2022年3月18日

誰にも分からない、或いは自傷行為について

 「おねがいだから止めて。 あなたを愛する人のために、止めて・・・」

この言葉は一見すると麗しい愛情(乃至友情)から発せられた言葉のように聞こえる。けれども、これはそのように相手に望む者の「エゴ」ではないだろうか?

かつてあるブログにリストカットやオーバードースについて書かれていた。わたしはそのブログの筆者である女性に愚かな質問を投げかけた。

「何故リストカットの「痕」を隠す必要があるのですか?これは何故入れ墨を隠す必要があるのかと同じレベルの質問だと思います。」

と、

彼女はこの愚かしい質問に真面目に、丁寧に答えてくれた。

「なぜリスカ痕を隠すのか」
正直なところ、隠さなくても受け入れられる世の中なら隠したくはないです。自分の生き抜いた証だと思っていますので、、、。
しかし、世間の目はタトゥーを見るのと同じです。痕のせいで仕事にも就けません。
だから隠すのです。

わたしは彼女を抱き締めてあげたかった。しかし彼女はわたしなどより、なによりも社会に抱きしめてもらいたかっただろう。 

◇ 

わたしは若い頃から、リストカットならぬ「言葉による自傷行為」を繰り返してきた。

このように書いたことがある

「ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。」


4年前の投稿から抜粋引用する。

「自分を否定しないこと、これこそが世界を変えるための第一歩です」
 ー 竹宮惠子

これは26歳の若く有能なライター・編集者のブログで紹介されていた本の帯に書かれていて、彼が「強く惹かれた」言葉だそうだ。

人は、誰かが彼(彼女)自身のことを悪くいうのを聞くのが不快らしい。
そしてもっと自分を認めること、受け容れること、自分を愛することを求める。
皮肉なことにわたしだけが、自分を愛せない自分を受容し、わたしだけが自分を受け容れることの出来ない自分を許している。


言葉による自傷行為を不快であると感じる人間は、同様に、身体に対する自傷行為に嫌悪感を示すのだろうか?もし、リストカットに、手首のケロイドに抵抗が無い人が、それでも、言葉による自傷行為だけは許容できないとすれば、それは如何なる理由に因るのだろうか?

わたしは、生きて在ることが苦しいのだ。わたしがわたしであることに時に耐えられなくなるのだ。そんなときに言葉で自分を傷つけること、罵倒すること、貶めることによって、微かなこころの安らぎを得ている。

I lock my door upon myself,
And bar them out; but who shall wall
Self from myself, most loathed of all ?

「私は私自身に扉を閉ざす
そして閂をおろす
けれども誰が私を守ってくれるだろう?
いちばんきらいな私自身から」

これはわたしの大好きな詩の一節。画家、ダンテ・ガブリエル・ロセッティーの妹、クリスティーナ・ロセッティーの書いた、「私は私自身に閂をおろす」

わたしは孤独という独居房の中で、「いちばんきらいなわたしじしん」と共に暮らしている。そんな状況にあって、誰が心穏やかでいることができるのか?

わたしは父を好きになることができない。
父を嫌うということはどういうことか?それは鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるのと同じだ。何故なら、父がいるからわたしが今存在しているのだから。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。

親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?いうまでもなく、親が存在しなければ「私」も存在していないからだ。

わたしの血の半分は父の血だ。人が決して「私自身」から逃れることができないように、わたしもまた「父の血」から永遠に逃れることはできない。

自分が、どうしても好きになれない者の血と肉と骨と皮によって出来ていること。
それがわたしが自分自身を愛せない大きな理由だが、その他にも、単純に、愛され、肯定された経験がないということも当然ながら大きな要因だ。


「愛されざる者」が悲しみのあまり自分を罵ることは罪なりや?

「あなたは決して「愛されざる者」などではない!」という言葉が、コ・ト・バが、いったいいかなる慰めになるのだろう?
確かにそのように声をかけてくれる者にとって、「わたし」は「愛され得る者」に映るのかもしれないし、現に愛してくれているのかもしれない。
けれども、そのことによってわたしの言葉による自傷行為はおさまるとは思えない。

要は、「自分を愛せないわたし」を、そのまま受け容れることができるかどうかなのだ。

自分を「人間の屑だ」というような人間にはとてもついてゆけないというのであればそれも致し方のないことだ。

何故人を、醜いままに愛せないのか?

何故あるがままの相手を愛することができないのか?

「自分はきみを屑なんかじゃないと思っているから」仮にそうだとしても、何故彼・彼女に、わたしに「自分は人間の屑だ」という自由を許容し得ないのか?
その狭量はどこから来るのか?
「自分をどう思おうとあなたの勝手だが、それを言葉にして皆に見える場所で言わないでほしい。」-それは何故?

わたしは已むに已まれずに言葉によって自分を傷つけている。
生きて在ることは苦しいから。かなしいから。

けれども、それを不快に思うことを止めさせることはわたしにはできないし、そうしたいとも思わない。

最後にもう一度繰り返す。

カミソリで自分の身体を傷つけること、毀傷することは許容できても、言葉によって、自分の心を傷つけることには何故そのように不寛容なのか?

自己を肯定できる者も、自分を否定する者、自己を譴責する者、自分を愛せない者のいのちも、おなじひとしいいのちだという考えは間違っているのだろうか?



「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識である」

ー ジャン=ジャック・ルソー 『人間不平等起源論』より