2019年11月28日


わたしの家族の滅びも近づいている。五日後に埼玉に行く父とはもう二度と会うことはないだろう。
弟はひとりでは自滅する。しかしわたしは弟との同居はできないだろう。
どちらかが犠牲になるしかない。わたしは弟の犠牲を望まない。
母の望む二人でなんとか・・・というのはわたしには無理だ。

早晩弟が戻ってくると決まった時点で(わたしもそれでいいと思っている。主治医は反対しているが)わたしの・・・この家族の運命もほぼ決まったと言っていいだろう。

「どちらかが犠牲になるしか・・・」

『ソフィーの選択』では、ナチの将校の気まぐれで、幼い男の子か女の子かどちらかを選べと(片方は助けてやると)言われたソフィーは、「親が子供を選べるはずがない!」と将校をなじる。「そうかじゃあ両方ともガス室行きだな」と言われた時、思わず、「女の子を!」をと、女の子を将校に渡してしまう。

ソフィーは何とか終戦を迎え解放されたが、最後には自ら命を絶つ。


9 件のコメント:

  1. 読んでいて胸が締め付けられるようです. Takeo さん自身の苦しみに加えて, Takeo さんが置かれた状況も良くないのですね.

    Takeo さんのご家族の事情にまでは踏み込めませんが, この時期にお父様が施設に移るということ, 弟さんが家に戻ってくるということもそれなりの理由があることなのでしょう.

    このままでは Takeo さんご自身が持たないのではないですか.

    家族というものの苦しさは, Takeo さんのものとは異なるかも知れませんが私も想像できるように思います. 私自身も家族からは半ば弾き出された人間です.

    それでも, そういう追い詰められた中にありながら

    > わたしは弟を憎んではない。寧ろ、父や弟のありのままを受け容れられない自分の狭量を憎む・・・

    と書ける Takeo さんはあまりにも優しい.

    現在の Takeo さんの向かう先にとても希望など無さそうに感じますが, Takeo さんはお母様や弟さん, お父様を気遣う一歩手前で, 自分のことだけを考えるというわけには行きませんか.

    これは Takeo さんが自らの生には否定的, あるいはより強く憎悪に近い感情すら持っていることを承知した上で書いています.
    Takeo さんはあまりにも繊細で優し過ぎる. 周りを気遣うあまりに自分を否定して抹消することすら厭わないようですが, Takeo さんの中にある繊細な心や美しいものへの感覚や文章を紡ぐ力を愛することはできないものでしょうか.

    今この瞬間だけを見つめて, 自分のことだけを考えるということはできませんか.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      昨夜底彦さんのブログを読みました。先日のわたしの言及に対する「補足」というか、お返事のような投稿もあり、考えさせられました。
      「考えさせられました」、か。頭に靄がかかっているようなときにはこのような決まり文句しか浮かばないものですね。

      最後に読んだ、「終日寝込んで」いらっしゃったようなコンディションの中、わざわざコメントを頂き感謝しています。

      今のわたしには、「先ず自分を大事に」という発想はお察しの通りありません。「まず自分のことを考える」ということは、とりもなおさず、「自分が生き延びること」を想え。ということと同義だからです。

      「生の価値」という命題について述べるには、今のわたしはあまりに混乱しています。思考力も以前に比べて、目に見えて低下しています。

      以前から書いていた、「誰かの犠牲の上に成り立つ生」というものが許されるのか?
      という疑問は、未だにわたしには解けない問題のままです。

      わたしは母の存在を自分の存在の上に置いています。
      訳知りの連中は或いは苦笑しながら言うかもしれません。母親がいなければ何もできないのか?
      けれどもそのようにわたしを嗤う連中が、果たして、世界中に誰ひとり味方と呼べる存在が無くても顔色一つ変えずに生きてゆけるでしょうか?
      シオランの「全人類が顔に唾を吐きかけてきたとしても、自分が自分である限りは自殺すべきではない」・・・しかしそこまで強靭な精神力を持った人間がどれほど存在するでしょうか?

      すみません・・・先日もデイケアで、自分の考えをどうしてもまとめることが出来ずに、発言を途中で止めたということがありました。

      >母様や弟さん, お父様を気遣う一歩手前で, 自分のことだけを考えるというわけには行きませんか.

      わたしは一にも二にも母の気持ちを優先したい。母が弟がここに帰ってくることを
      望むのなら。それを優先したい。わたしも母も無謬ではあり得ません。その結果、が後悔に結びついたとしても、それは責められるべきではない。

      わたしは母がいるから生きています。それだけが揺るぎない事実です。
      ですから、わたしには「自分の事だけを考える」ということはあり得ないのです。

      「〇〇あってのわたし」ーわたしをわたしたらしめているものがあらかた失われた今、母がいるからわたしがいるのです。

      上手くまとまりませんが、ご容赦ください。ここの「メンバー」のみなさんに隠し事をするつもりはありません。けれども、今はまともな返事が書くことが難しい。
      それでも構わなければ、いつでもなんでも書いて(訊いて)ください。

      底彦さんの心の平穏を祈ります。

      乱文にて・・・



















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    2. 追伸

      お心遣いに心から感謝しています。

      ありがとうございます。

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  2. こんばんは。

    Takeoさん、生きてますか?
    ぼくは、生きてます。


    失礼な言い方を承知でお聞きしますが、障碍者認定を受けていれば手当てがもらえるというわけでもないんでしょうか?
    それとも、金額があまりにも少なかったりするんでしょうか?
    もし仮に、受けられるべき支援を申請していないのであれば、あら捜ししてでも受けるべきだと思います。

    お母さまに対するお気持ちは理解できますが、Takeoさんの生死とは別のこととしても、公的援助は受けるべきだと思います。
    少しでも、「社会」に対して負担をかけていく事こそが、今現在の時点で考えられる最も「善」に近いことだと考えます。

    『「誰かの犠牲の上に成り立つ生」というものが許されるのか?』
    というよりも、
    『「誰かの犠牲の上に成り立っていない生」というものは無い』
    というのが本当のことに少し近いと思います。

    その前提で言えば、「人間(個人)」のために、もっとも犠牲に成るべきなのは「社会」だと思います。

    現代人は「社会」に乗っ取られています。
    『社会(親など)に寄生している』とはよく言われますが、実際には「人間」が「社会」に寄生されてしまっています。

    だから、「人間」自身が寄生されてしまっている「社会」のはらわたを内側から食い破って外に出る必要が出てきているわけです。

    上手く説明できませんが、そんな気持ちで生きてみることは出来ないでしょうか?


    また書きますので、生きててください。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      「まだ」なんとか生きているようです。

      先ず社会保障については、瀬里香さんや底彦さんは、そもそも、働いていた時期に年金を収めていたので、今、もらえるのです。「障害者年金」ということに関して言えば、わたしも弟も、もらう資格がないのです。

      それはそれとして

      >少しでも、「社会」に対して負担をかけていく事こそが、今現在の時点で考えられる最も「善」に近いことだと考えます。

      この意見には100%同感です。

      ただ、現実には生活保護をもらう条件を満たしている人の4割(割合は忘れましたが)かなりの人が実際にはもらわないで生活しているというこの国の現実があります。もらえる条件を満たしているということは、相当に困窮しているということです。もらわない理由としては、申請に行った時に、嫌な思いをしたという人、それ自体を悪いこと=社会に迷惑=自己責任だと考えている人がいるようです。

      日本という国のモットーとして、いくつかの言葉を思い出しました。

      多分すべて母から聞いた言葉です。

      1)「人民は(?)生かすべからず 殺すべからず」

      2)「民は愚かに保て」

      3)「国民は(?)知らしむべからず、拠らしむべし」

      最後の意味「知らしむべからず」=何も知らなくていい、はわかりますが「よらしむべし」とは、おそらく、「お上に従順であればいいんだ」という意味だと思います。

      これらを総合すると、「家畜」とほぼ同様の存在になります。

      これがこの国の江戸時代から続く治世の要諦です。

      このコメントに書かれているふたつさんの社会観には全面的に同感です。

      ただ、そのことと、今回のわたしの問題とは直接関係はないのです。
      つまり、世の中にはゼニカネでは解決できない問題もあるということです。

      確かに、数千万から億単位の金があれば、家をふたつ建てることができるのでこの問題は解決するでしょう。しかし、父の年金があり、弟の家賃を払えていた時から、弟は自宅に住めないという犠牲を払っていたのです。
      数年前にはわたしが国立のURに1年半住んでいたことがあります。同じ事情からです。けれどもわたしは持ちませんでした。

      つまり父が出て言った後も、同額の収入があったとしても、問題は解決しないのです。

      わたし自身は、電話恐怖、訪問恐怖があり、また音や気配に非常に敏感なので、ひとり暮らしはできません。また、人との共同生活という者ができません。ですから当然結婚したとしても、別居という形になります。ウディー・アレンとミア・ファーローが、セントラルパークを挟んで、両側にそれぞれ住んでいたような。

      >『「誰かの犠牲の上に成り立っていない生」というものは無い』

      そうでしょうか?ふたつさんは誰を犠牲にして生きていますか?Junkoさんは?ひとり暮らしの底彦さんはいったい誰を犠牲にして生きていますか?

      以前からわたしは母の死と共に死ぬと言っています。
      母がいなくては生きてゆけないというのも、またゼニカネの問題ではありません。
      仮に両親の死後、数億の遺産があったとしても、わたしは生きられません。
      わたしは人間です。生憎こころを持っています。
      誰からも愛されずに、金に埋もれて生きてゆくことはできないのです。

      天涯孤独に生きている人を貶める意図はまるでありません。ただ、わたしはそういう人間ではないということです。

      ご心配をおかけします。メッセージをありがとうございました。







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  3. Ciao Takeoさん
    今日、やっと子亀の冬眠用のシェルターを作り終え、物置に設置し、ほっとしています。

    Takeoさんが語ってくださったTakeoさんの現在の厳しい状況に、何が言えるのだろうと、言い惑っていました。
    Takeoさんが今まで何度も繰り返し繰り返し書いてくれたことで、Takeoさんの気持ちや決心は痛いほどわかっているから、尚更言葉になりません。
    そんな時、底彦さんのコメントを目にしました。
    こう言う時にこう言うことが言える人は、本当にやさしい人なのだと心打たれました。
    そんな底彦さんも苦しんでおられるようなので、それを心苦しく思います。
    繊細でやさしいということは、今の世の中では苦痛を強いられるのでしょうか?
    なんとも理不尽なことです。

    無理だとわかっていても、私も底彦さんと同じことを言います。
    少しご自分の思いも尊重してあげることはできないでしょうか?
    Takeo さんは、そうやって、誰からよりも、まずはご自分から尊重されるべきです。
    Takeoさんが何故こんなにみんなから評価され愛されているTakeo さんの繊細な心、美を突き詰める稀有なそして厳しい感性、そしてそれを言葉にする力をTakeo さんの才能として認められないのか、私には不思議でたまりません。

    自分を尊重することは、他者の生を犠牲にすることではないと私は思います。

    もし、お母様がTakeo さんに、弟さんと仲良くしなくても、話をしなくても、顔を合わせなくても、なんとか弟さんと折り合いつけて一緒に暮らせないかと頼まれたら、どうしますか?
    Takeoさんのお母様はTakeo さんのことを一番わかっていらっしゃる方ですから、Takeo さんの気持ちも充分にわかっていらっしゃって、だからこそ、口に出さないのかもしれませんが、お母様の立場に立ったら、できたらみんなで、、と思っていらっしゃるのではないかと私は推測するのです。

    ここまで書いて、休憩し、夕飯を食べました。
    で、
    もう一度覗いてみたら、ふたつさんのコメントが、、
    ふたつさんの気持ちもよくわかりますし、私も同じ気持ちなので、そして彼の言う社会観にも同意します。

    > 現代人は「社会」に乗っ取られています。
    『社会(親など)に寄生している』とはよく言われますが、実際には「人間」が「社会」に寄生されてしまっています。

    全くその通り
    人間が社会の喰いものにされてるのですね
    これでは本末転倒です。
    国民、皆が迷惑をかけないようにとか、「自己責任」とかおかしなことを言って、遠慮をし過ぎるから、社会はいい気になって傲慢になっているのです。

    生活保護は、すべての国民にそれを受ける権利があります。
    社会は、困っている国民を援助する義務があります。
    この権利を行使しないと言うことは、この国民が有する権利の存続を危うくすることで、
    明日その援助を受けなければいけない人を窮地に追い込みます。
    市役所が、生活保護を申請に来た人をあえて追い返すと言う政策を取っているのは、憲法違反であり、彼らの職務のネグリジェントです。
    なぜなら、生活保護の受給を適正に敏速に促す事は彼らの職務だからであり、追い返すことではない、ここで、彼らは国民側につかず、政府側にくっ付いているわけで、(自分たちも国民のくせに)とんでもない事です。
    ですから、明日問題を抱えた人が滞りなくこの援助を受けるようにするためには、
    私たちが意地でもその援助を受ける事を行使する事だと思うのです。
    もしかして、Takeoさんはそんなことで闘うことなどしたくないかもしれませんが、
    私はこれ以上社会に馬鹿にされたくないためにも、私の権利を主張します。
    ふたつさんの言葉を借りれば、
    > 「人間」自身が寄生されてしまっている「社会」のはらわたを内側から食い破って外に出る必要が出てきているわけです

    私は「社会」のはらわたを内側から食い破って外に出ます。
    少なくともそういう努力はしたいと思っています。
    なぜなら、皆が「普通に」幸せでいられる社会というものがいつか出来上がったらいいなあと思うからで、そしてそんな社会を希求するのは私の人間としての、国民としての権利であり、義務であると考えるからです。

    Takeoさんがふたつさんへのお返事で問いていたこと。
    > Junkoさんは?ひとり暮らしの底彦さんはいったい誰を犠牲にして生きていますか?

    私は生きるためにものを食べていますから、私の生を支えるために魚や動物やお野菜たちが犠牲になっています。
    そして、私は私の母は、とりわけ母は、私のために自分を、全てとは言いませんが、犠牲にして私を育ててくれたと思っています。

    私はtakeoさんの気持ちがわかるのと、Takeo さんの決心が固いのを充分に承知しているので、Takeo さんにああしてくれ、こうしてくれという事さえ戸惑って言えません。
    でも、このままTakeo さんが居なくなったら、私も私たちもとても悲しいです。
    Takeoさんの気持ちがわかるから、なんとかがんばってください。とも言えないのですが、、
    でも、とても悲しいと思います。



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    1. こんばんは、Junkoさん。

      先ず、みなさん誤解されているように感じるのですが、わたしの書き方が悪かったのでしょうか。まるで、「わたしは、近々自殺をする」という宣言をしたように受け取られているようです。

      そう言うことではなく、来週父がケア・ハウスに入居する。無論これまでの経緯があるので、入れ替わりに弟が戻ってくるわけではない。母はしばらく様子を見て、と言っている。しばらく様子を見てといっても、収入がゼロになるのに、毎月6万円の弟の家賃をそういつまでも出し続けるわけにはいかない。わたしたちは今あるお金を切り崩して3人暮らさなければならないのですから。
      母の言う「暫く」は、おそらく、長くて3か月。つまり2月いっぱいがギリギリでしょう。つまり遅くとも3月には弟はここに戻ってくる。



      >もし、お母様がTakeo さんに、弟さんと仲良くしなくても、話をしなくても、顔を合わせなくても、なんとか弟さんと折り合いつけて一緒に暮らせないかと頼まれたら、どうしますか?

      わたしは大田区に住んでいた時に、26歳から42歳まで、17年間、家族とは基本的に別に住んでいました。(とはいえ今の弟と同じように、17年間ほぼ毎日、食事と入浴に帰っていましたが)(風呂のないアパートでしたので)。そして26歳の時にわたしが今尚愛してやまない木造アパートに移るまでは、弟が先に一人暮らしをしていました。そして、わたしも弟も、当時は仕事をしていた。弟はひとり暮らしのアパートで精神を病み、家に還ることになりました。

      要するに、既に若い頃から、弟とわたしは、ほとんど顔を合わせていない生活をしているのです。

      わたしはあのアパートに愛着がありました。あのアパートが取り壊されているのを見、実家である都営住宅がリフォームのため、部屋の大きさや配置などが大幅に変わるのを機に、多くの住人が引っ越してゆきました。わが家も都内に適当な都営住宅が見つからなかったこともあって、郊外に越してきました。それが同じ年だったのです。

      最初はやはり4人で3部屋しかないところに戻ることができないことと、大人になって初めて弟と同居することが無理と判断し、昭島市東中神というこれまで聞いたこともない場所にURを借りました。何故URかというと、通常の不動産屋は無職の人間に部屋は貸しません。更に仕事をしていても、「ちゃんとしたところにお勤めの」保証人が必要です。時代はわたしや弟が20代の頃に部屋を借りた頃と大きく変わっていました。URは誰であろうと、無職だろうと保証人が無くとも、既定の家賃さえ払ってくれれば誰にでも貸します。だからいつもURなのです。

      わたしはもうあの部屋が無いこと。そして生まれ育って40年以上暮らしてきた大田区から遠く遠く離れてしまったことから、本当にグレタさんのような状態になりました。「親友」は毎日のように川崎から差し入れに来てくれました。母も。
      今でさえ、週に一度は夢に見るあのアパートがもうない。わたしは何故いまこんなところにいるのか?
      このままではまずいと思い、わたしはここに移りました。その時にわたしに部屋を空けてくれたのが弟でした。つまり弟が出たわけです。

      しかし弟も統合失調症で2級の障害者手帳を持っています。
      数年持ちましたが、帰ってきました。しばらくして、既に親友を失っていたわたしは、外に出ることがなくなり、ストレスのはけ口がなくなりました。そして、何もしないで、たばこばかりすって母の後をついて回る弟に苛立つようになりました。
      そして上にも書きましたが、今度はわたしが国立のURで1年半。
      戻ってきて暫くしてまた同じ状況で、4年前に弟が立川へ。

      今度弟が戻ってきてどうなるか?これまでの経緯を知っている主治医はだから反対するのです。

      もとよりわたしは弟とも、父とも、口をききませんし、顔も合わせていません。
      ただ、この狭い空間に一日中何もすることのない二人が一緒に住むことができないのです。

      もうこれ以上、同じことの繰り返しはしたくありません。弟はここに住み続ければいい。同居が無理なのはわたしも主治医も最初から分かっています。

      けれども、今の時代、八方手を尽くして、チマチマと延命をする何がこの世界に在るでしょう?



      わたしは日本の政治を作っているのは他ならない日本国民だと思っています。
      この国は韓国や香港に大きく水を空けられているのは誰の眼にも明らかですが、中国本土の人たちも日本人のようかというとかなり疑問です。
      「洗脳」という視点から言えば、日本人は、中国や北朝鮮を嗤うどころではありません。

      >この権利を行使しないと言うことは、この国民が有する権利の存続を危うくすることで、
      明日その援助を受けなければいけない人を窮地に追い込みます。

      これは確かにその通りですが。韓国や香港の、真の意味での民主主義を見せつけられると、この国で「闘うこと」の無意味さを感じずにはいられません。



      また「犠牲」というのは、生きてゆくうえで、誰かの時間を奪っているか?誰かの労力を奪っているかという意味で言っています。無論医療・福祉関係者はそれが仕事ですからそれを犠牲とは呼びません。

      Junkoさん。障害者の生きる権利という場合。その根拠はなんですか?

      まとまらずにすみません。メッセージをありがとうございました。

      子亀の命の方が、わたしの命よりも重いと、わたしは思っています。



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    2. Ciao Takeo さん
      前にも言いましたが、私は自死を否定しません。
      そして死ぬ権利と同じく生きる権利も当然あると思います。
      でも私が知る限りでは、自死を選ぶ人たちの大半は、社会のありようとか、他者からの苛めとか、そう言ったつまり外部の状況からの影響によって生きる意味を失い、人生を維持することを放棄するに至っているようで、そのことをとても残念に思っています。
      私は自殺は否定しませんが、個人的には、皆が、つまり肉体的に困難がある人も、精神的に困難がある人も、経済的に困難がある人も、そこそこ幸せに何かしらの満足を感じてそれぞれの寿命を全うしてくれたら、と願います。
      難しいですけどね 苦笑

      ですから、その人が生きると望む限り、もしくは死にたくないと考える限り、どんな人もその暮らしを続ける権利と続けるために必要な最低限の援助を問題なく速かに社会から享受する権利があると思っています。
      そう言う意味では、障害者の人の生きる権利をも、彼らが望むのであれば、存在し、他者や社会から、そして何よりも本人自身からリスペクトされるものだと考えます。
      そして社会は、そう言ったなんかしらの困難を持っている人たちに、「より」配慮をしなければいけないと思っています。
      言い方は悪いかもしれませんが、「下駄を履かす」と言うことになるのかもしれません。
      それが福祉であると私は理解しています。

      残念ながら、日本の社会はそう言った困難を抱えた人たちに冷たく、充分富裕な人たちに寄り添い、彼らの欲求をむしろ満たそうとする傾向があり、そう言った意味においても、日本の社会は社会失格であると言えます。

      「日本の社会は国民が作る。」
      全くその通りだと思います。
      そして、それゆえ日本の社会は、日本人の持つ稚拙さ、未熟さを大きく孕んでいます。
      ですから、人々が幸せだと感じられる社会であるとは、とてもじゃあないが言えませんし、こんなに出来損ないの非人間的な政府であるにも関わらず、ただ官僚とか議員とか、首相とかという肩書に怯んで、頭も上げず、声も上げず、臆病な事なかれ主義で、もはや体のいい奴隷に尽く近い小作人と言う地位に甘んじている国民を私は嫌悪、軽蔑します。

      はい、この国で闘う事は無意味です。
      わたしは、日本人のように、こんなに自分の頭の上のハエだけしか追えない人々に会ったことがありません。それは、社会的に、という意味だけでなく、困っている隣人に手を貸さない、興味さえ示さない、よって心配もしない、と言う大半の国民の態度に現れています。
      この国で起きるのは、ただ自己満足のために、自分の暮らしは欠片も侵さない程度に、自分の都合の良い時に、国会前に集まり、警官の指示に従ってゾロゾロ歩き、そして「やってやった」とばかり鼻息荒く、それをつまみに仲間と一杯飲んで帰る、そんなお為ごかしの縁日デモだけです。
      香港の人たちの足元にも及びません。
      政治家の汚職を徹底的に追及、弾劾する韓国の人たちの足元にも及びません。
      それなのに、そう言う国の人々を馬鹿にし、自分たちが優れていると豪語する
      苦笑いしか浮かびません。
      無知な人間特有の身の程を知らないとはこう言う事です。
      そういう意味で、私が日本人の人と全くその温度を異にし、彼らと反りがあわないのは、今に始まったことではありません。
      私は彼らを緩い貧相なエゴイストと呼び、彼らは私を極端な原理主義者と呼びます。

      亀の冬眠シェルターを作りながら、ふと考えました。
      目の前に人間と動物が、例えば溺れていて助けを求めていたとしたら、果たして私はどっちを救うだろうか?と
      多分大半の人が、もちろん人間でしょ。と言うかもしれませんが、私はむしろ動物を救ってしまいそうです。
      とにかく、そんな一思いに人間でしょ。などと言えない自分がおり、それは、Takeo さんがおっしゃってる通りに、小亀の命の方が、Takeo さんの命より重い。と思っているからではなく、どちらも同じ重さを持つと思っているからです。
      私は、人の死を悼むのと同じく、一本の木の死を1匹の亀の死を心から悼み、慟哭します。
      両者の間の違いは、動物や木の死には、私の力が足りなかった、守りきれなかった、もしくは人間がまた罪のない生き物に手をかけた。と言う疾しさや申し訳なさがあると言うことだけです。

      > また「犠牲」というのは、生きてゆくうえで、誰かの時間を奪っているか?誰かの労力を奪っているかという意味で言っています

      「時間」奪っていいんじゃあないですか?
      「労力」奪っていいんじゃあないですか?
      「時間」も「労力」も私は奪われるために、もしくは捧げるために「も」生まれてくるのだと思っています。
      一個のおむすびは、一人で食べても美味しいですが、お腹が空いている誰かと分け合って食べれば、1人で食べた時には存在しなかった意味や価値が生まれると思います。
      その価値こそ、おむすびの物的価値より大事ではないかと思うのです。
      「時間」や「労力」がただ、ただ、それを生んだ人のために、かつただ極めて有効にそして合理的に使われたとしたら、こんなに寂しく不毛な事はないと思うのです。

      私は、Takeo さんが死んでしまうかもとは思っていません。
      ただ、他者の犠牲を促さないためにと、自らの生を尊重しない事がもっともな事だとは思えないのです。
      そして、Takeo さんに尊重してもらえないTakeo さんの生をなんだかかわいそうだなと思うのです。
      Takeoさんが自分なんか、、と言うたびに、私は自分のことを言われたように悲しい思いになると言うことに、今こうして私の思いを文字にしながら、そう気づきました。

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  4. 今0時を回りました。12月、今年最後の月、師走です。
    来年の12月とは言わず、来年の秋、来年の真夏にわたしがデイケアのプログラムに通っていることを想像することが難しいのです。
    そして来年の暮れにわたしがどこかで生きていると想像することも。

    成程確かに毎年暮れになると「これがわたしのラスト・クリスマス」だと言っています。
    それを知っている人は失笑するでしょう。けれども、こうして生き恥をさらしていますが、
    毎年暮れに「これが最後のクリスマスだ」と冗談で言っているのではありません。
    少なくとも、「来年の抱負は・・・」などといった心境とは程遠い場所にいつもいるということです。

    一昨年で来ていたことが去年できなくなりました。昨年までできていたことが今年できなくなりました。仮に来年もまだ生きているのかと言われても、それはかなり本人も苦しい状態での生でしょう。

    それに来年は具体的な変化があります。父が去り、弟が戻ってくる。わたしは弟とは暮らせない。弟の一人暮らしは限界だ。

    本音を言えば、わたしは弟が来ない朝を、弟が来ない一日を送りたいのです。
    今日もまた明日も弟がやってくるのだと思いながら床に就くのです。

    わたしの母の昔の知人夫婦は双方とも80歳半ばを超えています。老老介護です。
    幸いうちと違って昔から夫婦仲が良かったので助かっていますが、そうでなければそれこそ地獄です。「早く死んでくれないか!」と思われているお年寄りはいくらもいます。
    あるブログには、50代の女性が80代の親の介護をしなければならなくなったのでフルタイムで働けなくなったので、今の勤めを辞めると。50代で、親が死ぬまで介護を続けなければならない。

    わたしは母の「せめて一日1時間でも自分の時間が持てれば・・・」という言葉を忘れません。
    わたしができなくなった分は母が代わりにやらなければなりません。
    医者に行けないから片道30分かけて薬を取りに行く。
    あれができないからこれができないから・・・
    当事者からすれば

    >「時間」奪っていいんじゃあないですか?
    「労力」奪っていいんじゃあないですか?

    等とは到底思えません。

    「時間」も「労力」も私は奪われるために、もしくは捧げるために「も」生まれてくるのだと思っています。

    そうです。捧げるために「も」であって、「時間と労力を捧げるために」家族は生きているわけではありません。

    ふたつさんも底彦さんも同じように「休んでください」と言ってくれます。
    けれども、弟がいる以上、身体を休めることはできてもこころからの安息はありません。

    けれども、それはお互いさまです。弟だって、ここで、母と二人だけで誰に気を遣うことなくタバコを吸って生きたいでしょう。

    わたしはツカレテイルノデス・・・


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