2019年11月4日

貴い傷と偽りの美

以前、フロイトとマーラーのエピソードを紹介した。
フロイトの元を訪れたマーラーの診察をフロイトが躊躇した。訝るマーラーに彼は、「しかし治療が成功してしまうと、もうあの美しい曲を聴けなくなってしまう・・・」

中条省平氏の本に、フランソワ・トリュフォーが一時、深刻な鬱状態に陥った時、彼は、一旦始めた精神分析を途中で打ち切ったという話が、トリュフォーの元夫人のインタヴューの中で語られている。
トリュフォーは彼自身で、フロイトがマーラーにしたのと同じ判断を下したのだ。


ところで、わたしの「スマホ」嫌悪については、仮に、なんらかの方法で(魔法でも催眠術でも秘薬でも)スマホ嫌いが完全に消えると言われても、施術・治療はお断りする。
スマホを嫌うことで得られるものは何もない。どころか、世の中から大嫌いなモノがひとつ減るということは喜ばしいことじゃないかと誰もが思うだろう。

けれどもわたしは醜いものに平気になれることを自分に許すことはできない。
また10人が10人、唾を吐きかけ、鞭打つ者に対し、たったひとりだけ、少なくとも、唾を吐きかけず、鞭打つことをしない者でありたいのと同じように、10人中10人が「是」とするもの、100人中100人が「諾」というモノに与したくはないのだ。



先日Tumblrで、拙い英文でこのような投稿をした

「時々、ある人経由で、美しいモノクロ写真を目にする。しかしわたしはデジタル写真というものがわからない。何故ならそれはわたしにとって本当に美しいのか?それとも、「それ」がわたし(わたしの脳)に「美しい」と感じさせているのかの判断がつかないからだ・・・」



するとわたしをフォローしている人から返信が来た。

Beauty is in the eye of the beholder. If it makes you think or feel that it is beautiful it is. The medium does not matter.

「美はそれを見る者の心にある。もしその「デジタル写真」を、あなたが「美しい」と感じたのなら、それは「うつくしい」んだ。媒体は問題じゃない」

わたしは彼(彼女?)に反論する英語力を持たないし、意見をくれただけでもうれしいと思っている。

けれども、わたしは如何様にも加工できる写真を写真とは呼ばない。
少なくとも、わたしにとっての写真とは、デジタル以前のものを指す。

現実にはそうではなくても、そのように見せることができる。しかしそれは現実でもなければ真実でもない。そこにそんなものはなかった。あるいはあったものが消されている。
厳密には、デジタル写真とは、「写し撮る」ものではなく「創作する」乃至は「デッチ上げる」ものだ。少なくともそのようなことが可能なメディアだ。

「美しい」と思う前に、先ず疑わなければならない。

「嘘」に踊らされたくはない・・・












4 件のコメント:

  1. こんばんは。

    タンブラーのページを作りました。
    タンブラーは、Takeoさんに教えていただいたものですから、とりあえず、お礼の意味も含めてお知らせしておきます。

    と言っても、まだ、自分の絵をたくさん投稿できませんが(タイトルの英訳に手間取っています)、今のところ、主にいろいろな人のブログを見ています。


    Takeoさんは、ご家族の状況など落ち着かれましたでしょうか?

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    改めて、こちらの記事について。

    これは、ぼくの解釈では、「嘘か?真実か?」という問題ではなく、「精神か?物質か?」ということではないかと思います。

    おそらく、『美はそれを見る者の心にある。もしその「デジタル写真」を、あなたが「美しい」と感じたのなら、それは「うつくしい」んだ。媒体は問題じゃない』と言った方は、「美しさ」を「精神的なもの」として捉えたんだと思います。

    いっぽう、Takeoさんが「デジタル写真」を「美しいもの」ということが出来ないのは、その美しさに「物質性」が感じられないということではないでしょうか?
    つまり、Takeoさんは、「美しさ」を「物質的でもあり精神的でもあるもの」と考えているということではないでしょうか?


    「完全に物質性を含まない精神」は存在しないと思いますが、「完全に精神性を含まない物質」は存在し得るような気がします。

    ただし「美しさ」に関しては、「完全に精神性を含まない美しさ」が存在するとは思えません。

    まぁ、両方あった方がいいと、ぼくも思います。


    どちらかと言えば、「美しさ」を「精神的なもの」と言った方が、一般的に通りはいいんでしょうが、そこに固執すると「物質性=実体」を失ってしまう可能性が出てきます。
    「精神的であること」は、純粋性として解釈されることが多いので、聞こえがいいんですが、実体のないものとは、つまり「空虚」に成りますから、純粋ともいえなくなってしまいます。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それから、前のコメントで、ぼくは『他人と違うことの中に、自分を見つけ出すことは出来ない』と言いましたが、それに対してTakeoさんは『その他人でないことこそが、自分の本質である』と仰っていました。

    しかし、これは、やはり違うような気がします。
    『その他人でないことこそが、自分の本質である』と言っているのが、Takeoさん本人であるならば、そこで求められていことは、あくまで「自分であること」であって、「他人でないこと」ではないのではないでしょうか?
    だからこそ、Takeoさんは、たくさんの人が好きな「ミレー」を嫌いに成れないのだと思います。

    もしも、本当に「他人と違うこと」を基準にしているなら、何の迷いもなく「ミレー」が嫌いになっているはずですし、もしも、みんなが「スマホ」に飽きてしまって、だれも見向きもしなく成ったら、「スマホ」が大好きになるはずです。


    それから、もう一つ言えることは、実を言うと、今最も多くの人が口にすることこそ、その「他人と違うこと」なのだということです。

    「みんなが持っているスマホ」を持っている人でも、「「みんながやっているゲーム」をやっている人でも、「みんなが知っていることを自分も知っていること」に自負心を感じている人でも、みんな決まって言うことは『他人と同じことをしてちゃダメだよ』『人のやらないことをやらなきゃ意味ないよ』と言います。

    一昔前までは、一定数存在した『人並みで十分』という人など、もうどこにも居ません。

    だから、ぼくは、今一番居ないのは「普通の人」だと思うわけです。
    そして、前にも言いましたが「普通の人」は、「人並み」かも知れませんが、それでいて、「全員違う普通の人」なんだと思っていってるわけです。

    その逆に、『他人と違うこと』を追い続けていくと、結果的には、みんなが同じ「他人と違う人」に成るんだと思います。


    たとえば、人間の顔は、みな同じような位置に目や鼻が付いていますが、同じ顔の人は居ません。
    それなのに、個性個性と言って流行のファッションを追えば、みな同じ化粧をするように成り、区別がつかなくなってしまいます。
    一人一人のメイクが同じであっても、違っていても、そんなことは問題ではなく、「他人と違うこと」を追う姿勢が、すべてを同じように見えさせてしまいます。

    従って、やはり、ぼくとしては、『他人と違うことの中に、自分は見つからない』と思います。

    そして、Takeoさんが、「ミレー」を嫌いに成れない限り、Takeoさんは、Takeoさん自身が思っているほど「他人と違うこと」に固執していないということだと思います。

    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      そうですか、タンブラーを始められましたか。では是非ここにURLとタイトルを教えてください。ここでの公表を控えたいのなら、メールでも、タンブラーのメッセージででも構いません。

      ここのところ体調が悪く、またなにか生きていることが辛い、という以上に限りなく悲しくさびしく感じられて、わけもなく涙が流れてきたり、せっかくの議論にも応じる元気がありません。
      ですから、今回は、最初のわたしの投稿に関して頂いたコメントへのお返事だけになりますが、どうかご理解ください。



      「物質性」「精神性」ということはよくわかりませんが、タンブラーで、yama-batoという名前(yama-bato2)も同じ人です。の人をフォーローしていて、彼女はよく、何の衒いもないモノクロ写真をUPします。ほとんどがリブログです。
      風景写真など、第一印象では「きれいだな」と感じるのですが、すぐに「デジタルだからな」という気持ちが続きます。

      わたしの判断基準は一にも二にも「それが現実を写し撮ったものであるのか?」だけです。
      つまり山を撮った時に、麓に、無粋な工場がある。これでは艶消しだ。だからこの工場を写真から消して、完全に山の美しさだけにしよう。その時点で、その写真は「真」を「写」したものではなくなります。よく言えば「創作」悪く言えば「偽り」です。そのような可能性があるかぎり、わたしはデジタル写真の「美」を感じることはできません。

      わたしは写真にもカメラにも無知なので、わたしが愛する20世紀前半に撮られた写真たち=フィルム写真にも、そういう加工が可能なのかもしれません。
      「山のふもとの工場を消す」とか、「あの通行人が邪魔だから消す」ということができたのかもしれないし、現実に為されていたのかもしれません。

      この部分は要らいないと思えば、当然トリミングで画面から外されていたでしょうし、フォト・モンタージュという山の真ん中に巨人を出現させるということも出来たでしょう。

      また、美術館のショップで売られているポストカードも今見たホンモノとはずいぶん色が違うものが多いですね。



      http://orange.s48.xrea.com/mt/archives/2007_11.html

      こちらに、上記の記事に関連する投稿があります。もう10年以上前の投稿で、この鈴木博美さんのブログも5年ほど更新されていません。とてもセンスのいいブログなので、『八本脚の蝶』同様、もう針の止まっているブログですが、時々2003年から読み始めます。

      以下彼女の記事を引用します。



      以前、ニューヨークの写真家リー・フリードランダーが来日した際、レクチャーに参加したことがあります。
      (すいません、この文脈で巨匠の話をもちだすのはどうかとおもいますが)

      熱心に写真を勉強してるらしき真面目そうな学生が
      「トリミングしてるのですよね」と(決め付けて!)質問した。

      フリードランダー氏は「私は撮影のときにだけ(レンズの中で)トリミングします。
      プリントする時点でのトリミングは決してありません」とおだやかに断言した。
      「デジタルカメラは使わないのですか?デジタルなら、あとでいろいろ加工できますが」
      となおも食い下がる彼に、
      「私はアナログ人間ですからね」とかなしげに答える巨匠なのでした。

      若い学生さんは、いまひとつ理解していなかったのだろう。
      リー・フリードランダーが “ アルチザン” ではなく、
      ストリート・フォトの “ アーティスト” であることを。
      いっしょに出席したまわりのひとたちと「ああ、身がちじむね・・・」とこっそり汗。

      デジタル全盛のいま、いかにうつくしく加工するか
      という技術が写真の価値のひとつになるのなら
      商品写真のようなコマーシャルな世界では非常に有用です。

      しかし、ストリート・フォトというのは、
      その一瞬の時間と空間をありのままに切り取るひとつのドキュメントなのですから、
      街に立ってレンズをのぞく写真家の眼を信じなくてはいけない。

      *****

      長文になりました。

      しょせんアマチュアですが、
      幸運にも写真集にサインまでいただいたリー・フリードランダー先生(笑)にならって、
      ワタシのスクラップは「トリミングはダメよ」がモットーになっております。

      そうでないと、写真を撮り歩くことが
      ただの“ 素材さがし ”になってしまう。

      写真って何?
      むつかしい。



      本物=真の色、偽物という言葉もとても曖昧です。
      そういうことを議論したいのですが、今はただ生きていることが、哀しくて仕方ありません。
      先程まで団地の子供たちの遊ぶ声が窓の外に響いていました。

      幸福って何でしょう?わたしにはわかりません。

      PS。

      Tumblr是非フォローさせてください。



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  2. こんばんは。

    Takeoさんの心の状態からでしょうか、こちらまで辛い気持ちに成ってきます。
    いえ、決して嫌ではないです。
    むしろ、こちらの心が、どこか全く知らないところから温められているような感覚という感じです。

    もちろん、ご本人はそんなこと言ってる場合じゃないのでしょうが、なぜかそういうこともあるということです。

    タンブラーのURLは、今のところここではお伝えしません。

    もちろん、ご厚意は嬉しいのですが、ぼくは、今までのブログでもそうだったんですが、知り合いに教えるのではなく、見つけてほしいという気持ちがあって、どこか思いもよらない所で「知らない人」として見つけてくれたらいいなぁと思ってしまうんですね。

    それ以前に、今はまだ、まともな投稿が出来ていないので、見てもらうのも恥ずかしいくらいですけどね。
    それに、絵については、前に見ていただいたホームページにもあったものですから。

    まだ、タンブラーの機能を使いこなせないし、パソコンの調子も良くないようで、タッチ・パッド(キーボードの手前についている四角い所ですね)が使えなくなったみたいです。

    仕方なく、パソコンを使うように成って以来、はじめてマウスを使っています。

    とくにタンブラーで文字を打ち込んでいると異常に反応が悪くて、辟易しています。
    他のソフトを使っているときはまだいいんですが、タンブラーで打ち込んでいると、文字がかなり遅れて出てきたり、打ったはずの文字が抜けて出てきたりして、戻って打ち直さないと成りませんから、ただでさえ難航している英訳などは2~3行訳すのに一時間かかったりしています。

    ぼくの方も、タンブラーのアカウントでは、あえてTakeoさんのページを探さないようにしようと思っています。
    (ここのリンクから見るのは、もちろん「アリ」です)

    「デジタルとアナログ」にも共通しているところがあるかもしれませんが、ここのリンクから「a man with a past」を見るのと、ぼくが自分のタンブラーのアカウントでログインしてそこで「a man with a past」を探して見るのとは、意味が違ってくると思います。

    ぼくは、絵に関しても、見つけ出してもらいたいという気持ちがあります。

    たとえば、こちらで、ぼくの絵を見てくれた皆さんが、まったく無意識の状態で、例えば街のとある場所に貼ってあったポスターや、どこかのお店や、誰かの家で見た、「カレンダー」などに、「まだ見たことのないぼくの絵」があったときに、それでも気づいてもらえるだろうか?それが『間違いなくアイツの絵だ』と気づいてもらえるだろうか?

    『似ている』というのではなく、『これは、間違いなくアイツの絵に違いない』という、確信にどこまで近づけるか?というのが、ぼくにとっての一つの挑戦なんです。


    最後に、、前のコメントで、Takeoさんに配慮のないことを言ったとしたら、申し訳ないと思っていますが、ぼくはこのブログを見ることで、「ナニカ」を得ている気がします。
    出来ることなら、ぼくからも「お返し」がしたいんですが、「ナニ」がその「お返し」に成るのかわかりませんので、こんなことくらいしか言えませんが、どうか「お許し」を。

    では、また。


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    1. わたしは話がしたいのに、もう誰とも話が通じなくなっているのです。

      わたしはどんなに嫌いな人間でも、「気狂い」と言うことも、また思うこともありませんが、(何故ならわたしは彼らの「正しさ」を嫌悪しているからです)
      デイケアで配られたプリントに「普段のあなたの状態は?」と書かれているところに、「狂人」と書きました。

      デイケアに通うことを逡巡しています。もうこれ以上「孤立感」を味わうことに堪えられそうにないからです。

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