再度確認しなければならない。
「健康」とは、あくまでも人間の生体と、その者を取り巻く様々な環境=外部の世界両者の調和にその基礎を置く。であるならば、目の前に座っている患者の心身の状態のみを改善しようと試みる精神医療の意味とは何か。
正直なところ、わたしにとって、精神科に通院することに何の意味があるのか皆目わからない。
一般に精神医療に於ける「回復」とは、河の汚染を放置したまま「患者」を「ドブ泥に適応させる」ことであると考える。
確かに「適応」することができれば、患者の主観にとって、そこは最早「ドブ泥」ではなくなっていると言えるだろう。
「少しでも楽に生きられるように」という精神科の謳い文句の意味が、「ドブ泥をドブ泥と思わなくなる」ということであれば、生体の精神を蝕む「社会の病」は、何時、如何にして治癒されるのだろう。
精神医療の発展によって、「回復者」が増加すれば、その分「社会の病理は深刻化しつづける」というパラドクスが成立しないだろうか・・・
われわれは「病む(病んでいる)ことの意味」を、その「意義」を「価値」を、もう一度熟慮しなければならないだろう。
こんにちは, Takeo さん.
返信削除> 「健康」とは、あくまでも人間の生体と、その者を取り巻く様々な環境=外部の世界両者の調和にその基礎を置く。であるならば、目の前に座っている患者の心身の状態のみを改善しようと試みる精神医療の意味とは何か。
私なりに精神科の医療には疑問を感じるところがあります.
私が鬱病を発症したのは, 前の主治医によれば, 両親からの精神的虐待により社会に適用できなくなってしまったことが原因です.
この診断には私も納得しています.
社会への適用の仕方を学ぶためにデイケアに通い始めました.
もうデイケアに通って 17 年目になりますが, わかったのは自分はどうあっても今の社会には適用できない存在であるということですね.
私は就労不能であり, 人と触れ合うことが恐ろしいと感じており, コミュニケーション恐怖を患っています.
精神科に通って, 主治医と 5 分程度の問診をします. 主治医が「無理をしないでください」と言って診察は終わります.
その後, 薬を出してもらいます.
あえて, 私が精神科に通う意味を見出だすとすれば, 薬をもらうことですね.
薬を飲むことで私の体調はある程度安定します.
飲まなければ, すぐに得体の知れない不安や気分の落ち込みに襲われます.
もっとも, 薬を飲んでいても鬱状態には陥るのです.
その理由ははっきりとはわかりませんが, おそらく私の内向的な性格や気質から来ているのではないかと思っています.
> 一般に精神医療に於ける「回復」とは、河の汚染を放置したまま「患者」を「ドブ泥に適応させる」ことであると考える。
そうですね. 「ドブ泥」である社会に適応するために, 社会復帰のプログラムが提供され, 作業所などで実践されています.
しかし, 就労不能と診断された自分には何もありません.
一時, 社会復帰を目指したことはありましたが, 現在の自分には「社会復帰」はあまりにも遠い言葉になってしまいました.
社会が精神障害者に対する対応を変えない限り, 私が「回復」することは無いでしょう.
この国は, 精神障害者・鬱病者にとって非常に生きにくい世界です.
> 精神医療の発展によって、「回復者」が増加すれば、その分「社会の病理は深刻化しつづける」というパラドクスが成立しないだろうか・・・
> われわれは「病む(病んでいる)ことの意味」を、その「意義」を「価値」を、もう一度熟慮しなければならないだろう。
精神医療が意味を持つためには, 患者への治療と社会の制度が並行して変わっていかなければならないと思います.
ただ, そういうこととは別に, 少なくとも私にとっては「病む」ことの意味を常に考えされられているとも思うのです.
鬱病は, 罹患した当人を常に否定し続けます. 無価値感, 罪悪感, 自責の念が常に当人にのしかかります.
私は, それで自我が保てなくなり, 結果として入院にまで至りました.
鬱病になってから感じるのですが, 自分とは何かという問い掛けに常に晒されています.
自分がわからない, 自分を見出だせないのです.
このことで得体の知れない不安を呼び, それが私を苦しめています.
自我への不安, とでも言えばいいでしょうか.
何とか解放されたいと思いますが, 難しいかも知れません.
こんばんは、底彦さん。
削除今日は現在のわたしの率直な感情を記してみたいと思います。
まとまりのない断片的な記述になってしまうと思いますがご容赦ください。
◇
>社会への適用の仕方を学ぶためにデイケアに通い始めました.
もうデイケアに通って 17 年目になりますが, わかったのは自分はどうあっても今の社会には適用できない存在であるということですね.
私は就労不能であり, 人と触れ合うことが恐ろしいと感じており, コミュニケーション恐怖を患っています.
17年間デイケアに通っていらっしゃることは初耳でした。
率直に言って、現在の底彦さんにとって、「デイケア」とはどのように位置づけられているのでしょうか?
デイケアでは「人と触れ合い」参加者であれスタッフであれ「コミュニケーション」を取っているのですよね。底彦さんにとってデイケアは「社会以外で他者と触れ合うことの出来る場」なのでしょうか。
わたしは母以外の他者との接点・接触が全くありません。
ですからふたつさんにも言ったように、家族以外の他者との友好的な関係がある人(底彦さんを含む)に対する強い嫉妬、妬みの感情があります。
先日「匿名さん」のコメントにあったように、「適応能力の優劣」は確かにあるのだと思うのです。それを「優劣」という言葉で表すことが適切かどうか、わかりませんが、わたしには底彦さんやふたつさんに対する明らかな「劣等感」があります。
◇
「一般に精神医療に於ける「回復」とは、河の汚染を放置したまま「患者」を「ドブ泥に適応させる」ことであると考える。」
わたしの病名はいまだ確定していませんが、(発達障害の専門医に会ったことがありませんので)わたしは外に出ることが非常に困難です。外界に溢れる「聴覚的・視覚的ノイズ」に耐えられないのです。
>社会が精神障害者に対する対応を変えない限り, 私が「回復」することは無いでしょう.
>この国は, 精神障害者・鬱病者にとって非常に生きにくい世界です.
後者には同感ですが、前者に対しては100年待ってもこの国の人々の意識は変わることはないでしょう。
>精神医療が意味を持つためには, 患者への治療と社会の制度が並行して変わっていかなければならないと思います.
その通りだと思います。
◇
>鬱病になってから感じるのですが, 自分とは何かという問い掛けに常に晒されています.
自分がわからない, 自分を見出だせないのです.
底彦さんの問いかけの対象は「自分とは何か?」。では底彦さんは「自分がいま生きている意味」をどのように考えますか?
わたし自身、この現代社会に生きている意味がまったく、まったく見いだせないのです。
底彦さんのように人との触れ合いがあるわけじゃない。ちょっと古書店街を歩いてみるために途中駅で降りてみるということも出来ない。ふたつさんのように(血のつながりのない「味方」)=「奥さん」がいるわけではない。
そしてわたしは母の人生を喰い潰して生きている。
つまりわたしの存在は、本人を含め誰ひとり益するところがありません。
片言隻句を取り上げて揚げ足を取るつもりはありませんが、
底彦さんが、2月10日の「本と詩のこと」の末尾に書かれていた言葉
「落ち込んで疲れ切っていても生きる力を与えてくれるものは確かにある.」
という言葉にわたしは途轍もない「彼我の差」を感じました。
◇
最近わたしがしきりに想起する言葉・・・「溺れる者」と「救われる者」・・・わたしは紛れもなく前者です。
>何とか解放されたいと思いますが, 難しいかも知れません.
底彦さんはこのことばを「生」の方向に向けて使っておられますが、いまのわたしにとって「解放」とはこの世界から消え去ること以外には考えられないのです。
とりとめのない「愚痴」のような文章になってしまいましたが、これが現在わたしが感じている「絶望」と、「現代社会に自分の居場所はどこにもない」という深い諦念の入り混じった感情の吐露であると受け取ってください。
どうか心穏やかな週末を過ごされますように。
武雄
参考投稿
「わたしにとっての精神医療とはなにか?(底彦さんのコメントに触れて)」
https://pobohpeculi.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html
追伸
削除>昼からデイケアの友人と会う.
カフェに入って食事をとりながら話す.
日常のことや, 友人の仕事のこと, 自分の体調のことなど.
楽しい時間を過ごすことができた.
底彦さんの2月22日の日記の一節です。
わたしの人生には、このような「たのしみ」など何ひとつないのです。
>望むだけのものと実際に繋がっていられる者には、叶えられたも者とそうでない者の優劣があるように思います。
これは「匿名さん」の言葉ですが、わたしもこのことばには頷かざるを得ないのです・・・
こんばんは。
返信削除私は、嫉妬心は一般的に言われているほど「悪い感情」ではないと思います。
しかし、嫉妬を抱くのは悪いことだと思わないんですが、それを「自分自身の願望」とは別のものとして考えた方がいいような気がしています。
例えば、Takeoさんが、私と妻の関係に嫉妬心を感じること自体は、ごく普通のことなのかもしれません。
自分にないものを望むことが悪いとは思いません。
ただ、それを「自分自身の願望」に置き換えてしまうということは、どういうことかというと、
Takeoさんが『私の人生をすべて背負えるのか?』という問いを突き付けられることに成るということだと思います。
これは、まったく逆の話でも同じで、私はTakeoさんとお母さんの関係をうらやましいと思うし、Takeoさんに対してタンブラーでもブログでも、また、文章を書いても、到底かなわないという嫉妬心を持っています。
少なくとも、Takeoさんが人気がないというこのブログでも、いつもコメントを入れる常連の人がいるだけでなく、匿名さんのような方が、率直な心からのコメントを入れているのを今までに何回も見かけています。
私のブログにそんな人一人も居なかったと言っては、本当に、私のブログのようなブログにコメントを入れてくれた方たちに申し訳ないと思うんですが、やはり、このブログを見ていると羨ましいなと思ってしまいます。
これは、底彦さんも同じ気持ちがあるんじゃないかなと思います。
でも、私は、Takeoさんの人生を丸ごと引き受けることは出来ません。
これは、例えば、一見すると人生の中に何一つ苦労などないかのように見える人がいたとしても同じで、やはり、その人の人生を丸ごと引き受けようという気にはなれません。
だから、あくまで個人的な意見を言わせてもらえば、私は嫉妬心は、「理想」や「夢」が実現しなくていいように、持っているだけでいいもののような気がしています。
Takeoさんは、『自分には何もない』と言いますが、やはり外から見ると、Takeoさんが持っているものもあるというのは確かなことであって、また、その逆に、Takeoさんから見て「持てる者」と見える人が、本人の中では『自分には何もない』と感じているというのが現実だと思います。
だから、どうだということはないですけどね。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除おそらくふたつさんの言わんとしていることを誤解しているのだと思いますが、厳密に言えば、わたしはふたつさんや底彦さんという個別の存在に嫉妬しているのではなく、人を引き付ける「人格」というか「魅力」という「或る属性」を持っていることを羨ましいと思うのです。
仮に少しばかり文章が書けたからといって、それ以上に大事なことは「人として人に好かれる」ということだとわたしは思っています。
人とのつながり。友情。愛情。これは誰にとっても「根源的な欲求」であり、人が生きてゆく上でなによりも不可欠なものではないでしょうか。それが欠けているわたしはそもそも人間と呼び得るでしょうか?
わたしは孤独な王様よりも、仲間に囲まれたホームレスになりたいと本気で思います。
追伸
削除有名無名を問わず、ふたつさんには、「このひとにならなってもいいな」と思う人はひとりもいませんか?
わたしはいますよ。
こんにちは。
返信削除あの一連の言葉はあまり気になさらないでください。
あくまでそういう視点で見ることもできるという話で、それが不変の真理というわけでは全くありません。
Takeoさんにも他者が羨む素敵なところがあります。
私などは常々文章力や知識の豊富さ、美術を愛する心、こうしてブログで自分の考えを発表できることなど、羨ましさでいっぱいです。
きっと他の方もTakeoさんを羨んでいるところがあると、私は信じています。
つまり言いたいのは、人間関係だけが人として大事なことというわけではないので、深刻に考えすぎないでほしいということです。
こんばんは。
削除匿名さんの言葉がこころにわだかまっているというわけではないのです。
ただ、どうしても、自分の欠点・欠陥の方にばかり気が行ってしまうのです。
>羨ましさでいっぱいです。
匿名さんも、そしてふたつさんにも過分のお言葉を頂き素直にうれしく思っています。
>人間関係だけが人として大事なことというわけではないので、深刻に考えすぎないでほしいということです。
しかしわたしにとってはやはり”ALL YOU NEED IS LOVE”「愛こそは全て」(ザ・ビートルズ)
なんですね。
また気軽に立ち寄ってください。
良い週末を^^
追記します。
返信削除例えば、Takeoさんが私と妻の関係とほぼ人間関係を手に入れる代わりに、今まで読んだ本や見た映画や心を奪われたアートのほぼすべてを失うとしても、それをうらやましいと思いますか?
もしも、それでもそれが手に入れたいと思ったとして、それはTakeoさんの人生だと言えるでしょうか?
これは、匿名さんにも当てはまることかもしれませんが、自分の人生を生きているということに、「優劣」など無いと思いますよ。
匿名さんがおっしゃっている「優劣」というのは、世間が一方的に決めた「優劣」のことだと思うんですよね。
確かに、たとえ世間が勝手に決めた「優劣」であったとしても、「優」が割り当てられる人と「劣」が割り当てられてしまう人の「差」は計り知れないものがあり、それを軽々しく『それこそが、受け入れるべき自分なんだ』などと言うつもりはありません。
しかし、『自分を失うこと』というのも、また悲しいことではありませんか?
匿名さんは『自分を変えることも辞さない』と言われていましたが、それは「自分を丸ごと失うこと」を想定して言っていますか?
もしも、そうでなければ、『自分の中のいいところだけは取っておいて、人のいいところもいただけるならば、理想だよね』という話に成ってしまいます。
もちろん、そんなお気持ちで言われたことではないということは、文面から十分伝わってきまっしたし、「関われない者」としてのご自分に対する「悔しさ」や「ふがいなさ」という気持ちで書かれたことだと思います。
しかし、少なくとも、私はたった数回のコメントを拝見しただけでも、匿名さんのお人柄やお気持の一端を伺い知るには十分でした。
少なくとも、そういう「正直さ」を失ってしまっている人が、「いまの中」にはたくさんいるというのは事実ですから。
私は、そういう「自分」であることを、少しは評価してもいいような気がしました。
「自分」というのは「優劣」などとは無関係に「唯一無二」ですから。
それでは、また。
>Takeoさんが私と妻の関係とほぼ人間関係を手に入れる代わりに、今まで読んだ本や見た映画や心を奪われたアートのほぼすべてを失うとしても、それをうらやましいと思いますか?
削除思います。
◇
これまでこのブログで一貫して主張してきたことを覆すことになるかもしれませんが、今のわたしには「そうまでして守らなければならない自己」というものに懐疑的になっています。
上で、ふたつさん、匿名さんおふたりに言いましたように、「人間にとってなによりも欠かすことができないのが愛情であり友情である」と考えるわたしにとって、さてその価値観を規準に自分を省みた時に、わたしの存在はほぼ「無」であると言えると思うのです。
>「自分を丸ごと失うこと」
わたしにそもそも「失うべき人生」などあったでしょうか?
愛、友情に勝るものなど何ひとつないと考えています。
こんにちは。Takeoさんのブログのコメント欄を掲示板のように使うことに気は進まないのですが、質問があったので返答させていただきます。
削除想定しています。
率直に言って、私は私のいいところ(とされるもの)を犠牲にすることを厭わないです。
そもそも私が求める変化は、"スマホを代表とするような今の文化が好きになる"といったような相反する自分になる変化なので、今の私が犠牲になるのは必然と言えます。
共感し難いことだと思いますが私のような自分を愛せない者にとっては、自分という存在に苦しむ者にとっては、自分を失えることはむしろ幸福に近いことです。
こんばんは。
削除わたしのブログを掲示板のように使っていただいて構いませんよ。匿名さんとふたつさんのやり取り、ふたつさんと底彦さんとのやりとり。
それは寧ろわたしの望むところでもあります。
◇
わたしは自分の人生に嫌気が差しています。自分の人生って一体なんだと思っています。
同時にスマホに象徴されるような現代の文明社会にも強い嫌悪を感じています。
自分も好きではない。自分を変えたい。けれども外の社会とはどうしても合わない。
わたしの生きる場所はないのではないか。
ただただ途方に暮れています。