こんばんは、ふたつさん。何かの不具合で、頂いたコメントに返信不能なので、ここに書きます。
>当然、ブログ主本人だって、『もう、その話はやめましょうよ、〇〇さん』ということは出来るし、いくらでも、Takeoさんから離れることは出来るわけだから、「彼ら」が認めないとしても執着しているのは確かなことですよね。
これは確かなことですね。仮に「彼/彼女」が、芯からわたしを軽蔑し、忌み嫌っているのなら、「ああ、あいつの話は止めて!」となるはずです。また仮に「おもちゃとしてちょうどいい」などと口にした瞬間、己の下劣で下衆な本性=差別意識を白状したことになる。
「中二病」とか「マウント」とか「テンプレ」「コピペ」「トレース」彼らは「紋切り型」を多用します。こういう事象を矮小化する鋳型をたくさん持っていると、話が効率的で上滑りに進んでいきます。彼らの多用する語彙を検証するだけで、思索の底の浅さが透けて見えます。浅瀬ほど動きは自由だ。逆に水深が深いほど身動きが取れなくなる。
◇
ランタナという者の言い草を聞くたびに、「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉を思い出します。
彼らがわたしに向かって言っていることが、ことごとく、語るに落ちる・・・言ってる当人の本性を現しているのだということを、お目出度い人間は気づかない。
分からなければ黙っていたまえ。わかっているというのなら、きみらが金科玉条にしている「わたしの自己愛」について説明してみたまえ。
滑稽を通り越して憐れにさえ見えるのは、わたしへの批判のつもりが悉く自己批判になっていることだ。
◇
ふたつさん、
わたしはこの文章を書いた時点で、Junkoさん、底彦さんとの縁は切れたと思っています。つまりおふたりが読むに堪える文章ではないからです。
(実を言えばふたつさんからのコメントもビックリしました。)しかしこれがわたしです。いつまでもいい気になって人を、また精神障害や引きこもりを、自分が理解できないからという、自分の価値観と合致しないからという、ただそれだけの理由で、侮蔑し嘲弄する愚昧なる者たちに寛容なほど人間出来ていないので。
わたしは、もう書けません。
「最後」に、これは神谷美恵子氏のエッセイからの孫引きですが、シモーヌ・ヴェイユの師であった、哲学者アランの言葉です
「正確な判断を導くには、まずできあいの観念や常套句を”殺戮”することから始めなければならない」
Takeo
◇
ネットの怖さ、そして鬱陶しさを改めて感じました。
高校時代の友人が、就職して暫く上司との相性が悪く、毎晩わたしのところに愚痴の電話です。彼は言いました「お前は絶対に喧嘩しないもんな。喧嘩になる前に消えてるから・・・」
インターネットでも、嫌ならそこから離れればよかった。ところが、自分のブログに日参して、ネタを探したり、人を見下したり。これには参ります。例のパソコン関連の友人に相談したところ、「仮にブログを引っ越しても、そういう連中は必ず見つけ出すよ。考えてみれば、自分より弱い者をからかうことでしか優越感を保てない哀れな連中だけどね」
>いつもながらに、「彼ら」のTakeoさんに対する執着心は、かなりのモノですよねぇ。
でも、なんで、こんなに執着するんでしょうね?
(これ、「彼ら」に、自問してみてほしいですね)
すごいですよね。
多分彼・彼女の裡なる差別意識じゃないかな。
表立って差別はしないけど、自分が「下」と見做している肩書を持つ人間が「生意気に自己主張したり」するのが気に入らないんでしょう。
そのくせ、わたしをネタに何か言うたびに、底が割れる=思考のレベルの低さが露見するという滑稽さ。
◇
ネットの怖さ、そして鬱陶しさを改めて感じました。
高校時代の友人が、就職して暫く上司との相性が悪く、毎晩わたしのところに愚痴の電話です。彼は言いました「お前は絶対に喧嘩しないもんな。喧嘩になる前に消えてるから・・・」
インターネットでも、嫌ならそこから離れればよかった。ところが、自分のブログに日参して、ネタを探したり、人を見下したり。これには参ります。例のパソコン関連の友人に相談したところ、「仮にブログを引っ越しても、そういう連中は必ず見つけ出すよ。考えてみれば、自分より弱い者をからかうことでしか優越感を保てない哀れな連中だけどね」
>いつもながらに、「彼ら」のTakeoさんに対する執着心は、かなりのモノですよねぇ。
でも、なんで、こんなに執着するんでしょうね?
(これ、「彼ら」に、自問してみてほしいですね)
すごいですよね。
多分彼・彼女の裡なる差別意識じゃないかな。
表立って差別はしないけど、自分が「下」と見做している肩書を持つ人間が「生意気に自己主張したり」するのが気に入らないんでしょう。
そのくせ、わたしをネタに何か言うたびに、底が割れる=思考のレベルの低さが露見するという滑稽さ。
◇
>当然、ブログ主本人だって、『もう、その話はやめましょうよ、〇〇さん』ということは出来るし、いくらでも、Takeoさんから離れることは出来るわけだから、「彼ら」が認めないとしても執着しているのは確かなことですよね。
これは確かなことですね。仮に「彼/彼女」が、芯からわたしを軽蔑し、忌み嫌っているのなら、「ああ、あいつの話は止めて!」となるはずです。また仮に「おもちゃとしてちょうどいい」などと口にした瞬間、己の下劣で下衆な本性=差別意識を白状したことになる。
「中二病」とか「マウント」とか「テンプレ」「コピペ」「トレース」彼らは「紋切り型」を多用します。こういう事象を矮小化する鋳型をたくさん持っていると、話が効率的で上滑りに進んでいきます。彼らの多用する語彙を検証するだけで、思索の底の浅さが透けて見えます。浅瀬ほど動きは自由だ。逆に水深が深いほど身動きが取れなくなる。
◇
ランタナという者の言い草を聞くたびに、「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉を思い出します。
わたしが誰からも好かれないのは事実だ。けれども、ランタナには、それを「自己愛」だとか「マウント」「優位に立ちたい」と言った極めて浅いレベルでしか、言い換えれば「常套句にたよってしか」捉えることができない。
「精神疾患とは関係性の障害である」(エリクソン)── 人と関係をうまく構築できないこと、それを精神の問題(トラブル)と見ずに、彼女はどっから引っ張り出してきたのか「中二病」だからだと・・・
「精神疾患とは関係性の障害である」(エリクソン)── 人と関係をうまく構築できないこと、それを精神の問題(トラブル)と見ずに、彼女はどっから引っ張り出してきたのか「中二病」だからだと・・・
彼らがわたしに向かって言っていることが、ことごとく、語るに落ちる・・・言ってる当人の本性を現しているのだということを、お目出度い人間は気づかない。
分からなければ黙っていたまえ。わかっているというのなら、きみらが金科玉条にしている「わたしの自己愛」について説明してみたまえ。
滑稽を通り越して憐れにさえ見えるのは、わたしへの批判のつもりが悉く自己批判になっていることだ。
◇
ふたつさん、
わたしはこの文章を書いた時点で、Junkoさん、底彦さんとの縁は切れたと思っています。つまりおふたりが読むに堪える文章ではないからです。
(実を言えばふたつさんからのコメントもビックリしました。)しかしこれがわたしです。いつまでもいい気になって人を、また精神障害や引きこもりを、自分が理解できないからという、自分の価値観と合致しないからという、ただそれだけの理由で、侮蔑し嘲弄する愚昧なる者たちに寛容なほど人間出来ていないので。
「まぁ、Takeoさんには、こんなことよりも切実な問題があるでしょうから、こういうのにかかわる時間は少なくした方がいいでしょうね。」
この言葉は、そのままふたつさん、Junkoさん、そして底彦さんにお渡しします。
今まで長い間、変わることなく中身の充実したコメントを頂き、そしてこのような出来損ないを見守っていただき、ありがとうございました。わたしは、もう書けません。
「最後」に、これは神谷美恵子氏のエッセイからの孫引きですが、シモーヌ・ヴェイユの師であった、哲学者アランの言葉です
「正確な判断を導くには、まずできあいの観念や常套句を”殺戮”することから始めなければならない」
Takeo
こんばんは。
返信削除ほかの方たち(Junkoさん、底彦さん)についてはわかりませんが、ぼく自身は、こういう投稿で、Takeoさんに対する見方が変わることはありません。
ぼくの個人的な意見で言えば、ほかの方たち(瀬里香さんも含めて)についても、このくらいのことで、考え方が変わるとは思えませんね。
まぁ、底彦さんは言うまでもなく毎日苦しんでいるんだろうと思いますし、Junnkoさんも回復途中でしょうから、なかなかコメントを残せないだけじゃないかと思います。
(ここにコメントを入れるには、それなりに力が要ります)
ぼく自身のことで言えば、ネット情報に接する時間を減らしていきたいという気持ちがありますので、少しづつ、コメントの機会が減るかと思いますが、それは、Takeoさんに対する見方が変わったこととは、無関係だと思ってください。
ぼくの場合は、自分の作品を発表する場所が、今のところネット上に限られてしまうので、どうしても、そちらに使う時間との兼ね合いから、こちらでの時間が少なく成りますが、それでも、いつもここは見ていますし、ここで読ませてもらったことを考えることは、自分にとって楽しくもあり、意味のあることだと思っています。
コメントを書くとなると、時間がかかるので、出来ないことも多くなるかもしれませんが、いつも読ませてもらってますので、それだけは言っておきたいと思います。
ここには、濃い時間、濃い意味、濃い人間、濃い空間があります。
その「濃さ」には、耐えられない人も居るのかもしれませんが、ぼくにとってはネット上で唯一の心地よい場所です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、ぼくは、ここで誰との間にも、上下関係を感じたことはありませんよ。
一体全体、誰が上で、誰が下だという話なんでしょうね?
時には、自分がエラそうな言い方をしてしまったかも?と思うことはありますが、それはどこでも同じですから。
それに、ここに頻繁にコメントを入れている人たちは、よく人に対して謝りますよね。
ぼくは、他人に謝れない人というのは、きっと、自分こそが正しいと思っているんじゃないかと思っているので、ほとんど謝らない人とか、謝る時に、負け惜しみ的な謝り方しかしない人というのは、おそらく、どこかで自分のことを正しいと思っているんだろうと思っています。
ちなみに、「彼ら」が他人に謝るのを、見た記憶がありません。
あぁ、エライ人には別だけど。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除差別される人たちって悲しいと思います。わたしはランタナとか青梗菜とかいう輩が、知りもしないのに、「引きこもり」を差別したり、「関係性の障害」と呼ばれる精神疾患をいともたやすく「中二病」だと裁くことです。すべての差別は無知から来ます。ランタナや青梗菜が、わたしという個人を嫌いだ、虫が好かないというのは構わないのです。そんんことより、無知であるのに、精神疾患の苦しみを「中二病」と揶揄して「たのしんでいる」ことにますます人間というものへの憎悪が募ります。
彼らは、人を傷つけておきながら、人が真剣に怒り、自分の書いたことへの説明を求めても、見ぬ振り聞こえぬ振りで逃げようとします。
そうそう、エライ人やその道で名の通った人には別人のように卑屈で弱っちいですよね。わたしも見たことありますよ。あの時には、「ああ、こいつはこういう人間か」と改めて思いました。
>一体全体、誰が上で、誰が下だという話なんでしょうね?
これもそうです。
つまり正真正銘の馬鹿で、自分が何を言ったかも覚えていない。
指摘されても、何か根拠があって言ってるわけではないので、あくまでしらばっくれる。「発言の耐えられない軽さ」とはこのことです。
わたしがそう言うことを言っても、馬の耳に念仏なのは、ランタナや青梗菜という連中に強い「自己愛」があるから、わたしごときが何を言おうと聞く耳を持たないのです。自己愛=「自分はあいつよりも上だ」という自惚れ。それをわたしは彼らの言うことはすべて自己告白であるというのです。
◇
わたしは毎日なんとか辛うじて生きているという感じです。
昨日母とも話しましたが、来年の今頃、ぼくたち二人が、ここにいるとは思えないね、と。
底彦さんと同じ、今日を明日につないで、というよりも、一日一日の単位で生きています。実際には「生きている」などとは言えず、半分死んだような毎日です。
繰り返しますが、あのアホは
>いつか、そのペナルティを受けたとしても、
出来上がった過剰な自己愛は、
自らに変容を許さないだろうな。
読むたびに、こいつ自分で何かいてるのか分かってないんだろうなと、苦笑してしまいます。
「自己変容を許す」とは「変節」のことです。
いつかペナルティーを・・・?
こいつは「殉教者たち」「自己の信念に殉じた者たち」よりも、「変節漢」を上に置いている。異端審問で処刑されたことはペナルティーか?やれやれ・・・まあこのくらいじゃないと、今の世の中、生きてはいけないということでしょう。自分の美意識を持たない者は、こだわりを持つ者を「自己愛の強い人間」と見做す。
まあ舌先三寸で、世の中わたっている薄っぺらな人間に、「真剣さ」を求めても、徒労なだけです。
思い出しますね植木等の歌、「人生に大事なものはタイミングにC調に無責任」・・・正に青梗菜のテーマソングです。
このブログはもう実質的には終わっています。また元のように書けるようになれるとは思えないのです。ふたつさんや、底彦さんや、Junkoさんが読むに価するような・・・
PS
削除奴らは最後までこれらの発言を黙殺し続けます。わたしに反論できるはずがない。
何故なら、こちらの真剣な問いかけを無視し続けるということは、彼がわたしを評した
>自分が正しいと思うために、
なぜか、いちいち他人を見下すよね。
他人を見下さなきゃ自分が正しくなれないのは変だわ。
そんなところに希望はないよな。
わたしを見下しているから、わたしの怒りに、わたしの本気の問いかけに対し聞こえぬ振りをし続けている。
だからわたしは言うのです。
彼の言葉はすべてこれ自己告白だと・・・
追記
返信削除ふたつさんへ
自分の言葉かり書いてしまってすみません。
インターネットの時間を減らすこと。賛成です。ほんとうに必要最小限度の利用が最善だと思います。
そしてわたしの拙いブログに過分のお言葉、ありがとうございます。
上にも書きましたが、今はその日その日を生き延びることが精一杯で、自分ではいつかまた以前のような文章が書けるようになれるとはとても思えないのです。
せいぜい散発的に断片的な感想を書く程度か・・・
体調が非常に悪く、また、元気になるという要因が何ひとつ思い当たらないのです。
それでも、絵のブログの方はまだ細々と続けていけるかもしれません。
これはサザビーズのオークションで偶然見つけたピカソの絵です。
https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2019/impressionist-modern-art-evening-n10147/lot.29.html
ああ、ふたつさんの絵みたいだなと思いましたが、お世辞ではなく、この絵に関しては、
一連のふたつさんの絵が好きです。深みと真摯さを感じます。
改めてお心遣いありがとうございました。
こんばんは。
返信削除ぼくの絵がサザビーズにかかることはありませんが、たとえ、今後、誰ひとりとしてぼくの絵を、認めてくれる人が現れなかったとしても、この言葉は忘れられない言葉に成るでしょう。
ぼくは、「ピカソ」のように有名になりたいわけでもありませんし、オークションにかけられるような活動はしたくありませんが、今回はじめて、ぼくが自分の絵を届けたいと思っている形で、人に対して届いたなという実感が持てました。
もちろん、ほかの方たちに頂いた言葉も、それぞれ忘れることが出来ないものですが、やはり、Takeoさんの「絶対妥協しない目」が選んでくれたことが大きかったと思います。
それから、これからも、このブログは見させてもらいますし、時には新しい記事がなくてもコメントも入れさせて頂きたいと思っています。
では、また。
こんばんは。
削除そうですか。わたしはただ素直に感じたままを言っただけですが。
絵について、「深みと真摯さ」はもちろんそうですが、その他に「静謐さ」「哀しみ」という言葉を付け加えることも出来るかもしれません。
今日は下らない投稿をしてしまいました。しかし、自分が独裁者なら何をしたいか?を考えると、いろいろと考えさせられますね。
「スマホ、タブレットの廃止」と何故書けなかったのか?
「SNSの撤廃」と何故書けなかったのか?
読者の反発が怖いと言った理由ではありません。
コメントはお返事を約束できませんが、いつでもご自由に書きこんでください。