、司会(?)の三流コメディアン、クリス・ロックという者の「言葉による暴力」については一切触れられてはいない。「禿頭(とくとう)症を嗤う」という極めて悪質な言葉の暴力に対し、スミスの「平手打ち」は比較にならないほどに「わるいこと」なのか。

またスミスの公式な謝罪についても、個人的には納得がいかない。

そもそもわたしは「暴力は全ての形において有毒で破壊的だ」という考え方に与しない。
ここにも何度も書いてきたように、わたしは時と場合によっては(例えば9.11のような)「自爆テロ」に共鳴するし、所謂「刺客による暗殺」を支持する者だ。

下から上に向けての、弱者から強者に向けての、被差別者から差別する者への暴力は「正当な怒りの行使である」というのがわたしの持論だ。


スミスの取った行動は正しかったと思っている。けれども、妻を嘲われたことに対して怒りを爆発させた行為を、その後の謝罪によって、自ら否定している。「自分は間違っていた」と。
これをわたしは「堕落」と呼ぶ。同時に自分の妻に対する裏切乃至背信行為であると。

今更言うまでもなく、事件後のスミスの一連の言動は、「大人としての」「名のあるハリウッド俳優としての」「オスカー受賞俳優としての」冷静な判断に基づいたものだ。
会場で、愛する妻を揶揄され、前後を忘れて壇上に駆け上り、愚昧なる司会者を「ぶん殴った」「生身の人間ウィル・スミス」ではない。

そもそも、彼のことは、顔と名前を知っていて、一本くらい作品を観たことがあるかもしれないが、特に関心のある俳優でもない。けれども、仮にわたしの敬愛する者が、今回のウィル・スミスの一連の行動のような「怒りという愛情の一形態に身を任せた真の人間」の姿から、「すべての暴力を憎む良識ある社会人」への変節を遂げるのを目の当たりにしたら、わたしは彼・彼女に愛想尽かしをするだろう。

わたしはウィル・スミスは「愛情」よりも、自己保身に走ったと受け取っている。




「やったのは彼らだが、そう仕向けたのは私たちだ」(9.11について)
ー ジャン・ボードリヤール

「多くの人は「何をやったか」だけをみて、「なぜやったのか?」をみようとしない」
ー『雨あがる』山本周五郎







2022年3月30日

見果てぬ夢・・・

Sunset (Brothers), 1830-1835, Caspar David Friedrich. German Romantic Painter (1774 - 1840)
 - Oil on Canvas -

*

ドイツロマン派を代表する画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの『落日』
同じ「ロマン主義」の画家でも、英国のターナーの夢幻的な趣、フランスのドラクロアの力強いパッションに比べて、極めて静謐な絵を多く残しています。


「人生は、それを分かち合う者がいなければ意味がない」

これはわたしがまだ20代後半の頃、テレビで観たアメリカのドラマの中で使われていた台詞です。当時から人生の孤独に呻吟していたわたしにとって、とても共感できるセリフでした。
この言葉を初めて聞いてから30年近く経った今でも、当時と同じ気持ちを抱いています。

けれどもわたしは、天涯孤独な人の人生を、「自分の人生の時」を共有できる誰かを持っている人の人生に比べて、無意味であるとも、無価値だとも思ってはいません。

断片的であっても、人生を分かち合える人がいれば・・・
これはあくまでも、孤独であることに疲弊した、独りであることを運命付けられた、わたしという人間の、極個人的な「理想」であり「見果てぬ夢」でもあるのです。








 

2022年3月18日

誰にも分からない、或いは自傷行為について

 「おねがいだから止めて。 あなたを愛する人のために、止めて・・・」

この言葉は一見すると麗しい愛情(乃至友情)から発せられた言葉のように聞こえる。けれども、これはそのように相手に望む者の「エゴ」ではないだろうか?

かつてあるブログにリストカットやオーバードースについて書かれていた。わたしはそのブログの筆者である女性に愚かな質問を投げかけた。

「何故リストカットの「痕」を隠す必要があるのですか?これは何故入れ墨を隠す必要があるのかと同じレベルの質問だと思います。」

と、

彼女はこの愚かしい質問に真面目に、丁寧に答えてくれた。

「なぜリスカ痕を隠すのか」
正直なところ、隠さなくても受け入れられる世の中なら隠したくはないです。自分の生き抜いた証だと思っていますので、、、。
しかし、世間の目はタトゥーを見るのと同じです。痕のせいで仕事にも就けません。
だから隠すのです。

わたしは彼女を抱き締めてあげたかった。しかし彼女はわたしなどより、なによりも社会に抱きしめてもらいたかっただろう。 

◇ 

わたしは若い頃から、リストカットならぬ「言葉による自傷行為」を繰り返してきた。

このように書いたことがある

「ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。」


4年前の投稿から抜粋引用する。

「自分を否定しないこと、これこそが世界を変えるための第一歩です」
 ー 竹宮惠子

これは26歳の若く有能なライター・編集者のブログで紹介されていた本の帯に書かれていて、彼が「強く惹かれた」言葉だそうだ。

人は、誰かが彼(彼女)自身のことを悪くいうのを聞くのが不快らしい。
そしてもっと自分を認めること、受け容れること、自分を愛することを求める。
皮肉なことにわたしだけが、自分を愛せない自分を受容し、わたしだけが自分を受け容れることの出来ない自分を許している。


言葉による自傷行為を不快であると感じる人間は、同様に、身体に対する自傷行為に嫌悪感を示すのだろうか?もし、リストカットに、手首のケロイドに抵抗が無い人が、それでも、言葉による自傷行為だけは許容できないとすれば、それは如何なる理由に因るのだろうか?

わたしは、生きて在ることが苦しいのだ。わたしがわたしであることに時に耐えられなくなるのだ。そんなときに言葉で自分を傷つけること、罵倒すること、貶めることによって、微かなこころの安らぎを得ている。

I lock my door upon myself,
And bar them out; but who shall wall
Self from myself, most loathed of all ?

「私は私自身に扉を閉ざす
そして閂をおろす
けれども誰が私を守ってくれるだろう?
いちばんきらいな私自身から」

これはわたしの大好きな詩の一節。画家、ダンテ・ガブリエル・ロセッティーの妹、クリスティーナ・ロセッティーの書いた、「私は私自身に閂をおろす」

わたしは孤独という独居房の中で、「いちばんきらいなわたしじしん」と共に暮らしている。そんな状況にあって、誰が心穏やかでいることができるのか?

わたしは父を好きになることができない。
父を嫌うということはどういうことか?それは鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるのと同じだ。何故なら、父がいるからわたしが今存在しているのだから。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。

親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?いうまでもなく、親が存在しなければ「私」も存在していないからだ。

わたしの血の半分は父の血だ。人が決して「私自身」から逃れることができないように、わたしもまた「父の血」から永遠に逃れることはできない。

自分が、どうしても好きになれない者の血と肉と骨と皮によって出来ていること。
それがわたしが自分自身を愛せない大きな理由だが、その他にも、単純に、愛され、肯定された経験がないということも当然ながら大きな要因だ。


「愛されざる者」が悲しみのあまり自分を罵ることは罪なりや?

「あなたは決して「愛されざる者」などではない!」という言葉が、コ・ト・バが、いったいいかなる慰めになるのだろう?
確かにそのように声をかけてくれる者にとって、「わたし」は「愛され得る者」に映るのかもしれないし、現に愛してくれているのかもしれない。
けれども、そのことによってわたしの言葉による自傷行為はおさまるとは思えない。

要は、「自分を愛せないわたし」を、そのまま受け容れることができるかどうかなのだ。

自分を「人間の屑だ」というような人間にはとてもついてゆけないというのであればそれも致し方のないことだ。

何故人を、醜いままに愛せないのか?

何故あるがままの相手を愛することができないのか?

「自分はきみを屑なんかじゃないと思っているから」仮にそうだとしても、何故彼・彼女に、わたしに「自分は人間の屑だ」という自由を許容し得ないのか?
その狭量はどこから来るのか?
「自分をどう思おうとあなたの勝手だが、それを言葉にして皆に見える場所で言わないでほしい。」-それは何故?

わたしは已むに已まれずに言葉によって自分を傷つけている。
生きて在ることは苦しいから。かなしいから。

けれども、それを不快に思うことを止めさせることはわたしにはできないし、そうしたいとも思わない。

最後にもう一度繰り返す。

カミソリで自分の身体を傷つけること、毀傷することは許容できても、言葉によって、自分の心を傷つけることには何故そのように不寛容なのか?

自己を肯定できる者も、自分を否定する者、自己を譴責する者、自分を愛せない者のいのちも、おなじひとしいいのちだという考えは間違っているのだろうか?



「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識である」

ー ジャン=ジャック・ルソー 『人間不平等起源論』より

 





 

2022年3月13日

戦争とは・・・

 「戦争は政治の継続である」この点からいえば、戦争は政治であり戦争そのものが政治的性格をもった行動であり、古来、政治性をもたない戦争は存在しなかった・・・。

だが、戦争には戦争の特殊性があるという点からいえば、戦争はただちに政治一般に等しくはない。「戦争は別の手段による政治の継続である」。

政治が一定の段階にまで発展して、もはや今までどおりに前進できなくなる。そこで、政治の障害を一掃しようとして戦争が勃発する。

・・・障害が一掃され、政治の目的が達成されると戦争は終結する。障害が一掃されないあいだは、戦争は目的の完結のため、ひきつづきおこなわれなければならない。

・・・・したがって、政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるということができる。

「毛沢東語録」竹内実 訳 (1971年)より


*


Mao - Andy warhol 

*

“Politics is war without blood,
while war is politics with blood.”

Mao Tse-tung (1893 - 1976) 







2022年3月9日

女優




メキシコの画家ロベルト・モンテグロによる女優マルキーザ・ルイーズ・カサーティのポートレイト。

多くの画家たちの手になる彼女の肖像が残されています。


*

「容貌(ルックス)とはすなわち「態度」なのです」








 

2022年2月28日

ふたつさんのコメントに対してのわたしの考え。

 「ふたつさんのコメントへの返信に託して」のコメント欄が、かなり長くなってきましたので、同投稿コメント欄末尾に寄せて頂いたコメントに対して、ここで新たな投稿をしたいと思います。



こんばんは、ふたつさん。

正直返信に頭を悩ませています。(苦笑)

先ず一つ言えることは、上にも述べたように、わたしは「抗議」は、あくまで「行動」であってほしいと思います。けれども現実には欧米諸国と日本を同列に考えることはできません。

「民主主義」の精神の根付いた国では、社会を覆滅できなくとも、「俺たちは現状に不満を抱いているんだ!」「今の政策には我慢がならない、自分たちは怒っているのだ!」という意思表示が必ずついて回りますが、日本にはそれがありません。

つまり大雑把に言ってしまうと、ふたつさんの仰る「レジスタンスとしての引きこもり」「抗議行動としての鬱病」という考え方は、いかにも遅れた国らしいなというのが率直な感想です。

実際に、この数十年間の間に、海外であっても「抗議活動」が『社会全体を変えた』というのを聞いたことはありません。

いや、それはわたしたちの不勉強に過ぎないと思います。例えば韓国の現・大統領が誕生した時はどうでしたか?

ギリシャやフランスの「ゼネスト」はどうですか?
ニューヨークの「ウォールストリート・ムーヴメント」をいかが思われますか?

大事なのは、実際に社会が目に見えて改善されるということではなく、「主権者であるわれわれ」は不満を持っているのだと、国に、政府に示すことだと思います。

国民が「怒り」を表明しない限り、それはわたしにとって「抗議行動」とは思えません。



私は、「いま」という「おかしな時代」の「おかしな光景」の中で、「アクション」を起こすと、どんどん「いま」にエネルギーを与えることに成っていくような気がしているわけです。

1970年の安保闘争以降、一体どのような、「体制を利する」ような「アクション」がおこなわれたというのでしょう?
わが国民は決してアクションを起こさない(起こせない)ということをクニは知悉している。そのことこそが彼らを利する行為=無為と言えるのではありませんか?




やはりどのような表現をなされようと、「引きこもり」や「鬱病」の患者さんたちが「存在論として」ガンジーの無抵抗不服従に連なるものであるとは思えないのです。

わたし自身のことをいっても、「Takeoさんの今現在の存在自体が、現状に対するレジスタンスなのです」といわれても、ピンとこないし、そんな自分に誇りなど持つことはできません。

Takeoさんは、多くの「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちが、「社会復帰」を望んでいると、本当に、そう思いますか?

そう思っています。

わたしが何よりも重んじるのは、あれこれの行為行動が、「結果として」社会への抗議・批判になっているというようなものではなく、社会へのレジスタンスは、あくまでも主体的であり意思的であるべきだということなのです。

個人的な考えですが、わたしは、「現代社会への不適応」を「抗議・抵抗」と同一視はできないのです。

引きこもっている人に、鬱を患っている者に、どれだけ現実への怒り・憎悪が存在するか?それが指標です。

意思的な社会からの離脱であるならば、それは確かに「無抵抗不服従」という「アクション」であると言えますが、はじき出されて呆然自失している状態を「社会への抗議」とは呼べません。


「ひきこもり」や「鬱」の人たちは、自ら進んで、社会から撤退したのではありません。あくまでも、社会に振り落とされたのです。無論わたし自身も含めて。

繰り返しますがわたし自身は「抗議する者」という意識を毛一筋ほども持ってはいません。何故ならわたしはなんら「アクション」を起こしていないからです。

わたしにとって「アクション」とは、朝日や古田、磯部、難波、井上、三島などの行いを言います。或いはネッド・ラッド、ロベール・パダンデールの名を上げてもいいでしょう。エミール・ゾラを加えてもいいでしょう。


◇◇


すべての現状が「現状否定」から生み出された現状であることは否定できないはずです。


つまり、「現状」というのは「連続する現状否定の一瞬を切り取った今」にすぎないわけです。


この考えは、わたしには受け容れ難いものです。

つまり何故常に現状を否定しなければならないのか?何故現状維持は否認されなければならないのか?

この考え方こそが正に明治以降の日本という国の本質を表わしています。

絶え間なく否定されるつづけるいま」。昨日と今日が、今日と明日とが連続しない。10年前と現在には何の連続性もない。

これまでのあたりまえ」は恒常的に更新され、明日には既に世界は「これからのあたりまえ」に染まっている。

休む間もなく移ろいゆく価値観や社会の姿についていける者だけを認める社会。それが日本社会です。『「現在」は常に否定されるためにある」そんな社会(世の中)で、人間の生体がどうして病まずにいられるでしょう。

時の流れを止めることができないならば、現状を肯定することができないならば、人類は早晩滅亡するでしょう。

『ぼくは、この「ぼくにとって都合のいい世の中」に続いていてほしいから、それを肯定する』と言っているに過ぎませんからね。

ああ。これはまさしくわたしの言葉であり、わたしの想いです。そしてこれは主にヨーロッパ的な(=非・アメリカ的な)考え方でしょう。



話を戻すと、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうのは、すべての人が『社会に適応できる人間が優秀な人間である』という「催眠術」をかけられてしまっているからです。

その「催眠術」をかけたのは、人間ではなく「システム」としての「社会」です。

「社会」は、あくまで「システム」であって「人間の意志」を持ちませんし、多くの場合「人間の意志」を無視します。


そうでしょうか?

意思を持たない「システム」が人間を催眠状態に陥らせることが可能でしょうか?

「社会」は、言うまでもなく人間がつくったものです。そしてその社会を牛耳る者がいます。それは紛れもなく意思を持つ人間です。政治家であり資本家たちです。

「社会」を「人間」の上に置いたのは人間です。

社会から落ちこぼれたものは白眼視され、迫害されます。そして政治がすることは、あくまでもドロップアウトは良くないことであり、「従順な奴隷たれ」ということに尽きます。

いったい「引きこもり」や「鬱病」等の社会から弾きだされた人たちが自らを「抗議する者」として誇りを持つことはどのように可能でしょうか?

自分の家族が「引きこもり」であること「鬱病」であることを「恥」と考える人の多さを考えた時に、孤立無援の現実の中で、自分の現状をどのように「肯定」出来るでしょうか?

「どこでもいいから逃げる」この意見には賛同します。

しかし繰り返しますが「逃亡」することと「抗議」とは同じではありません。(少なくともわたしにとって)

「ただ逃げる」「社会に背を向ける」これはどのようなかたちであれ、社会と手を切ることです。「抗議」でも「抵抗」でもありません。そして蛇足を言うなら「逃げる」ことこそ大事なことであり「人間の尊厳」を守ることに繋がると思います。わたし個人は「力」を伴わないいかなる「抗議」も「抵抗」も「無意味」であると考えています。



ふたつさんは「抗議」「抵抗」という言葉を使うことで、何を目指しているのでしょうか?

「サイレントな抗議の声」は圧倒的な社会順応者たちの物笑いの種になるに過ぎません。


“War is peace.

Freedom is slavery.

Ignorance is strength.”

*

「戦争こそ平和」

「服従こそ自由」

「無智こそは力」

ジョージ・オーウェル『1984』





2022年2月24日

「目に見えるということに欺かれてはならない」2

 「誰かが泣き止めば何処かで誰かが涙を流し始める。結果として世界の涙の総量は変わらない」

ーサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

誰かが笑顔になった蔭で、誰かが悲嘆に暮れている。そしてその数は笑顔になった者の数よりも圧倒的に多い。

いま目の前にある「笑顔」で、「美談」で、世界を計ってはならない。わたしたちは常に陽の当たらない場所で涙を流している者の存在にこそ思いを馳せなければならない。

“The tears of the world are a constant quantity.”


「世界の涙の総量は不変である」







2022年2月20日

「目に見えるということに欺かれてはならない」

 

Dance, 1931, Erika Giovanna Klien (1900 - 1959)
- Watercolor and Pencil on Cardboard -

*

"Visibility is a trap."

Michel Foucault - The Birth of the Prison, 1975

*

「目に見えるということに欺かれてはならない」

ー ミシェル・フーコー 『監獄の誕生』(1975年)



「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
そもそも、批判すべき「society」がない。

ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」



「改善すべき社会はない」「批判すべき社会は存在しない」故に「社会状況は極めて悪い」とはどういうことだ?

いったいこの者、自分で何を言っているのかわかって書いているのか?
失笑を禁じ得ない。

何故ハッキリと言わないんだ?自分は(自分の力では動けない)障害者と、所謂(部屋に閉じこもっている・・・ようにしか「彼らには見えない」)「引きこもり」なる人種が「キライ」なのだ、と。そして「あれこれができない」人間が存在するということ自体が自分にはわからないと。

「批判されることがこわい」のか?(言っとくが障害者や引きこもりをいくら叩こうが愚弄・嘲弄しようが誰も「批判」なんかしないよ)


繰り返す。

「可視的なるものに欺かれてはならない」

「(身体が)動いている」ことと「何かを為(成)している」ということを同一視してはならない。
愚かしくも「動いていない」ということと「なにもしていない」こととを混同してはならない。



Self-portrait, from the ensemble Prague - Sunday afternoon, 1937, Zdenko Feyfar. 


ひとつ大事なことを附記しておこう。およそ人間には「目に見えない」(Invisible
「精神」というものがあるということを。そして「精神」は容易に病み、崩れるということを・・・










2022年2月17日

唾棄すべき「人類」愛すべき「人間」

フェルナンド・ペソアはこう書いている。

「ルソーのように、人類を愛する人間嫌いがいる。
私はルソーに強い親近感を覚える。ある分野では、私たちの性格はそっくりだ。
人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛、その一方で、ある種のエゴイズム。これが彼の性格の根本だが、それはまた私のものでもある。」

『不穏の書、断章』より、「断章85」澤田直 訳



わからない。わたしには。「人類を愛する人間嫌い」などというものが。

何故ペソアがこんなに人気があるのか、わたしには理解できない。

まして「人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛」となると、唖然として開いた口がふさがらない・・・

わたしは寧ろ

“I love mankind ... it's people I can't stand!!”

と叫ぶチャーリー・ブラウンに共感する。


Old Fashioned Kitchen, Virginia, ca 1936, Peter Sekaer (1901 - 1950)

これはピーター・セーカーの撮った、1930年代のアメリカ、ヴァージニア州の、とあるキッチンの写真だが、写真家自身がつけたものであるのかは定かではないが、タイトルに「オールド・ファッションド・キッチン」とあるので、1930年代といえども、このようなスタイルのキッチンは既に旧式のものだったのかもしれない。

この写真を見、そこに暮らす人々の生活を想像すると、正にペソアの言う「強烈な、説明できない愛」を覚えるのだ。

わたしはおそらく「人類」に対して、「唾棄」という言葉が決して大袈裟ではないほど「強烈な、説明できない嫌悪感、忌避感」を抱いている。けれども、この世界に、貧しく、質素に暮らしている人たちがいる限り、誰もが持つモノを持たずにいる人たちがいる限り、わたしの「人類からはみ出したひと」に対する愛情の灯は消えることはないだろう。

胸が熱くなるような、うつくしい写真である。









2022年2月15日

思考の波紋...

 

Wave Energy, Wilhelmina Barns-Graham (1912 - 2004)
- Pen, Ink, Oil on Card -

*

“It is hard enough to remember my opinions, without also remembering my reasons for them!”

― Friedrich Nietzsche

*

「いかにして私がその考えに達したか。その理由を知らずに、私のもろもろの思想を血肉とすることは極めて困難である」

ー フリードリッヒ・ニーチェ









2022年2月14日

「社会性」を持つことの危うさについて

先日以下のような文章をネット上で見かけた。

書かれていたのは、社会を批判をする前に、「自分自身の社会性の欠如」を省みるべきではないか、といった主旨の文章であった。文中、わたしの記憶に強く残っているのは、
 「社会批判の前に、自らが社会性を備えれば、批判の対象がなくなるかもしれないから。


この文章を書いた者にとって「いま・ここに在る(社会の)現実」は、個々の実存、「個々人の抱える現実」に優先される。
社会を批判する前に、先ず自分自身の『社会性』の欠如に目を向けろ」と。
これは容易に「いじめる側」の論理に通じ、そして「いじめられる側にも責任はある」と言った戯言(たわごと)に極めて近似した、残忍で冷酷な考え方であることがわかる。

では「社会性」とは何か?簡単に言ってしまえば、自己を取り巻く有形無形の環境への適応能力であり、順応性の謂いである。己を取り巻く「現実」への順応性・適応性が高い者ほど、「自分」=「エゴ」というものの弱さが目立つ。自身のスタイル、ポリシー、美意識、価値観、譲れない拘りなどがなく、自己の内面の水位と、社会の水位が常に平衡を保っている者ほど、社会性は高く、独自性は希薄である。


Anniston, Alabama, 1936, Peter Sekaer (1901 - 1934)


ナチの支配する「社会」があり、軍国主義が国民全体を洗脳する「社会」もまた「いま・ここにある社会」である。彼の理屈を極限まで推し進めれば、「プロテスト」というものは必然的に否定される。
「レジスタンス」「パルチザン」も、「ゼネスト」も「百万単位のデモンストレーション」も「暴徒化」も、なべて「社会性の欠如」に因があるということになるのだろう。

この写真の若者たちも「有色人種専用階段」の存在=「差別の象徴」を批判する前に、自分たちの「社会性の欠如」を省みた方がいいようだ。


North Carolina, (Segregation Fountain), 1950, Elliott Erwitt

「ノース・キャロライナ 白人と有色人種とに分けられている水飲み場」1950年
写真 エリオット・アーウィット


「いかに多種多様な個別性を包摂し得るかがその社会の成熟度の指標である・・・」などと、高校の優等生の言うような「陳腐な」セリフを今更言う代わりに、わたしは以下のセリフを引用する。

*

“ Let my country die for me.”

― James Joyce, Ulysses

「この国をわがために滅ぼしめよ」

ー ジェームス・ジョイス 『ユリシーズ』



ー追記ー

「社会性を備える」と言うことは、換言すれば、「わたし」が「わたし」であることを、「自己のアイデンティティー」を放棄せよということと同義である。何故なら「社会」(=多数派)と「私」(個ー「絶対的マイノリティー」)とは常に対立関係にあるものだから。














樹の話

「うつくしいもの」への憧憬、「いい文章を書きたい」という欲求は、いまだ心の底に熾火のように仄かな光を発している。けれども「生の倦怠」もしくは「生の蹉跌」がそれを上回る。

その Ennui を打ち破り、わたしを「生」へと回帰させる「うつくしさ」はどこにある?



窓の外の樹々が、「剪定」という名目の誤魔化しによって、繊細な枝々を無慚に斬り落とされてゆく。「裸木の美」を知らぬ粗野で野蛮な田夫野人たちによって。







なんとかお前に交わる方法はないかしら

葉のしげり方

なんとかお前と

交叉するてだてはないかしら




お前が雲に消え入るように

僕がお前に

すっと入ってしまうやり方は

ないかしら

そして

僕自身も気付かずに

身体の重みを風に乗せるコツを

僕の筋肉と筋肉の間に置けないかしら



川崎洋「どうかして」『現代詩文庫33川崎洋詩集』(1987年)より



My name is Takeo.

T is for Tree.

樹を伐られるのを見るのは自分の身を切られるのと同じくらい辛く悲しい

樹々の枝がなくなれば、小鳥たちの啼き声を聴くことも出来なくなる。
この邦で、美と、自然との交叉は限りなく難しい・・・


◇  ◇

Albín Brunovský. Slovakian (1935 - 1997) 
- Etching - 

*

“Your head is a living forest full of song birds.

e.e. cummings

*

「きみのあたまは生きた森だ。そこにはいつも鳥たちのさえずりが充ちている」

e.e. カミングス










2022年2月3日

困惑の中から...

 いまのわたしは非常に神経質になっている。現在、何もかもが悪循環に陥っていて、なにかをきっかけに状況は好転し得るのか?それとも、そもそも今の時代の何もかもが、わたしとは合わないのか・・・見極めは難しい。


一例をあげると最近アートブログにも、Tumblrにも投稿ができていない。だけでなく、フォローしているブログの投稿を見ても、心が高鳴るということがない。視ていて頭の中、胸の中に感嘆符〔!〕が灯るということが久しくない。

Tumblrに限らず、国内・国外を問わず、ブログを眺めていて、惹きつけられるような魅力を感じることがない。

人の投稿に美や歓びを見出すことができない上に、最近Tumblrのダッシュボード(フォローしているブログの投稿が流れてきて、イメージの下にある「スキ」や「リブログ」ボタンを押したり、自分もそこに絵や写真を投稿する場所の名称。SNSなら「タイムライン」というのだろうか)そのダッシュボード上に、Amazon Kindleの、








このような広告が頻繁に流れてきては気分を損なわせる。やる気を殺ぐ。

いいポストができていれば、このような広告など無視黙殺できるのだろうか。
それともやっぱり広告の「効果」が、そこに「うつくしいもの」を加えるという営み(=創作活動)に冷水を浴びせかけているのだろうか。わからない・・・

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、
「わたしは本に囲まれていないと眠ることができない」と言った。

見苦しい広告に囲まれて、「美」をその流れの上に浮かべることはできない。

そもそも先のSNSが自壊し、フェイスブックに行くものとTumblrに行くものとに分かれたとき、Tumblrを選んだ者たちの規準は、「目障りな広告がないこと」ではなかったか。

以前に比べるとだいぶ難しくなってきているが、わたしはネット上での「余計なお節介」を嫌う。


ただ、まっさらな画面に自分の選んだ「美」を写し出したいだけなのだ。









2022年2月2日

繰り返し 祈りのように...

 

‘Mine Own King Am I & Joel’ by Eric Vloeimans & Holland Baroque Society
 [Old, New & Blue, 2013]

*

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」

― エミール・シオラン『生誕の災厄』より







2022年1月13日

片手に銃を 片手にペンを...

いい文章を書きたいと願う。切実に願う。
「生きること」── わたしにとってそれは「読むこと」「書くこと」そして映画や音楽、アートと共にあることだ。けれども、今は一日一日を生きていくのが精一杯で、尚且つ、日々「死」を想いながら命を繋いでいるなかで、集中して本を読むことも、映画を愉しむこともままならない。

Tumblrは日毎にフォロワーの数が増えているようだが、自分で納得のいくポストができているとは言えない。「この程度の投稿で喜んで欲しくない」というのが偽らざる気持ちだ。けれども、実際にはフォロワーの増加は、最近の投稿ではなく、わたしが過去に投稿したアートや写真に依存しているようだ。現在の 'a man with a past' は「過去」(Past) によって支えられている。 

アートにしろ、文章にしろ、今のわたしは、自分自身満足のいく投稿が困難な状態だ。
『ぼく自身 或いは困難な存在』というブログに於いても、過去に書かれたものを読んでもらいたいと希望している。確率は極めて低いかもしれないが、わたしがもう一度「生き返る時」が来るまで・・・


”The past is not dead. In fact, it’s not even past.”

ー William Faulkner


「過去は喪われてはいない。実際のところ、過去は「過去」ですらないのだ」

ー ウィリアム・フォークナー







2021年12月3日

侏儒の言葉

「わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交っていなかったことはない。」

芥川龍之介「侏儒の言葉」より。

仮にだれかがわたしに「あなたには誰か、「殺したい」と思っている人がいますか?」と訊ねられれば、わたしは「もちろんです」と答えることに躊躇しないだろう。

誰が殺したいものを持たずにいられるだろうか。

辺見庸のことばを思い出す。

「・・・わたしは、殺したことの非道を反省し悔いているのではなく、殺したことへの他からの非難、譴責、追跡、逮捕、処罰の可能性に怯えているのである・・・」

再び芥川の言葉、

「決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である」

むろんである。








2021年11月4日

ロスト・ホーム

JC Penney Building, ca 1970, Danny Lyon.

*

“The past is a foreign country;
they do things differently there.”

ー L.P. Hartley

*

「過去というのは、異国と同じだ、そこではみなが私たちと違った生活を営んでいる」

ー L. P. ハートリー


郷愁ではない。帰りたいのだ

 自分の生まれ育った国に・・・








2021年10月10日

無題(歴史認識についてについての覚え書き)

István Harasztÿ Central manegement


1935年ハンガリーに生まれた彫刻家の手に成る『セントラル・マネージメント』


誰もが自分の言葉を棄て、ただひとつの言葉=「主義」に従うことをファシズムという。

先月の投稿「納豆と世界」で、われわれは客観的な世界を感知することはできないと書いた。納豆がマズいと感じている者に、「本当は」納豆は美味しいんだよと諭すことはナンセンスであると。何故なら、彼の味覚は「納豆とはマズいもの」としか感じられないのだから。


「我々は世界を、私たちが(今)あるようにしか捉えられない」ということが疑いを容れぬ真実であるとしても、また世界認識はそれぞれの主体・主観に依拠するとはいっても、我々は時に「倫理を重んずる人間存在」として「客観的な世界」を再認識することを求められる。

それは「歴史的事実」である。


わたしたちは「南京」や「アウシュヴィッツ」「ヒロシマ・ナガサキ」といった厳然たる歴史的事実を(人類が共有すべき)過去の現実として認識しなければならない。
如何にそれがマズかろうと、そこには揺るぎない「本当の世界」の「歴史」が厳然として君臨しているからだ。
そのとき、わたしたちは誰も口を噤み、過去の事実の前に粛然と頭(こうべ)を垂れなければならない。

ポール・ヴァレリーは書いている

もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。

「納豆がマズい」という、自身にとって確たる事実があっても、わたしたちは、頭の中で「納豆は美味しい」と考えることができる。

それと同じように、時にわれわれはちっぽけな自己一身の主観を離れて、巨大な歴史的事実の前に額づかなければならないのではないだろうか・・・

無論それを他人に強制はできない。けれども、歴史的事実を忘れた時に、必ず同じ惨劇が繰り返されることは歴史それ自体が教えてくれているのではないだろうか?

改めていくつかの言葉を

*

”The destruction of the past is perhaps the greatest of all crimes.”

ー Simone Weil


「過去の破壊。おそらくそれは最大の犯罪であろう」

ー シモーヌ・ヴェイユ

*

”The past is not dead. In fact, it’s not even past.”

ー William Faulkner


「過去は喪われてはいない。実際のところ、過去は「過去」ですらないのだ」

ー ウィリアム・フォークナー


(未完)







2021年10月6日

教師という仕事・・・

 図書館で借りた2006年の『暮しの手帖』を、ぱらぱらと眺めるともなく眺めていたら、パリ在住の、作家・翻訳家という肩書をもつ飛幡祐規(とびはたゆうき)さんという方のコラム(?)が目に入った。 

フランスでは、無償の教育法に先立つ1880年に、世界で初めて現場の教師に教材を選ぶ自由を保障する法律ができた。だから教科書の検定はなく、ほとんど教科書を使わない先生も多い。カリキュラムは全国一律だが、授業内容は先生によって千差万別になる。 
 (略)
教師の独立性が保障されているこの国では、「心のノート」のような妙な教材が、国から押し付けられる心配はない。

これを読んで驚くとともに、つくづく羨ましく思った。
こういう仕組みなら、「教師」「先生」という仕事も悪くないじゃないかとも感じた。
第一教材選びが面白くて刺激的で仕方がないだろう。


仮にわたしがこのような環境の下で教師になるなら、選ぶ教科は「国語」か「社会科」になるだろう。悪く考えれば「自分(=教師)の価値観の押し付け」という風にもとられかねないが、わたしは第一にディスカッションを重視したい。わたしの選ぶ教材は、主に映画と本、そしてアート(主に写真)ということになるだろうが、とにもかくにも生徒に観せ、読ませたものについて生徒本人はどう思い何を感じ考えたかを話してもらう。この作品のどういうところに共感し、またどういう部分に違和感を覚えたかを他の生徒たちと一緒に聞かせてもらう。
非常に非効率的な方法だが、教育とは本来効率性に背馳する。

尤もいかに自由な授業ができるとはいえ、根が狭量な上に、極めて柔軟性に欠けるわたしのような人間に仮にフランス本国であったとしても教師が務まるかどうかは甚だ怪しいが、魅力を感じることは確かだ。

教育に於いて最も大事なことは何かと訊かれれば、わたしは、とにかく教師や親を筆頭に、マスコミのコメンテーター、文化人と称される人たちがこぞって言っていることを鵜呑みにせずに、先ず自分の感覚、本能、感受性を第一の規準とすること。その上で少しでも先生や親たちの言うこと、世間が良しとしていることに違和感を感じたら、その違和感を掘り下げ追求してゆくことだと答えるだろう。

わたしが教師なら、卒業に際し、生徒たちにたくさんの「!」(=知識・情報)ではなく、より多くの「?」(=疑問・違和感)── 即ち「問題意識」── を頭と心に詰め込んで社会に出て行ってもらいたいと願うだろう。

さて、はたしてフランス的な規準に照らして、わたしに「教師としての適性」があるのかどうか・・・


"There is a voice inside of you That whispers all day long, “I feel this is right for me, I know that this is wrong.” No teacher, preacher, parent, friend or wise man can decide What’s right for you–just listen to The voice that speaks inside."

— Shel Silverstein



 



2021年9月26日

今日の一枚 フレデリック・レイトン

Flaming June, 1895, Frederic Leighton. English (1830 - 1896)

フレデリック・レイトン「フレーミング・ジェーン」(1895)

*

" It’s better to live your life in dreams than in reality"

ー Marcel Proust

*

「人生は、それを生きるよりも、夢見た方がいい。
もっとも生きるとは夢を見ることかもしれないが・・・」

ーマルセル・プルースト