2019年12月13日

「めぐり逢い」


わたしは切実に出逢いを求めている。けれども、わたしの求めている「人との交流」というものが、いったいどのような形のものなのか?自分でもよくわからない。

今年一年間、月平均3回ほどではあったけれど、デイケアに通った。人一倍発言をしたが、親しい人はひとりも出来なかった、また、あの人と話してみたいと思える人も見つからなかった。

同性とのメールでの雑談のレベルでもいいのかもしれないと思ったり、SM系の風俗店に行ってみようかしらんと思ったりもする。

自分の心に率直に問いかける。「SEXがしたいのか?」と?
わからない・・・したいわけではないが、必要な気はしている。
「恋人が欲しいのか?」いや、特にそんな気持ちはない。
それなら身体だけの関係でもいいような気がする。しかし繰り返すがそれを心底欲しているのか、わからない。所謂「性欲」があるのかさえ、わからない。

ただひとつ確実に言えることは、「出逢い」を求めているということ。

どういう形の「出逢い」を求めているのか?

それをどうやって知ることができるのか?

いったい「出逢い」とはなんだ?


ー追記ー

この投稿は11月の「覚書」のつづきになるだろう。





2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    Takeoさん、生きてましたね。
    ぼくも、まだ生きてます。

    ※上の文は、現代アーティストの「河原 温」さんと言う方の手紙アート(いろいろな所から、いろいろな人に、『I am alived』と書いた手紙を出すというもの)に影響されています)。(余談)

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    さて、この記事についてですが、前にも書きましたが、ぼくは「愛」などの「人間同士の関係」と言うのは、求めることでしか生まれないものだと思っています。
    どれほど強く求めるかで、その人間関係の「意味」が決定すると思うわけです。

    逆に言うと、「求める気持ち」が薄ければ、その人間関係における「意味」も薄く成るということです。

    どちらか一方だけが求めた場合でも、「意味」は生まれますが、それは破綻につながりやすいですね。
    双方が、求めた場合には長続きしますが、双方が求め続けることが難しく成ります。

    たとえ、それが経済的な関係であっても、求める気持ちが強い場合は、その関係には何らかの「意味」が生まれます。
    しかし、これも長続きしにくいですね。

    また、「親子」・「兄弟」や「夫婦」のように、関係を切るのに手間がかかる場合は、惰性だけで続いてしまう場合も多く成ります。

    そう成って来ると、どういう時に継続的で意味の深い人間関係が出来るのかと言えば、もう、相手と一体に成ったときしかないと思います。

    相手が自分の一部であり、自分が相手の一部であると思った時には、いわゆる「切っても切れない関係」が生まれると思います。
    そう成ったときには、「利害関係」と言うものが消滅します。

    自分の手や足がうっとうしく感じたからと言って、それを切り落としてしまう人は居ませんから、少しぐらいは我慢するでしょうし、それを我慢と言う必要はないのかもしれません。
    つまり、自分の手や足にかけられた迷惑は、「利害関係」としては考えられないということですね。

    やはり、あくまで、他人にかけられるから「迷惑」なのであって、他人から受け取るから「利益」なのだと思います。

    ところが、その「利益」を「人間関係」においても求めてしまうんですね。
    だから、「深い意味のある人間関係」が築ける人は少ないんだと思います。

    「夫婦」や「親子」の関係ですら、「利害」で考えている人は意外と多いような気がします。



    最終的には、Takeoさんが求めれば、そこに「意味」が生まれるはずですし、求めていないのであれば、そこに「必要性」もないということです。

    もしも、Takeoさんが誰かを求めているのならば、その人を追えばいいだけだと思います。

    相手が、Takeoさんを求めているかどうかは、そのあとでないとわかりません。

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    それから、前のコメントについての返信に成ります。


    『そして「引きこもり」は決して健康ではないことは、ふたつさんも認めるでしょう。
    と同時に、今の社会が病んでいるということも、わたしが自由に外を歩けていた頃よりも明らかに「おかしい」ことも。』

    ぼくは、必ずしも「引きこもり」が不健全な状態だとは思っていません。
    「社会」には、もともと「人間を使役する」という性質があります。
    しかも、「現代社会」は、その性質が最も強化され続けた結果の「最も効率的に人間を酷使をするシステム」と成っています。
    この状態とは、病気で言えば、「免疫不全」に当たります。
    つまり「エイズ(H.I.V)」です。

    ハッキリ言えば、「引きこもり」なんて比べ物に成りません。

    とは言え、例えば、「風邪」は「エイズ」とは比べ物に成りませんが、40度の熱にうなされている人にとっては、それは非常に辛い状態であることに変わりはありません。
    だから、『そんなの大したことないだろ』と言うつもりはありません。

    しかし、「風邪」は、自己免疫が正常に作用しているからこそ、高熱が出る仕組みに成っているわけで、その免疫作用が破壊される病気が「エイズ」のような免疫疾患です。

    その「自己免疫疾患」にかかっているのが、「現在の社会」に他なりません。
    (「エイズ」のような免疫系の病気が多く成ったのも偶然ではないと思っています)

    ですから、「引きこもり」は、ご本人にとっていい状態ではないでしょうが、人間としては、むしろ正常なのだと思っているわけです。

    また、次に、
    『ふたつさんの社会観はもっともだと思いますが、現実にどれだけの人たちが「生き難さ」を感じているのでしょうか?
    少なくとも今の時代の生き難さを身にしみて感じている人は、「少数派」と呼ばれるのではないでしょうか?』

    これも、ぼくは、少し違う意見です。
    確かに、「生きにくさを感じている人」はちょっと前までは少数派でしたが、今では、おそらく逆転しています。
    ただ、それを言葉に出来ずにでいる人が、ものすごく多いと思いますね。

    教育や、マスコミの情報によって、完全に「現状肯定」や「社会貢献」を刷り込まれてしまっていますから、どうしても、それを言葉にしてしまうと、「自分が悪いことをしている」と言う自責の念に囚われてしまうために、それが言えなくなっているということだと思います。

    おそらく、底彦さんなども、そういうことからうつ状態になってしまったのだと思います。
    しかし、底彦さんは、もう、それを言葉にすることが出来ています。
    だから、きっと、徐々に心の重荷から解放されることに成るような気がしています。

    でも、ほとんどの人たちが底彦さんのような重い状態になる前の段階で、自分をだましながらやっていきますから、そのまま言葉に出すことが出来なくなってしまうのだと思いますよ。

    実際には、「生きにくさを感じている人」は非常に多く成っていますし、それを自覚していない人たちの中にも、「潜在的な生きにくさ」が潜んでいます。

    「引きこもり」の人自体が、数十万人とも百万人ともいわれる状態で、そのさらに数十~百倍近い数の「潜在的引きこもり」が居るはずです。
    そうなれば、もう、「この社会」の中で平気な人の方がどう考えてもオカシイし、少数派と言うよりも、「ほとんどいない」と言ってもいいくらいではないでしょうか?

    最後に、
    『それともそれは、やはりここでも「日本独特」なのでしょうか?』

    ぼくは世界中で起きている現象だと思います。
    なぜならば、「経済至上」「効率主義」「競争原理」これらすべてが、世界的なスタンダードだからです。
    それに比べれば、「〇〇人の民族性」は、大きな問題だとは思っていません。


    それでは、また。

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  2. Ciao Takeo さん
    Takeoさんのブログに、なぜかコメントを入れることができません。
    皆さんのコメントは読めますが、クリックしてもコメントを入れる欄が出てきません。
    よって、再びメイルで送信させていただきます。

    Ciao Tekeoさん
    少し前に私へのお返事で「自分を愛すること」は一体どういう事なのだろうと、おっしゃっていましたが、
    「自分を愛すること」それは今の自分のありのままを、好きなところも嫌いなところも、、
    もしかしてTakeo さんの場合は、嫌いなところも嫌いなところも、、になるかもしれませんが、苦笑 それらをそのまま、何も言わずまず受け入れること。ではないかと思います。
    Takeoさんの美の基準とかを読んでいるとTakeoさんの厳しいまでに研ぎ澄まされた審美眼が窺われます。でも、その審美眼に完璧に答えられる人など果たしてこの世にいるのだろうか?と考えます。
    私も好き嫌いの激しい方で、小さなことで人を好きになる代わりに、小さな綻びやら微かな臭いでガッカリしたりしますが、最近はなるたけそういうのを気にしないようにしています。
    私も彼らの目には、綻びていたり、臭ったりすることもあるのでしょうし、だから人間なんじゃあないかとも思うのです。だから、自分の綻びも、「ま いっかと、人間だもの」と大目に見てあげるようにしています。
    顕微鏡で自分の周りの環境を見てみると、ばい菌、細菌だらけでいてもたってもいられない、食事などとてもじゃないけれど、できないくらいばい菌だらけなのだそうです。
    私は、顕微鏡とまではいかなくても、虫眼鏡くらいの倍率で人々や世の中を見ていたようです。
    (過去形です、先日も申し上げましたが、病気を境にこんな頑固者の私でも少し変わったのです)
    自分でも他人でも、まず今のありのままを受け入れることが「愛する」ということではないかと思うのです。
    しかしながら、今の東京はどう転んでも愛することはできませんが、、苦笑
    でもね、私にこれだけ嫌われている東京もかわいそうだなと思う時があるのです。
    ですから、なんとか良いところもそのうち見つけてあげたいとも思っています。

    社会という事に関しては、ふたつさんの意見に全く同意します、
    私が思っていた事をここまでみごとに文字にしてくださり、読んでいて胸がすく思いがしました。
    前日もふたつさんとTakeo さんと私で、社会の事について話し合ったと記憶していますが、
    今の社会は人間があまりに社会に迎合するので、人のために存在すべき社会がいい気になって増長していると書きましたが、もはや今の社会は全く非人間的であり、人々の個の自由を阻害し、人々をただ奴隷のように使役し利用して、社会だけが「人を喰って」変な化け物のようにどんどん大きくなっている気がしています。

    ですから、ふたつさんの仰っている通り、社会から離れることの方が、人は自然に健やかに暮らせる。と私も思っています。
    なぜ多くの人が、それに気づかず、社会のご機嫌を必死で取り、社会にしがみついているのか私にはわかりません。
    ですから、私にとって社会に小利口に準じて暮らしている人よりも、社会に馴染めず、社会から隔絶している人たちの方がしっくり来るのです。
    「喰いもの」にされているとわかっていて、なおかつ押し出さないでくれとばかり、しがみつく、しがみつける、その精神の方が遥かに病んでいるのではないかと考えます。

    私は、なんとかTakeo さんが今の状況を打破してくれないか?と望んでいます。
    少しの間でも、お母様と弟さんと3人で住む事はできないだろうか?と考えるのです、
    でもそれはあくまでも私の一方的な望みであって、それは、ただTakeo さんの苦しみを増長させるだけだろうと薄々わかっているので、言葉にも出せないでいたわけです
    分かったような事は言いたくありませんが、今の社会は、両目をしっかり見開き、自分の感覚のアンテナを強力に張ってしまうと、生きていけない社会です。
    だから、片目をちょっと瞑って見てないふり、見ないふりをする事は生きていく上で、必須なワザなのではないかと思うのです。
    そんな事をしてまで生きていたくないとtakeoさんはおっしゃるかもしれませんが、、
    Takeo さんは、顕微鏡のメガネをかけて暮らしていらっしゃるかのようで、でも、それを虫眼鏡程度に替えることはできないかなあと考えます?
    なぜなら,私はTakeoさんに居て欲しいからです。
    おぞましい東京オリンピックが終わった時に、日本に行くようなことがあったら、、
    できたらTakeo さんとふたつさんとそして底彦さんとみんなでどこかで会えたら素敵だなと思います。

    出会いとは、望むと望まざるに関わらず、私たちの人生に起きると思いますが、
    望んでいる人に比べて、望まない人にはその出会いに気づきづらいのではないかと私は考えます。
    そして私は私とTakeo さんの出会いやTakeoさんのブログを通じてふたつさんや底彦さんとお知り合いになる事ができたと言うことも私の人生でとても大事な「めぐり逢い」であると思っています。

    クリスマスを控え、街はますます騒がしくなってき、私は街から遠ざかります。
    Takeoさんのこの難しい時期に、Takeoさんが少しでも穏やかに過ごされる事を祈っています。

    Junko

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