2019年12月30日

美意識と妥協・・・


書くことが覚束なくなった。これもまた、ここ数年の裡にできなくなったことのひとつだ。
筋道を追って考えるということが難しい。わたしがよく使う「つまり・・・」とか「即ち・・・」という言葉で話を繋げ、展げてゆくことが困難だ。
そして思考力の低下と共に、集中力の低下は更に著しい。

絵を選ぶことは瞬発力だ。この絵が好きか?感覚・感性、即ち非・言語的な領域だ。投稿した絵や写真についてあれこれ語る必要もない。しかしそれとても、だんだんと関心が薄れてきているような気がする。グラスの中の氷が解けだして、酒が次第に薄められてゆくように・・・



スマホと妥協することも辞さないというほど、今の世の中は、生きるに価するものだろうか?
しかしスマホを含め、ほとんどのデジタル製品を拒絶して、嘗てのような「便利な」生活は望むべくもない。

デイケアの大きな部屋の窓際に、マンガや精神疾患関連、就労関連の書籍、新聞などが並べられている。その中に、女性誌もある。何の気なしにパラパラとページをめくってみる。
若くて(?)綺麗な女性モデルの写真が並んでいる。空想の世界とは言え、20年前なら、否、10年前でも、綺麗で、話が合えば、友達になるのに問題はなかった。というよりも、「ああ、こんな女性と知り合いになれたらな・・・」などという空想は自然だった(勿論、付き合ってみて、意外な面が見えてくるということは、いつだってあることだけれど)
けれども現在は、美しく、趣味のいい女性と、「はじめまして」とテーブルを挟んで椅子に腰を下ろして、次の瞬間、目の前の女性が、バッグからスマホを取り出して、手元に置く・・・それを見ただけで、「次回はない」。
家族会の年配の女性と話した時も、「そういうことが目の前の相手に対して失礼だという感覚がないのね・・・」と言っていた。
「失礼だという感覚が無い」そのことが全く理解できない。ということは、目の前の美女とわたしとは、所詮異世界の人間であったということだ。

現実にわたしは、まだ楽天のブログを書いていた頃だったと思うが、フェイスブックで知り合った70代の女性と数回会っている。最初は新宿のジャズ喫茶で、次はその翌月に渋谷のBunkamuraの展覧会に。その時に彼女に撮ってもらった写真を観た人もいるだろう。
その後わたしが新宿や渋谷などに行けなくなった時、彼女は約1時間の道のりを、電車を乗り継いで、わたしの最寄り駅まで来てくれた。この駅は国分寺と国立に挟まれた、喫茶店も、軽い食事ができる店もなにもない駅で、わたしたちは駅ビルの中のパン屋のイートインコーナーで、パンを食べおしゃべりをした。その頃既にインスタグラムに熱中していた彼女は、特別なものでも無いパンを、食べる前にスマホで撮影する。

彼女はいいひとである。優しい人である。アート好きであり、大学では美学を専攻していたひとである。けれども、わたしは彼女のスマホ好き、インスタグラム好きに馴染むことが出来なかった。つまり「妥協」できなかった。自分の価値観を押し通した・・・
その後彼女から2度ほどメールがあったが、わたしは返事をしなかった。
何故?わたしには彼女の趣味に干渉する権利も資格もない。「スマホをしまってくれませんか?」というのはこちらの我儘でしかない。「何故あなたにそんな指図を受けなければならないのか?」

今の時代、心根優しく、趣味が合い、わたしのような人間にも優しく接してくれる人・・・だけでは友達にはなれないのだ。「趣味が合うこと」と同程度にスマホに対するスタンスが似ていることが(わたしには)「必須条件」なのだ。

優しくとも、美しくとも、どんなにアートの趣味が、映画や音楽の趣味が似ていようとも、そしてそのKさんのように、「気が合っても」「スマホ」次第で、どちらにでも転びうるのだ。



この先仮に(デイケアなどで)第二のKさん(年齢性別を問わず)が現れた時に、わたしは自分の美意識に蓋をできるか?
それともまたKさんのように、訣別か・・・

ちなみにわたしがKさんに対して左程心苦しく思っていないのは、彼女は友達も多く、頻繁に美術館に足を運んでいる人なので、わたしなどがいようがいまいが、大した問題ではない・・・全然問題ではないことを知っているからだ。

これから友達に成れそうかな?という人には、同じ轍を踏まないように、わたしのスマホ嫌いのことを伝えておく必要があるだろう。

誰もが怪訝そうな顔をするだろう。

もうとうに、わたしの時代は終わっているのだ。







好きな人って?


何人分かるか?

これだけ好きな人が持てるか?

「好き」になる規準は何か?

「有名人」を「好き」になれるか?

わたしは自分の部屋の壁に誰のポートレイトを飾ることができるか?

とりあえずだけどこの人は入れてもいいかな
















わたしが分かったのは57人中36人。


2019年12月29日

メモ


タンブラーでフォローしているJeffのポスト

以下全文引用

The World...

is just so fucked up. We have to deal with the racist ugliness of the utterly corrupt and criminal Trump in the United States, the Brits have to deal with the similarly disgusting Boris Johnson. The French working class has been in the streets for nearly a month, fighting against Macron and his trying to force working class people into working more for less, in the name of increasing the authority and power of business.. The Philippines has the violent lunatic Duterte; the Russians, the neo-Stalinist and corrupt Putin; the Italians are facing street mobilizations by a renascent fascist movement. The racism against black people in the United States continues unabated and now, we’ve just had another in a rapidly growing series of murderously violent attacks against Jews. To make matters even more grim, all of this shit is taking place against the backdrop of a planet that has been pushed to the very limit, that has passed the tipping point of environmental degradation in the name of ever-increasing profit for a handful of corporations and wealthy individuals, so that now we know the question isn’t stopping the catastrophe that is already upon us but whether we can limit it enough so that the world is still habitable and recognizable 50 years from now. I don’t know, somehow this shit makes me not feel particularly like posting my usual silliness. Someone, please tell me that I’m wrong.

Tumblrは所謂SNSではなく、厳密には、個々の「ブログ」をフォローし合っているコミュニティーで、最近になって、タンブラーにも、投稿に対する一言を書きこめる場所があることを知った。

わたしは拙い英文で、このように書きこんだ。


Very important post for me. Although you may not know Japanese politics is as same as French, China, and America, Just one thing difference is We never protest. Because it is our culture. "Never against upper people" why? Japanese think they are upper because they are correct. why poor people or weak people is miserable ? cos we were wrong. thats how we think. I am a Japan hater so I support your opinion.

英文としてまるでなってないが、大体このようなことを書いた。

「ジェフ、きみはトランプやジョンソン、フランスのマクロン、更には、フィリピンのドテルテ大統領のこと、プーチンのネオ・スターリニズムのことを述べているが、おそらくきみは日本のことを知らないのだろう。きみが挙げた国の政治とまるで差が無いことを。
ただ、一点だけ、重要な相違は、日本人は決して逆らわないということ。
何故かって?それが我々の「文化」だからだ。
上のものに逆らうな。何故なら、彼らは、「正しい」が故に今の地位に=「上」にいるのだから。
貧しいもの、弱い者は、「何かが間違っていたから」今、惨めな人生を送っているのだ。
つまり、豊かさや、貧しさは、「正しさ」の、そして「誤り」の結果なのだ、と。
それが日本人の思考様式だ。
わたしは生憎日本人が大嫌いでね。きみの意見を支持するよ。」


母によると(新聞によると)何とフランスでは、いまだにゼネスト状態が続いているらしい。


このジェフのポストが何故かわたしを勇気づけてくれたことを付け加えておく。









わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。

人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・


Embracing the Bear by Virginia Lee.





ブログが書けない。書かなければならないという気持ちもない。ただ唯一、底彦さんがわたしのブログに、僅かとはいえ、心の慰安を感じていてくれたこと、それにもう応えることができない。それが底彦さんに対してというよりも、自分自身にとって残念に、心残りに思う。

文章を読む意味がわからなくなってきた。書く意味もまた。何を「書く」のか?
「書くこと」とはどういうことか、わからない。
先日他の自治体から再び(三度?)借りた、『石原吉郎全集2』、結局一度もページを開くことなく、2週間が過ぎて、一文字も読まぬまま返却した。
つげ義春も、業田良家のマンガにも手が伸びない。

今日は絵を選ぶことにも気が乗らなかった。

今夜は繰り返しおなじCDを聴いていた。ルネサンス期の作曲家ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナのミサ(混声合唱無伴奏)と、パレストリーナと同時期のジョヴァン・レオナルド・プリマヴェラのマドリガル(器楽)

わたしは「キリエ」というラテン語が使われる曲をよく聴く。


先日の繰り返しになるが、わたしが例えば来年の3月、或いは、来年の今頃に、「まだ」生きていたとしたら、それはいったいどのような形での生だろう?

德富蘆花の「不如帰」、(この部分しか知らないのだが)病の床にある妻浪子が、「武男さん、どうして人は死ぬんでしょうね・・・」と問いかける場面がある。

同じ名前の武雄としては、それ以前に「人はなぜ生きるのか?」を知りたいのだ・・・


2019年12月23日


冬の夜は恐い。

窓を開けて身を乗り出して、陽の落ちた夜の冷気を感じただけで、震えてしまうほどに。
喉の奥で声にならない叫び声を上げてしまうほどに・・・

かつて自分が、こんな冬の夜に外に出ていたことがあったなんて。

それもひとりで。

それも電車に乗って。

何故人は平気で、夜、ひとりで、電車に乗ったり外を歩いたりすることが出来るのだろう・・・

これは底彦さんの訴える「人が怖い」「人混みが怖い」というものとは異質のものだ。

わたしが何よりも怖いのは「孤独」


明日も4時50分からの主治医の予約をまた母に行ってもらう。

母も疲れでいろいろと体調がよくない。

改めて、人の世話になるしか生きられない者の「生の資格」を考える。

人の命を喰い潰して生きている者の生の在り方を思わずにはいられない。





2019年12月16日


何も書けない。底彦さんのブログを読んでいたら、このようなことが書かれていた。

「頭の中が様々な情報で溢れて混乱しているということだ.それらをどのように考え, 処理したらいいのかがわからない.」

底彦さんの言われる、「頭の中が様々な情報で溢れて混乱・・・」という意味はよくわからないが、わたし自身同じような感覚を持っている。

自分は無価値である。

生きていてもしょうがない。

孤独。

さびしい。

誰とも通じ合うことができない。

いない方がまし。

(生きることが)こんなに苦しいのなら、酒やクスリに手を出すのは寧ろ自然なことではないか。

これまでは、底彦さんの呻吟がある種の救いでもあった。けれども、よく考えれば、底彦さんは呻きながらもやるべきこと・・・少なくとも出来る範囲のことはきちんとやっている。

そんな底彦さんに劣等感を覚え、自分自身に自己嫌悪を感じる。

底彦さんの投稿に残したコメントは今も短剣のようにわたしの胸を突く。

曰く

「「話が通じる」ってどういう状態(どういうこと)だろうと頭をひねります。そしてわたしは嘗て人と話が通じたことがあっただろうかと訝ります。
わたしは瀬里香さんと、ふたつさんと、底彦さんと、Junkoさんと話が通じたことがあったでしょうか?」

逆に言えば、「話が通じない」というのはどういう状態なのか?そして何故わたしは誰とも話が通じないのか・・・

気狂いだから? 化け物だから?










2019年12月15日


最初にふたつさん。お返事がなかなかできず申し訳ありません。

皮肉なことに、ふたつさんは、わたしの「ナニモワカラナイ!」という投稿にいつもながらの内容の濃いコメントをくださいました。でも今は本当に何もわからないのです。
少し時間をください。

目が片方見えないと、頭の半分が機能していないような感じです。
眼科、1月6日9時の初診は、とても行けそうにないので、午前の一番遅い11時に変えてもらうように電話しました。11時の初診で一番早いのは2月の7日。真冬です。風邪をひいていけないかもしれない。すると次は3月?

もう目は良くならないかもしれません。



「人は失敗を通じて成長する」とよく聞きます。
けれどもこれはわたしには当てはまらない。

わたしは某サイトで、ある人を不快にさせてしまいました。
そのことに先程気付き、謝罪の言葉を遺して早々に退会しました。
ところが、文章を書いた本人がいないと、その投稿も反映されないようなのです。

わたしは「いやな気持ちになった」と指摘されて、黙って逃げるような形にはしたくなかったので、同じ名前で再度入会し、謝罪のコメントを投稿し、明日その人「たち」がその投稿を目にしたであろうことを願って、正式に退会するつもりです。

先刻その投稿に、上記の「人を傷つけたら謝ればいい、人は失敗を通じて成長・・・」という慰留のコメントが寄せられました。

仮にわたしがふたつさんを、底彦さんを、Junkoさんを傷つけたとします。
無論それが分かれば謝ります。口先だけではなく、傷つけたという事実に対して。
けれどもわたしは変わりません。いつも言っているように、わたしが人に嫌われ、疎まれるのは、わたしがどこまでもわたしであるからです。

わたしは人を傷つけるつもりもなければ、自分を変えるつもりもない。
第一変えられない。

自分の個性、自分の思考が好きでたまらないからか?

違う!

わたしはわたしを受け容れなければならないと思っています。

先程の慰留に関しては・・・無理ですとは言えない。だから黙って去ります。
居続けるということは、そこで言葉を発するということは、今回のように、どこかで、誰かを不愉快にさせることを意味します。

けれどもわたしは言葉を、思いを発信せずにはいられない人間です。
それも自分の言葉を。

合わなければ去る、別れる。失敗から成長というのはわたしとは全く無縁のことです。
つまりわたしは永遠に成長しない(成長することを止めた)オスカルです。





2019年12月13日

孤独


「話が合う」ってどういうことだ?

「孤独じゃない」ってどういうことだ?

成程ここを訪れてくれている3人は、わたしという人間のかなりの深いところまで知っている。1年間通ったデイケアの利用者、そしてスタッフの誰よりも。

「自殺肯定」「現実否定」「スマホ・タブレット・電子書籍(=語義矛盾)嫌悪」、「アル中、ヤク中、場合によっては殺人者をも肯定するが、名利(金と名誉)に敏い人間が大嫌い」「皆が好きなものは皆が好きという理由によって嫌い」「日本という国が大嫌い」「人類は(わけても日本人は)地球上から消滅すべき」・・・エト・セトラ・・・

これだけでも相当過激な変わり者だが、それをとりあえず受け容れてくれている。

けれどもわたしはあなたたちの顔を知らない。声を聴いたことがない。文字を見たことがない。それは逆さまにして、ふたつさんも底彦さんもJunkoさんも同じこと。
わたしの顔を知らない。わたしがどんな風に話すのかを知らない。どんな文字を書くのかを知らない。淋しい時、怒った時、どんな表情をするのか知らない。

だから「わたしは孤独ではない」ということができない。

それにしてもこの3人以外に上記のような「わたし」という人間を受容してくれる人間が存在し得るだろうか?

そしてみんなは、このアンチ・ソーシャルの権化のような存在を現実に目の当たりにした時にいったい何を感じ何を思うのだろう・・・






「めぐり逢い」


わたしは切実に出逢いを求めている。けれども、わたしの求めている「人との交流」というものが、いったいどのような形のものなのか?自分でもよくわからない。

今年一年間、月平均3回ほどではあったけれど、デイケアに通った。人一倍発言をしたが、親しい人はひとりも出来なかった、また、あの人と話してみたいと思える人も見つからなかった。

同性とのメールでの雑談のレベルでもいいのかもしれないと思ったり、SM系の風俗店に行ってみようかしらんと思ったりもする。

自分の心に率直に問いかける。「SEXがしたいのか?」と?
わからない・・・したいわけではないが、必要な気はしている。
「恋人が欲しいのか?」いや、特にそんな気持ちはない。
それなら身体だけの関係でもいいような気がする。しかし繰り返すがそれを心底欲しているのか、わからない。所謂「性欲」があるのかさえ、わからない。

ただひとつ確実に言えることは、「出逢い」を求めているということ。

どういう形の「出逢い」を求めているのか?

それをどうやって知ることができるのか?

いったい「出逢い」とはなんだ?


ー追記ー

この投稿は11月の「覚書」のつづきになるだろう。





2019年12月10日

檸檬 落ち葉・・・


Falling Leaves , 1877, Nadezhda Elskaya. (1947 - 1978)
- Oil on Canvas - 

20世紀ロシアの画家によって描かれた「落ち葉」。
描かれたのが1977年。亡くなる前年です。31歳で亡くなっています。



明日返す(母に返しに行ってもらう)つげ義春の「近所の景色」という作品の中に、
ゴミを回収して生計を立てている人の多い朝鮮人たちの住む一帯があって、そこは当然貧しい人が多く、ボロ屋とゴミばかり目立つ場所なのですが、主人公は何故かそこに来るとほっとする。
その中で主人公の心中で思い出される梶井基次郎の「檸檬」の文章を孫引きします。



何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他処他処(よそよそ)しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまふ、と云ったやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家並が傾きかかってゐたり ── 勢ひのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるやうな向日葵があったりカンナが咲いてゐたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、不圖、其処が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎 ── そのやうな市(まち)へ今日自分が来てゐるのだ ── という錯覚を起こさうと努める。


つげの引用はここまでですが、続けます。


私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないやうな市へ行ってしまゐたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂ひのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたゐ。希わくはここがいつの間にかその市になってゐるのだったら。錯覚がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはなゐ、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失ふのを楽しんだ。

『ちくま日本文学全集 梶井基次郎』(1992年)より 

上は『つげ義春全集8』(「近所の景色」「無能の人」他)(1994年)



「檸檬」はわたしも好きな短編です。この本は、確かまだよく銀座界隈に行っていた頃、小説の舞台である「丸善」ではなく、「八重洲ブックセンター」で求めたものだったような気がします。あの頃は本当によく街を歩いた。

何もかもが変わってしまった・・・









デイケアの担当者と約1時間半話した。結局彼女の結論も主治医と同じ。
弟が生活保護なり現在の家の貯金を使って、近くに家を借りる。
けれどもそれでは何ら本質的な解決にはつながらないし、わたしもそんなことを望んではいない。
わたしが望むのは、そしてただ一つの解決方法は、弟が「ここ」に戻ってくること。

主治医との意見の相違を踏まえての今回の面談だったが、このデイケアの担当者との話し合いを踏まえてまた主治医と話をしても、もう意味が無いように思える。



デイケアに6月から参加している60代くらいの男性がいる。
一体どこが悪いのかと思うくらい見かけもまともだし、話せば理路整然としている。
最初は好感を持っていたが、ディスカッション系のプログラムで顔を合わせる機会が重なるにつれ、彼との相違が目立つようになってきた。

彼は明らかに良くなることを目指している。そのためにデイケアに来ている。無論デイケアの参加者とバンドを組んだというくらいだから、単に医療機関としてのみの利用ではないだろうが、そもそも、その1時間なり2時間なりを生身の人間と言葉を交わし、意見を交換すること、それ自体が目的であって、その先に「よくなる」も「社会復帰」という言葉も存在しないわたしとは明らかにスタンスが異なっている。

彼の中では、「良くなった自分」「元気で健康な自分」と「現代社会」は、当然のように「地続き」なのだ。

けれどもわたしという人間と、外界との間には、なんの繋がりも存在していない。





それにしても、わたしが弟を避ける理由のほぼ半分が彼の喫煙だということは母も主治医も承知しているはずなのに、誰もがそのことに一言も言及しないのはどうしてだろう?











2019年12月8日


これからひと月前後の間にわたしはなにをすればいいのか?身辺整理?

ここは3部屋あって、わたしと父がいなくなれば、母と弟の部屋は確保されるので
この部屋が整理されていなくてもさしあたって困ることはない。

本は今残っているのは、ミカンの箱一箱分ほどの画集、写真集、図録など。
古本屋に売るくらいなら捨てた方がいい。どこかに寄贈したいが、当てもないし送料も馬鹿にならない。それ以外の本は捨ててもいいものばかり。

CDは10年ほど前には、かなりの値段で売れたが、今はそれこそ二束三文だろう。
それは構わない。欲しい人の手に渡るなら金は問題じゃない。古本屋は「高価買取」と真っ赤な嘘をつく薄汚い商売人なので奴らに売るくらいなら、寄贈先が無いのなら。棄てる。

数年前、約100冊段ボール箱3箱分。わたしは新刊を買わないので、(読まないので)
殆ど古本だったが、それら買った時の総額にすれば10万を超す本を高価買取りの店に売って、4千円にしかならなかった。その4千円は現金書留で店に送り返した。手数料を払って。

机や本棚は、弟が粗大ごみに出してくれるだろう。

残った僅かな貯金。出てゆく時にいくら持ってゆけばいいだろう?

10万もあれば充分だろうか?多すぎるかな?

そういうことは誰と相談するのだろう?

古本屋はわたしを人間として扱わなかった。あのブログのあいつや、あいつらと同じだ。





2019年12月7日

Closed!






Rafael Yaghobzadeh Near-General Strike in Paris Today Dec 5, 2019




Nearly 500,000 workers took to the streets today throughout France. This is a real, near-general strike, not the weird, one day strikes the unions in France often call. The French working class is showing that they’re not willing to accept Macron’s cutting their pensions, making them work longer for less. The largest federation of unions in France, the CGT, is the main organizer of the strike. Public transit is largely closed. Trains, which are a major means of transportation in France and throughout Europe, are largely closed. Mail is not being delivered, garbage collectors are on strike, public school teachers are on the line, airline staff (Air France) and air traffic controllers, energy workers as well as those in assorted public services, road transport, oil refineries, the justice system and university employees (professors and other staff) are all on the line. Even doctors, nurses and ambulance drivers are supporting the strike (even though they’re not yet walking out due to the nature of their jobs). Right now, the strike is limited to public employees, but that could change. Press interviews indicate that the public, which is heavily dependent on the public metro subways and train system, is massively supporting the workers, because they know their pay and pensions are on the line as well.

American unions and workers could learn from our sisters and brothers in France. Solidarity! Vive la CGT!

https://kvetchlandia.tumblr.com/


これはTumblrでフォローしているアメリカのジェフのポストですが、わたしは新聞を読まないので、今この時、フランス国民はマクロンの年金削減政策に反対し、事実上のゼネスト状態にあるようです。

数日前はドイツで、これを上回る60万人規模の環境破壊反対(?)デモがありました。
日本では年金や生活保護費が削減されても数千人単位のデモすら起きない。
いったいどういう国民でしょう?

「生かすべからず 殺すべからず」

「民は愚かに保て」

この政策が、そしてふたつさんの重視する「教育」が見事に奏功している。

日本は韓国にも香港にもなれない。ましてヨーロッパなど山のあなたの空遠く・・・


ふたつさんは今日頂いたコメントに、

本当の意味で熱烈に支持している人などほとんどいないような人たちが国を動かしているというのが現状です。
しかも、それをすべて国民が選択したことにされてしまうような仕組みに成っています。

それが、「大規模社会における多数決」と言うシステムの致命的な欠陥です。

と書いておられる。しかし、社会の仕組みとしては、韓国も、香港も、ドイツ、フランスも、選挙によって代議士を選ぶという根本は違わないはずです。集会・結社の自由も現行の憲法で認められています。

香港の首相は言いました。「毎日がスムーズに運ぶことが最も重要」「デモは社会のスムーズな活動の妨害になっている!」と。けれども香港市民は圧倒的にデモを支援しました。
昔日ほどではないにせよゼネストはフランスの、フランス市民のお家芸です。
お前たち(政治屋のやり口が)気に入らなければ社会を止めてやるぞ、と。

電車は止まる。郵便物は配達されない。医者も救急隊員も仕事を放棄することはできないが、労働者たちを支持する。公立学校の教師、大学教授もデモに参加している。ゴミの収集もストップだ。ゴミの山があちこちに在るのが「パリ」だ。

アメリカ人のジェフは俺たちにだって、フランスの兄弟たちと同じことができるはずだと言っています。そしてアメリカは現に、ゼネストはともかく、時に100万単位のデモを行います。

日本が先進国だなどと世迷言を一体誰が言っているのか?



野牛は家畜牛に、イノシシは豚に、狼は犬になって野性は失われた。
だが、それは牧人を喜ばせたに過ぎず、
動物自身にはなんのいいこともなかった。
人は人にすぎず、混ざりけなしでいられるに越したことはない。
しかしそれが叶わぬなら、いくらかの獣性を帯びる方がまだましだと思う。
次のような算式にあてはまるようでは、興醒めである。
人+家畜性=社会人
ー 魯迅『而巳集・中國人の顔、略論』一九二七年













2019年12月6日


父がいなくなって、自分の中で何かしら感傷というか、後悔のようなもの、そんな感情が芽生えるかと思っていたが、何も感じない。感情がすっかり鈍麻してしまったのか、或いは父のことどころではなく、次は自分だという意識が感傷に浸ることを妨げているのか・・・

先日、「遅くとも来年の3月には弟は戻ってくる」と書いた。3月どころではない。弟は来月にはここに戻りたいと言っているらしい。
部屋が空いた。金はない。還りたい者がいる。これで、何故2月だ3月だなどといっているのか理解できないのは当然かもしれない。

そうなると、あまり時間が無い。無論弟がここに戻ってきて母と暮らすことも、それが来月であっても、わたしに異論はない。ただわたしは、「試してみる」と言ったものの、やはり弟とは暮らせないだろう。それが分かっていて、尚且つ主治医やデイケアのスタッフが反対しても、わたしの気持ちは変わらない。

弟が戻ってくるということは、高い確率で、わたしがここから出てゆくことを意味する。無論行く場所はないし行く場所を探すつもりもない。

急だったので、主治医には今年中に、これが最後の受診になるかもしれないということを、またデイケアも、来られても1月いっぱいになるかもしれないということを伝える必要があるだろう。

何もお暇乞いなどという大袈裟なものではない、主治医には長い間、デイケアには丁度一年間、お世話になりましたとあいさつをするだけだ。

母にできる唯一のことはわたしが我慢をして弟と暮らすこと。
けれども、親不孝なわたしにはそれができそうにない。

生まれてきた罪、そして「わたしという人間である罪」・・・

ふたつさん、Junkoさん、底彦さん。お別れの挨拶もなしに突然消えるかもしれませんので、ここでさようならを言っておきます。

わたしのような者に親切に接してくださったこと、わたしの狂気を真正面から受け止めてくれたこと、いつも変わらぬ誠実なメッセージを頂いたことに心から感謝します。

これが最後ではないかもしれませんが、現状をお伝えしておくとともに、万一の時のためにお礼を認めておきます。

どうもありがとうございました。

武雄


2019年12月5日


今日はいつになく気分が沈鬱だ。

生きているのが苦しい。

孤独・孤立・疎外・・・ひとりぼっち

もう元気になることはないだろう・・・などといって元気になったらいい笑いものだが、
そもそも元気になる要素なんて何もないじゃないか?

1月6日9時からの眼科の初診には行けそうにない。
単に朝が早いからという理由だけではない。都立の多摩地域の総合医療センターということで、大学病院と変わらぬ人手が予想されるからだ。
片目が見えないのは不自由だが、それ以上に寝ていたい。

デイケアで、生きること、良くなることに前向きな発言を聞くとイライラする。

いずれにしても、春にはわたしは居場所がなくなる。無論弟がここに帰ってくることは
主治医の意見に反しても、わたしの希望でもある。

そしてわたしは、今の時点で想像しても、どうしても弟と同居はできない。

前にも書いたように、金の問題を抜きにしてもわたしも、弟も、ひとりで暮らすことはできない。弟は一日中母と一緒に居たいのだ。

疲れてこれ以上書けない。デイケアに行ってこれほどまでに疲れたのは初めてだ。

デイケアのスタッフも、また利用者も、笑顔の裏で、わたしを・・・・






2019年12月4日

反・社会的であること


「反・社会的な表現者」という矛盾を孕んだ存在について書こうと思ったが、その元気がない。
わたしがいま言えることはこれだけだ

「純粋であること」「繊細であること」これはいつの時代も反・社会的態度である。








2019年12月2日

何のために書くのか?


はじめまして。

都内郊外在住の50代男性です。精神障害者兼(所謂)引きこもりです。

辺見庸さんのこと、辺見さんの著書について、日々悶々と悩んで、誰に伝えたらいいのか。勿論あんな大物に一介の読者の思いのたけを伝えることなどできません。けれども、どうしても、吹っ切れません。
どうしたらいいのか。もしこの狂人の問いかけにアドバイスなどありましたらお聞かせ願えれば幸いです。

「悩み」の内容は「大雑把に」書くと以下のようになります。



「一般に、長生きの革命家や芸術家ほど我々をいたく失望させるものはない」と述懐したのは他ならぬ、辺見庸氏でした。

わたしは一部を除き、ほとんどの辺見氏の著作を愛読してきました。特に、脳の病で倒れてからの著作は、お守りのように、いつでもカバンの中に入れていました。殊に愛読していたのは、『自分自身への審問』『水の透視画法』『今ここに在ることの恥』『たんば色の覚書』・・・エト・セトラ。

けれども、昨年の『月』出版に際してのドタバタ劇にまさに「ブルータスお前もか!」という幻滅を見せつけられました。

あのような内容の本を出版しながら、講演会場で著者によるサイン本即売会とは・・・

わたしは精神障害者で、所謂引きこもりでもあるので、なかなか外出はままなりませんが、中央線一本で行けるということで、昨年12月の紀伊国屋での講演会のチケットを、早々に母と二枚分手に入れました。けれども、その後の、なりふり構わぬ販促活動の様子を見て、結局無理をしてまで行く価値を見出すことが出来なくなりました。



辺見さんはご自身のブログで、朝日新聞からNHKまで所謂大手マスコミを撫で切りにしてきました。けれども、いざ新刊の出版となると、A新聞のマークは「旭日旗みたいだ」と揶揄していた新聞社のインタヴューに微笑を湛えて応じる。NHKもご自分の作品に関連する作品のスタッフ及び作品の出来は褒めあげる。

わたしは精神に障害がありますので、発言と行いにとの間に乖離があるということが理解できません。
(一般にそれを「大人の世界」というのでしょう)


これからは書きたいことだけを書かせてもらう。作品評価も本の売れ行きもどうでもいい。
百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。
— 辺見庸 『記憶と沈黙』(2007年)より

そんなことを書きながら、一方で、「(『月』に)200冊サインさせられた」とボヤいでいる。
人はここまで変わるのかという想いで彼のブログを読んでいました。

日頃散々こきおろしておいて、いざとなると本の売り上げに一役買ってもらうのなら、彼らの(大手出版社を含むマスコミ)の援けが必要なら、日頃から悪口など謂わない方がいいのです。

「万物の物象化」──「著者のサイン本」は付加価値があるからこそ「売れる」。そんなことは百も承知だ。だから「イヤイヤながらも」「サインさせられた」。ここに言行の不一致があります。

心底辺見氏の考え方、そして文章に心酔していただけに、彼との訣別は悲しい出来事でした。

更にわたしをガッカリさせたのは、辺見氏が、『月』販売以前から執筆期間の様子、講演会の告知、その報告など、昨年初夏から、ブログに書かれた『月』出版関連の記事をそっくり削除したことです。

何故?

何故糊塗するのか?

ちなみに『月』は精力的な販促活動の甲斐あって、わが市でも、全12館ある図書館で11冊が購入されました。けれども、今現在、在庫11冊。借り手ナシ。
これまでも、11冊中2冊以上が貸し出されていたことを見ません。

『純粋な幸福』は1冊購入され、たまに貸し出されていることもあるようです。
無論わたしはどちらも読んではいません。

『純粋な幸福』図書館に予約を入れて、先日順番がきました。けれども、どうしても、どうしても、手に取ることが出来ません。今日、キャンセルの電話を入れました。



昨年12月24日のわたしのブログの投稿を読み返してみました。

「もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、辺見さんの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・」

辺見さんの本は、『自分自身への審問』も『水の透視画法』も『今ここに在ることの恥』も『たんば色の覚書』も『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』も、全て処分しました。

けれども、なかなか想いが断ち切れずに困惑しています。




追伸

『本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
ー(中略)ー
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。』
— 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』 あとがき 2004年

この三部作ももちろん熟読しました。

けれども、「世界規模」ではなく、辺見さんは、自分の著書を出してくれる出版社に「不服従」することが出来なかった。或いは「しなかった」

結局、食べるために金を稼がなければならない「人間」が、「表現者」となるのは言語道断との命題は、かのリラダン伯以来、今なお問い続けられるべき問題です。ボクサーの殴られ役によって得る僅かな稼ぎで生き延びたリラダンが、かくまで高貴なコント・クリュエルを著したのは悲壮を通り越して、言葉の真の意味での「気高さ」です。

辺見さんはわたしの行かなかった講演会で「行旅死亡人」について語る予定だったと。演台から聴衆に向かって「野垂れ死に」について「説く」よりも、
「野ざらしを こころに 風の沁む身かな」(芭蕉)
という心根をわたしは持って欲しかった。




精神病理学者木村敏は、臨床医だった頃、自分の患者である「分裂病者」に対し、
「結局わたしも単なるひとりの「正常者」に過ぎなかった」と「詫びて」いる。

辺見庸も結局はひとりの「正常者」だった。そして「正常ではないわたし」に「言行一致」という無理難題を押し付けられている。

作品を読んでもらいたければインターネットという方法もあったろう。
「不服従」を言うなら先ず隗よりはじめよ。
辺見庸は講演会で「野垂れ死にという生き方」について、いったい何を語ったのだろう・・・









2019年11月30日

Junkoさんのコメントへの返事に代えて…


こんばんは、Junkoさん。

また直接に反映されなかったようですね。メール助かります。

今日は(も)とても疲れていて、考える力がありません。
ふたつの詩文を紹介し、今のわたしの気持ちとして、お返事の代わりとさせてください・・・





    奈々子に
          
赤い林檎の頬をして 眠っている奈々子
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり 奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの つややかな頬は
少し青ざめた

お父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた
唐突だが 奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう

人がほかからの期待に応えようとして
どんなに自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり知ってしまったから

お父さんが お前にあげたいものは
健康と 自分を愛する心だ

人が人でなくなるのは 自分を愛することをやめた時だ
自分を愛することをやめる時
人は他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう
自分があるとき 他人があり 世界がある

お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた
苦労は 今は お前にあげられない

お前にあげたいものは 香りのよい健康と
かちとるにむずかしく はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ

ー吉野弘





ひとが

ひとでなくなるのは

自分を愛することをやめるときだ。


吉野弘 -奈々子にー

「自分を愛すること」。もうずいぶん長く聞いたことのないような、または生まれて初めて聞くようなふしぎな言葉だ。
この言葉は私には、まるでラテン語か何かのように響く。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。
わたしには、自分を心から愛したおぼえがない。

自分で自分の身体に泥をなすりつけるようなことばかりして来た。

時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすててきたりした。


自分を愛すること。


自分を愛すること。


一体それはどういうことなのだろう。


『石原吉郎詩文集』「一九五六年から一九五八年までのノートから」(2005年)











2019年11月28日


わたしの家族の滅びも近づいている。五日後に埼玉に行く父とはもう二度と会うことはないだろう。
弟はひとりでは自滅する。しかしわたしは弟との同居はできないだろう。
どちらかが犠牲になるしかない。わたしは弟の犠牲を望まない。
母の望む二人でなんとか・・・というのはわたしには無理だ。

早晩弟が戻ってくると決まった時点で(わたしもそれでいいと思っている。主治医は反対しているが)わたしの・・・この家族の運命もほぼ決まったと言っていいだろう。

「どちらかが犠牲になるしか・・・」

『ソフィーの選択』では、ナチの将校の気まぐれで、幼い男の子か女の子かどちらかを選べと(片方は助けてやると)言われたソフィーは、「親が子供を選べるはずがない!」と将校をなじる。「そうかじゃあ両方ともガス室行きだな」と言われた時、思わず、「女の子を!」をと、女の子を将校に渡してしまう。

ソフィーは何とか終戦を迎え解放されたが、最後には自ら命を絶つ。


無題


来週、つまり十二月の二日に父は埼玉のケア・ハウスに入居する。
以前にも書いたが、それにわが家の全収入であった父の年金を充てる。

わたしも弟も手帖を持つ精神障害者で、収入はなくなる。

わたしとの不和・・・というよりも、わたしが避けているせいで、現在隣接する市のURに別に住んでいる弟の家賃、月々6万円(+)をこれからは出せない。仮に出せたとしても、弟はここに戻ってきたがっている。

主治医は同居には反対の立場だ。それは、わたしが暴れる可能性があるからだ。

しかしわたしは母と弟が望むのなら戻ってくればいいと思っている。おそらくわたしは堪えられないだろう。だったらその時にはわたしが出ていけばいい。出ていくというのは、どこか他に住処を見つけるという意味ではない。

わたしは生きているのが辛くて仕方がないのだ。

そして有体に言ってしまえば、毎日欠かさず弟が来ることにも、もう耐えられなくなってきている。
弟があそこで、一人ぼっちで毎日を過ごすことに耐えられずこちらに雨の日も風の日も自転車で片道10キロの道のりを往復するように。

主治医の意見は、全員が生き残る方途を示している。中途半端な形で。

けれども、わたしはもう、いい。

そこまでしてここに残って、ここで生き残って何がある?

わたしは弟との同居におそらくは耐えられないだろう。けれども、戻ってくればいい。
わたしは弟を憎んではない。寧ろ、父や弟のありのままを受け容れられない自分の狭量を憎む・・・




2019年11月25日

友だち作りサイト退会の名残り。


無料の「友達作り」のサイトに登録していたが、当たり前だが、当たり前すぎるほど当たり前だが誰とも合わないので退会した。

そこにはツイッターのように「つぶやき」を載せる場所があって、わたしもいくつか「呟いて」みた。
アカウント削除を決めていたのでその前に一応こちらに残しておいた。無論反応は殆どナシ。




ここを日記 or ツイッター代わりに呟きます。

写真はロベール・ドアノー。授業中時計を気にする子供。

今時、小・中・高校にこんな時計あるんでしょうか?

わたしは50代ですが、古い写真を見るたびに、「何もかも懐かしい・・・」という想いに囚われます。

「今を生き」てはいません・・・






ふたたびドアノー。

Baiser Blotto (kiss in delivery bicycle), 1950(デリバリー・バイシクル=前に荷物を入れる箱の付いた自転車ですね)

古き良きパリの光景です。





言葉で自己表現をするのが苦手ですので、この場をお借りします。

今度は絵、これは英国の20世紀の画家、ローレンス・スペンサー・ローリーという人の作品です。
「製粉工場の前」といった感じでしょうか。水彩絵の具で描かれた極度に簡略化された人物たちがとてもいい味を出していて、彼の絵はこんな感じの作品が多いのですが、好きな絵です。

ではみなさま寒いのでご自愛の上、良い週末を。






孤独ということ。

今のわたしは、今日(金曜日)のような日の夕暮れに、ひとりで、歩いて5分の比較的緑の多い公園に行くというだけで、誇張ではなく、「孤独死」してしまうだろう。

わたしは東京の郊外に住んでいるが、今の時期、午後五時から、渋谷に行って改札を出て、5分間駅前を歩いて帰ってきたら十万円やると言われても絶対にお断りだ。

晩秋の宵は人を愁殺する・・・




フェイスブックで、「日本人の友達を作ろうとするのは無駄な努力だな・・・」とボヤいたら、すかさず昔からのフランス人の友達が、「気にするなよ。世界にはいろんな国があるんだから」これが「彼ら」の感覚なのかな。彼自身英国に移住しているし。

先日新聞を読んでいたら、「違いを受け容れられない社会の側の障害」という言葉があって妙に印象に残っている。新聞もたまにはまともなことも書くんだな。



『めぐり逢い』デボラ・カー&ケーリー・グラント。

「何が人生を難しくしているのかしら・・・」
「人間・・・」

けれども人生を「生き易く」することができるのもまた「人間」






心がささくれ立っている時には美しい絵を・・・というのは嘘です。こういう絵なら害はないだろうという打算からです。

ただ、この絵には抗い難い魅力があります。特に惹かれるのは、この女性「マリアナ」ではなく、
木の床、そこに落ちている枯葉、そしてネズミなどのディテイルです。
1851年の作品です。ジョン・エヴァレット・ミレイ作。







つくづく、日本人とは反りが合わない・・・





2019年11月24日

混乱の中で…


ここのところ調子が良くない。過日の投稿にもあるように、自分のこと(気持ち・状態・状況)がまるでわからない。内面の声が聞こえない。
たったひとりのストライキ」にもらったJunkoさんのコメント、「今回の大病を経て、少し世界を、人を見る目が変わった。厭世観が多少だが和らいだ・・・」というメッセージ。ショックではないが、正直、距離が広がったと感じている。無論それは(そう感じることは)誰のせいでもない。

以前のブログから、拙文を読んでくれている(た?)底彦さんのブログを、例によって、まとめて読む。

苦しい時の底彦さんの状態はわたしの比ではないだろう。しかし一方で、彼には、「数学」と「絵画」(絵を描くこと)という「楽しみ」がある。わたしが読む限り「気晴らし」といったレベルではなく、もっと積極的な「たのしみ」であり「よろこび」であると感じる。
また彼は、最近近所に居心地のいい喫茶店を発見したようだ。「また来たい」と書いてある。苦しさの隙をみて・・・いや苦しみの只中に居ながら、映画館に行き、絵を観に行く。デイケアも充実しているようだ。

「心が落ち着く三つの場所のこと」というタイトルの投稿があった。
わたしには仮初にもこのような表現を使える場所は、自室を除けばどこにもない。
(これは自分の部屋が唯一の安息の場という意味ではない)

病気という点では、或いは底彦さんの方が重いのかもしれない。(鬱病と人格障害だか発達障害だかを比較することにはそもそも無理があるが)けれども、「生への姿勢」という意味では、わたしは底彦さんにも遥かに及ばない。

少なくとも、「たのしみ」というものがまるでないこと、「心が落ち着く」という場所を持っていないこと。これだけでも大変な差だと言っていい。

底彦さんの文中に最近散見される。「少しづつだが回復・・・」という言葉を目にするたびに、Junkoさんとはまた違った隔たりを感じてしまう。仮にそれが医師の眼から見ての「客観的」な状態ではなく、あくまでも底彦さんの希望・期待に裏付けられた「感覚」であったとしても・・・

何もわからないが、いろいろなことが悪くなっていることだけは感じるから。





2019年11月23日

Junkoさんのコメントに寄せて・・・




再度の投稿になります。ラルフ・マックテルの「ストリーツ・オブ・ロンドン」

ロンドンのホームレスをうたった歌です。

この歌詞の中に


"How can you tell me your lonely and say for you that the sun don't shine?".


「どうしてあなたは孤独だって言えるの?何故あなたの上に太陽は照らないっていえるの?」

という一節があります。

何故、英語で訊かれると、反発できないのでしょう・・・

わたしと「日本」という国の不和は何に起因するのか、今更いうまでもありませんが、
わたしと英語の親和性はどこからくるのでしょう・・・


"Let me take you by the hand and lead you through the streets of London I'll show you something to make you change your mind"

「わたしが手を取って、ロンドンの街を一緒に歩いてあげる。そしてあなたの気分を明るくするものを見せてあげる」

しかし決してそのような人は現れない。なぜ?ここは日本だ。そして忘れてはいけない。わたしが「愛されざる者」であるということを・・・







モノクローム


Florence, Paris, 1959, Edouard Boubat. (1923 - 1999)
- Gelatin silver print -


写真は50年代のパリ。撮影したのはエドワルド・ブーバーです。

モノクロ写真の魅力を伝えるには、やはりドアノーでしょうか。わたし自身はアジェでした。


La Sonnette, 1934, Robert Doisneau


『アジェのパリ』『ドアノーのパリ』と、それぞれ分厚い写真集が、確か「タッシェン」から(?)出ていたと思います。

エミール・シオランの『生誕の災厄』を愛読するわたしでも、やはりドアノーの魅力には敵いません。

つまり、「失われた時」を求めて、わたしはドアノーを、アジェを、木村伊兵衛を観ます。

以前(本当に随分昔)深夜のテレビで「麻布狸穴」という番組があって、知り合いのディスク・ジョッキー(ナビゲーターと呼ばれていた)が、司会の女性に「誰の写真集が欲しいですか?」 と尋ねられ、ヘルムート・ニュートンと即答していた。人それぞれですね。






覚書

わたしは道に迷っている。街中で道に迷えば人に訊くことができる。
「わたしは今何処にいるのでしょうか?」そうすれば、訊かれた人はわたしの今いる場所を教えてくれるはずだ。

けれども、心の中で道を失った時、いったい誰に訊いたらいいのか?



数日前、わたしはこう書いた。

ここ数年、状態は悪化する一方だが、その中で、時々の自分の気持ちを、感情を、率直に表現してきた。けれども、突然書けなくなった。自分が何を感じているのか、何を考えているのか、まるでわからなくなった。内面の声が聞こえなくなった。それとも内面の声=感情自体が揮発してしまったのか・・・」


繰り返すが、自分の気持ちを「言葉にする」ことで「自分を客観視できる」とか「一歩引いて自分を見つめることができる」というような状況ではない。そもそも「言葉に置き換える自分の気持ち」というものが見つからないのだから。」

と。

わたしが知りたいのは、人に訊いても自分自身に問うても分からない場合には、どうすれば自分の「位置」を知ることが可能なのか?
そしてまた「(自分の)位置」とは、果たして何を意味しているのか・・・





2019年11月21日

何故・・・


多くの人たちは、毎朝出勤前に、TVや新聞でニュースを観たり読んだりするのだろう。
わたしが不思議なのは、毎日、仕事や勉強の前に、全身に汚水を浴び、ヘドロを飲み下してから、何故あたりまえのようにその日の仕事ができるのか?という疑問だ。

わたしはテレビを見る習慣が無いが、毎日新聞を読まなければならないとしたら、それは間違いなく精神的「拷問」に他ならない。

今年、何月の事だか忘れたが、夫婦で、幼い娘をむごたらしく虐待し、死に至らしめた男の刑が18年だと聞いた。
そのニュースを聞き、わたしの目の前は真っ黒になった。
その刑の余りの軽さに、わたしの心は鉛のように黒々と重くなった。

もともと日本という国は「(万引き、薬物所持のような)軽罪に厳しく、(殺人、過失致死などの)重罪に甘い国」だ。子供を虐殺して18年とは・・・言葉もない。

けれども、「幼児虐殺」に限らず、新聞を見ればほぼ隅から隅まで、「人間であることの恥」・・・というよりも、「人間であるということの罪深さ」をいやというほど感じさせる記事に埋め尽くされている。

それでもなお、人々は会社や役所に、学校に行き、まるで世の中には悪いこと、禍々しいことなど何もなかったかのように動いていることの不思議さ。

ふと、スキーター・デイヴィスの「エンド・オブ・ザ・ワールド」という60年代の歌を思い出した。

Why does the sun go on shining
Why does the sea rush to shore
Don't they know it's the end of the world
'Cause you don't love me any more
Why do the birds go on singing
Why do the stars glow above
Don't they know it's the end of the world
It ended when I lost your love
I wake up in the morning and I wonder
Why everything's the same as it was
I can't understand, no, I can't understand
How life goes on the way it does
Why does my heart go on beating
Why do these eyes of mine cry
Don't they know it's the end of the world
It ended when you said goodbye
Why does my heart go on beating
Why do these eyes of mine cry
Don't they know it's the end of the world
It ended when you said goodbye

要約すれば、何故世界は昨日と全く同じように動いているの?私の愛が失われたというのに?太陽や海や、星や鳥たちは世界が終わったことを知らないの?


フランスの映画監督、アニエス・ヴァルダは10年ほど前、映画『落穂拾い』公開時に来日した際、あるインタヴューに応えてこう語っている。

「他人の不幸をずっと抱え込むのは無理。ちょっと立ち止まって考えてくれればいい。
ユダヤ人の強制収容所を取材したジャーナリストが、家に帰って奥さんと食事をしたりセックスをする。それが人生。生きることを愛するのは自然なことなのだから」

アニエス・ヴァルダは好きな監督だが、彼女のこの言葉はわたしにはまったく説得力を持たない。

もし「これが人生」だというのなら、わたしはこれこそが、「人間であることの恥」だと言おう・・・










2019年11月19日

小さな疑問「引きこもり」について


わたしは外に出ることが困難な、いわゆる「引きこもり」だが、例えば、あり得ない話だが、今、玄関の外に出ると、そこは1970年代だった。というような状況だったとしたら。誓ってもいいが、その瞬間にわたしの「引きこもり」は完治している。
それはわたしの肉体が若返るとか、80年代以降に体験したことや、その記憶がすべて消え去るという意味ではない。今のまま、このままのわたしで、外の世界だけが変わっているということだ。

タイムマシンを例にとれば、わたしがタイムマシンで1970年代に戻るのも、わたしだけが残って、外の世界(例えば「東京」)の時代が逆行すること。結果は全く同じであることと変わらない。

そういう例は必ずしもわたしだけではなく、街に人っ子一人いなくなれば、今すぐにでも外に出られるという人もいるのではないだろうか。

なんらかの条件が彼/彼女を外に出られなくさせている。ならば、その条件が取り除かれれば、あくまで理論上ではあるが、「引きこもり」というものは起こり得ないのではないか?

自分の心の中に柵や壁があるわけではない。あくまでも「引きこもり」は外的な条件に因るのではないか?


2019年11月18日

たったひとりのストライキ


昨日、約2年間続けてきたブログを閉鎖した。
わたしは精神障害者で、所謂「引きこもり」といわれる「外出困難者」でもある。
ここ数年、状態は悪化する一方だが、その中で、時々の自分の気持ちを、感情を、率直に表現してきた。けれども、突然書けなくなった。自分が何を感じているのか、何を考えているのか、まるでわからなくなった。内面の声が聞こえなくなった。それとも内面の声=感情自体が揮発してしまったのか・・・

生きることも死ぬこともままならず、宙吊りの状態が長く続きすぎたので、最早自分が「何モノ」であるのか分からなくなったのかもしれない。



「書くことがない時には、「書くことがない」と書け」と書いたのはポール・ヴァレリーである。実際には書くことがないわけではなく、書くことに手が届かない、暗闇の中で、それに手を触れることができない状態が現在のわたしであり、このブログだ。

繰り返すが、自分の気持ちを「言葉にする」ことで「自分を客観視できる」とか「一歩引いて自分を見つめることができる」というような状況ではない。そもそも「言葉に置き換える自分の気持ち」というものが見つからないのだから。



今日の新聞の新刊案内に『グレタ たったひとりのストライキ』という本の書評があった。
9月に国連の気候行動サミットで発言した、スウェーデンの16歳の女性である。

わたしが興味を持ったのは、以下の記述・・・

グレタさんは11歳の時、海に浮遊する大量のゴミについての映画を観た衝撃から、日々泣き続け、無気力になり、元から小柄な体は2か月で10キロも減り、餓死の兆候も表れた。検査の結果、アスペルガー症候群、高機能自閉症、強迫性障害と診断される。

わたしが何よりも知りたいのは、彼女が、如何にして、上記の状態から回復したのかの一点に尽きる。
何故ならわたしにとって一番自然な流れとは、現在の地球環境の状態を知った彼女が、その衝撃で、遂に餓死するというものだからだ。その「餓死」が意図的な自死であるのか、或いは、彼女の持つ障害故かわからないが、何故彼女は「生還」したのか?

わたしは上に書いたように、外に出ることが非常に困難だ。けれども、「世界が醜いから」という理由で外に出られないという症例をこれまで聞いたことがない。

そしてこの醜さは、いかなる方法を以てしても元に戻すことはできない。
地球はギリギリのところで救われるかもしれない。けれども喪われた「美」は決して戻っては来ない。

「たったひとりのストライキ」と聞くと、すぐに『代書人バートルビー』を思い出す。
あらゆることに「したくないのですが」(I would rather not to)と言い続け、遂には「餓死」したハーマン・メルヴィルの小説の主人公である。

わたしはグレタさんとは正反対で、地球は滅びればいいと思っている。(正確には「人類が滅びれば」だが)何故なら地球は、5年前、グレタさんがショックを受け、餓死寸前にまでなった時とまるで変らぬ醜さを保ち続けているから。
言い方を換えれば、わたしは醜い星の延命を望まないから。



本の表紙の写真が載っている。黄色いフードを被った彼女の顔には微笑みの欠片すらない。この表情から読み取れるのは、激しい怒り、絶望、悲しみ・・・
その表情と、地球を救おうという行動力とその想いが、わたしにはどうしても結びつかない。

もちろんわたしはグレタさんよりも、小説ではあるが、バートルビーという人物に、遥かに親しみを覚えるのは今更言うまでもない。









2019年11月17日

生きるための条件


The paintings above is by the Swedish painter Carl Larsson (1854-1919)


「生きる」ということ、「生き続けられるものなら生き続けたい」という気持ちが、既に「あたりまえ」の感情ではなくなっているわたしにとって、「生きること」は「死ぬこと」と同様に「選択の問題」だ。とはいえ、誰が生きること、死ぬことを、安易に「選択」し、「実行」できるだろう。


Why is Life Worth Living? 

ウディー・アレンは映画『マンハッタン』のラスト近くで、「人生は生きるに価するか?」と自問し、自分にとって価値のあるものを挙げてゆく。

グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ、モーツァルト『ジュピター交響曲第2楽章』、
ルイ・アームストロングの「ポテトヘッド・ブルース」、スウェーデン映画(彼はベルイマンの大ファンだ)、フローベールの『感情教育』、マーロン・ブランドー、フランク・シナトラ、セザンヌの傑作「リンゴとナシ」、サンド・ウォールズ(?)のクラブサンド・・・トレイシー(別れた恋人)の貌・・・

このくらいのリストなら、死にぞこないのわたしにだって、挙げられる。
しかし人は芸術や文学だけでは生きていくことはできない。

"ALL YOU NEED IS LOVE! "
あたりまえだ。

しかしこの街に愛はあるか?
また、わたしは愛される資格があるか?

そして最大の問題は、わたしが「今の時代」を愛せないということだ。

"To Love and To Be Loved". それが忌まわしき現代に拮抗し得るのか?それをもう一度確かめてみなければならないだろう。
そしてなによりも、もう一度繰り返さなければならないのは、わたしは愛され得るか?という問いだ。


ー追記ー

ウディー・アレンのようなリストをいくら並べても愛が無ければ人は生きてゆけない。
けれども、そのリストは、少なくとも、崖から飛び降りようとするひとの足枷くらいにはなり得るだろう・・・
















セント・セバスチャン ギュスターブ・モロー、ドローイング

Saint Sebastien (étude avec saintes femmes et anges apparaissant)
Gustave Moreau. French (1826 - 1898)
- Pencil, Pen and Ink -


今は目が悪く、文章を書くことはもとより、書きながら、書かれた文字を追いながら、思考を紡いでゆくということが出来ません。

今日はギスターブ・モローの「セント・セバスチャン」のドローイングを。







2019年11月16日
































































Untitled (Sick Rose series), Azadeh Razaghdoost. Iran, born in 1979


イランの現代アーティストの作品です。
「無題」(シックローズ・シリーズ)
病んだ、傷んだバラの花弁のようですが、今のわたしには、形も崩れ、血を流しているハートに見えます。

これは、わたしの、ハートです・・・







ありがとうございました。


このブログは本日閉鎖します。

みなさん、長い間、どうもありがとうございました。


Glasgow, John Atkinson Grimshaw. English (1836 - 1893)

嘗て 世界に 美しい夜があった・・・












2019年11月15日

「認知行動療法」追記

わたしは最近まで、所謂「認知行動療法」のいう「自己表現」をこのブログを通じて行ってきた。自己を観察し、内面を凝視し、その時々の感情の襞に可能な限り分け入り、それを「言葉に」してきた。しかしそれは、わたしという人間の内面は、今こういう状態であるということを、読者に報せ、また自分自身で再確認することでしかない。そのことによって何かが変わるということではない。

事実はひとつしかない。それはわたしは今感じているという事実だ。

「リフレイミング」などともったいぶった名前を付けて、今現実にわたしが感じている「生(き)の感情」を偽りたくない。

「認知行動療法」とは明らかに「サバイバル術」だ。そのために文脈の改変を行う。
自分に都合のいいように。(これは別に悪いことではない)。
「生のままの現実では生きていけない」「現実から逃避していては生きていけない」
であるならば、自分の中で、文脈を編集・改変する以外にないではないか。それが自己欺瞞であっても、肝心なのはサヴァイヴすることだ。

しかしこの世界には生きるに値する何ものも存在しないと考えているわたしのような人間にとって、文脈の改変は何の意味も持たないばかりか、唯一残されたわたしにとっての真実・本物である自己の感情を毀損することになることは言を俟たない。



二階堂奥歯『八本脚の蝶』2001年8月31日(金)

私は強引に何かをされることは嫌いだが、何かをよろこぶように有無を言わさず変えられてしまうことがとても好きだ。

前者は関係を変えずに行為をいびつに割り込ませるが、後者は行為が自然に生まれるように関係を変える。

文脈を作ることのできる者と、できない者。
私はいつも、誰かが作る物語の中で翻弄されるコマでありたいだけなのだった。
文脈を作る力を身に付けなくては。

読まれ手でも、読み手でもなく、語り手になること。
(下線Takeo)


つまりわたしたちは「現実そのもの」── 二階堂の言葉で言えば「誰かが作る物語」を「変革・改変」することが不可能なので、せめてその、誰かによって作られた「物語ー現実」という格子なき牢獄の中で、多少とも生き易くなるための手段としての文脈の構築・改変がある。

それが「認知行動療法」ではないのかとふと思う。


Cf

国立精神・神経医療研究センター

日本認知療法・認知行動療法学会 広報委員会


わたしがこだわるのは、そもそも「誤った認知」とか「正しい認知」というものはなく、あるのは、ただ、その人固有の物の見方、解釈だけだということ。そしてそれを改変することは、自己を改変することに等しいということだ。

つまりそれは自分が自分でなくなっても生きていたいか?という問いに直結する。




The Passion of Joan of Arc (1928) directed by Carl Theodor


簡潔に言おう。自己の視たもの、自己の感じたことによって滅びるのなら滅びるのがいいのだ。何故なら「”私”とは運命である」のだから。




2019年11月14日

デイケア及び「(集団)認知行動療法」

今日は暫く参加を見合わせていた(集団)「認知行動療法」のプログラムに参加した。

わたしは基本的に「認知行動療法」という考え方とは反りが合わない。それはこれまで何度かプログラムに参加した経験からもいちいち裏付けられている。それでは何故性懲りもなく首を突っ込むのかというと、端的に言えば、わたし個人にとっては理解の範囲を超えている「療法」「考え方」に、何故多くの人が賛同するのか、という好奇心からだろう。

例えば、今日のテーマであった、「感情」と「認知」を分ける、という考え方。資料には「自己表現」とあったが、色も匂いもなく、目で見ることも手で触れることもできない自己の内側の感情をいかに定義することが可能なのか?
そしてこれが「不安」であるのか、或いは「恐怖」であるのか、または「深い悲しみ」であるのか、それはどのように区別し得るのか?言い換えれば、「認知行動療法」で、当たり前のように前提とされている「自己表現」というものがそもそも可能なのか?という疑問。これは「不安」であって「悲しみ」ではない、ということを如何にして、また、誰が何を規準にして判別するのか?

目の前に一個のリンゴがあって、「これは赤い林檎です」と「言葉にすること」と、「わたしは今悲しい」と表現することの間に如何なる違いがあるのか?
わたしが悲しいことは、言葉にする以前に存在しているわたしの内面の事実である。
それを言葉にすることでいったいわたしの気分が、その悲しさが、どのように軽減されるのか?言葉にするまでもなく、わたしはわたしの気分・感情を既に感じている。
それを敢えて、「わたしは悲しい」と言語化することは、ある参加者が言っていたように、それを「他者に伝える」以外の意味を持つのだろうか?



さすがに今日はわたしの度重なる疑義に対して、反発の声がいくつか上がった。

それらを要約すれば、わたしが気に入ろうと気に入るまいと、「認知行動療法」とは「そういうもの」なのだから、その常識を覆そうとしても意味はない、素直にそれを受け容れ、自分の治療に役立てるか、自分には合わないと思えば、せめて黙っていろ、というもので、それに関してはまったくその通りだ。

更に、デイケア参加者の多くは、「良くなりたい」「いまの症状を少しでも軽くできれば・・・」という気持ちで参加している。しかしわたしは、そもそも「治癒」とは如何なるものなのかすらわからない。いや、正確に言えば、「良くなる」ということがどういうことかはわかっている。けれども、「良くなった後に何があるのか?」

この、わたしにとって非常に摩訶不思議な「認知行動療法」のプログラムに「摩訶不思議」なる思考法ゆえに好奇心を抑えきれずに継続して参加するか。(つまり「招かれざる客」となることを承知で・・・)そこが思案のしどころだ。また複数の参加者のいうように、「認知行動療法」とは、ある意味とても難解な代物だということは、わたしも同感だ。








2019年11月13日

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」


このブログは、11月4日の「真空地帯」の投稿を以て、実質的には終わっている。

それ以降の投稿は、あらずもがな、なくもがなと言ったところだ。

底彦さんは、最近は、過去の投稿を読んでくれているらしい。


わたしは今、なにかが分からずに困っているようだ。

けれども、自分が何が分からなくて困っているのかがわからない。

これは底彦さんのブログにもコメントしたことだが、

わたしの大好きな瀬里香さんの言葉がある。

「わたしは なぜ どのように頭がおかしいですか?」

これはもう10年以上前に彼女と知り合ったさるQ&Aサイトのメンタルヘルスのカテゴリーに、彼女が投稿した質問だ。

わたしが「わからなくて困っていること」というのも、ひょっとしたら、

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」ということなのかもしれない。

ここで、「おかしくなんかない」とか「みんなどこかしらおかしい」という言葉は絶体に聞きたくない!

来週、家族会の相談室に話をしに行く予定になっている。
次の週には二人の若い保健士との二度目の面談がある。
そしてそれを踏まえて、再びデイケアのスタッフとの話し合いがもたれるだろう。

若い保健士は言う。「Takeoさんのことをもっといろいろ知りたいので。」
家族会の相談員はベテランだが、わたしのことは何も知らない。

しかしわたしのことを一番知りたいのはわたし自身だ。
あなたのことを教えてくださいと言われてわたしに何が言える?

「わたしは何故ここにいるのか?」

「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」

わたしの言えることはこれだけだ。

たとえば冗談ではなく、誰かに「Takeoさんはどうしたいですか?」と聞かれても何もわからない。何も・・・そう。質問の意味さえ分からない。

わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」

この答えが得られるまでは一歩も先へは進めない・・・


あるいは最後の投稿である「真空地帯」に照らせば、

わたしをわたしたらしめているもの」がこの世界に何ひとつないという事実・・・




2019年11月12日

茨冠と王冠




これはマグダラのマリアが、キリストの頭に被せられた茨の冠にキスしている19世紀中葉の絵。通俗的といえば確かにそうだが、わたしはこの主題に惹かれた。
「茨冠」は苦痛と悲嘆の象徴。それにキスをする。つまり苦痛と悲嘆を、尊く、高貴な、美しいものと見做している。ひとりキリストに限らず、全て、頭(こうべ)に茨冠を頂くものは高貴である。

茨冠を被せられる者は、時の権力者、即ち「王冠」を戴いた者に憎まれた者。
故に茨冠は王冠よりも尊い。

それではわたしは王冠を頂くことを拒否するかといえばそうではない。

わたしはできることなら王になってみたい。それも、絶対的な権力者。言葉を換えれば「独裁者」に。譬えるならば、全盛期のスターリンや毛沢東、現在なら、習近平やプーチンのような独裁者に。

もしわたしが万能の独裁者になったら、してみたいこと。

といっても、わたしは政治にも経済にも国際情勢にも疎いので、あくまでも、夢物語だが・・・





「天皇制の廃止」「自衛隊を廃止して、災害救助隊とする」「すべての武器・兵器はこれを廃棄する」「日米安保条約の廃止」「全ての原発の廃止」「東京オリンピックの開催中止」「防衛費・オリンピックのための予算はすべて、社会福祉に使う」「叙勲制度の完全撤廃」「公共住宅の充実」「全国各地津々浦々までの図書館と医療施設の充実」「医療及び教育の無償化」「義務教育の廃止(学校に行く義務の廃止)」「死刑制度の廃止」「幼児虐待や交通事故での加害者の量刑が軽すぎるので、その点の見直し、幼児虐待死などは最低30年以上~無期(仮釈放ナシ)」「政治家の世襲制の廃止」「サービス残業をさせた企業は完全営業停止1か月」「国民の祝日を元の日にちに戻す(土日月3連休性の基本廃止)」「デパート、スーパー、コンビニなどで売れ残った食料品は地域のフードバンクにすべて無償で寄付することの義務化」「破棄した場合には廃棄した商品と同額の罰金をフードバンクへ」「自民党の解党」「NHKの受信料支払い義務化の撤廃」

「駅のホーム・電車の一車両・バスの車内などで、スマホをいじっている人間が全乗客、その場にいる人間の3割を上回った場合にはその場の全員の使用停止」
「電車・バス、駅でのアナウンスの禁止(乃至車掌の肉声による)」「電子書籍は通常の書籍の3倍の値段にする」「プラスティック容器の5年以内の完全撤廃」「消費税の撤廃」「議員報酬を半額に」「学校での制服の撤廃(服装は完全に自由)」「赤線地帯の復活」「性をタブーにする教育の改革」「韓国への速やかなる謝罪」「国鉄(国有鉄道)の復活」「郵便局(郵政省)の復活」=「鉄道・郵便局の国営化」「福祉・医療・介護職員の賃金の大幅アップ」「安楽死制度の導入と、実施の簡素化」「図書館運営の民間委託の廃止」「リクルートルックの完全撤廃」

・・・そしてわたしは茨冠を被る前に暗殺されるだろう。それがわたしの「茨冠」だ。







2019年11月11日

無題



A Spectre (Portrait of Nicky Haslam), 1961, Michael Wishart,  (1928 - 1996)
- Watercolour on Paper - 


自分の貌が日毎に醜くなってゆく


いっそこんな貌になってしまえば


こんな貌では外にも出られないが、せめて貌を覆い隠したい






2019年11月10日

ふたつさんのコメントへの返信。

こんばんは、ふたつさん。何かの不具合で、頂いたコメントに返信不能なので、ここに書きます。



ネットの怖さ、そして鬱陶しさを改めて感じました。

高校時代の友人が、就職して暫く上司との相性が悪く、毎晩わたしのところに愚痴の電話です。彼は言いました「お前は絶対に喧嘩しないもんな。喧嘩になる前に消えてるから・・・」

インターネットでも、嫌ならそこから離れればよかった。ところが、自分のブログに日参して、ネタを探したり、人を見下したり。これには参ります。例のパソコン関連の友人に相談したところ、「仮にブログを引っ越しても、そういう連中は必ず見つけ出すよ。考えてみれば、自分より弱い者をからかうことでしか優越感を保てない哀れな連中だけどね」


>いつもながらに、「彼ら」のTakeoさんに対する執着心は、かなりのモノですよねぇ。
でも、なんで、こんなに執着するんでしょうね?
(これ、「彼ら」に、自問してみてほしいですね)

すごいですよね。
多分彼・彼女の裡なる差別意識じゃないかな。
表立って差別はしないけど、自分が「下」と見做している肩書を持つ人間が「生意気に自己主張したり」するのが気に入らないんでしょう。

そのくせ、わたしをネタに何か言うたびに、底が割れる=思考のレベルの低さが露見するという滑稽さ。


>当然、ブログ主本人だって、『もう、その話はやめましょうよ、〇〇さん』ということは出来るし、いくらでも、Takeoさんから離れることは出来るわけだから、「彼ら」が認めないとしても執着しているのは確かなことですよね。

これは確かなことですね。仮に「彼/彼女」が、芯からわたしを軽蔑し、忌み嫌っているのなら、「ああ、あいつの話は止めて!」となるはずです。また仮に「おもちゃとしてちょうどいい」などと口にした瞬間、己の下劣で下衆な本性=差別意識を白状したことになる。

「中二病」とか「マウント」とか「テンプレ」「コピペ」「トレース」彼らは「紋切り型」を多用します。こういう事象を矮小化する鋳型をたくさん持っていると、話が効率的で上滑りに進んでいきます。彼らの多用する語彙を検証するだけで、思索の底の浅さが透けて見えます。浅瀬ほど動きは自由だ。逆に水深が深いほど身動きが取れなくなる。



ランタナという者の言い草を聞くたびに、「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉を思い出します。

わたしが誰からも好かれないのは事実だ。けれども、ランタナには、それを「自己愛」だとか「マウント」「優位に立ちたい」と言った極めて浅いレベルでしか、言い換えれば「常套句にたよってしか」捉えることができない。
「精神疾患とは関係性の障害である」(エリクソン)── 人と関係をうまく構築できないこと、それを精神の問題(トラブル)と見ずに、彼女はどっから引っ張り出してきたのか「中二病」だからだと・・・

彼らがわたしに向かって言っていることが、ことごとく、語るに落ちる・・・言ってる当人の本性を現しているのだということを、お目出度い人間は気づかない。

分からなければ黙っていたまえ。わかっているというのなら、きみらが金科玉条にしている「わたしの自己愛」について説明してみたまえ。

滑稽を通り越して憐れにさえ見えるのは、わたしへの批判のつもりが悉く自己批判になっていることだ。



ふたつさん、
わたしはこの文章を書いた時点で、Junkoさん、底彦さんとの縁は切れたと思っています。つまりおふたりが読むに堪える文章ではないからです。
(実を言えばふたつさんからのコメントもビックリしました。)しかしこれがわたしです。いつまでもいい気になって人を、また精神障害や引きこもりを、自分が理解できないからという、自分の価値観と合致しないからという、ただそれだけの理由で、侮蔑し嘲弄する愚昧なる者たちに寛容なほど人間出来ていないので。

まぁ、Takeoさんには、こんなことよりも切実な問題があるでしょうから、こういうのにかかわる時間は少なくした方がいいでしょうね。」

この言葉は、そのままふたつさん、Junkoさん、そして底彦さんにお渡しします。
今まで長い間、変わることなく中身の充実したコメントを頂き、そしてこのような出来損ないを見守っていただき、ありがとうございました。

わたしは、もう書けません。

「最後」に、これは神谷美恵子氏のエッセイからの孫引きですが、シモーヌ・ヴェイユの師であった、哲学者アランの言葉です

「正確な判断を導くには、まずできあいの観念や常套句を”殺戮”することから始めなければならない」

Takeo











Solas - Michael Conway




「ソラス」の「マイケル・コンウェイ」

ソラスというフォーク・グループは、たまにのぞく英国のブックデザイナー・編集者・アーティストのブログで見つけました。

All Music Guideによると、ジャンルはアイリッシュ・フォーク、ケルティック・フォークとなるようです。

All Music Guideは以前CDを買う際に参考にしていました。
このサイトの特徴は、アーティストの「雰囲気」をサジェストしてくれる点です。

例えばこのソラスは、

Amiable/Good-Natured、Bittersweet、Freewheeling、Sweet、Fiery、Joyous

Passionate、Pastoral、Plaintive、Playful、Sparkling、Yearning、

Calm/Peaceful、Intimate、Wistful、

等とあります。「ビター・スイート」「パストラル」(牧歌的な)「コーム&ピースフル」(落ち着いた、平穏な)「インティメット」(親しみやすい)

これだけのキーワードで、ある程度、アーティストのテイストが分かります。

尤も、最近気に入っているバンド、ザ・ウォー・オン・ドラッグスなどは、このサイトの評価では、「落ち着いた」とか「牧歌的な」というムードとはまるで正反対でしたけど。

この「マイケル・コンウェイ」などは、ケルティック・フォークの面目躍如と言った感じです。

Have a Calm and Peaceful Sunday. 





追記

なんでも自分の物差しで測れると思うことの浅はかさよ。

わたしが独りなのは、おまえのいうように、上位に立ちたいとか人を見下したいと言った、お前自身の持つ属性に依るのではない。

わたしが孤立しているのは、「わたしが常にわたしだから」だ。

人を小馬鹿にしておきながら、窮鼠猫を噛むというような状況になって反論されると、たちまち知らぬ存ぜぬで、見ない聞かないことにするのがお前らの常套手段だ。

もっとも、わかりもしないことについて、口から出まかせを並べているだけなのだから、反論に応じられるはずもない。

好きでおまえらと関わっているんじゃないんだ。

ブロガーはいい加減で、来た人をカウントしないことはしょっちゅうだが、
訪れもしない人を閲覧者として表示したことはない。

ここひと月くらい、ブロガーの表示するこのブログの閲覧元は
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/だけだ。

無論毎日20~30の訪問者があることも示しているのだから、ここからだけではないだろうが、筆者が呆れるくらい毎日欠かさずhttp://qinggengcai.blog2.fc2.com/が表示される。

こう毎日欠かさず来られると、何かこのブログについて書かれているのではないかと「邪推」もしたくなる、見てみる。やはり書かれている。

お前らはわたしの「敵」ではない。ただ関わり合いたくないのだ。

http://qinggengcai.blog2.fc2.com/このURLがブロガーの訪問者の表示から消えれば、こちらも2度とそちらに行くことはない。

付きまとうのは止めてくれ。ブログの種を自分で探せないくらい無能ならば、ブログなど書くな。