2019年11月18日

たったひとりのストライキ


昨日、約2年間続けてきたブログを閉鎖した。
わたしは精神障害者で、所謂「引きこもり」といわれる「外出困難者」でもある。
ここ数年、状態は悪化する一方だが、その中で、時々の自分の気持ちを、感情を、率直に表現してきた。けれども、突然書けなくなった。自分が何を感じているのか、何を考えているのか、まるでわからなくなった。内面の声が聞こえなくなった。それとも内面の声=感情自体が揮発してしまったのか・・・

生きることも死ぬこともままならず、宙吊りの状態が長く続きすぎたので、最早自分が「何モノ」であるのか分からなくなったのかもしれない。



「書くことがない時には、「書くことがない」と書け」と書いたのはポール・ヴァレリーである。実際には書くことがないわけではなく、書くことに手が届かない、暗闇の中で、それに手を触れることができない状態が現在のわたしであり、このブログだ。

繰り返すが、自分の気持ちを「言葉にする」ことで「自分を客観視できる」とか「一歩引いて自分を見つめることができる」というような状況ではない。そもそも「言葉に置き換える自分の気持ち」というものが見つからないのだから。



今日の新聞の新刊案内に『グレタ たったひとりのストライキ』という本の書評があった。
9月に国連の気候行動サミットで発言した、スウェーデンの16歳の女性である。

わたしが興味を持ったのは、以下の記述・・・

グレタさんは11歳の時、海に浮遊する大量のゴミについての映画を観た衝撃から、日々泣き続け、無気力になり、元から小柄な体は2か月で10キロも減り、餓死の兆候も表れた。検査の結果、アスペルガー症候群、高機能自閉症、強迫性障害と診断される。

わたしが何よりも知りたいのは、彼女が、如何にして、上記の状態から回復したのかの一点に尽きる。
何故ならわたしにとって一番自然な流れとは、現在の地球環境の状態を知った彼女が、その衝撃で、遂に餓死するというものだからだ。その「餓死」が意図的な自死であるのか、或いは、彼女の持つ障害故かわからないが、何故彼女は「生還」したのか?

わたしは上に書いたように、外に出ることが非常に困難だ。けれども、「世界が醜いから」という理由で外に出られないという症例をこれまで聞いたことがない。

そしてこの醜さは、いかなる方法を以てしても元に戻すことはできない。
地球はギリギリのところで救われるかもしれない。けれども喪われた「美」は決して戻っては来ない。

「たったひとりのストライキ」と聞くと、すぐに『代書人バートルビー』を思い出す。
あらゆることに「したくないのですが」(I would rather not to)と言い続け、遂には「餓死」したハーマン・メルヴィルの小説の主人公である。

わたしはグレタさんとは正反対で、地球は滅びればいいと思っている。(正確には「人類が滅びれば」だが)何故なら地球は、5年前、グレタさんがショックを受け、餓死寸前にまでなった時とまるで変らぬ醜さを保ち続けているから。
言い方を換えれば、わたしは醜い星の延命を望まないから。



本の表紙の写真が載っている。黄色いフードを被った彼女の顔には微笑みの欠片すらない。この表情から読み取れるのは、激しい怒り、絶望、悲しみ・・・
その表情と、地球を救おうという行動力とその想いが、わたしにはどうしても結びつかない。

もちろんわたしはグレタさんよりも、小説ではあるが、バートルビーという人物に、遥かに親しみを覚えるのは今更言うまでもない。









6 件のコメント:

  1. Ciao Takeo さん
    グレタさんのその状態は、私が病気になる前の心境に似ています。
    もちろん、餓死に至る危険性までは指摘されませんでしたが、木を無闇に伐採し続け、「持ってきた奴らがただ捨てずに持って帰ればいいだけの」ゴミを海や山に平気で放置する厚顔無恥さで、動物達が住む山や森の自然環境を破壊しておきながら、空腹でいたたまれなくなった動物達が人の住むところに降りてくると、邪魔だ危険だと大騒ぎして殺処分をし、無理やり増やした「血統書つき」犬や猫を狭いウインドウに入れて販売し、タマゴッチもしくはぬいぐるみを買う感覚で「生き物」を購入し、それも、飽きたら平気で捨てる、そう言う人間たちを私は本気で軽蔑し憎悪していましたし、便利だとか近代化という名の元に、街がどんどん味気なく、私からすると悪趣味な街になっていく、こんな世界でこんな人々に混じって息をすることになんの興味も持てなくなっていました。
    だから、多少身体の不都合はあってもこのまま行き着くところまで行けばいいだろうと、死ぬためには理由がいるのだから、、そして死ぬためには理由がいるのだからなどと思っていましたから、医者にも行かなかったわけです。

    グレタさんがなぜ回復したか?
    それはそう言った痛めつけられているものたちを自分が守らなくてはいけない。と感じ、決めたからではないでしょうか?
    立ち上がり、守ろうとする人は極端に少ないのですから、、。
    そして人は誰かを守ろうとする時、思っても見なかった力が湧き出ます

    確かに喪われた美は戻ってはきません
    私も「私が大好きだったものたち」の喪失を思うと激しい怒りと寂しさに襲われ目眩がします。
    でもね、Takeoさん
    私はそう言う美しいものたちに知り合えた、そう言う世界に住むことができただけで、
    つまりそう言う思い出があると言うことだけで、充分にラッキーだと思っています。
    そして
    今回病気をして、入院して手術した私のこの世を見る目は少し変わりました。
    こんなクソみたいな、、と思っていたこの世ですが、そんな私に一筋のいい香が漂ってきたのです。
    それは、病院で、前向きにコツコツ闘病している人たちに出会ったこと、老いていくことの厳しさをも間近に見せられ、そんな彼らの中に、命の尊さを見せられたからかもしれません。
    少なくとも、私は金槌で頭を殴られて、目覚めた気がしました。
    そして、私のことをこれだけ気にかけてくれる人たちがいることをも。
    私はそれまで皆がそこそこ私にやさしいのは、、私にそこまで愛される資格があるのではなく、皆がただ寛大だからだと思っていました。
    でもね、心を尽くして助けてくれる人たちの存在に気づいた時、今まで自分がとても愚かで勿体無いことをして生きていたのだと気付きました。
    社会全体を見れば、確かに醜く救いようがないのですが、そんな中でも泥の中に咲く蓮の花のように、ささやかに、でも一生懸命生きている人たちが確かにいます。
    もちろん私とTakeo さんは全く別の2つの人格と思考と繊細さを有する別の存在ですから、私が言っていることがTakeo さんに当てはまるか、もしくはTakeoさんに響くかなどわかりません。
    でも、汚い世界の中でも、どこにあっても命は尊いが故に輝くのではないかと、そうあらなければいけないのではないかともしくは、私はそう思いたいと今ではそう思っています。
    そうでなければ、私たちをもっとダメにしたい人々、そして世界をもっと壊したい人々の側に回り、彼らの思惑にハマる。世界を壊すことに加担はしたくないと思うのです。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      これは純粋な、そして素朴な質問です。言外に何の含みも持っていないことを予めお伝えしておきます。

      今のJunkoさんは、「自殺」を否定しますか(自殺に対して否定的な考えを持っていますか?)
      「絶望」に対してはどうですか?
      そして何故、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのような文学者や、ドゥルーズ、さらに現代イタリアを代表する哲学者、ジョルジュ・アガンベンのような知性たちが、あらゆることに・・・言い換えれば自分を取り巻く世界に「ノーサンキュー」を言い続けて、遂には「餓死」したバートルビーという冴えない青年に、好感を込めた関心を寄せるのだと思いますか?



      二階堂奥歯の2003年3月23日(日)の日記に書かれた

      綺麗なものたくさん見られた。しあわせ。
      そろそろこの世界をはなれよう。

      というこの言葉をどう考えますか。


      彼女の恋人だった人からの以下のメールを読んでどう思われますか。


      奥歯の死を思うとき、僕はどうしようもなく悲しくなって、涙が出てくるんだよ。
      その涙は絶対に嘘じゃないよ。

      奥歯ちゃんが死に瀕してね、死への期待と不安とで張り裂けそうな時、僕は奥歯ちゃんのそばにいてあげるの。
      そしたら少しは怖くないでしょう?
      死への期待の方が、ほんの少しだけ奥歯ちゃんの中で勝るかもしれないでしょう?

      よくがんばりましたって言ってあげるの。
      こんなにも残酷な、こんなにもあなたを責めたて続ける世界に、よくもあなたは耐えましたって。
      もうがんばらなくてもいいよって。
      もう耐えなくてもいいよって。
      もう死んでもいいよって。

      ねえ、いいでしょう?
      最期の時くらいそばにいさせて?
      そのくらいの役には立たせて?
      愛しい奥歯ちゃんのために。
      こんなにも、こんなにも愛しい、あなたのために。

      でもね。
      これだけは知ってて。

      本当はね。
      本当の本当はね。
      世界はあなたのことを愛しているよ。
      あなたの周りの人々も。
      あなたの周りのお人形たちも。

      あなたは知らないだろうけど。
      あなたは決して信じないだろうけど。

      だから愛しい人、
      あなたが幸せでいられますように。
      あなたが世界に許されますように。
      あなたが、あなたを、あなた自身を許せますように。

      あなたの幸せだけが、あなたの安寧だけが、私ののぞみです。

      愛しい奥歯へ
      哲より
      (哲くんのメール「奥歯へ」2002年 9月 10日 火曜日 2:07)

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    2. 追伸

      「何よりも知りたいのは、彼女が、如何にして、上記の状態から回復したのかの一点に尽きる。」

      と書いたのは、グレタさんの持つ障害が彼女を死の淵にまで追い込み、また同じ障害が彼女をまるで正反対の極に導いたのか?

      つまり彼女の感情の極端な動きがどの程度彼女自身のものであるのか、どの程度彼女の障害に起因するものなのかを、同じ精神障害者として、そして、片方の極にとどまり続けているわたしの関心を引いたのです。

      とはいえ、それはヨーロッパの精神医療を以てしても解明は困難でしょうけれど。

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  2. 
    
    
    
    
    Ciao Takeoさん
    私は自殺を否定しません
    人はよく「死ぬくらいならなんでも出来る」と言いますが、そうではなく、「死ぬより生きることのほうがよっぽど辛い」ということがあると思うからです。
    思うと言うのは、私はそこまで生きることが辛いと思ったことがないからです。
    生に尊厳があると言うのであれば、尊厳のある死も、それが自然死であろうが自死であろうが、存在すると思いますし、私にとって大事なのは、生きているか死ぬかではなく、尊厳なんじゃないかなと思うのです。
    絶望は、、、
    期待は絶望の母であると言いますので、私はある日を境に期待と言うものをしなくなりました。
    期待しなければ、絶望も味わうことはないのですし、大体、人は自分に出来ることしかしないものです。それが自分の事でなければ、尚更、無理も背伸びもしないものだと、、。
    そう思ったら、誰かにその人ができない事を期待する私が、ただ無理難題を吹っかけているだけの無謀者、ってことになります。

    私はホルヘ.ルイス.ボルヘスも ジョルジュ・アガンベンも知りませんでしたが、
    哲学においてであれ、文学においてであれ、生というもの、そして美というものを究極に突き詰めようとする人は、
    最終的に自死という問題に突き当たるのではないかと思います。
    しかしながら、彼らにはバートルビーが突き詰めたようには、とてもじゃないけれど、突き詰められない
    彼らの人間臭い賢さ故に、そこまで純粋になれない事を彼ら自身熟知しているからこそ、
    バートルビーの中に自分たち以上のものを、彼らが決して届かない領域を超えた純粋さを見、敬愛するのではないかと思います。
    これはあくまでも私の想像ですけれど、、。
    私も多分普通の人よりはこの世界にノーサンキューは突きつけていますが、人間ならではの弱さ、もしくは小利口さで、お茶を濁している場合が多々あると感じていますから、
    お茶を濁しているからこそ、おぞましい社会だと充分熟知していながら、こうしてその中で生きていられるのではないかと思うのです。

    奥歯さんの恋人のメイル、、
    今の私の心に触れるメイルです。

    「綺麗なものたくさん見られた。しあわせ。
    そろそろこの世界をはなれよう。」

    いいですね
    私もこうしてこの世界を離れたいと思っています。
    Takeoさんもご存知のとおり、私の好きだったものは、今はほとんどこの世に存在しませんから、私は未だにそれらの喪失に涙し、激昂します。
    そして、もう汚いもの、私が嫌いなものは見たくないのです。
    そのおぞましい物たちを見る度に、私は大好きだったものの喪失を嘆き、怒られなければいけなくなります。
    ですから、私もある意味我慢して、頑張って生きている。のだと思っています。
    そうして、自分が逝く時には、自分に頑張ったねと言ってあげようと思っています。

    再び メイルの一節で
    彼がこう書いている

    「本当の本当はね。
    世界はあなたのことを愛しているよ。
    あなたの周りの人々も。
    あなたの周りのお人形たちも。

    あなたは知らないだろうけど。
    あなたは決して信じないだろうけど。」

    私が今回の病気を通して、見せてもらった事、わからせてもらったことがここに記されています、
    世界は本当は私のことを愛しているということ。
    私は決して信じようとしなかったけれど、、、。
    この事が、私の厭世感を大きく緩めてくれた事は確かです。

    私はTakeoさんにも同じことが言えると思います。
    世界は、本当はTakeo さんのことを愛しているのですし、Takeo さんの周りの人々もです。
    Takeoさんは決して信じようとはしないでしょうが、、苦笑



    「何よりも知りたいのは、彼女が、如何にして、上記の状態から回復したのかの一点に尽きる。」

    グレタさんは私がこの地球を守ろうと決断したからだと前のコメントでそう書きましたが、
    同時に
    彼女は、だからと言って怒るのも絶望を感じるのもやめたわけではなく、未だに猛烈に怒っていると思います。
    この世界に、、、
    そして何も気にかけず、守ろうともせず、リスペクトもせず、ただ自分の欲と便利だけを追い求めて、阿呆面でのうのうと生き物を殺し、自然を壊しながら思いのままに惰性で生きている人々に、。
    その怒りが彼女の症状を越えたのだと、私は思います。
    だから彼女はいつでもあんなに不快感と怒りを露わにしているのだと私は思います。
    火事場の馬鹿力、病は気から。と言いますが、
    何か猛烈な力を持った感情に襲われたとき、思っても見なかった力が湧き、思っても見なかった変化が訪れたりします。 ですから彼女のこの極端な変化は、完全に彼女のものであると私は思っています。

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    1. Junkoさん。いつも真摯な、そして斬れば赤い血の出る真剣での結び合いに感謝します。

      二階堂奥歯の『八本脚の蝶』のなかで、唯一、わたしが強い違和感を感じるのが、この恋人のメールです。

      でもね。
      これだけは知ってて。

      本当はね。
      本当の本当はね。
      世界はあなたのことを愛しているよ。
      あなたの周りの人々も。
      あなたの周りのお人形たちも。

      あなたは知らないだろうけど。
      あなたは決して信じないだろうけど。

      だから愛しい人、
      あなたが幸せでいられますように。
      あなたが世界に許されますように。
      あなたが、あなたを、あなた自身を許せますように。

      この凡庸な文章が前半部分を台無しにしてしまっている。

      わたしは自分の母に対しても、「世界はあなたを愛している」とは言えないし、言いたくもないのです。

      「あなたは決して信じないだろうけど。」

      言うまでもないことです・・・



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    2. わたしには、何故、自分が人に愛されているから、人にやさしく瀬してもらえているから、「だから」あなたもという発想が全く分かりません。

      わたしが愛することができるのは、世界に愛されず、世界を愛さなかった人たちだけです。

      わたしは昨年のクリスマス・イヴのブログにこう書いています。

      「今後「他者」との隔たりは目に見えて広がるだろう。
      ツェランではないが、
      「彼らはわたしを愛さなかった。そしてわたしも彼らを愛さなかった」という状況が、のっぴきならない世界との断絶として立ち現れてくるだろう。「世界」は、そして「他者」は、わたしの目に悉く「敵」として映るだろう。」

      と。

      その方向で、着実に進んでいるようです・・・

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