2019年11月30日

Junkoさんのコメントへの返事に代えて…


こんばんは、Junkoさん。

また直接に反映されなかったようですね。メール助かります。

今日は(も)とても疲れていて、考える力がありません。
ふたつの詩文を紹介し、今のわたしの気持ちとして、お返事の代わりとさせてください・・・





    奈々子に
          
赤い林檎の頬をして 眠っている奈々子
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり 奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの つややかな頬は
少し青ざめた

お父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた
唐突だが 奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう

人がほかからの期待に応えようとして
どんなに自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり知ってしまったから

お父さんが お前にあげたいものは
健康と 自分を愛する心だ

人が人でなくなるのは 自分を愛することをやめた時だ
自分を愛することをやめる時
人は他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう
自分があるとき 他人があり 世界がある

お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた
苦労は 今は お前にあげられない

お前にあげたいものは 香りのよい健康と
かちとるにむずかしく はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ

ー吉野弘





ひとが

ひとでなくなるのは

自分を愛することをやめるときだ。


吉野弘 -奈々子にー

「自分を愛すること」。もうずいぶん長く聞いたことのないような、または生まれて初めて聞くようなふしぎな言葉だ。
この言葉は私には、まるでラテン語か何かのように響く。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。
わたしには、自分を心から愛したおぼえがない。

自分で自分の身体に泥をなすりつけるようなことばかりして来た。

時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすててきたりした。


自分を愛すること。


自分を愛すること。


一体それはどういうことなのだろう。


『石原吉郎詩文集』「一九五六年から一九五八年までのノートから」(2005年)











2019年11月28日


わたしの家族の滅びも近づいている。五日後に埼玉に行く父とはもう二度と会うことはないだろう。
弟はひとりでは自滅する。しかしわたしは弟との同居はできないだろう。
どちらかが犠牲になるしかない。わたしは弟の犠牲を望まない。
母の望む二人でなんとか・・・というのはわたしには無理だ。

早晩弟が戻ってくると決まった時点で(わたしもそれでいいと思っている。主治医は反対しているが)わたしの・・・この家族の運命もほぼ決まったと言っていいだろう。

「どちらかが犠牲になるしか・・・」

『ソフィーの選択』では、ナチの将校の気まぐれで、幼い男の子か女の子かどちらかを選べと(片方は助けてやると)言われたソフィーは、「親が子供を選べるはずがない!」と将校をなじる。「そうかじゃあ両方ともガス室行きだな」と言われた時、思わず、「女の子を!」をと、女の子を将校に渡してしまう。

ソフィーは何とか終戦を迎え解放されたが、最後には自ら命を絶つ。


無題


来週、つまり十二月の二日に父は埼玉のケア・ハウスに入居する。
以前にも書いたが、それにわが家の全収入であった父の年金を充てる。

わたしも弟も手帖を持つ精神障害者で、収入はなくなる。

わたしとの不和・・・というよりも、わたしが避けているせいで、現在隣接する市のURに別に住んでいる弟の家賃、月々6万円(+)をこれからは出せない。仮に出せたとしても、弟はここに戻ってきたがっている。

主治医は同居には反対の立場だ。それは、わたしが暴れる可能性があるからだ。

しかしわたしは母と弟が望むのなら戻ってくればいいと思っている。おそらくわたしは堪えられないだろう。だったらその時にはわたしが出ていけばいい。出ていくというのは、どこか他に住処を見つけるという意味ではない。

わたしは生きているのが辛くて仕方がないのだ。

そして有体に言ってしまえば、毎日欠かさず弟が来ることにも、もう耐えられなくなってきている。
弟があそこで、一人ぼっちで毎日を過ごすことに耐えられずこちらに雨の日も風の日も自転車で片道10キロの道のりを往復するように。

主治医の意見は、全員が生き残る方途を示している。中途半端な形で。

けれども、わたしはもう、いい。

そこまでしてここに残って、ここで生き残って何がある?

わたしは弟との同居におそらくは耐えられないだろう。けれども、戻ってくればいい。
わたしは弟を憎んではない。寧ろ、父や弟のありのままを受け容れられない自分の狭量を憎む・・・




2019年11月25日

友だち作りサイト退会の名残り。


無料の「友達作り」のサイトに登録していたが、当たり前だが、当たり前すぎるほど当たり前だが誰とも合わないので退会した。

そこにはツイッターのように「つぶやき」を載せる場所があって、わたしもいくつか「呟いて」みた。
アカウント削除を決めていたのでその前に一応こちらに残しておいた。無論反応は殆どナシ。




ここを日記 or ツイッター代わりに呟きます。

写真はロベール・ドアノー。授業中時計を気にする子供。

今時、小・中・高校にこんな時計あるんでしょうか?

わたしは50代ですが、古い写真を見るたびに、「何もかも懐かしい・・・」という想いに囚われます。

「今を生き」てはいません・・・






ふたたびドアノー。

Baiser Blotto (kiss in delivery bicycle), 1950(デリバリー・バイシクル=前に荷物を入れる箱の付いた自転車ですね)

古き良きパリの光景です。





言葉で自己表現をするのが苦手ですので、この場をお借りします。

今度は絵、これは英国の20世紀の画家、ローレンス・スペンサー・ローリーという人の作品です。
「製粉工場の前」といった感じでしょうか。水彩絵の具で描かれた極度に簡略化された人物たちがとてもいい味を出していて、彼の絵はこんな感じの作品が多いのですが、好きな絵です。

ではみなさま寒いのでご自愛の上、良い週末を。






孤独ということ。

今のわたしは、今日(金曜日)のような日の夕暮れに、ひとりで、歩いて5分の比較的緑の多い公園に行くというだけで、誇張ではなく、「孤独死」してしまうだろう。

わたしは東京の郊外に住んでいるが、今の時期、午後五時から、渋谷に行って改札を出て、5分間駅前を歩いて帰ってきたら十万円やると言われても絶対にお断りだ。

晩秋の宵は人を愁殺する・・・




フェイスブックで、「日本人の友達を作ろうとするのは無駄な努力だな・・・」とボヤいたら、すかさず昔からのフランス人の友達が、「気にするなよ。世界にはいろんな国があるんだから」これが「彼ら」の感覚なのかな。彼自身英国に移住しているし。

先日新聞を読んでいたら、「違いを受け容れられない社会の側の障害」という言葉があって妙に印象に残っている。新聞もたまにはまともなことも書くんだな。



『めぐり逢い』デボラ・カー&ケーリー・グラント。

「何が人生を難しくしているのかしら・・・」
「人間・・・」

けれども人生を「生き易く」することができるのもまた「人間」






心がささくれ立っている時には美しい絵を・・・というのは嘘です。こういう絵なら害はないだろうという打算からです。

ただ、この絵には抗い難い魅力があります。特に惹かれるのは、この女性「マリアナ」ではなく、
木の床、そこに落ちている枯葉、そしてネズミなどのディテイルです。
1851年の作品です。ジョン・エヴァレット・ミレイ作。







つくづく、日本人とは反りが合わない・・・





2019年11月24日

混乱の中で…


ここのところ調子が良くない。過日の投稿にもあるように、自分のこと(気持ち・状態・状況)がまるでわからない。内面の声が聞こえない。
たったひとりのストライキ」にもらったJunkoさんのコメント、「今回の大病を経て、少し世界を、人を見る目が変わった。厭世観が多少だが和らいだ・・・」というメッセージ。ショックではないが、正直、距離が広がったと感じている。無論それは(そう感じることは)誰のせいでもない。

以前のブログから、拙文を読んでくれている(た?)底彦さんのブログを、例によって、まとめて読む。

苦しい時の底彦さんの状態はわたしの比ではないだろう。しかし一方で、彼には、「数学」と「絵画」(絵を描くこと)という「楽しみ」がある。わたしが読む限り「気晴らし」といったレベルではなく、もっと積極的な「たのしみ」であり「よろこび」であると感じる。
また彼は、最近近所に居心地のいい喫茶店を発見したようだ。「また来たい」と書いてある。苦しさの隙をみて・・・いや苦しみの只中に居ながら、映画館に行き、絵を観に行く。デイケアも充実しているようだ。

「心が落ち着く三つの場所のこと」というタイトルの投稿があった。
わたしには仮初にもこのような表現を使える場所は、自室を除けばどこにもない。
(これは自分の部屋が唯一の安息の場という意味ではない)

病気という点では、或いは底彦さんの方が重いのかもしれない。(鬱病と人格障害だか発達障害だかを比較することにはそもそも無理があるが)けれども、「生への姿勢」という意味では、わたしは底彦さんにも遥かに及ばない。

少なくとも、「たのしみ」というものがまるでないこと、「心が落ち着く」という場所を持っていないこと。これだけでも大変な差だと言っていい。

底彦さんの文中に最近散見される。「少しづつだが回復・・・」という言葉を目にするたびに、Junkoさんとはまた違った隔たりを感じてしまう。仮にそれが医師の眼から見ての「客観的」な状態ではなく、あくまでも底彦さんの希望・期待に裏付けられた「感覚」であったとしても・・・

何もわからないが、いろいろなことが悪くなっていることだけは感じるから。





2019年11月23日

Junkoさんのコメントに寄せて・・・




再度の投稿になります。ラルフ・マックテルの「ストリーツ・オブ・ロンドン」

ロンドンのホームレスをうたった歌です。

この歌詞の中に


"How can you tell me your lonely and say for you that the sun don't shine?".


「どうしてあなたは孤独だって言えるの?何故あなたの上に太陽は照らないっていえるの?」

という一節があります。

何故、英語で訊かれると、反発できないのでしょう・・・

わたしと「日本」という国の不和は何に起因するのか、今更いうまでもありませんが、
わたしと英語の親和性はどこからくるのでしょう・・・


"Let me take you by the hand and lead you through the streets of London I'll show you something to make you change your mind"

「わたしが手を取って、ロンドンの街を一緒に歩いてあげる。そしてあなたの気分を明るくするものを見せてあげる」

しかし決してそのような人は現れない。なぜ?ここは日本だ。そして忘れてはいけない。わたしが「愛されざる者」であるということを・・・







モノクローム


Florence, Paris, 1959, Edouard Boubat. (1923 - 1999)
- Gelatin silver print -


写真は50年代のパリ。撮影したのはエドワルド・ブーバーです。

モノクロ写真の魅力を伝えるには、やはりドアノーでしょうか。わたし自身はアジェでした。


La Sonnette, 1934, Robert Doisneau


『アジェのパリ』『ドアノーのパリ』と、それぞれ分厚い写真集が、確か「タッシェン」から(?)出ていたと思います。

エミール・シオランの『生誕の災厄』を愛読するわたしでも、やはりドアノーの魅力には敵いません。

つまり、「失われた時」を求めて、わたしはドアノーを、アジェを、木村伊兵衛を観ます。

以前(本当に随分昔)深夜のテレビで「麻布狸穴」という番組があって、知り合いのディスク・ジョッキー(ナビゲーターと呼ばれていた)が、司会の女性に「誰の写真集が欲しいですか?」 と尋ねられ、ヘルムート・ニュートンと即答していた。人それぞれですね。






覚書

わたしは道に迷っている。街中で道に迷えば人に訊くことができる。
「わたしは今何処にいるのでしょうか?」そうすれば、訊かれた人はわたしの今いる場所を教えてくれるはずだ。

けれども、心の中で道を失った時、いったい誰に訊いたらいいのか?



数日前、わたしはこう書いた。

ここ数年、状態は悪化する一方だが、その中で、時々の自分の気持ちを、感情を、率直に表現してきた。けれども、突然書けなくなった。自分が何を感じているのか、何を考えているのか、まるでわからなくなった。内面の声が聞こえなくなった。それとも内面の声=感情自体が揮発してしまったのか・・・」


繰り返すが、自分の気持ちを「言葉にする」ことで「自分を客観視できる」とか「一歩引いて自分を見つめることができる」というような状況ではない。そもそも「言葉に置き換える自分の気持ち」というものが見つからないのだから。」

と。

わたしが知りたいのは、人に訊いても自分自身に問うても分からない場合には、どうすれば自分の「位置」を知ることが可能なのか?
そしてまた「(自分の)位置」とは、果たして何を意味しているのか・・・





2019年11月21日

何故・・・


多くの人たちは、毎朝出勤前に、TVや新聞でニュースを観たり読んだりするのだろう。
わたしが不思議なのは、毎日、仕事や勉強の前に、全身に汚水を浴び、ヘドロを飲み下してから、何故あたりまえのようにその日の仕事ができるのか?という疑問だ。

わたしはテレビを見る習慣が無いが、毎日新聞を読まなければならないとしたら、それは間違いなく精神的「拷問」に他ならない。

今年、何月の事だか忘れたが、夫婦で、幼い娘をむごたらしく虐待し、死に至らしめた男の刑が18年だと聞いた。
そのニュースを聞き、わたしの目の前は真っ黒になった。
その刑の余りの軽さに、わたしの心は鉛のように黒々と重くなった。

もともと日本という国は「(万引き、薬物所持のような)軽罪に厳しく、(殺人、過失致死などの)重罪に甘い国」だ。子供を虐殺して18年とは・・・言葉もない。

けれども、「幼児虐殺」に限らず、新聞を見ればほぼ隅から隅まで、「人間であることの恥」・・・というよりも、「人間であるということの罪深さ」をいやというほど感じさせる記事に埋め尽くされている。

それでもなお、人々は会社や役所に、学校に行き、まるで世の中には悪いこと、禍々しいことなど何もなかったかのように動いていることの不思議さ。

ふと、スキーター・デイヴィスの「エンド・オブ・ザ・ワールド」という60年代の歌を思い出した。

Why does the sun go on shining
Why does the sea rush to shore
Don't they know it's the end of the world
'Cause you don't love me any more
Why do the birds go on singing
Why do the stars glow above
Don't they know it's the end of the world
It ended when I lost your love
I wake up in the morning and I wonder
Why everything's the same as it was
I can't understand, no, I can't understand
How life goes on the way it does
Why does my heart go on beating
Why do these eyes of mine cry
Don't they know it's the end of the world
It ended when you said goodbye
Why does my heart go on beating
Why do these eyes of mine cry
Don't they know it's the end of the world
It ended when you said goodbye

要約すれば、何故世界は昨日と全く同じように動いているの?私の愛が失われたというのに?太陽や海や、星や鳥たちは世界が終わったことを知らないの?


フランスの映画監督、アニエス・ヴァルダは10年ほど前、映画『落穂拾い』公開時に来日した際、あるインタヴューに応えてこう語っている。

「他人の不幸をずっと抱え込むのは無理。ちょっと立ち止まって考えてくれればいい。
ユダヤ人の強制収容所を取材したジャーナリストが、家に帰って奥さんと食事をしたりセックスをする。それが人生。生きることを愛するのは自然なことなのだから」

アニエス・ヴァルダは好きな監督だが、彼女のこの言葉はわたしにはまったく説得力を持たない。

もし「これが人生」だというのなら、わたしはこれこそが、「人間であることの恥」だと言おう・・・










2019年11月19日

小さな疑問「引きこもり」について


わたしは外に出ることが困難な、いわゆる「引きこもり」だが、例えば、あり得ない話だが、今、玄関の外に出ると、そこは1970年代だった。というような状況だったとしたら。誓ってもいいが、その瞬間にわたしの「引きこもり」は完治している。
それはわたしの肉体が若返るとか、80年代以降に体験したことや、その記憶がすべて消え去るという意味ではない。今のまま、このままのわたしで、外の世界だけが変わっているということだ。

タイムマシンを例にとれば、わたしがタイムマシンで1970年代に戻るのも、わたしだけが残って、外の世界(例えば「東京」)の時代が逆行すること。結果は全く同じであることと変わらない。

そういう例は必ずしもわたしだけではなく、街に人っ子一人いなくなれば、今すぐにでも外に出られるという人もいるのではないだろうか。

なんらかの条件が彼/彼女を外に出られなくさせている。ならば、その条件が取り除かれれば、あくまで理論上ではあるが、「引きこもり」というものは起こり得ないのではないか?

自分の心の中に柵や壁があるわけではない。あくまでも「引きこもり」は外的な条件に因るのではないか?


2019年11月18日

たったひとりのストライキ


昨日、約2年間続けてきたブログを閉鎖した。
わたしは精神障害者で、所謂「引きこもり」といわれる「外出困難者」でもある。
ここ数年、状態は悪化する一方だが、その中で、時々の自分の気持ちを、感情を、率直に表現してきた。けれども、突然書けなくなった。自分が何を感じているのか、何を考えているのか、まるでわからなくなった。内面の声が聞こえなくなった。それとも内面の声=感情自体が揮発してしまったのか・・・

生きることも死ぬこともままならず、宙吊りの状態が長く続きすぎたので、最早自分が「何モノ」であるのか分からなくなったのかもしれない。



「書くことがない時には、「書くことがない」と書け」と書いたのはポール・ヴァレリーである。実際には書くことがないわけではなく、書くことに手が届かない、暗闇の中で、それに手を触れることができない状態が現在のわたしであり、このブログだ。

繰り返すが、自分の気持ちを「言葉にする」ことで「自分を客観視できる」とか「一歩引いて自分を見つめることができる」というような状況ではない。そもそも「言葉に置き換える自分の気持ち」というものが見つからないのだから。



今日の新聞の新刊案内に『グレタ たったひとりのストライキ』という本の書評があった。
9月に国連の気候行動サミットで発言した、スウェーデンの16歳の女性である。

わたしが興味を持ったのは、以下の記述・・・

グレタさんは11歳の時、海に浮遊する大量のゴミについての映画を観た衝撃から、日々泣き続け、無気力になり、元から小柄な体は2か月で10キロも減り、餓死の兆候も表れた。検査の結果、アスペルガー症候群、高機能自閉症、強迫性障害と診断される。

わたしが何よりも知りたいのは、彼女が、如何にして、上記の状態から回復したのかの一点に尽きる。
何故ならわたしにとって一番自然な流れとは、現在の地球環境の状態を知った彼女が、その衝撃で、遂に餓死するというものだからだ。その「餓死」が意図的な自死であるのか、或いは、彼女の持つ障害故かわからないが、何故彼女は「生還」したのか?

わたしは上に書いたように、外に出ることが非常に困難だ。けれども、「世界が醜いから」という理由で外に出られないという症例をこれまで聞いたことがない。

そしてこの醜さは、いかなる方法を以てしても元に戻すことはできない。
地球はギリギリのところで救われるかもしれない。けれども喪われた「美」は決して戻っては来ない。

「たったひとりのストライキ」と聞くと、すぐに『代書人バートルビー』を思い出す。
あらゆることに「したくないのですが」(I would rather not to)と言い続け、遂には「餓死」したハーマン・メルヴィルの小説の主人公である。

わたしはグレタさんとは正反対で、地球は滅びればいいと思っている。(正確には「人類が滅びれば」だが)何故なら地球は、5年前、グレタさんがショックを受け、餓死寸前にまでなった時とまるで変らぬ醜さを保ち続けているから。
言い方を換えれば、わたしは醜い星の延命を望まないから。



本の表紙の写真が載っている。黄色いフードを被った彼女の顔には微笑みの欠片すらない。この表情から読み取れるのは、激しい怒り、絶望、悲しみ・・・
その表情と、地球を救おうという行動力とその想いが、わたしにはどうしても結びつかない。

もちろんわたしはグレタさんよりも、小説ではあるが、バートルビーという人物に、遥かに親しみを覚えるのは今更言うまでもない。









2019年11月17日

生きるための条件


The paintings above is by the Swedish painter Carl Larsson (1854-1919)


「生きる」ということ、「生き続けられるものなら生き続けたい」という気持ちが、既に「あたりまえ」の感情ではなくなっているわたしにとって、「生きること」は「死ぬこと」と同様に「選択の問題」だ。とはいえ、誰が生きること、死ぬことを、安易に「選択」し、「実行」できるだろう。


Why is Life Worth Living? 

ウディー・アレンは映画『マンハッタン』のラスト近くで、「人生は生きるに価するか?」と自問し、自分にとって価値のあるものを挙げてゆく。

グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ、モーツァルト『ジュピター交響曲第2楽章』、
ルイ・アームストロングの「ポテトヘッド・ブルース」、スウェーデン映画(彼はベルイマンの大ファンだ)、フローベールの『感情教育』、マーロン・ブランドー、フランク・シナトラ、セザンヌの傑作「リンゴとナシ」、サンド・ウォールズ(?)のクラブサンド・・・トレイシー(別れた恋人)の貌・・・

このくらいのリストなら、死にぞこないのわたしにだって、挙げられる。
しかし人は芸術や文学だけでは生きていくことはできない。

"ALL YOU NEED IS LOVE! "
あたりまえだ。

しかしこの街に愛はあるか?
また、わたしは愛される資格があるか?

そして最大の問題は、わたしが「今の時代」を愛せないということだ。

"To Love and To Be Loved". それが忌まわしき現代に拮抗し得るのか?それをもう一度確かめてみなければならないだろう。
そしてなによりも、もう一度繰り返さなければならないのは、わたしは愛され得るか?という問いだ。


ー追記ー

ウディー・アレンのようなリストをいくら並べても愛が無ければ人は生きてゆけない。
けれども、そのリストは、少なくとも、崖から飛び降りようとするひとの足枷くらいにはなり得るだろう・・・
















セント・セバスチャン ギュスターブ・モロー、ドローイング

Saint Sebastien (étude avec saintes femmes et anges apparaissant)
Gustave Moreau. French (1826 - 1898)
- Pencil, Pen and Ink -


今は目が悪く、文章を書くことはもとより、書きながら、書かれた文字を追いながら、思考を紡いでゆくということが出来ません。

今日はギスターブ・モローの「セント・セバスチャン」のドローイングを。







2019年11月16日
































































Untitled (Sick Rose series), Azadeh Razaghdoost. Iran, born in 1979


イランの現代アーティストの作品です。
「無題」(シックローズ・シリーズ)
病んだ、傷んだバラの花弁のようですが、今のわたしには、形も崩れ、血を流しているハートに見えます。

これは、わたしの、ハートです・・・







ありがとうございました。


このブログは本日閉鎖します。

みなさん、長い間、どうもありがとうございました。


Glasgow, John Atkinson Grimshaw. English (1836 - 1893)

嘗て 世界に 美しい夜があった・・・












2019年11月15日

「認知行動療法」追記

わたしは最近まで、所謂「認知行動療法」のいう「自己表現」をこのブログを通じて行ってきた。自己を観察し、内面を凝視し、その時々の感情の襞に可能な限り分け入り、それを「言葉に」してきた。しかしそれは、わたしという人間の内面は、今こういう状態であるということを、読者に報せ、また自分自身で再確認することでしかない。そのことによって何かが変わるということではない。

事実はひとつしかない。それはわたしは今感じているという事実だ。

「リフレイミング」などともったいぶった名前を付けて、今現実にわたしが感じている「生(き)の感情」を偽りたくない。

「認知行動療法」とは明らかに「サバイバル術」だ。そのために文脈の改変を行う。
自分に都合のいいように。(これは別に悪いことではない)。
「生のままの現実では生きていけない」「現実から逃避していては生きていけない」
であるならば、自分の中で、文脈を編集・改変する以外にないではないか。それが自己欺瞞であっても、肝心なのはサヴァイヴすることだ。

しかしこの世界には生きるに値する何ものも存在しないと考えているわたしのような人間にとって、文脈の改変は何の意味も持たないばかりか、唯一残されたわたしにとっての真実・本物である自己の感情を毀損することになることは言を俟たない。



二階堂奥歯『八本脚の蝶』2001年8月31日(金)

私は強引に何かをされることは嫌いだが、何かをよろこぶように有無を言わさず変えられてしまうことがとても好きだ。

前者は関係を変えずに行為をいびつに割り込ませるが、後者は行為が自然に生まれるように関係を変える。

文脈を作ることのできる者と、できない者。
私はいつも、誰かが作る物語の中で翻弄されるコマでありたいだけなのだった。
文脈を作る力を身に付けなくては。

読まれ手でも、読み手でもなく、語り手になること。
(下線Takeo)


つまりわたしたちは「現実そのもの」── 二階堂の言葉で言えば「誰かが作る物語」を「変革・改変」することが不可能なので、せめてその、誰かによって作られた「物語ー現実」という格子なき牢獄の中で、多少とも生き易くなるための手段としての文脈の構築・改変がある。

それが「認知行動療法」ではないのかとふと思う。


Cf

国立精神・神経医療研究センター

日本認知療法・認知行動療法学会 広報委員会


わたしがこだわるのは、そもそも「誤った認知」とか「正しい認知」というものはなく、あるのは、ただ、その人固有の物の見方、解釈だけだということ。そしてそれを改変することは、自己を改変することに等しいということだ。

つまりそれは自分が自分でなくなっても生きていたいか?という問いに直結する。




The Passion of Joan of Arc (1928) directed by Carl Theodor


簡潔に言おう。自己の視たもの、自己の感じたことによって滅びるのなら滅びるのがいいのだ。何故なら「”私”とは運命である」のだから。




2019年11月14日

デイケア及び「(集団)認知行動療法」

今日は暫く参加を見合わせていた(集団)「認知行動療法」のプログラムに参加した。

わたしは基本的に「認知行動療法」という考え方とは反りが合わない。それはこれまで何度かプログラムに参加した経験からもいちいち裏付けられている。それでは何故性懲りもなく首を突っ込むのかというと、端的に言えば、わたし個人にとっては理解の範囲を超えている「療法」「考え方」に、何故多くの人が賛同するのか、という好奇心からだろう。

例えば、今日のテーマであった、「感情」と「認知」を分ける、という考え方。資料には「自己表現」とあったが、色も匂いもなく、目で見ることも手で触れることもできない自己の内側の感情をいかに定義することが可能なのか?
そしてこれが「不安」であるのか、或いは「恐怖」であるのか、または「深い悲しみ」であるのか、それはどのように区別し得るのか?言い換えれば、「認知行動療法」で、当たり前のように前提とされている「自己表現」というものがそもそも可能なのか?という疑問。これは「不安」であって「悲しみ」ではない、ということを如何にして、また、誰が何を規準にして判別するのか?

目の前に一個のリンゴがあって、「これは赤い林檎です」と「言葉にすること」と、「わたしは今悲しい」と表現することの間に如何なる違いがあるのか?
わたしが悲しいことは、言葉にする以前に存在しているわたしの内面の事実である。
それを言葉にすることでいったいわたしの気分が、その悲しさが、どのように軽減されるのか?言葉にするまでもなく、わたしはわたしの気分・感情を既に感じている。
それを敢えて、「わたしは悲しい」と言語化することは、ある参加者が言っていたように、それを「他者に伝える」以外の意味を持つのだろうか?



さすがに今日はわたしの度重なる疑義に対して、反発の声がいくつか上がった。

それらを要約すれば、わたしが気に入ろうと気に入るまいと、「認知行動療法」とは「そういうもの」なのだから、その常識を覆そうとしても意味はない、素直にそれを受け容れ、自分の治療に役立てるか、自分には合わないと思えば、せめて黙っていろ、というもので、それに関してはまったくその通りだ。

更に、デイケア参加者の多くは、「良くなりたい」「いまの症状を少しでも軽くできれば・・・」という気持ちで参加している。しかしわたしは、そもそも「治癒」とは如何なるものなのかすらわからない。いや、正確に言えば、「良くなる」ということがどういうことかはわかっている。けれども、「良くなった後に何があるのか?」

この、わたしにとって非常に摩訶不思議な「認知行動療法」のプログラムに「摩訶不思議」なる思考法ゆえに好奇心を抑えきれずに継続して参加するか。(つまり「招かれざる客」となることを承知で・・・)そこが思案のしどころだ。また複数の参加者のいうように、「認知行動療法」とは、ある意味とても難解な代物だということは、わたしも同感だ。








2019年11月13日

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」


このブログは、11月4日の「真空地帯」の投稿を以て、実質的には終わっている。

それ以降の投稿は、あらずもがな、なくもがなと言ったところだ。

底彦さんは、最近は、過去の投稿を読んでくれているらしい。


わたしは今、なにかが分からずに困っているようだ。

けれども、自分が何が分からなくて困っているのかがわからない。

これは底彦さんのブログにもコメントしたことだが、

わたしの大好きな瀬里香さんの言葉がある。

「わたしは なぜ どのように頭がおかしいですか?」

これはもう10年以上前に彼女と知り合ったさるQ&Aサイトのメンタルヘルスのカテゴリーに、彼女が投稿した質問だ。

わたしが「わからなくて困っていること」というのも、ひょっとしたら、

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」ということなのかもしれない。

ここで、「おかしくなんかない」とか「みんなどこかしらおかしい」という言葉は絶体に聞きたくない!

来週、家族会の相談室に話をしに行く予定になっている。
次の週には二人の若い保健士との二度目の面談がある。
そしてそれを踏まえて、再びデイケアのスタッフとの話し合いがもたれるだろう。

若い保健士は言う。「Takeoさんのことをもっといろいろ知りたいので。」
家族会の相談員はベテランだが、わたしのことは何も知らない。

しかしわたしのことを一番知りたいのはわたし自身だ。
あなたのことを教えてくださいと言われてわたしに何が言える?

「わたしは何故ここにいるのか?」

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」

わたしの言えることはこれだけだ。

たとえば冗談ではなく、誰かに「Takeoさんはどうしたいですか?」と聞かれても何もわからない。何も・・・そう。質問の意味さえ分からない。

わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」

この答えが得られるまでは一歩も先へは進めない・・・


あるいは最後の投稿である「真空地帯」に照らせば、

わたしをわたしたらしめているもの」がこの世界に何ひとつないという事実・・・




2019年11月12日

茨冠と王冠




これはマグダラのマリアが、キリストの頭に被せられた茨の冠にキスしている19世紀中葉の絵。通俗的といえば確かにそうだが、わたしはこの主題に惹かれた。
「茨冠」は苦痛と悲嘆の象徴。それにキスをする。つまり苦痛と悲嘆を、尊く、高貴な、美しいものと見做している。ひとりキリストに限らず、全て、頭(こうべ)に茨冠を頂くものは高貴である。

茨冠を被せられる者は、時の権力者、即ち「王冠」を戴いた者に憎まれた者。
故に茨冠は王冠よりも尊い。

それではわたしは王冠を頂くことを拒否するかといえばそうではない。

わたしはできることなら王になってみたい。それも、絶対的な権力者。言葉を換えれば「独裁者」に。譬えるならば、全盛期のスターリンや毛沢東、現在なら、習近平やプーチンのような独裁者に。

もしわたしが万能の独裁者になったら、してみたいこと。

といっても、わたしは政治にも経済にも国際情勢にも疎いので、あくまでも、夢物語だが・・・





「天皇制の廃止」「自衛隊を廃止して、災害救助隊とする」「すべての武器・兵器はこれを廃棄する」「日米安保条約の廃止」「全ての原発の廃止」「東京オリンピックの開催中止」「防衛費・オリンピックのための予算はすべて、社会福祉に使う」「叙勲制度の完全撤廃」「公共住宅の充実」「全国各地津々浦々までの図書館と医療施設の充実」「医療及び教育の無償化」「義務教育の廃止(学校に行く義務の廃止)」「死刑制度の廃止」「幼児虐待や交通事故での加害者の量刑が軽すぎるので、その点の見直し、幼児虐待死などは最低30年以上~無期(仮釈放ナシ)」「政治家の世襲制の廃止」「サービス残業をさせた企業は完全営業停止1か月」「国民の祝日を元の日にちに戻す(土日月3連休性の基本廃止)」「デパート、スーパー、コンビニなどで売れ残った食料品は地域のフードバンクにすべて無償で寄付することの義務化」「破棄した場合には廃棄した商品と同額の罰金をフードバンクへ」「自民党の解党」「NHKの受信料支払い義務化の撤廃」

「駅のホーム・電車の一車両・バスの車内などで、スマホをいじっている人間が全乗客、その場にいる人間の3割を上回った場合にはその場の全員の使用停止」
「電車・バス、駅でのアナウンスの禁止(乃至車掌の肉声による)」「電子書籍は通常の書籍の3倍の値段にする」「プラスティック容器の5年以内の完全撤廃」「消費税の撤廃」「議員報酬を半額に」「学校での制服の撤廃(服装は完全に自由)」「赤線地帯の復活」「性をタブーにする教育の改革」「韓国への速やかなる謝罪」「国鉄(国有鉄道)の復活」「郵便局(郵政省)の復活」=「鉄道・郵便局の国営化」「福祉・医療・介護職員の賃金の大幅アップ」「安楽死制度の導入と、実施の簡素化」「図書館運営の民間委託の廃止」「リクルートルックの完全撤廃」

・・・そしてわたしは茨冠を被る前に暗殺されるだろう。それがわたしの「茨冠」だ。







2019年11月11日

無題



A Spectre (Portrait of Nicky Haslam), 1961, Michael Wishart,  (1928 - 1996)
- Watercolour on Paper - 


自分の貌が日毎に醜くなってゆく


いっそこんな貌になってしまえば


こんな貌では外にも出られないが、せめて貌を覆い隠したい






2019年11月10日

ふたつさんのコメントへの返信。

こんばんは、ふたつさん。何かの不具合で、頂いたコメントに返信不能なので、ここに書きます。



ネットの怖さ、そして鬱陶しさを改めて感じました。

高校時代の友人が、就職して暫く上司との相性が悪く、毎晩わたしのところに愚痴の電話です。彼は言いました「お前は絶対に喧嘩しないもんな。喧嘩になる前に消えてるから・・・」

インターネットでも、嫌ならそこから離れればよかった。ところが、自分のブログに日参して、ネタを探したり、人を見下したり。これには参ります。例のパソコン関連の友人に相談したところ、「仮にブログを引っ越しても、そういう連中は必ず見つけ出すよ。考えてみれば、自分より弱い者をからかうことでしか優越感を保てない哀れな連中だけどね」


>いつもながらに、「彼ら」のTakeoさんに対する執着心は、かなりのモノですよねぇ。
でも、なんで、こんなに執着するんでしょうね?
(これ、「彼ら」に、自問してみてほしいですね)

すごいですよね。
多分彼・彼女の裡なる差別意識じゃないかな。
表立って差別はしないけど、自分が「下」と見做している肩書を持つ人間が「生意気に自己主張したり」するのが気に入らないんでしょう。

そのくせ、わたしをネタに何か言うたびに、底が割れる=思考のレベルの低さが露見するという滑稽さ。


>当然、ブログ主本人だって、『もう、その話はやめましょうよ、〇〇さん』ということは出来るし、いくらでも、Takeoさんから離れることは出来るわけだから、「彼ら」が認めないとしても執着しているのは確かなことですよね。

これは確かなことですね。仮に「彼/彼女」が、芯からわたしを軽蔑し、忌み嫌っているのなら、「ああ、あいつの話は止めて!」となるはずです。また仮に「おもちゃとしてちょうどいい」などと口にした瞬間、己の下劣で下衆な本性=差別意識を白状したことになる。

「中二病」とか「マウント」とか「テンプレ」「コピペ」「トレース」彼らは「紋切り型」を多用します。こういう事象を矮小化する鋳型をたくさん持っていると、話が効率的で上滑りに進んでいきます。彼らの多用する語彙を検証するだけで、思索の底の浅さが透けて見えます。浅瀬ほど動きは自由だ。逆に水深が深いほど身動きが取れなくなる。



ランタナという者の言い草を聞くたびに、「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉を思い出します。

わたしが誰からも好かれないのは事実だ。けれども、ランタナには、それを「自己愛」だとか「マウント」「優位に立ちたい」と言った極めて浅いレベルでしか、言い換えれば「常套句にたよってしか」捉えることができない。
「精神疾患とは関係性の障害である」(エリクソン)── 人と関係をうまく構築できないこと、それを精神の問題(トラブル)と見ずに、彼女はどっから引っ張り出してきたのか「中二病」だからだと・・・

彼らがわたしに向かって言っていることが、ことごとく、語るに落ちる・・・言ってる当人の本性を現しているのだということを、お目出度い人間は気づかない。

分からなければ黙っていたまえ。わかっているというのなら、きみらが金科玉条にしている「わたしの自己愛」について説明してみたまえ。

滑稽を通り越して憐れにさえ見えるのは、わたしへの批判のつもりが悉く自己批判になっていることだ。



ふたつさん、
わたしはこの文章を書いた時点で、Junkoさん、底彦さんとの縁は切れたと思っています。つまりおふたりが読むに堪える文章ではないからです。
(実を言えばふたつさんからのコメントもビックリしました。)しかしこれがわたしです。いつまでもいい気になって人を、また精神障害や引きこもりを、自分が理解できないからという、自分の価値観と合致しないからという、ただそれだけの理由で、侮蔑し嘲弄する愚昧なる者たちに寛容なほど人間出来ていないので。

まぁ、Takeoさんには、こんなことよりも切実な問題があるでしょうから、こういうのにかかわる時間は少なくした方がいいでしょうね。」

この言葉は、そのままふたつさん、Junkoさん、そして底彦さんにお渡しします。
今まで長い間、変わることなく中身の充実したコメントを頂き、そしてこのような出来損ないを見守っていただき、ありがとうございました。

わたしは、もう書けません。

「最後」に、これは神谷美恵子氏のエッセイからの孫引きですが、シモーヌ・ヴェイユの師であった、哲学者アランの言葉です

「正確な判断を導くには、まずできあいの観念や常套句を”殺戮”することから始めなければならない」

Takeo











Solas - Michael Conway




「ソラス」の「マイケル・コンウェイ」

ソラスというフォーク・グループは、たまにのぞく英国のブックデザイナー・編集者・アーティストのブログで見つけました。

All Music Guideによると、ジャンルはアイリッシュ・フォーク、ケルティック・フォークとなるようです。

All Music Guideは以前CDを買う際に参考にしていました。
このサイトの特徴は、アーティストの「雰囲気」をサジェストしてくれる点です。

例えばこのソラスは、

Amiable/Good-Natured、Bittersweet、Freewheeling、Sweet、Fiery、Joyous

Passionate、Pastoral、Plaintive、Playful、Sparkling、Yearning、

Calm/Peaceful、Intimate、Wistful、

等とあります。「ビター・スイート」「パストラル」(牧歌的な)「コーム&ピースフル」(落ち着いた、平穏な)「インティメット」(親しみやすい)

これだけのキーワードで、ある程度、アーティストのテイストが分かります。

尤も、最近気に入っているバンド、ザ・ウォー・オン・ドラッグスなどは、このサイトの評価では、「落ち着いた」とか「牧歌的な」というムードとはまるで正反対でしたけど。

この「マイケル・コンウェイ」などは、ケルティック・フォークの面目躍如と言った感じです。

Have a Calm and Peaceful Sunday. 





追記

なんでも自分の物差しで測れると思うことの浅はかさよ。

わたしが独りなのは、おまえのいうように、上位に立ちたいとか人を見下したいと言った、お前自身の持つ属性に依るのではない。

わたしが孤立しているのは、「わたしが常にわたしだから」だ。

人を小馬鹿にしておきながら、窮鼠猫を噛むというような状況になって反論されると、たちまち知らぬ存ぜぬで、見ない聞かないことにするのがお前らの常套手段だ。

もっとも、わかりもしないことについて、口から出まかせを並べているだけなのだから、反論に応じられるはずもない。

好きでおまえらと関わっているんじゃないんだ。

ブロガーはいい加減で、来た人をカウントしないことはしょっちゅうだが、
訪れもしない人を閲覧者として表示したことはない。

ここひと月くらい、ブロガーの表示するこのブログの閲覧元は
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/だけだ。

無論毎日20~30の訪問者があることも示しているのだから、ここからだけではないだろうが、筆者が呆れるくらい毎日欠かさずhttp://qinggengcai.blog2.fc2.com/が表示される。

こう毎日欠かさず来られると、何かこのブログについて書かれているのではないかと「邪推」もしたくなる、見てみる。やはり書かれている。

お前らはわたしの「敵」ではない。ただ関わり合いたくないのだ。

http://qinggengcai.blog2.fc2.com/このURLがブロガーの訪問者の表示から消えれば、こちらも2度とそちらに行くことはない。

付きまとうのは止めてくれ。ブログの種を自分で探せないくらい無能ならば、ブログなど書くな。






ここはわたしの居場所ではない

先日、ネット上での知人が、『この星は、私の星ではない』というドキュメンタリー映画を観に行った。
その題名を聞いてすぐに、境界性人格障害の女性の手記の書名『ここは私の居場所ではない』を思い浮かべた。

このような感覚を、こころのどこかで常に感じていない人と、わたしとは、結局本質的なところで異質なのだろう。

「ここは私の居場所ではない」の「ここ」とは「すべての」「ここ」だ。








2019年11月4日

真空地帯

いまわたしは何もない世界に生きている。

26歳から17年間住み、大好きだった「〇〇荘」のない世界。「親友」のいない世界。「公衆電話」のない世界。「カセット・ウォークマンのない世界」「ブラウン管テレビのない世界」「裸電球のない世界」etc....

これがないこと、あれがないことを、「常に」、悲しみと懐旧の想いと共に意識しながら生きている。

「あれもこれも、もう存在しないのだ」という「現実」を受け容れることが出来ずに生きている。

二階堂奥歯が、「人間が恐怖(不安?)のピークで死んでしまうような弱い生き物だったらよかったのに・・・」と書いていた。わたしも心から共感する。

わたしをわたしたらしめているモノたちが喪われた世界にまだ存在しているわたしとはいったい何者だ?

「わたしをわたしたらしめていたモノたち」を欠いた「わたし」とは、わたしを「わたしたらしめているものを」持たない「わたし」とは、いかなる存在か・・・




The War On Drugs - Nothing To Find




先日も投稿したっけ?

最近お気に入りのバンド、ザ・ウォー・オン・ドラッグスです。

CD探してみよう。




貴い傷と偽りの美

以前、フロイトとマーラーのエピソードを紹介した。
フロイトの元を訪れたマーラーの診察をフロイトが躊躇した。訝るマーラーに彼は、「しかし治療が成功してしまうと、もうあの美しい曲を聴けなくなってしまう・・・」

中条省平氏の本に、フランソワ・トリュフォーが一時、深刻な鬱状態に陥った時、彼は、一旦始めた精神分析を途中で打ち切ったという話が、トリュフォーの元夫人のインタヴューの中で語られている。
トリュフォーは彼自身で、フロイトがマーラーにしたのと同じ判断を下したのだ。


ところで、わたしの「スマホ」嫌悪については、仮に、なんらかの方法で(魔法でも催眠術でも秘薬でも)スマホ嫌いが完全に消えると言われても、施術・治療はお断りする。
スマホを嫌うことで得られるものは何もない。どころか、世の中から大嫌いなモノがひとつ減るということは喜ばしいことじゃないかと誰もが思うだろう。

けれどもわたしは醜いものに平気になれることを自分に許すことはできない。
また10人が10人、唾を吐きかけ、鞭打つ者に対し、たったひとりだけ、少なくとも、唾を吐きかけず、鞭打つことをしない者でありたいのと同じように、10人中10人が「是」とするもの、100人中100人が「諾」というモノに与したくはないのだ。



先日Tumblrで、拙い英文でこのような投稿をした

「時々、ある人経由で、美しいモノクロ写真を目にする。しかしわたしはデジタル写真というものがわからない。何故ならそれはわたしにとって本当に美しいのか?それとも、「それ」がわたし(わたしの脳)に「美しい」と感じさせているのかの判断がつかないからだ・・・」



するとわたしをフォローしている人から返信が来た。

Beauty is in the eye of the beholder. If it makes you think or feel that it is beautiful it is. The medium does not matter.

「美はそれを見る者の心にある。もしその「デジタル写真」を、あなたが「美しい」と感じたのなら、それは「うつくしい」んだ。媒体は問題じゃない」

わたしは彼(彼女?)に反論する英語力を持たないし、意見をくれただけでもうれしいと思っている。

けれども、わたしは如何様にも加工できる写真を写真とは呼ばない。
少なくとも、わたしにとっての写真とは、デジタル以前のものを指す。

現実にはそうではなくても、そのように見せることができる。しかしそれは現実でもなければ真実でもない。そこにそんなものはなかった。あるいはあったものが消されている。
厳密には、デジタル写真とは、「写し撮る」ものではなく「創作する」乃至は「デッチ上げる」ものだ。少なくともそのようなことが可能なメディアだ。

「美しい」と思う前に、先ず疑わなければならない。

「嘘」に踊らされたくはない・・・












2019年11月3日

書くことの困難、そして映画


書くことが困難になってきていることを感じる。その「困難さ」をきちんと伝えることができるなら、少なくとも、今までの様に説明することができるなら、それを「困難」とは呼ばない。

これまではわたしの抱えている悩みにも、ある程度、「重さ」が感じられた。
その「重み」を言葉に移し替えることが、ここでものを書くことだった。
しかし、今は様々なことの境、境界が非常に曖昧になってきている。
「死」と「生」、「死ぬこと」と「生き永らえること」、「孤独」と「独りではないこと」、「好感」と「嫌悪」ー エトセトラ…これまで対峙し、対立していたそれらのことが混然一体としてきたような感覚、とでも言うのか・・・これ以上書くと、「嘘」ではないにせよ、言葉を重ねれば重ねるほど、それはわたしの本心からはなれてゆく気がする。

今のわたしには、この右目がそうであるように、何も見えていない。微かに、そこに山があるように感じられ、そこに樹があるように思える。けれども、その山の尾根の姿、樹の手触り、色合い、そのような、山や、樹を作り出している「細部」が見えない。

見えていないものを見えているように書く意味がわたしにはわからない。





母が、わたしが好みそうな映画を教えてくれた、今日から、神保町の「岩波ホール」で上映されている、イランのドキュメンタリー映画、『少女は夜明けに夢をみる』英語のタイトルは ' Starless Dreams'(星のない夢)

母がわたしに教えてくれたのは、この新聞広告に載せられている少女の

わたしの罪?
生まれてきたこと。
わたしの夢?
死ぬこと。

という言葉を読んだからだろう。

広告の中で、この映画を3人の女性が評している。
作家・奈良少年刑務所元講師の寮三千子さん、ジャーナリスト・ドキュメンタリー監督の伊藤詩織さんというお二人の言葉は、わたしの心にまるで届かなかった。
ただひとり、声優・女優の春名風花さんの言葉

「彼女たちは罪を犯した。でも・・・罪とは、何なのか?
「加害者になるしかない命」もまた、立派な被害者なのだ。

という言葉がわたしの胸に強く響いた。

岩波映画では、8月に、母が、ニューヨーク市立図書館のすべてを描いた『エクス・リブリス』'EX-LIbris'という3時間強の作品を観て、彼我の文化水準の圧倒的な差を見せつけられてきた。

高野悦子氏没後も、岩波映画は良質な映画を配給し続けているようだ。

10代の少女が、強盗・殺人を犯し、

生まれてきたことが罪といい、死こそが夢という。

そんな国があること、そんな言葉を吐ける少女が存在することが、その本質に於いてイランよりも貧しいであろうこの国に生きるわたしの心の小さな支えになってくれるかもしれない。

映画に救いは要らない。救いのなさこそが救いなのだから。





世界中の病院のベッドで、子供たちが、早く元気になりたいと願っている。
その願いはわたしにもよくわかる。どうかみなが元気になれるようにと願わずにはいられない。
病院の外の世界が、わたし自身、決して生きたいとも、生きられるとも思えない世界であったとしても・・・













 



2019年11月2日

ヴィンテージ・フォト


"Wall Street," 1958. © Marvin E. Newman.American, born in 1927,

「ウォール街」1958年、マーヴィン・E・ニューマン







断想


主治医(精神科医)を替える必要がありそうだ。今の医者では埒が明かないということではない。物理的に、もうわたしがクリニックまで通えなくなっているからだ。
ここから最寄り駅まで歩いて約15分、電車で二駅、そこからまた徒歩10分ほどの距離が通えない。

それにわたしは「良くなる」「元気になる」「改善される」ということを望んでいない。
とうよりも、わたしにとって、今の時代「良くなる」「健康になる」という意味がわからない。親切で患者の話を聞いてくれる稀なドクターではあるが、患者本人が通えずに、母に薬を取りに行ってもらうことが増えている。これでは医者も困るだろう。

「良くなる」ということを目指していない以上・・・というよりも、「良くなりようがない」以上、通える範囲で、そこそこ人当たりのいい医者であれば構わないと思っている。




木村敏がまだ臨床医だったころ、彼の看ていた分裂病の患者が、「自分が他の人たちと同じ人間であるという実感がない」と言った。わたしもまったく同じ感覚を抱いている。

同じように、わたしはスマホを持っている人間が、自分と同じ人間であるとはどうしても思えない。もちろん「同じ人間」である必要はどこにもないのだが。しかしだとすれば、上述の患者や、「わたし」は一体「何モノか?」

「彼らが人間であるなら、わたしは人間ではない」
「わたしが人間であるなら、彼らは人間ではない」

とはいえ、わたしは別に自分が「人間」でなければならないとは少しも感じてはいないが・・・