2019年12月16日


何も書けない。底彦さんのブログを読んでいたら、このようなことが書かれていた。

「頭の中が様々な情報で溢れて混乱しているということだ.それらをどのように考え, 処理したらいいのかがわからない.」

底彦さんの言われる、「頭の中が様々な情報で溢れて混乱・・・」という意味はよくわからないが、わたし自身同じような感覚を持っている。

自分は無価値である。

生きていてもしょうがない。

孤独。

さびしい。

誰とも通じ合うことができない。

いない方がまし。

(生きることが)こんなに苦しいのなら、酒やクスリに手を出すのは寧ろ自然なことではないか。

これまでは、底彦さんの呻吟がある種の救いでもあった。けれども、よく考えれば、底彦さんは呻きながらもやるべきこと・・・少なくとも出来る範囲のことはきちんとやっている。

そんな底彦さんに劣等感を覚え、自分自身に自己嫌悪を感じる。

底彦さんの投稿に残したコメントは今も短剣のようにわたしの胸を突く。

曰く

「「話が通じる」ってどういう状態(どういうこと)だろうと頭をひねります。そしてわたしは嘗て人と話が通じたことがあっただろうかと訝ります。
わたしは瀬里香さんと、ふたつさんと、底彦さんと、Junkoさんと話が通じたことがあったでしょうか?」

逆に言えば、「話が通じない」というのはどういう状態なのか?そして何故わたしは誰とも話が通じないのか・・・

気狂いだから? 化け物だから?










8 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    自分を無価値と感じられているようですね.
    生きる意味が見出だせないときの苦しさはわかります. 堪え難い苦しみだと思います.

    今, あまり体調が良くないのでまとまった文章が書けません.

    Takeo さんはそれでも絵のブログは更新していますよね.

    ほぼ毎日, 眺めては楽しんでいます.

    どれも心を惹き付ける絵ですが, 特に Clock Without Hands に投稿された "A Celebration of Gerard Dillon" や, Clock Without Hands Too (Eye of Painter) の "The Apocalypse" は眺めていて飽きないです. "Don Quixote" もいい絵ですね.

    それだけ内省的になっているということでしょうか.

    私のほうはいろいろ考えるのが難しくなってしまって部屋に籠もっています.

    Takeo さんが苦しい中でも文章を書いていることは, 少なからず私の心を支えてくれています.

    遠くからの近況の手紙のような...

    Takeo さんに穏やかな時間が訪れますように.

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    1. こんばんは、底彦さん。このブログは他のブログとアカウント(ID?)が異なるので、
      書くことがあるとき以外はログインしていなくて、ここ数日間は、訪れておらず、コメントにも気付きませんでした。お返事が遅れて申し訳ありません。

      底彦さんも、あまり調子が良くないようですね。その感想は本文に書いた通りです。
      ほんとうに頭が下がる思いです。

      絵は、ここのところ毎日更新しています。
      Clock Without Hands は事実上は過去のブログということになっていますが、たまに気が向いたら更新します。今でも世界中からの訪問者がいらしてくれるので。

      あの絵は、なんでしょうね?ポスターのようなものなのか、誰かのCDのジャケットなのか?わたしは、あのように、文字の書かれた絵(稚拙な表現ですが)が好きなのです。それに、日本では見かけませんが、街灯にロープをぶら下げて、くるくる回って遊ぶ子どもの写真はヨーロッパやアメリカの古い写真で時々見ます。
      特に街灯が灯っているところがいいですね。

      今はとてもまとまった文章が書けませんが、せめて、わたしの投稿する絵を楽しんでいただければ、これに勝る喜びはありません。絵は出逢いですからね。
      わたしの気に入った絵が底彦さんの琴線に触れるとは限りません。
      けれども、ドン・キホーテを含め、挙げて頂いた3枚の絵はどれも好きな絵です。
      ただ、エロ・グロをコンセプトにしているブログに、子供が遊んでいる絵は投稿できませんので、使い分けが(苦笑)

      底彦さんもどうか少しでも平穏な心で年の瀬を過ごされますように。

      苦しい中、メッセージをどうもありがとうございました。

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  2. こんにちは。

    話が通じているかどうかということに限らず、どんなことでも疑うことはできますが、逆に信じることもできます。
    そして、その両方をもの持ち続けることもできます。

    「疑い」と「確信」を常に持ち合わせていることは、別に悪い状態ではないと思いますよ。

    と言うより、実際には、すべての人がそういう状態にあるんじゃないでしょうか?

    むしろ、どちらか一方が極端に大きく成ってしまう方が不自然なような気もします。
    「確信」だけが肥大化してしまえば、独善的に成るでしょうし、「疑い」だけだと、まず初めに「行動」できなく成り、最終的には「思考」も停止せざるを得なく成ります。

    しかし、実際は、人間は「思考」も「行動」も停止できませんから、「死」を選ぶしかなく成るわけです。

    ところが、「死」によって、すべてを解決しようとすることは、一種の「変節」ではないでしょうか?

    「変わること」は必ずしも「変節」ではないと思いますが、「自己の都合に合わせて、解釈を変えること」は「変節」だと思います。

    この場合、「自分自身の判断や行いの結果とは全く無関係に決定されてしまっていること」(即ち、時間や空間など「この世界を規定しているもの」です)にまで、責任を負おうとすることで、すべてを疑うことに成ります。

    確かに、『そんなのオレが決めたことじゃないんだから知らないよ!』と言うのは、ある意味では無責任なことですが、事実しか述べていません。

    「生誕の災厄」は、すべて、この自分の判断や行動とは無関係に「初めから決められてしまっている状況」の中に、有無を言わさず投入されてしまうことから生じてくるものだと思います。

    人間は、生まれてくる世界・時代・場所・種などの選択権を与えられていません。
    そういう状況の中に、何の備えもない状態で放り込まれるというのが「生まれる」ということです。

    だから、その「生」から逃れたいという欲求があるのは、ごく自然の成り行きかも知れません。

    「ワン・カインド・オブ・動物」と言う意味での人間は、「生きること」を完全にプログラミングされていますが、地球上の生物の進化のにおいて、はじめて現れた「論理的に思考する動物」である人間に取って、「死」は論理思考の末に当然行き着くべきレンジにあると言うべきでしょう。

    でも、だからと言って、その論理に合わせるために「結果」を導き出したり、「行動」を決定すれば、それは「変節」に当たると思います。

    あくまで、「疑い」と「確信」のどちらにも偏らずに、『わからないことは、わからない』と言い続けることが、唯一の「変節」を避ける道だと考えています。

    そして、何よりも、「自分とは無関係に決定されてしまっていたこと」については、無責任でもいいような気がしますね。

    ※例えば、人間がほかの動物や植物からエネルギーを搾取しないと生きられないということなども、勝手にそう決まっていることですから、その成り行きに従うことにおいては、誰にも罪は無いと思います。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      >「死」によって、すべてを解決しようとすることは、一種の「変節」ではないでしょうか?

      生きていることが辛くて、或いはまたそれぞれの事情から自ら死を選ぶこと、を変節と呼ぶのなら、わたしは二階堂奥歯や芥川龍之介、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、そしてプリーモ・レーヴィのような「変節漢」の一員に加わることを恥ずかしくは思いません。

      わたしにとって、上記のような人ばかりではなく、あらゆる「自殺者」というものは、一段高いところにいる存在なのです。世に悪態をつき続けながら、それでめしを喰い、天寿を全うした、エミール・シオランや、ショーペンハウエル、辺見庸よりも、失恋して自殺した若者は高貴な存在です。

      ふたつさんも、どうか平和な年末を過ごされますよう。

      メッセージをありがとうございました。



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  3. こんばんは。

    ぼくが言ったのは、あくまで「死を選ぶこと」ではなく、「それを正当化すること」です。
    つまり、「死」を正当化するのではなく、「辛いから死にたくはないけれど生きていかれない」と言うのは、「変節」には当たらないことだと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それはさておき、前にお約束していた「本当のわたしは」の英語訳です。

    英語圏の人が読んだときに、どうん風に感じるのかが、まったく見当つかないんですが、もし、ご意見があればお聞かせください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    [Poetic Title] : It ’s my proposal about the title of picture.
    ※ I can’t use sensitive English, so please read with your imagination.


    『 inside of me 』

    real inside of me
    the very core of real inside of me
    is like this

    i found out this took many years

    it is not a shape i want

    it is getting into confusion
    like this
    it is strange and spooky
    like this
    it is sorrowful figure
    like this

    but i’m keeping to watch this since i found it

    because
    i had been seeing everything and everytime
    through this

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    「詩のような題」:以下のような形の「長い題」を提案しています。


    『ほんとうの わたしは』

    わたしの なかの わたしは
    わたしの なかに あって
    そのなかでも いちばん わたしで ある わたしは

    こんな すがたを しています

    なんねんも かけて 
    ようやく みつけだしました

    それは のぞんでいる すがたでは なかったけれど

    それは 
    こんなふうに からまりあって
    こんなふうに うすきみわるくて 
    こんなふうに さみしそうな すがたで あったのだけれど

    それが
    わたしの こころの ちゅうしんで
    ひとり ぽつんと たっているのを みつけだした そのときから

    わたしは いっしゅんたりとも めを はなさずに
    それを みつめつづけて いるのです

    きっと もう 
    にどと そこから めを はなすことは ないでしょう

    だって わたしは
    すべてのものを 
    それを とおして みてきたのですから

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    タンブラーに投稿したままです。
    他の絵のタイトルも、英訳しましたが、どれもいいのか悪いのかさえも分かりません。

    それでは、また。

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    1. こんばんは。

      わたしは最初にオリジナルの日本語の詩を読んでいるので、そういう先入観なしで英語で読んだらどう感じるかは難しいですね。

      かといって、英語を母国語にしている人に、「これ、元の日本語にくらべてどう?」と訊くわけにもいきません。

      わたしは英語以外のタイトルをタンブラーやブログのためにグーグルで英訳しますが、タイトルを知って、その絵が更によくなるということも時々あります。

      でもふたつさんの絵を好きでフォローしてくれる人たちであるならば、この英訳で充分な気もします。それに、わたしはこの詩に特に強い印象を受けましたが、ふたつさんの絵を好きな人たちが、全て、詩と画を一体のものとして観ているとは限りません。絵だけ好きと言われるのは、或いは不本意かもしれませんが、完璧な翻訳はあり得ないし、仮に限りなく原文に近い訳でも、誰もがわたしたちのような反応を示すとは限りません。

      第一わたしの英語なんて中学生程度のもので、ほとんど「勘」で読み取っているところがあるので、英語としての正確さについては、いづれ底彦さんの意見も聞いてみたいですね。

      またそれ以上にわたしはふたつさんの絵に対するタンブラーでの反応に興味がります。フォロワーはやはり量より質です。

      詩の英訳については「正解」がないだけに難しい。だから、あとはフォロワーの反応を見極めるしかないのでしょう。

      応援しています。

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  4. こんばんは。

    ご意見いただきありがとうございます。
    でも、フォロワーの方たちに関する限り、Takeoさんのおススメとは違って、ぼくの場合はどうしても「質より量」の方に向かってしまうようです。

    ぼくは、ブログを始めたときに、ツイッターとフェイスブックもほぼ同時に始めて見たんですが、ツイッターでも完全に自分からフォローしまくって、その数十分の一のフォローが返ってくるという感じでした。
    まぁ、ツイッターは自分の性質にあまりにも合わなかったので、一週間ほどで退会手続きをしましたし、フェイスブックは退会の仕方が解らなかったので、何もしないまま放置していますから、どうでもよく成ってしまいましたが。

    要するに、なにをすればいいのかが、まったくわからないみたいです。
    『~みたい』と言うのは、それすらもわからないということですね。
    それで、なにをするのも「ヤミクモ」で「デタラメ」で「テキトー」に成ってしまうみたいです。

    タンブラーは、それに比べるとずいぶんマシですが、やはり、なにをすればいいのかが全くわかりません。
    だから、とにかくデタラメにフォローしまくってしまいます。
    だいたいその十分の一以下のフォローが返ってきますね。

    今、フォローしているのは2000人近い数で、フォローされたのが160人ほどです。
    「スキ」も7~8000くらい付けました。
    「リブログ」も初めに一日で数百件リブログしたんですが、自分の投稿がどこにあるのかわからなくなってしまって、全部削除しなおしました。
    だから、今は「リブログ」はしないようにしています。

    本当に何をしたらいいのか、ぜんぜんわかりませんね。
    困ったもんです。

    でも、SNSの中ではタンブラーが一番気に入っています。
    少なくとも、自分の絵を見てくれる人が居るような気がしています。
    それから、一人だけですが、ほとんどの投稿をリブログしてくれる人が居て、どこの国の人なのかわからないんですが、少しうれしいです。

    その人は、たくさんリブログしていますから、ぼくの絵だけを特別気に入っているとは限らないと思いますけど、毎回リブログしてくれるので、やっぱりうれしいですね。

    それに、やはりリブログされた件数が多い時には、多くの人の目に触れることに成るわけですから、ぼくにとってはうれしいことだと思います。

    ぼくの場合、タンブラーを始めた一番の理由は、「人に見てもらうこと」ですから、毎回数十件の反応があるのは、うれしいことですし、海外の人に見てもらえるのもいいですね。
    (今までに、一番多かったのは48件)

    ぼくは、フォロワーの人たちがどこの国の人なのかは良くわからないんですが、日本人は多くは無いと思います。
    (たぶん160人のうち10人以下?)

    一番反応が多かった絵は、自分ではあまり気に入っていなかった絵ですが、外国の人の感覚のせいなのか、それとも、単にたまたまなのかは、今のところわかりません。

    ただ、今までの反応を見ている限りでは、海外の方たちは、ビビッドな色や、アヴァンギャルドなフォルムを好むような気がします。

    もともと、ぼくの絵は中途半端な性質の絵(具象・抽象・前衛・古典などのどれにも極化していないという意味で)なので、どういう切り口で見た場合でも「もっとハッキリした特徴が出ている絵」はたくさんあります。

    たとえば、オーソドックスなスタイルの絵であれば、当然、もっと技巧的な絵がたくさんありますし、シュル・レアリズム的な絵でも、もっと独特なものはいくらでもあります。

    また、抽象ということで言っても、爆発的なパワーのある抽象画はたくさんありますし、抽象画でも奥行や世界感を醸し出している絵はけっこうあると思います。
    (底彦さんの絵はこのタイプかな?)

    ぼくの絵は、そういう意味でとても中途半端な位置にあるので、『抽象画が好き』と言う人からすれば、『具象でしょ?こういうのは』ということに成りますし、『具象画が好き』と言う人からすれば、『いったいナニ?これは』ということに成ります。

    これは、おそらく海外の人でも同じで、日本人よりも『抽象画は絶対にダメ』と言う人が少ないだけだと思います。
    やはり、人間と言うのは「分類できないもの」を避ける傾向があるみたいですね。

    とくに、どんどん流れていく「タイム・ライン」の中で絵を見ていると、どうしてもパッと目に留まるものに反応してしまうということだと思います。

    でも、本来は分類できる人は居ないはずなんですけどねぇ。
    みんな一人一人違うんですからね。
    分類するとしたら人数分のジャンルが必要に成ってしまいます。

    とりあえず、今のところ、こんな感じです。


    それでは、また。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    追伸:

    底彦さんて、英語話せるんですか?
    ぼくは外国語が話せる人に感心してしまうところがあります。
    (あとは前に言った楽器が出来る人ですね。ぼくはそういう「変換」が苦手みたいです)

    それから、底彦さんのブログにタンブラーのフォロー・ボタンが付いていたんですが、底彦さんもタンブラーやってるんでしょうか?

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    1. こんばんは。

      ハハハ。読んでいて笑ってしまいました。いや単純におもしろかったから^^

      2千人もフォローしてるんですか?わたしは、最近一旦十数名にしたフォローを少し増やして・・・それでも、アクティブなユーザーは10人前後です。
      それから、わたしは基本的にリブログメインの人はフォローしません。もっとも、そのリブログがかなりわたしの趣味に近いという場合もあるでしょうが、それでも半分は自分のポストをする人をフォローしています。もっともほとんどリブログだけ、なんて人がいるのかどうかわかりませんけれど。

      前にも書きましたがわたしは、お知らせを一切オフにしています。例えばわたしが今日投稿したどの絵に、誰が、どれだけスキを付けてくれたのか、だれがどの絵をリブログしてくれたのか?フォロワーが何人増えたのか?そういうことはまったくわたしのダッシュボード(SNSでいうタイムライン)には表示されません。

      それとわたしはフォローしてもらったから「お返しに」ということをしません。
      一時期は、「こちらがフォローしたのはわたしの勝手であって、フォローバックは御無用に願います」とさえ公言していました。

      まあふたつさんは、より多くの人に自分の作品を観てもらうことが目的ですから、
      わたしのやり方と正反対でいいのではないですか。

      たまに、フォロワーの動向を覗きますが、やはり「わかりやすい絵」に人気がある傾向があります。だから、自分が気に入っていて、ほんの10人くらいがスキやリブログをしてくれると、そういう人たちが特別に思えます。

      自分の好きとみんなの好きがあまりに一致していないと感じると、どこまでも自分の好きだけを押し通そうと、あのブログをやっているのです。

      まあまだ始めたばかりだし、試行錯誤でいいんじゃないですか。

      それから底彦さんのブログですが、日本のブログには元から、フェイスブックやツイッターなどの外部のコミュニティーと連携する設定になっているのではないでしょうか?
      ブロガーにもそれはありますが、わたしはすべて隠しています。

      また続報をお待ちしています^^

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