2022年2月14日

「社会性」を持つことの危うさについて

先日以下のような文章をネット上で見かけた。

書かれていたのは、社会を批判をする前に、「自分自身の社会性の欠如」を省みるべきではないか、といった主旨の文章であった。文中、わたしの記憶に強く残っているのは、
 「社会批判の前に、自らが社会性を備えれば、批判の対象がなくなるかもしれないから。


この文章を書いた者にとって「いま・ここに在る(社会の)現実」は、個々の実存、「個々人の抱える現実」に優先される。
社会を批判する前に、先ず自分自身の『社会性』の欠如に目を向けろ」と。
これは容易に「いじめる側」の論理に通じ、そして「いじめられる側にも責任はある」と言った戯言(たわごと)に極めて近似した、残忍で冷酷な考え方であることがわかる。

では「社会性」とは何か?簡単に言ってしまえば、自己を取り巻く有形無形の環境への適応能力であり、順応性の謂いである。己を取り巻く「現実」への順応性・適応性が高い者ほど、「自分」=「エゴ」というものの弱さが目立つ。自身のスタイル、ポリシー、美意識、価値観、譲れない拘りなどがなく、自己の内面の水位と、社会の水位が常に平衡を保っている者ほど、社会性は高く、独自性は希薄である。


Anniston, Alabama, 1936, Peter Sekaer (1901 - 1934)


ナチの支配する「社会」があり、軍国主義が国民全体を洗脳する「社会」もまた「いま・ここにある社会」である。彼の理屈を極限まで推し進めれば、「プロテスト」というものは必然的に否定される。
「レジスタンス」「パルチザン」も、「ゼネスト」も「百万単位のデモンストレーション」も「暴徒化」も、なべて「社会性の欠如」に因があるということになるのだろう。

この写真の若者たちも「有色人種専用階段」の存在=「差別の象徴」を批判する前に、自分たちの「社会性の欠如」を省みた方がいいようだ。


North Carolina, (Segregation Fountain), 1950, Elliott Erwitt

「ノース・キャロライナ 白人と有色人種とに分けられている水飲み場」1950年
写真 エリオット・アーウィット


「いかに多種多様な個別性を包摂し得るかがその社会の成熟度の指標である・・・」などと、高校の優等生の言うような「陳腐な」セリフを今更言う代わりに、わたしは以下のセリフを引用する。

*

“ Let my country die for me.”

― James Joyce, Ulysses

「この国をわがために滅ぼしめよ」

ー ジェームス・ジョイス 『ユリシーズ』



ー追記ー

「社会性を備える」と言うことは、換言すれば、「わたし」が「わたし」であることを、「自己のアイデンティティー」を放棄せよということと同義である。何故なら「社会」(=多数派)と「私」(個ー「絶対的マイノリティー」)とは常に対立関係にあるものだから。














9 件のコメント:

  1. こんにちは。

    また、一言多いコメントがあったようで、もしも、Takeoさんに嫌な思いをさせてしまったのであれば、ごめんなさい。

    私のコメントに、大きな意味などありません。
    『所詮、その程度』という捉え方をしていただくといいんじゃないかと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    (最新の記事のコメント欄が閉じられていたので、こちらに書き込みますが、Takeoさんの意に反するのでしたら、このコメントも削除していただいて構いません。ただ、言いたかっただけなので。また、もしも、そちらのコメント欄が開かれるのであれば、Takeoさんの判断で、そちらにこのコメントを移してください。)

       ◇  ◇

    最新の記事については、社会性を重んじる人たちは、まず第一に「社会の存在している根拠」について考えてみれば、大体のことが見えてくると思います。
    (えっ、見えないの?)

    どこをどうやって考えていっても、「社会の存在理由」は「人間(個人)を効率的に使役すること」にまず間違いないと思うんですが、どうでしょうか?

    そう考えれば、『社会性を持つことで、問題がなくなる』ということがどういうことを意味するのかがわかるはずです。

    まぁ、要するに『一生、こき使われながら、ニコニコと楽しく生きていく』ということですね。
    きっと、そのうちに「雀の涙のような年金」をもらいながら、自分の子供たちに『チッ!この年寄りが!世話ばかりかけやがってよ』と思われながら暮らすように成れば、それが無理のある考え方だとわかるでしょう。
    (えっ、わかんないの?)

    ※もしも、わからないならば、前にここでも紹介されていた「家畜人ヤプー」という本をおすすめいたします。
    私は全部は読んでませんが、その本には、そういう人たちの生き様がよく描かれていると思います。

    しかも、「いま」に限って言うと、もう「モノ」は余っているのに、その「モノ」を作るために「人間」が使役されているというのが現実ですから、二重に人間がこき使われてしまっているということです。
    そして、その「作り過ぎたモノ」をどうやって処分するか?ということが行政の課題に成っていて、そこでも、また、「自然」は浪費され、「人間」はこき使われいるといった状態ですね。

    「社会」には、もともと「人間を使役するもの」という役割があるのに加えて、さらに「いま」は、その「使役」自体に意味がなくなってきているというの現実でしょう。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    さらに、もう一つ言わせてもらえば、「社会批判をする人」も、また「社会の一員」です。
    (社会から脱することは、現在では不可能です)
    だから、「社会性」を重んじるのであれば、「社会批判をする人」のことも、尊重するはずです。

    そうでないのであれば、その人は『社会性を重んじている』のではなく『社会性を妄信している』のであり、『社会の中の権力や権威に服従している』にすぎないということに成ります。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    『ひぷのてっく なう』

    みんな ねむりながら おどってる
    さいみん・だんすを おどってる


    じだいとは
    せかいじゅうが さいみんじゅつに かかること
    じだいとは
    せかいじゅうが いまに せんのう されること
    じだいとは
    せかいじゅうの すべての ひとの のうに 「ひぷのてっく・なう」の どくが まわり
    いかれ くるう こと
    つまり
    それが じだいの くうきを すうと いうことだ


    さいみんじゅつから さめてしまうと 
    いまの どくを すっていないと

    いまの なかでは いきられない
    いまと いう きみょうな こうけいに めを あけては いられない



    だから みんな めを つぶって 

    ねむりながら 


    おどり つづけて いる

      ◇    ◇

    私は、こういうのは「催眠術」と同じで、かかっている人にはわからないのだと思います。

    『それを言ったら、お前たちだって~』
    というのは成り立ちません。

    なぜなら、「批判」は「服従」とは相入れないものだからです。

    『肯定すべし!』という考え方自体が「洗脳」や「催眠状態」を意味しているわけですね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    でも、私は、最終的には、そういう人たちを止めようと思いません。
    どんどん働いて、どんどん税金を払ってくれたらいいと思います。

    『あぁ、それで、自動車買えたの?よかったじゃない』
    『え?家も買えたの?すごいじゃない』
    『あれぇ、でも、また税金取られちゃたねぇ、でも、ニコニコ楽しいならいいじゃない?』

    そんな感じ。

    南無~・・・チーン

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    1. コメントをありがとうございました。

      一言だけ。 いい詩(詞)ですね。

      またお話しましょう。

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    2. こんばんは、ふたつさん。

      ひとことで「社会」とか「社会性」といっても、それは非常に多義的なもので、一義的に「社会とは」「社会性とは」と、定義することは困難です。
      現に、ふたつさんと、コメントをくれた匿名さんとの間でさえ、「社会」に対する見方の相違が表れています。

      >どこをどうやって考えていっても、「社会の存在理由」は「人間(個人)を効率的に使役すること」にまず間違いないと思うんですが、どうでしょうか?

      これもまた「一面の真実」であって、これを以て社会を言い尽くすことはできないと思います。

      「社会」とは言うまでもなく「抽象的な概念」であって、現実世界には「現中国の社会」があり、「アメリカ合衆国の社会」があり「ロシアの社会」があり、同じように「日本の社会」がある。
      時代や国によって「社会」の在り様は様々です。同様に、ふたつさんにとっての社会(観)があり、わたしにとっての社会(観)があり、匿名さんにとっての社会(観)があって、それぞれに重なる部分と、異なる部分があります。

      ふたつさんの言われる、「人間を効率的に使役すること」が社会という存在の定義であるという考えに、わたしも同意します。けれども、わたしの場合、それは、「この国の社会」という条件が付きます。言い換えれば、「非・民主主義国家」としての社会という意味に於いてです。

      非・民主主義国家とは、人間ひとりひとりの個別の存在の上に、国家=社会が位置する社会体制のことです。



      『家畜人ヤプー』はわたしにはちょっと読めそうにない究極のマゾヒズムが描かれています。これは匿名さんのコメントに対しても言えることですが、わたしから見れば、日本人は、こと「お上(おかみ)」に対しては、極めて被虐的な民族性を備えていると感じています。
      そのことは、ここで何度となく繰り返し書いてきたように、アジア諸国を含めた諸外国に比べて、政治・政策に対する不満、怒り=「反対運動」の少なさ、規模の小ささ、おとなしさが明瞭に表していると考えます。



      >さらに、もう一つ言わせてもらえば、「社会批判をする人」も、また「社会の一員」です。
      (社会から脱することは、現在では不可能です)
      だから、「社会性」を重んじるのであれば、「社会批判をする人」のことも、尊重するはずです。

      わたしに言わせると、

      >「社会批判をする人」も、また「社会の一員」

      どころか、「社会批判をする者」こそが真の社会人であるということです。

      嘗てフランクリン・ルーズベルトはこう言いました。

      「国家に対して物言わぬ者は真の愛国者ではない」と。


      >そうでないのであれば、その人は『社会性を重んじている』のではなく『社会性を妄信している』のであり、『社会の中の権力や権威に服従している』にすぎないということに成ります。

      この場合、「社会」というよりも、「いま・そこにある現実」と言い換えた方が分かり易いでしょう。

      わたしは本文に引用した文章に「同化政策」のニオイを強く感じました。

      一部に、「社会性」と「人種差別」と、どのような関係があるのかと訝る者もいるかもしれませんが、黒人が黒人でしかあり得ないように、障害者は障害者でしかあり得ず、「わたし」は「わたし」でしかあり得ないのです。黒人として生まれたことで、ユダヤ人であることで、パレスチナ人であることで、在日朝鮮人であることで、そして「障害」を持っていることで、(大きく言うなら大勢と違うことで)いわれなき迫害を受けるようであるならば、それは明らかに社会の側の「問題」「誤り」であって、様々なマイノリティーが、「社会」という名の(マジョリティーへの)「同化政策」に応じる必要は毛頭ありません。



      『ひぷのてっく なう』というのはいいですね。ふたつさんの詩っでしょうか?
      わたしは気に入っています。

      さいみんじゅつから さめてしまうと 
      いまの どくを すっていないと

      いまの なかでは いきられない
      いまと いう きみょうな こうけいに めを あけては いられない



      だから みんな めを つぶって 

      ねむりながら 


      おどり つづけて いる



      「催眠術から醒めてしまうと 「いま」の「毒」を吸っていないと
       「いま」の中では生きられない 
       「いま」という奇妙な光景に 目を開けてはいられない」


      この部分は正にその通りであると、強く共感します。

      最後に、You Tubeのリンクの件はいつでも言ってきてください。
      マイナーなブログながら、応援させていただきたいと思ています。

      コメントをありがとうございました。

      不完全不充分な返信ですが、言わんとしているところを汲み取っていただければなによりです。


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    3. こんばんは。

      コメントをこちらに移していただいてありがとうございます。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      上のコメントで、私の言葉にやや足りないところがありました。

      私が「社会が存在している根拠」と書いたのは、「現時点の社会が存在している根拠」というよりは、むしろ、「社会」の成り立ちの時点までさかのぼった場合の「社会が発生した理由」のことです。

      動物の「群れ」を見ればわかることですが、原初的な「群れ」においては、「家族的な群れ」であったり、弱い動物が身を寄せ合って強い動物から身を守るための数的な集まりであるケースがほとんどで、必ずしもはっきりとした「社会」と呼べるものではないことが多いと思います。

      そういう「群れ」が、どの時点で「社会」と呼べるものに成るのか?と言えば、おそらく「社会」の構成要素である「個体」に役割が分担されたところからだと思います。
      ヒエラルキー(階層)もそういうものに近いと思います。
      (アリやハチの社会は徹底的に役割分担がはっきりしていることで、完成度の高い社会に成っていると思います)

      そして、その「役割」が、『何のためにあるのか?』と考えると、おそらく「効率化」のためです。

      その時点では、「効率化」することで「生産」を向上させること自体が「社会の命題」であったであろうことは、想像に難くありません。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      確かに、Takeoさんのおっしゃるように、民族や国家政策や宗教などによって「それぞれの社会の在り方」がありますし、「現在の社会」が抽象性を持った概念であるというのも確かなことだと思いますが、もう少し古い時代の「目的がはっきりしていた社会」言い換えるならば「具体性があった社会」においては、「社会が発生した理由」は「人間を効率的に使役すること」であったというのが私の言いたかったことです。

      そして、その「人間を効率的に使役する」という目的は、現在では、上でTakeoさんが述べているような文化的な側面や、政治思想的な側面などで、「社会」という概念が抽象化すればするほど見えにくく成ってはいますが、やはり、今でも最も根源的な「社会の存在理由」なのだと思います。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      それから、「民主主義社会」ということについてですが、私は「民主主義社会」というものは、『まだ、歴史上一度も達成されていない』と考えています。
      これは、「自由」も「平等」もすべて同じですが、まだ世界中どこの国でも、どの時代にも、達成されていません。

      私は、こういう「本当は達成されていないこと」というのが、たくさんあると思っています。

      ところが、それらの「本当は達成されていないこと」を学校や教科書やあらゆる書物で「達成されたこと」として扱ってしまっていますから、「ズレ」が生じてしまうわけです。

      例えば、この記事にあるような人たちが「社会批判」を嫌う理由の一つには、『こんなに自由な社会に、何を文句があるのか?』とか『戦争がないだけで、幸せだと思え』と言った盲目的な考えがあると思います。
      つまり、教科書的な権威を妄信している人たちの間では、「自由」や「平和」が、すでに達成されたことに成ってしまっているわけです。

      『現在の日本は自由主義国家です』
      『今は民主主義の時代で、封建的な思想の国は、もうほとんどありません』
      『人類は、みな平等で、どこの国でも差別は許されていません』

      どれも間違いではありません。
      確かに額面上そういうことに成ってはいます。
      でも、達成はされていません。
      (というか、すべて「達成不可能」と言ってもいいくらいですね)

      こういったことから、『社会批判をする前に、自分の社会性の欠如を~』という「ズレ」た考え方が出てきてしまうということですね。

      「現在における社会性」とは「社会(国)への服従」のことだということが見えていないんだと思います。
      かなり昔の時代までならば、「社会適応」という言葉が成り立っていたかもしれませんが、「いま」は「服従するか?」「はじき出されるか?」の二者択一を迫られる時代です。

      これは、「イジメ」などにも言えることで、「イジメる側に立つのか?」「イジメられる側に立つのか?」というどちらか一方を選ぶしかありません。

      中間はありません。

      少し頑張って、中間の位置取りをしたとしても、必ず「遠心分離」されて、どちらかの極にもっていかれます。
      ちょっとでも「イジメ寄り」に立っていれば、いつの間にか「イジメの中心」にもっていかれますし、ちょっとでも「イジメられ寄り」に立っていれば、必ず「イジメられ」て、あっという間に大気圏外へはじき出されて息もできなく成ってしまいます。

      オリンピックで金メダルを三つも四つも取るような選手がパワハラに合うような時代に、一般人は、いったいどうやって「社会適応」しろというんでしょうか?

      「いま」、「社会適応」と言われているのは「イジメている子たちとも、そこそこ仲良くしながら、イジメに参加していない体裁を作ること」です。
      そして、そのイジメられていた子が自殺した時だけ、悲しそうな顔をして『ぜんぜん気が付かなかった、気づいてあげていたら・・・』と沈痛な面持ちで言えば「社会適応」の完了です。

      自分がいつの間にか「イジメる側の一人」になってしまっていることから目をそらすために「自己正当化」するわけですね。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      私は、上に書いた「遠心分離」こそが「匿名さん」のおっしゃっている「批判に対する恐れ」につながっていると思います。

      つまり、ちょっとでも隙を見せたら自分が「イジメられる側」にもっていかれるという恐怖から「批判」を避けるようになり、その状態を一定期間続けた人は、Takeoさんの言うように「批判」という選択肢自体を失って、「良い奴隷」という安住の場を得ることに成ります。

      一般的に「奴隷」というと、「最悪の差別」だと思われていますが、実はアメリカでの黒人差別が、最も悲惨な状態になったのは奴隷解放後だったと言われています。
      奴隷時代には、「奴隷」という役割があり、「良い奴隷」には「人間扱い」に近いものも与えられていたと言われています。
      「奴隷」は「家畜」と同じで、農園主にとっては「財産」であったわけですから、そんなにひどい扱いばかりだったわけでもなかったようです。
      (もちろん、それを「いい」と言っているわけではありません)

      でも、最悪になったのは奴隷が解放された後で、「奴隷」という役割すらも奪われ、さらに「差別法(ジムクロウ法)」は公然と存在している中で、資本も教育も与えられずに、南部の黒人たちは一方的に搾取され続けることに成ります。
      (南部と北部では、人種差別は雲泥の差だったようです)
      奴隷解放から1960年代頃までのアメリカ南部の黒人たちは一言で言って『丸腰で最前線に投入された兵士』です。
      しかも、いつ後ろから打たれるかもわかりません。
      (ちょっとだけ教育を受けたような黒人の中には、教養のない黒人を責める空気があったそうです。まさにこの記事にある人たちと同じですね)


      そして、その当時南部の農園主たちの間では、『奴隷解放してやったんじゃないか、それなのに、まだ文句があるのかよ?ほら、あの従順なクロンボを見ろ!ああいう風に大人しくありがとうごぜぇます旦那と言ってりゃいいんだよ!』と言い合っていたんでしょう。
      それが、まさに『社会を批判する前に、自分の社会性の欠如を~』ということです。

      その頃の黒人にとっては『ありがとうごぜぇます旦那』と言えることが「社会性」であり、言えないことが「社会性の欠如」であったということですね。
      時代に適応するには『ありがとうごぜぇます旦那』と言うしかありませんから。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      最後に、このことは「憲法」にも関係があります。

      現在の民主主義をうたっている国では、基本的な人権や自由・平等などを額面上はうたっていますが、上にも述べたように、それらは達成されていません。
      (それらが達成されているというほどノー天気な人は少ないでしょう)

      その達成されていないことの責任は、国家の責任です。
      (主権者が国民であることと、責任が国家にあることは無関係です)

      「勤労」や「教育」などの「社会的な義務」も、それらの「責任」が、国家によって果たされることを前提にして課せられているものです。

      それなのに、「責任が果たされていないこと」は批判されずに、それを前提にしているはずの「社会的な義務」だけは受け入れろ!というのはおかしな話です。

      「国民の大多数が、苦痛を感じずに、社会の一員でいられるような社会を作ること」は国家が国民に対して「社会性」を要求するための最低条件です。

      そういう不均衡な状態で(というか常に不均衡なんですけど)、権力のテシタとして自分だけがご褒美をもらおうとする「良い奴隷」ですね、こういうことを言う人は。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      でも、「教育」で刷り込まれているので、「カルト教団」の洗脳や催眠術と同じように個人の責任を追及してもあまり意味がありません。

      今、私が一番に思うことは、「モノ」や「カネ」は余っているということ、人間の「知識」もすでに余剰だということ、もう、「知識」を振り回すことに意味はないということ、「モノ」や「カネ」をかき集めることには意味がないということ、「人間の心」の中で、まだ足りていない部分を補うことが必要だということですね。

      それは「社会性」と対極にあるもの、つまり「個人性」です。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

      私は、いま、いろいろと行き詰っていて、ほとんど何もできない状態なので、逆に、エネルギーに余裕があるようで、長くなってしまいました。


      それでは、また。

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    4. すいません、また書き忘れです。

      『ひぷのてっく なう』は、私が書きました。

      「ヒプノテック」は「催眠術にかかった」というような意味です。
      音楽などで陶酔を誘うようなリズムをさしてつかわれることもあります。

      これは、リンダ・ジョーンズという若くして(確か26歳?)亡くなったR&Bシンガーの[Linda Jones - Hypnotized]という曲から発想を得て作った「詩のような題」で、そのタイトルは、私が「ダブル・ネーム」と呼んでいる一枚の絵に二つのタイトルを付けるというスタイルの中の一つです。
      おそらく、曲の中の意味は「恋の魔法」みたいな意味だと思います。

      その絵の、もう一つのタイトルは、『『Humming in Chaos(ハミング イン カオス)』というタイトルです。
      こちらには、[Linda Lewis - Guffer]という曲を合わせています。


      では、また。

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    5. 先ず訂正から、

      先のコメントで、

      社会の「誤り」と書きましたが、社会の「過ち」に訂正します。



      さて、このコメントについてはわたしが特に口を挟む必要はないように思われます。
      100%とは言えませんが、概ね同感しますので、これはふたつさんの意見としてこちらに公開しておきます。

      また機会があればこのコメントを元にわたしなりの「社会」についての考えを書くこともあるかと思います。


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    6. 追記

      クリント・イーストウッド主演、ドン・シーゲル監督の『アルカトラズからの脱出』という映画に印象的なセリフがあります。

      銀行強盗で捕まり、新入りとしてアルカトラズに入所してきたイーストウッドに所長が言います。

      「この刑務所は「いい市民」をつくる場所ではなく「良い囚人」を作るところなのだ」

      「社会」というものが、「格子なき牢獄」だとすれば、生き残るために必要なのは、「良き市民」を目指すことではなく「良き囚人」たらんとする心構えでしょう。

      「市民」とは「抵抗する者」の謂いだからです。

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  2. はじめまして。私はTakeoさんの意見に同意します。
    批判無き社会に改善はあり得ないため、個々の主張は大事なものだとと思います。Takeoさんの社会への失望も伝わってきました。
    社会は個人の幸福のために存在しているものだと思います。
    ところで少し前は挙げられているような主張は、社会で成功した人々が自分たちのためにしているものだと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
    SNSをはじめとして、至る所で批判するより前に自分を変えろというような、同じような主張が散見されます。
    私は今、なぜこんなにも人々が批判を恐れているのかが気になっています。
    単なる権威主義なのか、昔から続く日本の村社会的特性なのか、実は多くの日本の家庭に問題があり、批判されることにトラウマを覚えている可能性もあります。
    本当は自分や社会に自信が無いため、それが脆くも崩れ去ってしまうことを恐れているのかもしれないとも思います。
    この記事を読んで、批判を恐れる原因についてTakeoさんにはどのように見えているのか知りたいと思ったため、コメントさせていただきます。
    お返事いただけると幸いです。

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    1. こんばんは。

      >批判無き社会に改善はあり得ないため、個々の主張は大事なものだと思います。

      正に仰る通りです。「批判なき社会」とは「独裁主義」の異名に他なりません。

      >社会は個人の幸福のために存在しているものだと思います。

      本来「社会」とはそうあるべきものだと思います。つまり、脚の不自由な人、手の不自由な人、目の見えない人がいれば、その他の人たち(=社会の成員)が、彼・彼女の手となり脚となり目となる社会。言葉を換えれば相互扶助。それが「社会」の使命でしょう。



      >私は今、なぜこんなにも人々が批判を恐れているのかが気になっています。

      わたしにはわからないのです。彼らは本当に「批判を恐れている」のでしょうか?
      そもそも、現代の日本人に「反・社会的」なメンタリティーがどれほどあるのか?
      また彼らは本当にそれぞれの実存のレベルで、この国の、いわくいいがたい「居心地の悪さ」を実感しているのでしょうか?
      無論誰にも日常生活を送る中で、具体的に説明できるような不平不満はあるでしょう。しかしそれは自己の存立を揺るがすような根深いものなのか?わたしにはわからないのです。

      >この記事を読んで、批判を恐れる原因についてTakeoさんにはどのように見えているのか知りたいと思ったため、コメントさせていただきます。

      と、おっしゃって頂きましたが、少なくともわたしの目には、上のコメントの返信にも書いたように、真の「怒り」「憎しみ」「怨み」というものが、人々の胸の裡に在るのかどうか?それがわからないのです。

      強いて答えのようなものを述べるなら、「怒り」の無いところに「批判」は存在しない。ということだと思っています。

      コメントをありがとうございました。

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