2022年3月17日

優等生の障害者 落ちこぼれの障害者

底彦さんとのやり取りを通じて改めて感じたのは、世の中の健常者と同じように、精神障害を持つ者にも「優等生的」な障害者と、とても手に負えない「おちこぼれ」の障害者がいるということ。
無論この述懐は、何ら底彦さんに対する揶揄でも皮肉でもない。

母は底彦さんの

ただ, 自分の小さな「生」を自分で受け入れたいという望みがあるだけです.」という気持ちがよくわかるといい、底彦さんのコメントに対するわたしの返信を読んで、「ウーン・・・」と呻っていた。

Takeo さんが自らの生を, 少なくとも私が最も望んでいない最悪の形で閉じる日が来ることを恐れています.」


底彦さんのこの言葉には、うそいつわりなく、こころからありがたいと思う。けれども、底彦さんが最も望んでいない形での「生の終わり」こそ、わたしの最も望んでいるものであることも、事実なのだ。



3月16日付けの朝日新聞朝刊「声」欄に興味深い記事が掲載されていた。

これは2月7日に13歳の中学生が投稿した「死に対する恐れ」についての投稿への読者の反応、意見をまとめたもので、既に最初の投稿が掲載された時点で、母から、中学生の死生観についての投稿が新聞に載せられていたということを聞き、それは是非読んでみたいと思っていて、そのままになっていたものだ。

紙面には大きめの活字で、「どう思いますか」という見出し(?)があり、その下に、

死を思うことは 恐ろしいけれど 2月7日=要旨
中学生 吉川結芽(ゆめ)(大阪府13)

死んだらどうなるんだろう。私はよく、考える。
天国や地獄が本当にあって、そこで存在し続けるなら、そう願いたい。
けれども、私の、意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら....。
私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。
まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。
この恐怖からどう逃げたらいいんだろう。
大人になったら怖くなくなるのだろうか。
死は生き物すべての宿命だと改めて思う。
生きるということは死に近づいてゆくこと。
恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使いたいとも思う。死ぬ時、私は充分頑張ったという人生にしたい。
そのために、私はどうしたらいい?答えを見つけるべく、生きて行こうと思う。




この投稿に対して、6人の読者プラス詩人の谷川俊太郎が意見を寄せている。

正直に言って、印象に残るような、わたしの心の針が動くような投稿(言葉)はひとつも見つけることはできなかった。寧ろ違和感ばかりが残った。


「私も今ある命を大切に生きて行こうと思います」(27歳女性)

私は死ぬことも生きることもそれほど大きく変わるものではなく、区別なくつながっていると感じたのです。自分がやりたいこと、今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいいと。
怖がらずに、今をありのままに、あるがままに一生懸命に歩き進むことが大事なのだと思います」(69歳男性)

「生は死の延長線上に在るのだから、身構える必要はないということ。普段通りの時の流れから、ふっと消えてゆくのが死なのだろう。であれば、今なぜ生かされているのかを見つめ、自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」(60歳男性)

死について考えることはいかに生きるかの原点のような気がします。死を見つめてこそ生も充実するかと。本を読み、友と交わり、学び、旅をして、遊んで ──。経験を積む中で、きっとあなたはこの世の深さや広さ、複雑さを知るでしょう。(中略)
人生を理解するには生き尽す必要がある。それが私の正直な心境です。」(76歳男性)


おちこぼれの障害者としては、先ず第一に、13歳の中学生のいう、

「この命を何かのため、だれかのために使いたいとも思う。死ぬ時、私は充分頑張ったという人生にしたい。
そのために、私はどうしたらいい?答えを見つけるべく、生きて行こうと思う。」

という言葉に何の感慨も持つことができない。

「どう思いますか」と訊かれて、意見を寄せている人たちの言葉も、わたしにはまるでピンと来ない。

「自分がやりたいこと、今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいいと。
怖がらずに、今をありのままに、あるがままに一生懸命に歩き進むことが大事なのだと思います」
・・・などという言葉は、まるで遠い異国の文化風習のことを言っているように聞こえる。

「今なぜ生かされているのかを見つめ、自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」

これもわからない。

「人生を理解するには生き尽す必要がある。」

そうだろうか・・・


ひとことで言ってわからないことだらけなのだ。

「今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいい」

「自分が今日やるべきこと」とは何であるのか、それはどのようにして知り得るのだろうか?

「自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」

同じく、「自分の役割や使命」とはどのようにして知ることができるのか?


わたしはこれまで上記のような言葉の数々を、本で読んだことも、映画の中のセリフとしても聞いたことがない。

時々読むブログに、わたしのこころに深く沁みわたったことばが記されていた。
もう何年も前の投稿だが、いまだにわたしのこころに深く刻まれている。

曰く

失敗した

生まれてきて



ー追記ー

「どう思いますか」
(東京都 Takeo 58歳 おちこぼれ)

かつて殉教者と呼ばれる人たちは、異端審問に臨んで、「考えを改めるなら放免してやる。さもなければ処刑する」と言われて、自分の信ずるところに殉じました。
自分一身の生存よりも大事なものがあるとき、人は死の恐怖を忘れるのでしょう。
 いまそこにある現実世界の、「ありのまま」「あるがままの姿」に、どうしてもあなたの感受性が、美意識が抵抗した時に、自己の美意識に殉ずることも、また、死に拮抗し得る力となるであろうと考えます。
 大切なのは、「いのち」そのものや「生命の持続」ではなく、「あなたという個人」が、「あなた自身でいられるかどうか」なのではないかと思います。
自分と離れたところに「あなたがやらなければならないこと」も「やるべきこと」もなければ、「あなたの使命」も「役割」もありません。
 あなたがやらなければならないことや、あなたの役割は、他ならぬあなたが決めることであって、他の何人(なんぴと)もそれをあなたに強制強要することはできません。
何故なら、わたしやあなたがこの世界に、この国に、この時代に生まれてきたことには、なんの必然性もないのですから。
 善き生があり、その結果善き死があるという因果関係も然りで、生と死の連続性にわたしは懐疑的です。善き生を送りながら、悲惨な最期を迎えた人たちは数多存在します。
 ある哲学者は、「自殺という逃げ道がなければ私はとうに自殺していただろう」と言っています。(エミール・シオラン)
 苦しければ「非常口」があるということを覚えておいてください。
 「人生を理解するには生き尽す必要がある」という考えは、その根拠が不明です。「生き尽す」ということは、死がわたしたちを連れ去るまで生を放棄しないという意味なのでしょう。しかし先に述べたように、大事なことは「生命の持続」ではなく、「あなたがあなたであり」「わたしがわたしであること」だというのがわたしの信ずるところです。生き延びることはしばしば、「変節」すなわち、自分を変えても時代に合わせるということを意味します。それをわたしは「生き切った」とは表現し得ないのです。


 







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