2017年11月17日

a man with a past

金持ちになりたいと思ったことはない。けれども時々サザビーズやクリスティーズのアンティーク・オークションのカタログをのぞくと、こういうものが買えるだけのお金があれば・・・などと考えてしまう。
うつくしいランプや花瓶、置時計、小物などを身近に置いていると、自分が「過去」のうつくしい時代に生きているような気になってくる。


誰かがデザインについてこんなことを書いていたっけ、「・・・われわれは記憶するアルス・コンビナトリア(=結合術)の上で勝負をする者なのだ。そうだとしたら、「これ、ちょっと新しい技術でつくったんだけど」とか、「このデザイン新しいだろ」と自慢げに言うような奴がいたら、そのときは、「ねえ、きみの技術もデザインも、ちっとも新しくなんかないよ。もっと懐かしいものを作りなよ」と言ってやりなさい。」と。

けれども「懐かしいもの」を新たに「作る」ことはできない。「懐かしいもの」は過ぎ去った時の中にのみたゆたっているものだから。
「ふるい記憶」を「新たな技術」と結合させて、「懐かしいもの」を作ったところで、それは所詮「擬(もどき)或いは(まがい)」に過ぎない・・・

オスカー・ワイルドは言う
"I like men who have a future and women who have a past."
「わたしは未来を持った男と、過去を持つ女を愛する」

わたしは「未来」に興味はない。
わたしは過去を持つ男と、女と、そして「過去を持つ世界」を愛する。
そして自分自身が「未来を持たぬ男」として、「過去」に取り巻かれていたいと願うのだ。


それにしても、いつも思うことだが、このようなカタログに映し出された絵や調度品は何故か「そのもの」よりもうつくしく・・・というよりは洒落て見えるのは何故だろう。
カタログに使われているのは、絵画なりランプや花瓶のディテール+タイポグラフィーだ。おそらくこのデザイン性に惹かれるのだろう。



2017年11月8日

消えない音・・・

わたしが外に出られない理由は、何度も書いたけれど、外界の醜悪さ、「音」「臭い」「光」「色彩」などが生理的な不快感を引き起こすからだ。

けれども、これを「知覚」の「矯正」によって、「感じなく」させることをわたしは望んではいない。
醜いものを醜いと感じること、それによって外出が著しく困難になっても、自分の感受性を偽るよりはマシだ。

ブラック・ジャックに「消えた音」という作品がある。

田舎で先祖代々伝わる田畑を耕して地道に暮らしていた男がいた。
最近彼の村のすぐそばに飛行場が出来て、昼夜を問わず飛行機の騒音に悩まされるようになった。
いつかかれは飛行機の轟音を聞くと発作的に自分の鼓膜を破ってしまうようになる。
何回も鼓膜の再生手術をしても、彼は発作を繰り返す。医者はこれではどうしようもないからと転地療養を勧めるが、
先祖代々の土地を離れるわけにはいかない。

或る時、彼がまた発作を起こしたとき、たまたま外国から帰ってきて、飛行場の近くにいたブラック・ジャックが彼の鼓膜を手術することになった。
ブラック・ジャックの手術は特殊なもので、患者の耳に伝わる音がある一定の音量を超えると、鼓膜が自動的に開き、音が聞こえなくなるものだった。つまり彼は轟音が聞こえない耳を持つことになった。

数日後、男がブラック・ジャックの処にやってきて、鼓膜をもとに戻してほしいという。
音で苦しめられているのは自分だけじゃないというのを聞いて、BJは「他の住民にも同じ手術をしてくれと言うのか?」と訊く。けれども男は、そうではなく、問題は騒音をまき散らす飛行場の存在であって、音が聞こえなくなることじゃない、それでは何の解決にもならない、という。ブラック・ジャックは黙って男に手術室に入れという。

そう。問題は世界の醜さであって、それを自分の知覚から遮断することではない。
あるものを見えなくすることや、聞こえなくすること、無視できるようにすることではない。

それは戦場で、人を殺すことに無感覚になるような洗脳を施すことに等しい。

今日、駅で、「北海道新幹線」のポスターを見た。醜悪なデザインと悪趣味でけばけばしいしいバックの色彩。
でも、それがニッポンなのだ。

審美的ひきこもり

多くの人間は自分をとりまく世界を、周囲の都市を、街を、審美的に眺めることをしない。
もし人が審美的な目をもって現在の都市を見つめるなら、「街が醜悪であるために外に出られない」ということも充分考えられることだろう。
「ひきこもり」を語るとき、いつもそこには「審美的判断」という視点が全く欠如していることに驚いている。

『...人生の現実的悲劇はいとも非芸術的なやり方で起きる。そしてそのがさつな暴威は、全くの不統一、意味とスタイルの欠如によって人間を傷つける。卑俗さにあてられるのと同じように、人間はそれにあてられるのだ。それでわれわれはそれが純然たる暴力行為であるという感じを受けて、あくまでもそれに反抗する...』

ー オスカー・ワイルド 『ドリアン・グレイの肖像』より

その時「反抗」の形は、世界からの撤退、離反という形をとることもあるだろうし、ラッダイト運動のような形をとることもあるだろう。

「落ち葉」 ー ある引きこもり論

わたしは自分がいわゆる「引きこもり」であるにも関わらず、世の中で同じようにそう呼ばれている、或は実際に「ひきこもって」いる人たちの現実を全く知らない。
彼ら・彼女らは何故引きこもっているのか?外へ出られないのか?出たくないのか?
また「出られる条件」というものがあるのか?

ここにひとつの新聞記事がある。
東京新聞に今月の19日に掲載された『引きこもりやめた息子』という投書である。

以下その記事からの引用

『高校を卒業して十五年間引きこもっていた息子が、仕事を見つけ働き始めた。父親の死をきっかけに、母親のわたしの生活を心配し、自分の年齢を考え、NPOの人たちの助言を得て、自らハローワークへ出向いたのだ。
仕事は清掃業務。わが家から十分で行ける某大学の街路樹の落ち葉をかき集めることだと聞いた。
人間関係が苦手な息子にとって、自然が相手の仕事はよかったとわたしは思った。

          (中略)

学生の往来の中、息子は褪せたグリーンの作業着に軍手をはめ、ざわざわとふり落ちる葉を竹ぼうきで懸命にかき集めていた。そばにはリアカーがあった。集めた落ち葉を積むためだ。
この日は風の強い日で、掃いても掃いても、掻き集めても掻き集めても、風は容赦なく葉をまき散らした。息子は風が少し弱まった時を見計らって、バサバサっと集めた葉を入れると、リアカーを引いて行ってしまった。
息子の背中が今の彼の年齢より、ずっと年取ったように見えて、わたしは胸に突き上げるものを感じた。
しかし、どんな仕事を選んでも、働くということは、また大きくいえば、生きるということはこういうことだ。
今の息子にはそのことを身をもって知ってほしい。リアカーを引いていく息子の後ろ姿に、今の時間を、今日だけを考え頑張ってほしいと願った。その積み重ねこそが、明日につながるのだから...』



近くの比較的緑の多い公園の中を歩きながら、今の時期、初老の男性たちが作業服を着て、
やはり公園の道に散り敷かれた色とりどりの秋の落ち葉をせっせと掃き集めているのをいつも奇異の念を持って眺めている。何故落ち葉をかき集める必要があるのか?何故このような色彩の美を、ゴミのように扱うのだろう?

この投書に書かれている息子さんの仕事を貶めるつもりはない。このようなことが「仕事」になるということがおかしいのではないか、と思う。塵一落ちていないような殺風景な道を自転車で走りながら、「無駄な仕事だなぁ」と嘆息を漏らす。
これが竹箒で掃き集められている分にはまだその光景には情緒というものもあるけれど、あの改造バイクのマフラーのような轟音を放つ噴射機のようなもので、およそ秋の落ち葉の風情とは相容れない爆音とともに落ち葉を吹き寄せているのを見るにつけ聞くにつけ、避けようもなく「鈍感!」「愚劣!」「愚鈍!」という言葉がある種の「殺意」に似た感情とともに湧き上がってくる。

投書にある息子さんにはいつまでも竹箒で落ち葉を集めていてほしい。正式な名称を知りたくもないあの忌まわしい機械のノイズによって、秋空の下を、秋色の上を歩くことを不可能にされている者が、確かにいるのだから...


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 Coming Autumn, John Atkinson Grimshaw. (1836 - 1893)