2022年3月11日

追記

 わたしは至らない人間ですが、友人としての彼女を失いたくありません。

話の中で彼女が最近『愛の嵐』を観たという話題になりました。
わたしは観たことがありませんが、シャーロット・ランプリング主演の、ナチス時代を舞台にした映画であることくらいは知っていました。わたしはその原作が「リリアーナ・カヴァーニ」ではなかったかというと、彼女は「知らない」と。「リリアーナ・カヴァーニは原作じゃなくて監督だったかな?それとも、監督はファスビンダー???」そんなことを独り言ちている間、彼女はスマホを取り出して確認することをしませんでした。「えー知らない」「わからない」
一瞬にして答えが分かってしまうこの無味乾燥な時代に、「知らない」「わからない」と言える人。そいういう人とこそ、友達でありたいのです。
逆にいえば、わたしがぶつぶつ言っている間(ま)に、さっとスマホを取り出して答えを出してしまう人とは友達になりたいとは思わないのです。





4 件のコメント:

  1. こんにちは。

    Takeoさんとお話ししていて、よく思うことなんですけど、「バカ」な人って自分のことを「バカ」ではないか?と疑ったりしない気がしますけど、どうですか?

    Takeoさんは、よく『自分はどちらかと言えば「悪」に近い存在である』というようなことも言っていることがありますが、「悪い奴」が『実は私、悪人なんですよぉ』って言わないですよね。・・・たぶん・・・

    これは、たぶん、言えることじゃないかと思いますけど、「バカ者」と言える人は、テストでどんな結果が出ても『オレって、けっこうイケテルんじゃね?』と思う人のことじゃないでしょうか?

    ちなみに、私はそういう人の一人で、自分のことを「頭が悪い」とは思わないんですよね。
    だから、「バカ」なんだと思います。
    要するに、私の場合は、結果があまりにひどいので、認めざるを得ないだけなんですよね。
    きっと、私が人から、それなりに(例えばTakeoさんと同じくらいに)評価されていれば、完全に図に乗っていると思いますよ。

    「バカ」って、そういう奴のことです。・・・たぶん・・・
    (「バカ」は「たぶん」ぐらいまでのことしかわからない)

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    でも、私は、自分のこともTakeoさんのことも「バカ」かどうか?という以前に、「バカ」がそんなに悪いものだと思わないんですが、やっぱり、そういうところも、私が「バカ」なんでしょうか?

    いや、それどころか「いま」必要なのは「悧巧=利口」ではなく「バカ」だと思ってるくらいなんですよね。

    「りこう」って二種類の漢字があって、特に「悧巧」という漢字だとわかりやすいと思うんですが、「りこう」=「頭がいい」ではなく、「利益に巧みな人」のことを「悧巧」という側面もあると思っているんですね。

    そうなると、「バカ」の方は、「利益に巧みじゃない人」のことだと思うわけです。

    「いま」という時代は、「得なことをする人(必ずしも自己利益だけでもなく)」はたくさんいますが、「損なことをする人」がほとんどいないんですよね。

    これは、教育が普及したことの一つの弊害だと思います。

    もちろん、教育が普及したこと自体が悪いと思っているわけではないんですが、教育が普及していく過程で、いわゆる「学術」に偏った教育が普及してしまったので、結果的に、人間性が置いて行かれてしまったんでしょう。

    でも、「勉強が出来る人」が「悪いこと」をすれば、非常に巧みに「悪いこと」をするようになるわけで、そんなことになるくらいならば、「勉強が出来ないまま」のほうが良かったんじゃないかと思うわけです。
    (何を「悪いこと」というのかは、また別の話ですけど)

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    それから、Takeoさんが受けた心理テストがどういうのかわかりませんが、「知能指数」には、おそらく「社会適応」という基準が入っています。

    それから、「知能検査」に限らず、ほぼすべてのテストは「正直に答えること」を前提としていません。
    でも、きっと、Takeoさんはすべての問題に対して『正直に答えた』でしょ?

    テストって、だいたい、『正直に答える』と点数が悪くなりますよ。

    というか、最も『正直に答えた』場合、すべての答えが『わかりません』に成るはずですね。
    「解答不能」これが、唯一の正解であり、不正解でもありますよね。

    いずれにしても、Takeoさんが「IQ80」だといっても、だれにも相手にされませんから、あまり意味はないと思いますよ。

    たぶん主治医の方が言ったのは、「知能」のことではなく「社会適応力」のことだと思います。

    しかし、「医療」には、「社会」を否定する機能はありませんから、「社会」を肯定するしかありません。
    だから、そこを期待するのは無理だと思います。

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    それでは、また。




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    1. こんばんは、ふたつさん。

      頂いたメッセージはとても返事の仕様が難しいものだと感じています。

      確かにわたしは「自分は口先だけの馬鹿」だと書きました。しかし自分を「バカだ!」というのは今回の場合、久し振りに会った女友達と、スムーズに会話ができなかったという自己嫌悪から発せられた気持ちです。誰でも覚えがあると思いますが、何か大事なことをしくじった時、うまくいかなかったときに、自己嫌悪に陥って「ああ、俺はなんて馬鹿野郎なんだ!」「おれはロクデナシだ・・・」という気持ちになりますよね。

      人間一般に対しての「馬鹿」とか「利口」といった定義を自分に当てはめたわけではありません。
      更に言うなら、自分が「俺は馬鹿だ」と思えば「馬鹿」なんだし、「俺はなんて賢いんだろう」と思えばそれはその通りなのだと思います。

      おそらくわたしの文章がふたつさんの気分を害したのだろうと思います。
      そのことに関してはお詫びします。けれども、以前も書いたように、「人はいつどこで何によって人を傷つけているか分からない・・・」というイヴリン・ウォーの言葉のように、それを避けようとすれば、書くことも含めて、まったく身動きが取れなくなってしまいます。

      どこで人を傷つけているかわからないという自覚をもって、これからも書いていきたいと思っています。

      追記

      「馬鹿である」「利口である」ということは、おそらくは文学や詩の領域であると思うのです、
      昨日の会話の中でも、明日(正確には今日)誕生日を迎える母の口からも、異口同音に、若かったころを振り返って、もう少し思慮深かったら、もう少ししっかりした自分の意見を持っていたら、きちんとした将来設計ができていたら...etc...=「自分は馬鹿だった」という述懐が漏れました。しかしいったい誰が彼女の、母の、そしてわたし(たち)の「馬鹿さ加減」を「無智」を「先を見通せなかったこと」を嘲うことができるでしょうか?
      誰がそのような資格を持ち得るでしょうか・・・

      ピントのズレたお返事で申し訳ありません。




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  2. こんにちは。

    まず、まったく気分を害したりはしていませんよ。

    上に書いたことは、この記事や今回Takeoさんがお友達に会われて感じたことについてというよりは、普段、Takeoさんとお話をしていて私が感じていたことを率直に書いたまでのことです。

    私は「自分のことをバカだと言って責めること」が悪いことだと思っていません。
    どちらかと言えば、いいことだと思っています。

    自戒や自己否定がない人と、そういう考えがある人であれば、私はある方がいいと思います。

    なぜならば、そういう考え方がないということは、すべてにおいて、「何でもあり」だということだからです。
    「自己肯定」とは最終的にはそういう「何でもあり」に行きつくものだと思います。

    私の場合は、そういう自戒や自己否定がやや少ないところがあって、完全に自己否定的な状態になるということはありません。
    でも、それを正しいと思っているわけではないんですよね。

    ただ、こればっかりは、もって生まれた性質なので変わらないですね。

    でも、それもそれほど悪いことだとは思いません。

    要するに、「自己肯定」であっても「自己否定」であっても、どちらか一方に偏ってしまうと、「肯定」に偏れば「何でもあり」に成ってしまうし、「否定」に偏れば「何もできない」に成ってしまうという結果が突き付けられてしまうということでしょう。

    だから、私のように「能天気」に生まれついた人間は、「自己否定」を失ってしまうと、本当にダメな結果(評価)を受けるというようなことを書いたつもりだったんですよね。

    私は、基本的に自分のこともあまり責めませんが、他人のこともあまり責めません。

    私が、唯一責める人は、弱い人を責める人ですね。

    これだけは、どうしても責めたくなってしまいます。
    すでに力の差があるのに、それをさらに責めるというのは、どうしても生理的に許せないところがあるので、「NO]ですね。


    いつも、ここで言っていることですが、私の言うことにそれほど強い意味や攻撃的な意味はありません。
    言い方に問題があるのかもしれませんが、自分ではできるだけ丁寧な言い方をしているつもりなので、これ以上は無理かな?というところです。


    まぁ、そんなことなんで、というか、ほかのことも、あまり気に病んだりせずに、これは底彦さんや、匿名さんにも言えることかもしれませんが、少なくとも私みたいなのが、結構図々しく生きているということは、皆さんのように「自己否定感」が強い方々というのは、それ以上に「否定」を強化していかなくてもいいような気がします。

    おそらく、皆さんは、それぞれ理由は違うと思いますが、脳の中に「自己否定感」が生み出されてしまうような物質が出やすい状態になっていて、逆に「自己肯定感」を生み出す性質の物質がほとんど出ないような状態になっているんだと思います。


    そういう状態から開放されるのは、なかなか難しいのかもしれませんが、おそらく、その「自己否定感」が、脳内物質によってもたらされているものであるということを、常に意識するようにしていくと、その分だけ気持ちが軽くなるような気がするんですが、どんなもんなんでしょうね。

    まぁ、そういうもんでもないんでしょうが、私がここで言いたいことは、「脳内物質」による作用が大きいのだとすれば、それは純粋な「自分の精神作用」とは言えないのかもしれないということです。

    つまり、単純に言って「物質的な作用」に近いものだとすれば、それは「自分の心や魂」とは、必ずしも同じものだとも言えないということですね。

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    これは、シュルレアリズムの人達が追求したといわれている『夢の中の世界こそが、その人の本当の心を表している』ということの「裏」に当たることだと思います。

    シュルレアリズムにおいては、「日常的な意識」よりも、その日常的な意識から解放された「夢の中の意識」で展開される「超現実的な世界」を、その人の本当の心の様相に近いものだと考えて、それを表現しようとしたんだと思います。

    つまり、「日常的な意識」は、常に「常識」や「社会通念」や「規範」といった既成の概念に縛られているために、覚醒している限り開放されることはないという判断から、覚醒時には逆に眠らされている「自分の本当の心」を見つけ出すための糸口として「夢の中の世界」を使ったということではないかと思います。

    つまり、覚醒時には「本当の心」が眠らされていて、睡眠時には「日常的な意識」が眠ることになるので、「本当の心」が目覚めることが出来るようになるということですね。

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    それに対して、「自己否定感」が極端に強くなってしまう人の場合は、覚醒時であっても睡眠時であっても、常に「脳内物質」に拘束されている状態になっているのだとしたら、「常識」や「社会通念」にとらわれていない人であっても、結果的には「拘束」されているという部分では、同じような作用を受けてしまうのかもしれません。

    ところが、「拘束」しているのも「拘束」を受けているのも、「自分の脳」ですから、それを「自分の心(魂)」と感じてしまうのは避けようがありません。

    結果的に「拘束」を受けてしまうので、「心」が開放されなくなってしまうんだとと思いますが、でも、あくまで「自分の脳の中」で起きていることなので、「自分がやっていること」でもあり「自分が考えていること」でもあり「自分が感じていること」でもあるので、それを捨ててしまうこともできません。

    そういうことから、抜け出せなくなってしまうんじゃないかと思いますが、でも、一つだけできることがあるとすれば、その「自己否定的な心理状態」が、「物質的なもの」であると考えることで、「自分の心(魂)」とは違う領域で起きていることだと考えることだと思います。

    要するに「脳」には「心(魂)」ではない部分も存在しているということではないかと思うんですね。

    例えば、「論理」ですが、私は「魂」とは「心」から「論理」を取り除いた残りの部分なんじゃないかと思っています。
    実際には、「論理」や「魂」以外にも「人間の脳内」には、いろいろな領域があると思いますが、それらはくっきりと分けられるものでもないし、「論理」と「魂」でさえも重なり合っている部分もあるんでしょうから、分けて考えることにも無理はあるんでしょうが、少なくとも、その「自己否定感」が「脳内物質によってもたらされているもの」だとするならば、「自分の心や魂」のように、「自分の本質」と切っても切れないものであると考える必要はなくなると思います。


    おそらく、Takeoさんは、その「自己否定感」を「自分の本質」と切っても切れないものであり、失ってしまうことが許されないものであると考えていると思いますが、もしかしたら、その考え自体も「物質によってもたらされているモノ」なのかもしれません。

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    これは、あくまで仮説として言ったことで、決して、『そう思うべき』といったわけではありません。

    でも、「心を開放すること」は、悪いことでしょうか?
    私は、開放された自由な心がすることであれば、それがどんなことであっても、そんなに「悪いこと」ではないと思うんですが、どうでしょうか?



    それでは、また。

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    1. わたしはそれが仮に「自己否定感」であっても、何ものか「自己以外のものによって」「そう思わされている」のではないかという考えには昔から馴染みませんでした。それを言えば、わたしが現代社会を醜いと感じる美意識さえも、わたし固有のものではないのかもしれないとも言い得る可能性が開けてきます。

      高校時代から「機械論」というものに強い反発がありました。
      「全ては予め決定されている」という考えでであり「自由意志の否定」です。

      オスカー・ワイルドの小噺にもありますが、砂鉄くんたちが磁石さんのところに遊びに行きたいと思っているのは、そう思わされているのであって、「砂鉄くんたち自身の意思で、磁石さんのところに遊びに行きたいと思っているのではない」ということ。
      無論ワイルドはそのような考え方には与しませんが、わたしは自己否定感も含めて、「自己の一部」であると「思いたい」のです。

      こころを解放できないということも同様に、自己の自由である、と。

      わたしは他ならぬこのわたしという個の美意識乃至本能によって、外界を醜いと判断しているつもりです。そしてわたしは「自己否定」も、それと同列に考えたいのです。

      確かに「本来の私」とは何かという話にまで深めていけば、医学から心理学、社会学、哲学まで、人文科学から自然科学までを横断して熟考しなければならないでしょう。

      どのような生き物であれ、完全な真空状態で生きているわけではありませんので、「遺伝因子」「環境因子」の影響・作用は避けることはできません。

      けれども、単純にひとつの考え方として、「自分以外の存在によって」「そう思わされている」「そう考えさせられている」「そう言わされている」という他律論には馴染めないし、そのように考えることは居心地が悪いのです。

      こころを解放することは悪いことではありません。しかしそれができないのも、わたし自身の力不足だと思っています。





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