2022年2月28日

ふたつさんのコメントに対してのわたしの考え。

 「ふたつさんのコメントへの返信に託して」のコメント欄が、かなり長くなってきましたので、同投稿コメント欄末尾に寄せて頂いたコメントに対して、ここで新たな投稿をしたいと思います。



こんばんは、ふたつさん。

正直返信に頭を悩ませています。(苦笑)

先ず一つ言えることは、上にも述べたように、わたしは「抗議」は、あくまで「行動」であってほしいと思います。けれども現実には欧米諸国と日本を同列に考えることはできません。

「民主主義」の精神の根付いた国では、社会を覆滅できなくとも、「俺たちは現状に不満を抱いているんだ!」「今の政策には我慢がならない、自分たちは怒っているのだ!」という意思表示が必ずついて回りますが、日本にはそれがありません。

つまり大雑把に言ってしまうと、ふたつさんの仰る「レジスタンスとしての引きこもり」「抗議行動としての鬱病」という考え方は、いかにも遅れた国らしいなというのが率直な感想です。

実際に、この数十年間の間に、海外であっても「抗議活動」が『社会全体を変えた』というのを聞いたことはありません。

いや、それはわたしたちの不勉強に過ぎないと思います。例えば韓国の現・大統領が誕生した時はどうでしたか?

ギリシャやフランスの「ゼネスト」はどうですか?
ニューヨークの「ウォールストリート・ムーヴメント」をいかが思われますか?

大事なのは、実際に社会が目に見えて改善されるということではなく、「主権者であるわれわれ」は不満を持っているのだと、国に、政府に示すことだと思います。

国民が「怒り」を表明しない限り、それはわたしにとって「抗議行動」とは思えません。



私は、「いま」という「おかしな時代」の「おかしな光景」の中で、「アクション」を起こすと、どんどん「いま」にエネルギーを与えることに成っていくような気がしているわけです。

1970年の安保闘争以降、一体どのような、「体制を利する」ような「アクション」がおこなわれたというのでしょう?
わが国民は決してアクションを起こさない(起こせない)ということをクニは知悉している。そのことこそが彼らを利する行為=無為と言えるのではありませんか?




やはりどのような表現をなされようと、「引きこもり」や「鬱病」の患者さんたちが「存在論として」ガンジーの無抵抗不服従に連なるものであるとは思えないのです。

わたし自身のことをいっても、「Takeoさんの今現在の存在自体が、現状に対するレジスタンスなのです」といわれても、ピンとこないし、そんな自分に誇りなど持つことはできません。

Takeoさんは、多くの「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちが、「社会復帰」を望んでいると、本当に、そう思いますか?

そう思っています。

わたしが何よりも重んじるのは、あれこれの行為行動が、「結果として」社会への抗議・批判になっているというようなものではなく、社会へのレジスタンスは、あくまでも主体的であり意思的であるべきだということなのです。

個人的な考えですが、わたしは、「現代社会への不適応」を「抗議・抵抗」と同一視はできないのです。

引きこもっている人に、鬱を患っている者に、どれだけ現実への怒り・憎悪が存在するか?それが指標です。

意思的な社会からの離脱であるならば、それは確かに「無抵抗不服従」という「アクション」であると言えますが、はじき出されて呆然自失している状態を「社会への抗議」とは呼べません。


「ひきこもり」や「鬱」の人たちは、自ら進んで、社会から撤退したのではありません。あくまでも、社会に振り落とされたのです。無論わたし自身も含めて。

繰り返しますがわたし自身は「抗議する者」という意識を毛一筋ほども持ってはいません。何故ならわたしはなんら「アクション」を起こしていないからです。

わたしにとって「アクション」とは、朝日や古田、磯部、難波、井上、三島などの行いを言います。或いはネッド・ラッド、ロベール・パダンデールの名を上げてもいいでしょう。エミール・ゾラを加えてもいいでしょう。


◇◇


すべての現状が「現状否定」から生み出された現状であることは否定できないはずです。


つまり、「現状」というのは「連続する現状否定の一瞬を切り取った今」にすぎないわけです。


この考えは、わたしには受け容れ難いものです。

つまり何故常に現状を否定しなければならないのか?何故現状維持は否認されなければならないのか?

この考え方こそが正に明治以降の日本という国の本質を表わしています。

絶え間なく否定されるつづけるいま」。昨日と今日が、今日と明日とが連続しない。10年前と現在には何の連続性もない。

これまでのあたりまえ」は恒常的に更新され、明日には既に世界は「これからのあたりまえ」に染まっている。

休む間もなく移ろいゆく価値観や社会の姿についていける者だけを認める社会。それが日本社会です。『「現在」は常に否定されるためにある」そんな社会(世の中)で、人間の生体がどうして病まずにいられるでしょう。

時の流れを止めることができないならば、現状を肯定することができないならば、人類は早晩滅亡するでしょう。

『ぼくは、この「ぼくにとって都合のいい世の中」に続いていてほしいから、それを肯定する』と言っているに過ぎませんからね。

ああ。これはまさしくわたしの言葉であり、わたしの想いです。そしてこれは主にヨーロッパ的な(=非・アメリカ的な)考え方でしょう。



話を戻すと、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうのは、すべての人が『社会に適応できる人間が優秀な人間である』という「催眠術」をかけられてしまっているからです。

その「催眠術」をかけたのは、人間ではなく「システム」としての「社会」です。

「社会」は、あくまで「システム」であって「人間の意志」を持ちませんし、多くの場合「人間の意志」を無視します。


そうでしょうか?

意思を持たない「システム」が人間を催眠状態に陥らせることが可能でしょうか?

「社会」は、言うまでもなく人間がつくったものです。そしてその社会を牛耳る者がいます。それは紛れもなく意思を持つ人間です。政治家であり資本家たちです。

「社会」を「人間」の上に置いたのは人間です。

社会から落ちこぼれたものは白眼視され、迫害されます。そして政治がすることは、あくまでもドロップアウトは良くないことであり、「従順な奴隷たれ」ということに尽きます。

いったい「引きこもり」や「鬱病」等の社会から弾きだされた人たちが自らを「抗議する者」として誇りを持つことはどのように可能でしょうか?

自分の家族が「引きこもり」であること「鬱病」であることを「恥」と考える人の多さを考えた時に、孤立無援の現実の中で、自分の現状をどのように「肯定」出来るでしょうか?

「どこでもいいから逃げる」この意見には賛同します。

しかし繰り返しますが「逃亡」することと「抗議」とは同じではありません。(少なくともわたしにとって)

「ただ逃げる」「社会に背を向ける」これはどのようなかたちであれ、社会と手を切ることです。「抗議」でも「抵抗」でもありません。そして蛇足を言うなら「逃げる」ことこそ大事なことであり「人間の尊厳」を守ることに繋がると思います。わたし個人は「力」を伴わないいかなる「抗議」も「抵抗」も「無意味」であると考えています。



ふたつさんは「抗議」「抵抗」という言葉を使うことで、何を目指しているのでしょうか?

「サイレントな抗議の声」は圧倒的な社会順応者たちの物笑いの種になるに過ぎません。


“War is peace.

Freedom is slavery.

Ignorance is strength.”

*

「戦争こそ平和」

「服従こそ自由」

「無智こそは力」

ジョージ・オーウェル『1984』





15 件のコメント:

  1. こんにちは。

    『たぶん』ですけど、言葉の違いだけですね。
    私は、言葉が足りないことが多いですから、どうしても、言いたいことが上手く伝わらなくなってしまうんです。

    前にも何度かいったと思いますが、これは、私が昔から体験してきたことで、いつもそうなります。
    特に、一所懸命に説明した時にそうなりますね。


    要するに、私には「自分の力量」を超えたことを言おうとする傾向があって、言いたいことがたくさんあるときには、必ず「容量オーバー」に成りますから、「説明力」が足りなくなってしまうわけですね。
    そして、それを一所懸命に言うんですが、一所懸命に説明はしないことが多いんです。

    どこかで、『「説明」なんてどうでもいいよ』と思っていて、『どうせ、こんな話、伝わるわけないんだから』という頭が常にあるので、『これを言いたい』という気持ちだけが強くて「説明」が二の次に成ってしまうわけです。

    うまく言えるといいと思ってはいるんですが、なかなか言えないんで、どうか、その辺はご勘弁いただきたいと思ってしまうわけです。

    まぁ、自分が黙ってるのが、一番確実なんですけどね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~

    ただ、Takeoさんの側からは、私の考えに非常に強く抵抗感を感じることが多いのかもせれませんが、私の側からは、ほとんど抵抗がない場合が多いんですよね。

    つまり、上でTakeoさんが書いていることを、『ここは自分の言ったことと違う!』とは思わないし、細かい部分を除いて私が言ったのと同じことのように見えてしまうんですね。
    (細かいところでは、そういう所もありますけど)

    この前も言った通り、いやな気分になったのであれば、忘れてくれると嬉しいです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~

    何度も言って申し訳ないんですが、ほとんど同じことにしか見えないんですよね。

    たぶん、私が『これ左ですよね』と言っているときに、Takeoさんが、同じものを反対側から見て『私には右にしか見えない』と言っているんじゃないかと思います。


    ただ、Takeoさんは、『それが納得できない』ということで、私は、『どっちでもいい』と思ってしまうということなんじゃないでしょうか?

    要するに、私は自分の言う言葉も他の人が言う言葉も、それほど大事にしていないのかもしれませんね。
    私は「言葉」には信頼性を感じていないんですね。
    もちろん、いいことではありませんが、昔からの習慣で、多分もう治らないような気がします。

    だからだと思いますが、こういう話で「物笑いの種」にされることを、そんなには恥だと思っていないんです。
    『まぁ、いやだけどね』という程度ですね。

    たぶん、ここがTakeoさんとの決定的な違いかもしれません。

    私には「プライド」というものが、ほとんどないんです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~

    ここで、「誇り」と「プライド」の違いなんですね。

    これは、英語と日本語の違いではないんですが、カタカナの「プライド」という言葉から私がイメージするのは「他人に対するモノ(他人との比較など)」なんですが、「誇り」の方は、どちらかというと「自分の中で完結するモノ」というイメージです。

    「物笑いの種」というのは、「他人から言われること」ですから、私はほとんど気にならないですね。

    だから、今もTakeoさんに『なんだ、この人ぜんぜんわかってないよ!』と思われていても、それは気にならないんですが、『Takeoさんに、いやな思いをさせたなら悪かったな』ということが気に成ってしまうわけですね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~

    まぁ、そんなところです。

    どうか、『嫌だな』と思うところは、忘れてください。



    それでは、また。

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    1. こんばんは。

      ふたつさんの気持ちはよくわかります。

      なんていうのか、別にふたつさんと見解の相違があったって構わないじゃないかという気持ちです。そもそもわたしは自分の意見が正しいなどと思っていませんので、「違い」は「違い」としてそっとしておけばいいんじゃないかと思います。

      >この前も言った通り、いやな気分になったのであれば、忘れてくれると嬉しいです。

      嫌な気分にはなってませんよ。

      仮にわたしがふたつさんの言っていることに「同意できない」としてもそれはどうしようもないことだと思っています。無理やりふたつさんに自分の考えを押し付けるつもりはさらさらありません。

      おそらく一番の相違点は、「社会」に対する「怒り」「憎しみ」の感情の有無だと思います。
      わたしは現代社会を「憎悪」しているので、「引きこもり」が「抵抗運動」という考えにどうしても馴染めないのです。わたしはこの社会が良くなるなどと全く考えたことはありません。
      ですから「抗議・抵抗」イコール「暴力の行使のみ」という結論に結びついているのです。

      >だからだと思いますが、こういう話で「物笑いの種」にされることを、そんなには恥だと思っていないんです。
      『まぁ、いやだけどね』という程度ですね。

      たぶん、ここがTakeoさんとの決定的な違いかもしれません。

      私には「プライド」というものが、ほとんどないんです。

      わたしにも取り立ててプライドなどと呼べるものはありませんが、自分をコケにされて、言いたい放題言っている人間には殺意を覚えますね。勿論これを「プライド」と呼んでも一向に構いません。

      ネット上でわたしが「彼」以上に憎んでいる存在をふたつさんはご存知ですよね。
      その憎しみの程度は「罪であり罰である」の「彼」の比ではありません。



      でももうこういう話はどうでもいいですね。

      残り少ない人生もっと楽しい時間を過ごしたいと心から思います。

      例えばふたつさんと一緒にブルースのレコードを聴きながら一杯やって話すとかね。

      所詮ネット上で何を言ったって不毛じゃないですか?


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    2. 追伸

      >所詮ネット上で何を言ったって不毛じゃないですか?

      こういう話を面と向かって話すなら全然抵抗はありませんけどね。
      「非・言語的」な要素を一切なくしたディスプレイ上の対話には自ずと限界があると言うことです。

      もっと楽しいブログにしたいなぁといま、迷っています。

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    3. こんにちは。

      まず、Takeoさんがいやな気分になったのではないということは良かったと思います。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      まず初めに、前のコメントの捕捉です。

      ◇    ◇

      学校のクラスの中に「イジメ」があるとします。
      私は、「イジメられている子」の存在自体を、貴重なものと考えます。

      他のことはあまり気にしません。

      例えば、よくある話ですが、
      『イジメられている子の側にも何か問題があるんじゃないの?』
      関係ありません。
      『どういう事情でイジメに至っているのかわからなきゃ、判断できないでしょ?』
      関係ありません。
      『イジメられている子は、なんで逆らわずにイジメられ続けてるの?』
      関係ありません。
      『やめて!と言えばいいのに、言わないなら、イジメていいよってことでしょ?』

      全部関係ありません。

      『イジメられている「あなたの存在」が貴重』
      それだけで十分。

      だから、実際に「抗議」する必要なんかありません。


      ただし、この前のコメントの一番初めに書いたように、私の言っていることの方に無理があるのは承知しています。

      ただ、私には「その子」になにも上げられるものがない。
      だから、言葉だけですが、「誇り」とか「抗議」とかという、少しでも頼りになりそうな言葉を贈りたいと思ったということです。

      もちろん、こんな言葉なんか何の助けにも成りません。
      でも、ほかにあげられるものが何もないとき、『君に何か上げたいんだ』という気持ちだけを伝えることは出来ないか?


      まぁ、そんなことです。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      だから、私が、「社会」が変わると思って言っていることでもないし、そういう「期待」も持っていません。
      (私は、空想の中でそういうことを言うことが多いので、そういう誤解を与えると思いますが、実際には、まったく期待していないんです。たぶんまったく期待していないから、軽い気持ちで言ってしまうんじゃないかと思います。)

      ただ、『「いま」の中では生きられない』ということですね。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      次に、今回の記事について

      「社会」に対する「怒り」「憎しみ」の感情は、私にもありますよ。

      ただし、私にとって『殺したい』はイコール『明日殺しに行く』なんですね。
      それで、『明日殺しに行かない』ならば『殺したくない』ということに成ってしまうわけです。

      もう一つ言うと、私は、その「怒り」や「憎しみ」を『ゆるさない』という言葉で言うことが多いですね。
      なぜかというと、「憎しみ」や「恨み」というのは『晴らすためのもの』という感覚があるからです。
      私の中では「憎しみ」を『晴らした』あとは『ゆるさなければならない』という方程式に成っていて、それでも『ゆるさなかった』場合は、自分が「憎まれる側」に成るということが自動的に決定されて行ってしまうという感じに成っているんです。

      そして、そういう感情は一度発生した時には、『消えない方がいい』と思っているので、『ゆるさない』という言葉の方を選んでしまうわけです。

      なぜ、『消えない方がいい』かというと、「ゆるされた者」は必ず同じことを繰り返すからですね。

      これは、ほぼ100%だと思いますよ。

      自分もそうだし、ほかの人もそうだと思います。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      次に、

      上で、Takeoさんが述べている「抗議・抵抗」イコール「暴力の行使のみ」

      ということについてです。


      私は、「暴力」=「暴力の行使のみ」とは思いません。
      もしも、「暴力」=「暴力の行使のみ」であるならば、「言葉の暴力」は「暴力」ではないということに成りかねませんし、もっと陰湿な隠れ方をすれば「暴力」として避難してはいけないということが、まかり通ってしまいます。

      如何に「サイレント」であっても「暴力」は「暴力」だし、「抗議」は「抗議」だというのが私の考えです。

      Takeoさんや匿名さんのご意見も分かりますが、これについても、私としてはお二人のご意見と、それほど大きな違いは感じませんでした。

      もちろん、上で書いた通り、私の言っていることの方に無理がありますし、お二人のご意見の方が理にかなっているとは思いますが、私自体が理にかなっていない人間なので、その辺はどうかご容赦くださいませ。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      あとは、匿名さんのおっしゃるところの「関われる者」と「関われない者」についてです。

      「関われない者」が、生まれつき関われなかった場合は、「抗議」や「抵抗」と直結していることではないのかもしれません。
      (例えば、先天性の障害や人種など)
      私も、いくら「人種差別」があるからと言って、「黒人であること」自体を「抗議」だとは思いません。

      しかし、1960年代までならば、黒人が白人と同じアメリカ人であることを主張するだけで、それは「抗議」となります。

      でも、私が述べた「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちは、もともと「関われなかった者」というよりは、社会から疎外された結果「関われなくなった者」という性質が強いと思います。

      これは、決して、彼らが『わざと引きこもっている』とか『ほんとうは働けるのに働かないんだろう』ということではありません。
      (ただし、そういう方向に話が曲解される危険性はあると思います)

      彼らの『働けない』『出られない』を疑っているわけではありません。

      どちらかというと、
      『自分たちをはじき出した社会に、頑張って適応する必要があるのか?』
      ということです。

      私は、その「不適応」は「怠惰」ではないと言いたかったわけです。

      もちろん、多くの人が「気持ちよく働ける社会」であった方がいいでしょうし、「気持ちよく外に出られる街」であるに越したことはないでしょうが、私は「いま」に関しては、もう少し状況が悪いと思うわけですね。

      私は、「いまの社会に対する期待値」が極めて低いので、そこまでは期待しません。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

      最後に、
      『わたしが「彼」以上に憎んでいる存在』
      というのは、たぶん「東大おじさん」のことだと思いますが、彼こそが、まさに『ちょっとだけ教育を受けた黒人が、教養のない黒人を非難する』というパターンの典型です。

      生涯にわたって「黒人(弱者)のふり」と「白人(強者)のふり」を使い分けて生きていく人だと思います。
      でも、「強者」の側に寝返った者は、もう「弱者」とは言えませんから。
      (こういう人には上の「疑い」を持ってしまいますね)


      ※ねずみ男のセリフで、

      『鬼太郎、まだわからないのかい?オレは強い者の味方なんだぜ!』

      というのがあるんですが、そういう感じの人生だと思います。


      いいんじゃないですか?

      「東大出のねずみ男」で貫いてください。

      こういう人、たくさんいますね。



      それでは、また。



      削除
    4. 追伸

      私は、このブログを楽しいと思ってますよ。

      削除
    5. こんばんは。

      >学校のクラスの中に「イジメ」があるとします。
      私は、「イジメられている子」の存在自体を、貴重なものと考えます。

      わたしも、以下に続く文章も含めて同感です。

      >『イジメられている「あなたの存在」が貴重』
      それだけで十分。

      そう思います。

      >もちろん、こんな言葉なんか何の助けにも成りません。
      でも、ほかにあげられるものが何もないとき、『君に何か上げたいんだ』という気持ちだけを伝えることは出来ないか?

      わかります。



      >だから、私が、「社会」が変わると思って言っていることでもないし、そういう「期待」も持っていません。
      (私は、空想の中でそういうことを言うことが多いので、そういう誤解を与えると思いますが、実際には、まったく期待していないんです。たぶんまったく期待していないから、軽い気持ちで言ってしまうんじゃないかと思います。)

      ただ、『「いま」の中では生きられない』ということですね。

      そうですね。わたしも次第にふたつさんの考え、というか気持ちが理解できるようになってきた様です。つまり「理由の如何を問わず」「引きこもる」「引きこもっている」ということは「いいこと」だ。と思うのです。

      年齢性別問わず、もっともっと引きこもる人間が増えればいいと思います。
      それは「社会への抗議」でも「抵抗」なく、今の社会の居心地の悪さ故で充分な根拠足り得ると思います。

      いまの社会に居心地の悪さを感じているものは引きこもればいい。
      この社会に居心地の良さを感じている者たちだけが街を闊歩すればいい。



      わたしは「憎しみ」や「怨み」を晴らすために「殺すこと」は考えません。けれども、その「にくしみ」なり「うらみ」は相手を殺したからといって「消滅」するものでは決してありません。

      殺すことは確かに復讐ですが、「相手の死」を以てすべてが終わるとは思わないのです。
      つまりわたしは自分の手で相手を殺しても、その人物を赦すことはありません。



      >「抗議・抵抗」イコール「暴力の行使のみ」

      この文脈でわたしが述べているのは、言うまでもなく「言葉の暴力」も含めてのことです。
      物理的な破壊活動から罵詈雑言までを含めての、「力」に対する「力(暴力)」の行使です。



      匿名さんのコメントにあった、

      >「関われる者」と「関われない者」

      については、ふたつさんの説明で充分であると思います。

      ただし、

      >これは、決して、彼らが『わざと引きこもっている』とか『ほんとうは働けるのに働かないんだろう』ということではありません。
      (ただし、そういう方向に話が曲解される危険性はあると思います)

      「曲解」云々という以前に、「わざと引きこもっている」或いは「本当は働けるのに働かない」ことが何故「悪い」のか。何故非難の対象になるのか。わたしたちはそのことを真剣に考えたことがあるでしょうか?

      精神科医の齋藤環は、「日本はいまだに『働かざる者喰うべからず』といった前近代的な考え方(価値観)が根強い」と、ある冊子のインタヴューで述べています。わたしは決して斉藤氏の支持者ではありませんが、この発言に関しては当たり前のことを言っていると思っています。

      >『自分たちをはじき出した社会に、頑張って適応する必要があるのか?』

      正に仰る通りですね。

      >もちろん、多くの人が「気持ちよく働ける社会」であった方がいいでしょうし、「気持ちよく外に出られる街」であるに越したことはないでしょうが、私は「いま」に関しては、もう少し状況が悪いと思うわけですね。

      今の社会は「心身共に健常」である人間仕様ですね。



      >※ねずみ男のセリフで、

      『鬼太郎、まだわからないのかい?オレは強い者の味方なんだぜ!』

      はははは。
      ねずみ男的な人間って、いくらでもいますよね。ねずみ男的な人間の方が圧倒的多数派だと思いますよ。

      >最後に、
      『わたしが「彼」以上に憎んでいる存在』
      というのは、たぶん「東大おじさん」のことだと思いますが、

      いいえ。わたしは「東大出の方」を別に憎んではいません。まして「殺意」を抱いた記憶もありません。

      殺しても飽き足らない奴は別にいます。


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    6. >私は、このブログを楽しいと思ってますよ。

      そうですか。それはありがとうございます。楽しいのがいちばんですよね(笑)

      削除
  2. こんにちは
    私も鬱や引きこもりは抗議や抵抗ではないと考えるTakeoさんの意見に同意します。
    個人的にはそれらは社会との乖離が本質で、抗議や抵抗などは社会と密接な関係にあるものであるため、全く違うものなのではないかと思うのです。
    関われない者と関われる者、その大きな差がそこにはあると思います。

    返信削除
    返信
    1. こんにちは。

      コメントをありがとうございます。

      わたしはふたつさんの意見を全面的に否定してはいません。

      引きこもりや鬱の人たちの「社会との乖離」ですが、わたしには、「働いていない」乃至「働くことができない」という「現象」があったとしても、彼らの内面は深く社会と結びついているのではないかと思われるのです。「できることなら社会に復帰したい」という気持ち。それは多くの「引きこもり」や「鬱の患者さん」たちに共有された気持ちではないかと思うのです。

      「関われる者」と「関われない者」── 社会とどのようなかたちで「関わる」= 「コミットする」かですね。

      ふたつさんは「数の力」と仰っていますが、こと社会の変革・改善を目指すのなら、
      いわゆる「サイレント・マジョリティー」は「声なき故に」改革の力には成り得ないと考えています。

      また何か考えがあれば気軽に書きこんでください。

      削除
    2. 追伸

      匿名さんがわたしのブログの読者であるなら今更言うまでもありませんが、

      >関われない者と関われる者、その大きな差がそこにはあると思います。

      わたしのふたつさんの完全に一致した意見は、「関われない者」は決して「関われる者」よりも劣位の者たちではないという一点です。
      そして「関われる者」は決して「関われない者たち」の上位に位置する存在ではないということです。




      削除
  3. 返信ありがとうございます。
    私は鬱や引きこもりが内面で社会と深く結びついているという意見には懐疑的です。
    人は極めて社会的動物なので個々が社会を求めるのは自然だと思うのですが、それと今あるこの現実の社会と繋がっているという話はまた別なことのように思うのです。
    望んでいるだけでつながっていると言えるのでしょうか。
    望みというものは一方的な感情でも成立します。一方、繋がるということは双方がたとえ嫌々でも関りを持たなければ成立しないはずです。
    故にこの二つは違うものだと、少なくとも私には感じられます。
    またそれに関連して、望むだけのものと実際に繋がっていられる者には、叶えられたも者とそうでない者の優劣があるように思います。

    多少攻撃的な内容になってしまったかもしれませんが、私にもTakeoさんやふたつさんのように誰かを攻撃するような意図はないです。
    私も出来れば社会と繋がりたいと望むだけの側の人間です。この主張はただの自虐の延長線上のものです。

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    返信
    1. こんばんは。

      >人は極めて社会的動物なので個々が社会を求めるのは自然だと思うのですが、それと今あるこの現実の社会と繋がっているという話はまた別なことのように思うのです。

      それは仰る通りかもしれません。
      ただわたしは、「対象に眼差しを注いでいる」ということ。その「視線の方向」を以て「繋がっている」と表現したのだと思います。
      例えば「片思い」を、それでも「恋」(=ある種のつながり)であると考えるか、「片思い」は「対象との実際的な関係性が築けていない」以上、あくまでも「一方的な思慕」に過ぎないと考えるかの違いのようなものだと思います。

      勿論これは匿名さんへの反駁ではないし、「言い負かそう」などという気持ちは全く持っていません。匿名さんの気持ちもよくわかります。そして(エラそうに聞こえるかもしれませんが)

      >故にこの二つは違うものだと、少なくとも私には感じられます。
      このような表現に好感を持ちます。

      >私も出来れば社会と繋がりたいと望むだけの側の人間です。この主張はただの自虐の延長線上のものです。

      >望むだけのものと実際に繋がっていられる者には、叶えられたも者とそうでない者の優劣があるように思います。

      綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、わたしは人間には序列はないと思います。あるのは、今目の前にある対象との相性だと。それが「就職活動」であれ「恋愛」であれ、叶えられない者が劣っているからとは思いたくはないのです。

      わたしは「デフォルト」に適応した者が、そうでない者に比べて勝っているとは思いません。
      それは「多数派正常の原則」を疑わないということと同じだと思うのです。

      こんにち、「好むと好まざるにかかわらず、適応しなければならないのが「社会」という存在」だとは思わないのです。

      人に説教染みたことを言うのも言われるのも好きではありませんが、匿名さん。ご自身が本当に「いま・目の前にあるこの社会」と「ほんとうに」「繋がりたい」と感じているのか?もう一度ご自身と対話なされてはいかがでしょうか。

      わたしの考え方や発言が非・現実的であることは重々承知しています。

      それを承知で、また気が向いたら気軽に意見を聞かせてください。
      匿名さんの実際的な役に立つようなことは何も言えませんが。








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    2. 返信ありがとうございます。
      繋がりに関しては双方に認識の仕方の違いがありますね。

      人の優劣に関しては、私もこの世界を俯瞰して見たときには優劣は存在しないと思います。
      しかし社会と繋がりたい一人の存在から世界を見たとき、やはり適応力の優劣感じざるを得ないのです。

      私は心の底から目の前にある社会と繋がりたいと思っています。
      たとえば私もTakeoさんと同じで現代のスマホ文化を嫌っていますが、私は出来ることならその文化にどっぷりと浸かれる人間になれれば良いと思っています。
      無論私にそれが出来ないことも分かっているのですが、それでも現状が辛いので望み続けています。
      恐らく自分を変えてもいいかそうでないかというところに、Takeoさんと私の大きな違いがあります。
      様々な違いがありますが、私はTakeoさんの考え方が好きです。貴方の意見が非現実的だとも思いません。理想を追い求めているところが、ご自身からすると非現実的に感じられるのかもしれません。
      しかし現実は理想を求めるべきであり、その2つは繋がっているべきだと考えます。なので私にとっては現実的なものです。

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    3. こんばんは。

      >無論私にそれが出来ないことも分かっているのですが、それでも現状が辛いので望み続けています。

      わたしは匿名さんに対して、辛くとも「自分であること」を貫いて欲しいというつもりはありません。
      やはり「辛い」「くるしい」ことから逃れたいというのは人間の自然な反応ですからね。

      >自分を変えてもいいかそうでないかというところに、Takeoさんと私の大きな違いがあります。

      自分を変えることなく社会に適応する・・・そんなことは夢物語でしかないのかもしれませんね。

      率直な意見を聞かせて下さりありがとうございます。





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  4. >私も出来れば社会と繋がりたいと望むだけの側の人間です。この主張はただの自虐の延長線上のものです。

    >望むだけのものと実際に繋がっていられる者には、叶えられたも者とそうでない者の優劣があるように思います。

    「非モテ」では右に出る者のいないわたしにとって、匿名さんのこの自虐感、わたしの胸の奥底にも確かに在ると思います。

    例えばわたしはふたつさんにさえ劣等感を持っていますよ・・・彼を好いてくれた(くれている)女性が存在するということでね。

    だからわたしは自分を「人外」(にんがい)「人に非ざるもの」と自己規定しているのです。

    このブログに掲げている言葉をここに引用します

    「....お前は人間ではないのだ。お前は人交はりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。」

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