2019年12月2日

何のために書くのか?


はじめまして。

都内郊外在住の50代男性です。精神障害者兼(所謂)引きこもりです。

辺見庸さんのこと、辺見さんの著書について、日々悶々と悩んで、誰に伝えたらいいのか。勿論あんな大物に一介の読者の思いのたけを伝えることなどできません。けれども、どうしても、吹っ切れません。
どうしたらいいのか。もしこの狂人の問いかけにアドバイスなどありましたらお聞かせ願えれば幸いです。

「悩み」の内容は「大雑把に」書くと以下のようになります。



「一般に、長生きの革命家や芸術家ほど我々をいたく失望させるものはない」と述懐したのは他ならぬ、辺見庸氏でした。

わたしは一部を除き、ほとんどの辺見氏の著作を愛読してきました。特に、脳の病で倒れてからの著作は、お守りのように、いつでもカバンの中に入れていました。殊に愛読していたのは、『自分自身への審問』『水の透視画法』『今ここに在ることの恥』『たんば色の覚書』・・・エト・セトラ。

けれども、昨年の『月』出版に際してのドタバタ劇にまさに「ブルータスお前もか!」という幻滅を見せつけられました。

あのような内容の本を出版しながら、講演会場で著者によるサイン本即売会とは・・・

わたしは精神障害者で、所謂引きこもりでもあるので、なかなか外出はままなりませんが、中央線一本で行けるということで、昨年12月の紀伊国屋での講演会のチケットを、早々に母と二枚分手に入れました。けれども、その後の、なりふり構わぬ販促活動の様子を見て、結局無理をしてまで行く価値を見出すことが出来なくなりました。



辺見さんはご自身のブログで、朝日新聞からNHKまで所謂大手マスコミを撫で切りにしてきました。けれども、いざ新刊の出版となると、A新聞のマークは「旭日旗みたいだ」と揶揄していた新聞社のインタヴューに微笑を湛えて応じる。NHKもご自分の作品に関連する作品のスタッフ及び作品の出来は褒めあげる。

わたしは精神に障害がありますので、発言と行いにとの間に乖離があるということが理解できません。
(一般にそれを「大人の世界」というのでしょう)


これからは書きたいことだけを書かせてもらう。作品評価も本の売れ行きもどうでもいい。
百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。
— 辺見庸 『記憶と沈黙』(2007年)より

そんなことを書きながら、一方で、「(『月』に)200冊サインさせられた」とボヤいでいる。
人はここまで変わるのかという想いで彼のブログを読んでいました。

日頃散々こきおろしておいて、いざとなると本の売り上げに一役買ってもらうのなら、彼らの(大手出版社を含むマスコミ)の援けが必要なら、日頃から悪口など謂わない方がいいのです。

「万物の物象化」──「著者のサイン本」は付加価値があるからこそ「売れる」。そんなことは百も承知だ。だから「イヤイヤながらも」「サインさせられた」。ここに言行の不一致があります。

心底辺見氏の考え方、そして文章に心酔していただけに、彼との訣別は悲しい出来事でした。

更にわたしをガッカリさせたのは、辺見氏が、『月』販売以前から執筆期間の様子、講演会の告知、その報告など、昨年初夏から、ブログに書かれた『月』出版関連の記事をそっくり削除したことです。

何故?

何故糊塗するのか?

ちなみに『月』は精力的な販促活動の甲斐あって、わが市でも、全12館ある図書館で11冊が購入されました。けれども、今現在、在庫11冊。借り手ナシ。
これまでも、11冊中2冊以上が貸し出されていたことを見ません。

『純粋な幸福』は1冊購入され、たまに貸し出されていることもあるようです。
無論わたしはどちらも読んではいません。

『純粋な幸福』図書館に予約を入れて、先日順番がきました。けれども、どうしても、どうしても、手に取ることが出来ません。今日、キャンセルの電話を入れました。



昨年12月24日のわたしのブログの投稿を読み返してみました。

「もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、辺見さんの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・」

辺見さんの本は、『自分自身への審問』も『水の透視画法』も『今ここに在ることの恥』も『たんば色の覚書』も『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』も、全て処分しました。

けれども、なかなか想いが断ち切れずに困惑しています。




追伸

『本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
ー(中略)ー
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。』
— 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』 あとがき 2004年

この三部作ももちろん熟読しました。

けれども、「世界規模」ではなく、辺見さんは、自分の著書を出してくれる出版社に「不服従」することが出来なかった。或いは「しなかった」

結局、食べるために金を稼がなければならない「人間」が、「表現者」となるのは言語道断との命題は、かのリラダン伯以来、今なお問い続けられるべき問題です。ボクサーの殴られ役によって得る僅かな稼ぎで生き延びたリラダンが、かくまで高貴なコント・クリュエルを著したのは悲壮を通り越して、言葉の真の意味での「気高さ」です。

辺見さんはわたしの行かなかった講演会で「行旅死亡人」について語る予定だったと。演台から聴衆に向かって「野垂れ死に」について「説く」よりも、
「野ざらしを こころに 風の沁む身かな」(芭蕉)
という心根をわたしは持って欲しかった。




精神病理学者木村敏は、臨床医だった頃、自分の患者である「分裂病者」に対し、
「結局わたしも単なるひとりの「正常者」に過ぎなかった」と「詫びて」いる。

辺見庸も結局はひとりの「正常者」だった。そして「正常ではないわたし」に「言行一致」という無理難題を押し付けられている。

作品を読んでもらいたければインターネットという方法もあったろう。
「不服従」を言うなら先ず隗よりはじめよ。
辺見庸は講演会で「野垂れ死にという生き方」について、いったい何を語ったのだろう・・・









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