2020年9月30日

友の言葉2或いは虚無の中より

 

T君を、やはり「友だち」と呼ぶことに躊躇いがあるのは、今のような状況で、わたしの心境を彼に聴いてもらうことができないということ。「生きる」とか「死ぬ」といった話は彼とはできないところにある。「友人」とは、つまるところ深いところでの精神的な繋がりであると一元的に規定しているわたしにとっては、T君の存在はかけがえのないものではあっても、Soul Mate とは呼べない。

来年の夏にはもうここで母とともに暮らすことはできないので、「身辺整理」をしているというわたしに、「差し当たり必要でないものは実家(ここ)に残しておいて、新しい場所で落ち着いたらそれらを持って来れば・・・」と彼は言った。

Tくんには、「もうこれ以上は生きていけないと思っている」というような話はできない。
高校時代ー16・7の頃は、「生きるの死ぬの」なんて話は晩稲なわたしには縁がなかったが、その後30年以上付き合っているのだから、どういう話はできない(避けた方がいい)ということくらいは承知している。何しろわたしの人生で、母の次に、ともに話した時間が長い人物なのだから。

わたしが確実にわかっているのは、来年の夏(それまで両方とも生きていたら)「ここで」「母と」暮らすことはもうできないということだけ。じゃあ来年の夏は何処でどうするんだ?と訊かれても、わたしも、母も何も答えることはできない。

今現在、いちばんわたしの身近にある答えは、この世界から出てゆくこと。
そしてそこが「新しい居場所」なら、レコード・プレーヤーや画集を持ってゆくことも取りに来ることもできない。


「この世」は結局「生きるための場」であるのだなあと、つくづく思う。
家族会の当事者ミーティングに参加しようかと思っている。けれども、わたしが訊きたいのは、究極のところ、「元気になって、働いてまで、生きたいですか?」ということに集約される。「なんのために?」「なにがたのしくて?」・・・
精神障害者たちの集まりで「何故生きる?」等と発言すれば、こいつはキチガイかと、出入り差し止めを喰らうのがオチだ。これまでもそうだったように。そこが家族会であろうと、デイケアであろうと、「生きるための世界」に於いて、「何故生きる?」という発言は、言うまでもなく禁忌なのだ。
わたしが自分を「精神障害者」ではなく「狂人」であると自認し自称しているのも、そのような理由からだ。


おそらく誰もが自明だと思っている「何故生きる?」ということの意味が、最後までわたしにはわからなかった。
わたしは「断酒会」で「何故酒を飲んじゃいけないのか?」と発言しかねない人間だ。

T君は数学については「どうして?」「なんで?」を繰り返すわたしに、根気よく大本のところまで遡って教えてくれた。けれども「何故生きるのか?」なんてことは、そんなTくんにとってさえ「自明の事」なのだろう。


プレーヤーにしても、嵩高い本にしても、わたしがいづれかへ去った後、できるだけ母のしなければならないことを減らしておきたい。

別に何が何でも死んでしまわなければならないわけではない。更に言えば、「死にたい」わけでもない。けれども「どうしても生きられない」ということは、必然的にその反対を意味するのではないか?


今思えばまるで信じられないが、20世紀末までは、わたしは健康な人が呼吸をするように、当たり前のように毎日外に出、電車に乗って都内を歩き回っていた。いつもひとりで。
何度もいうように街が友だちだった。

何故このようになってしまったのか?それを突き止めても仕方がないし、また仮に元のように外に出られるようになったとしても、外の世界は「元のよう」ではない。

「生きづらさ」という言葉は、今や流行語の観を呈しているが「生きられない」ということを理解するものはいない。

「生きたくない」と「死にたい」が全く同じ意味ではないという「機微」を理解する者も、いない・・・











友の言葉

 
持ち物を処分するため、高校時代からの友人Tくんに、彼が以前「いいものだから大事にした方がいいよ」と言っていたテクニクスのレコード・プレーヤーをもらってもらえないかと尋ねたところ、残念だけど、自分の部屋にも置き場所がないから・・・という返事だった。

高校時代、放送部で共に「番組」を作り、そして軽音楽部で一緒にバンドをやり、また、30代前半の頃だろうか、夏になると一緒に京都へ、岐阜の郡上八幡へ、琵琶湖へ、丹後へと旅行をしていても、彼を単純に「ともだち」と呼ぶことにいささかの躊躇いがあるのは、彼はわたしのように、心の問題とか人生について話をすることを避けていたからだ。しかし今にして思えば、そのような話を避けていたからこそ、これまで付き合いが続いてきたと言えるのかもしれない。

彼について印象深いのは、わたしは既に高校時代から、「なんで?」「どうして?」「何故?」の人だった。数学が苦手で、試験前だったかあるいは追試の際だったか、放送室の黒板を使って彼に教えてもらった。彼が「・・・で、こう展開するの」というと、すかさずわたしが「どうして?」と訊くのだ。彼は決して、「どうしてもなにも、そういうものなの」とは言わなかった、何故?どうして?を繰り返すわたしが納得するところまで遡って丁寧に教えてくれた。
昔からわたしは「そういうもの」と言うことがわからない人間だった。「そういうもの そういうもの」ばかりで、「それはどうして?」のない人生なんて考えられなかった。


今回わたしは単に「身辺整理」であるとしか言わなかった。「レコード、ビデオ、画集など、どうしようと思ってる。売って金にするつもりはないんだ」と。

彼は返信の最後に、

「なんにしても(わかっているでしょうが)とにかく手放すと
2度と手に入らないと思ったほうがいいと思います。

くれぐれも慎重に」

という意味深な言葉を添えていた。

これを「意味深な言葉」と感じるのはわたしの深読みだろうか?

わたしはもうこれ以上は長くは生きられないと感じている。また生きる意欲もない。

手放すと二度と手に入らない・・・くれぐれも慎重に・・・

ふと思い出す言葉

Alice: ” How long is forever? ” 

White Rabbit: ”Sometimes, just one second.”

アリス「永遠てどのくらいの長さ?」

白ウサギ「時にはほんの一瞬さ」

『不思議の国のアリス』 ルイス・キャロル


時に高いビルの屋上から飛び降りる瞬間を考える。その数秒が「永遠の後悔」となるのだろうか?
漱石の『夢十夜』の中の、船から飛び降りた男の挿話のように。

その時、友の言葉が頭の中に蘇るのだろうか?

「手放すと二度と手に入らない・・・くれぐれも慎重に・・・」









2020年9月29日

無題

 
グループ・ホームへ入るという道が閉ざされた。もとよりグループ・ホームで安住できるとは思ってはいない。わたしにとってそこは、結局自分にはどこにも安息の地はないのだということを再確認するための、いわば助走のための場になるはずであった。

どのような生き方も考えることができない。例えば今わたしが60歳で、安くて質のいいケアハウス=老人ホームに入り、それこそ上げ膳据え膳の生活ができたとしても、それのなにが楽しいのだろう。わたしは外に出られない。何の楽しみもない。母の負担がひとり分減ったとはいえ、わたしの生が依然として苦痛であることに変わりはない。たとえ門が大きく開かれていて、外出・外泊自由自在、門限もナシだとしても、わたしにはどこにも行くところがない。行きたいところがない。

今、わたしの立っている地平は水平ではない。明らかに死の方へ傾斜している。
その勾配は次第に垂直に近づいてゆくだろう。9時から10時ー11時そしてDecemberへと・・・

グループ・ホームに入れないといっても、ここで来年の夏まで母と暮らすことができないという現実は、いささかも変わらない。

少しづつ身辺整理を始めようと思う。これまでは「そのうちまた使うかも」と思っていたモノも、「そのうち」が無くなれば始末するしかない。
カーペットは掃除ができないので処分する。問題は画集類と、レコード、ビデオ、そしてレコード・プレーヤーだ。

写真集や画集、図録などは愛着のあるものもあるけれど、実際にはほとんど観ていない。
古本屋に売るという選択肢は端からない。寄付する先がさしあたって思い浮かばない以上、思い切って棄てるしかないのだろう。

わたし同様、もう彼らの役目も終わったのだ。わたしはそのようなものをあげることのできる友人を遂に持つことができなかった。

レコード・プレーヤーは、随分使っていないので、壊れているかもしれない。
高校時代からの友人で、こちらに来てからも何度もコンピューターの修理に来てもらったT君があのプレーヤーはいいものだから・・・と言っていたが、多少壊れていてももらってくれるだろうか?それが無理ならこれも処分するしかない。
からだがまだ動くうちにいろいろと処分したい。
ビデオも今時ほしいという人はいないだろうし、ビデオデッキが壊れてしまったので、これも処分するしかないのだろう。本であろうと、レコードであろうと、金にするつもりは毛頭ない。

57歳でもう先がないなんてちょっとヘンだろうか?

下手な文章。

ジュリエット・グレコにRIPというつもりはない。

Rest in peace 安らかに眠ってください。

Rest Paeceが欲しいのはこっちの方だ。





2020年9月28日

グループ・ホームへの転居について、その他の断想

 
グループ・ホームへの入居、それ以前の体験入居(ショート・ステイ)についての手続きは全て母にやってもらっている。次はこの市内にあるいづれかのグループ・ホームのスタッフとの面談ということになる。わたしの現状・状態を把握するためだ。その面談を元に所謂「等級」というのか、わたしの「レベル」が確定し、更に今度は市の障害者福祉課の保健師との話し合いを行う。その後何やらの「審査」に約2か月ほどを要し、やっとショート・ステイということになる。

一昨年であったか、似たようなことがあった。地元の精神科単科病院のデイケアに通うために、プログラムへの「体験参加」を2回、デイケア・スタッフとの面談、最後にその病院の医師との面談があり、やはり2か月ほどの「審査」の後に、デイケア利用者となった。
わたしはデイケアに是非参加したかったが、「わたしのような人間」が「審査」に受かるはずがないと半ばあきらめていた。ところがどういうわけか審査に通り、昨年初頭から通い始め、今年の3月3日まで約1年以上、月3回ほどのペースで主に午後のプログラムに参加してきた。そして9月3日、デイケアから去った。

今回の「審査」は受かるも受からないもない。わたしの現状を知り、どういうタイプのグループ・ホームが適当かを検討するものだから。


わたしはかれこれ10年ほど前から障害者手帳3級である。しかし今の状態を考えると、どうしても3級とは思えない。これが2級であれ1級であれ、わたしにはなんのメリットもないのだが、どうしても現状とはかなりかけ離れてるように思う。

精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について

かなり古いもので、今時はこんな判定基準に基づいてはいないだろうが、検索能力のないわたしにはこのくらいしか見つけることができなかった。
例えば障害等級1級の「能力障害」には以下のような判定基準が記されている。


1 調和のとれた適切な食事摂取ができない。

2 洗面、入浴、更衣、清掃等の身辺の清潔保持ができない。

3 金銭管理能力がなく、計画的で適切な買物ができない。

4 通院・服薬を必要とするが、規則的に行うことができない。

5 家族や知人・近隣等と適切な意思伝達ができない。協調的な対人関係を作れない。

6 身辺の安全を保持したり、危機的状況に適切に対応できない。

7 社会的手続をしたり、一般の公共施設を利用することができない。

8 社会情勢や趣味・娯楽に関心がなく、文化的社会的活動に参加できない。

(上記1~8のうちいくつかに該当するもの)


1 はよくわからないが、入院でもしているなら別だが、実際にこのようなことが出来ている人が、健常者も含めてどれくらいいるのだろうか?

2 清掃はほぼできなくなっている。畳1畳半くらいのカーペットに掃除機をかけることすら億劫で出来ていない。

3 ほとんど買い物をしたことがない。

4 は正にその通り、電車に乗らなければならない主治医のところへは、今では年に1度か2度行く程度。

5 も、まさにその通り。言葉が通じない、他者と意思の疎通が不可能というのがわたしの主訴なのだから。加えて、「義務」「規則」「ルール」といったものに抵抗がある。

6 もそうだと思う。

7 歩いていける範囲の図書館にも母に行ってもらっている。何故なら図書館の職員と反りが合わないから。何度か嫌な思いをしている。またここで屡々書いているように、市や保健所の保健師とも話が通じない。

8 もその通り。このブログをある程度継続して読んでくれている人なら誰でも頷くと思う。


これが「2級」においては、援助を受ければ上記のことができる状態となるようだ。
その唯一の「援助者」が、これまでは母であった。
繰り返すが、わたしと意思の疎通が図れるのは母以外にいないということ。そして母は、これ以上ふたりの50代の障害者の面倒を見ることができないということ・・・

上の「規準」に従えば、わたしは4、5、8に完全に当てはまる。 4に関しては介添えがあればなんとか・・・それにしても電車で二駅くらいが限界だろう。7にも「ほぼ」当てはまる。わたしは今では付き添いがあろうとなかろうと、美術館にも、コンサート会場にも行くことができない。「イベントあるところスマホあり」・・・

しかしこの文書はおかしくはないか?この書面には、1級の「能力障害」の状態に関する上記の設問について、「支援者が存在しない場合」という但し書きがない。つまりこれは「ひとりでは✖✖ができない」という意味に受け取れる。だとすればこれは一番軽い状態に当て嵌められるべき設問群ではないだろうか?


「ひとりで公共交通機関を利用できる」というような設問があれば、わたしの答えは「いいえ」である。何故?うるさいから。皆がスマホに見入っているから。それを敷衍すれば、外界が醜いから・・・だとすれば、電車やバスに乗れるか、という以前に、「ひとりで散歩ができますか?」という問いに対しても当然「否」である。何故か?樹が伐られているから。爆音を響かせて枯葉がゴミのように吹き飛ばされているのを見るのが厭だから。去年まであった家が無くなっているから。

じゃあ「援助者」がいれば電車にもバスにも乗れ、散歩も出来ますか?

そもそも「援助者」とはどのような者を言うのかがわからない?家族か?友人か?恋人か?

施設の人?施設の人に援助してもらってまでいったい何をしたいのか・・・


たとえば、二階堂奥歯にしろわたしにしろ、「この世界で生きることができる」という規準にはそもそも当てはまらないのではないだろうか?
それは障害者等級「何級」にあたるのだろうか?「人間未満?」・・・


ここでの問題は「援助なしではできない」「援助があれば可能」という部分だ。繰り返すが、わたしの主訴は「他者と良好な関係を築くことができないーその関係を維持することができない」である。そしてわたしが知りたいのは「援助者」とは「他者」とどう違うのか?ということだ。

今月3日でデイケアを辞めたと書いた。それはデイケアのスタッフが、他ならぬ「他者」だったからではなかったか。











2020年9月27日

ああ

 
ああ、誰かと話したいな・・・



さまざまな断想・・・

 ツイッターに関して常々批判がましいことを言っているが、そのくせ結構こだわって書いていた時期があった。特に「Kさん」という人の文章に、アンビバレントな感情を抱いていた。
2008年からわたしのブログに頻繁にコメントを寄せてくれていた瀬里香さんと同世代ではないかと思うが(40代前半)、天衣無縫にして、どこから矢が飛んでくるか予想のつかない瀬里香さんに対して、Kさん(ツイッターでは「コユカさん」と名乗っていた)の文章は緻密に計算されつくした文章であった。ご自身も、娘さんも、重篤な病を患っておられて、長くは生きられないであろうことを承知していた。

いったいに、わたしの嫉妬の対象とはどのようなものなのだろう?
ただふたりの投稿を見るためだけに取得しているフェイスブックのアカウント。
ドロローサとオーファン。共に自ら特異な絵を描くが、投稿は主に、わたしがここやタンブラーでやっているようなアートである。それがブログであれ、フェイスブックであれ、ツイッターであれ、わたしは、自分が「うわ敵わないな!」と感じてしまう文章やアートを立て続けに見せられるとうれしくなる。二階堂奥歯もその一人かもしれないが、勝手にライバル視してしまう。少しでも彼女ら、彼らに近づきたいという意欲に、闘志に繋がる。

Kさんは、一日か二日に一遍、短い文章を投稿するだけだったので、瀬里香さんとも、また二階堂奥歯とも比較はできないが、ツイッターの文学系アカウントに蝟集する自称読書家や所謂「文筆家」を名乗っている有象無象たちの中でも、その文章は際立っていた。Kさんのまとまった文章を読んでみたいと思っているうちに、ツイッターとも間遠になり、しばらくして覗いてみた時には「コユカさん」のアカウントは無くなっていた。

わたし自身はどちらかというと、瀬里香さんよりはKさんに近いかもしれない。しかし誰かがわたしの文章を褒めてくれたか?35歳で社会からリタイアするまでの期間、小規模な出版社3社をそれぞれ1年も経たずに放り出されたのではなかったか。
「きみはものを書く仕事には向いていない」と異口同音に言われたのではなかったか?

仮にわたしがマズイ文章しか書けなかったとしても、Kさんとは、ネット上だけでも、いろいろと話してみたかった。

アートに於けるドロローサやオーファン、文章での瀬里香さんやコユカさん、そして二階堂奥歯・・・明らかにわたしには敵わない人たちである。けれども、わたしは嫉妬を感じるどころか、彼女たちに出会えてよかったと思っている。

一方わたしが嫉妬を感じるのは、以前、瀬里香さんなどとともに、ここに内容の充実したコメントを残してくれたSさんである。彼はそのブログで、時々友人と会った時のことを話している。

友人がいるということを聞くだけで、燃えるような嫉妬と羨望を覚える。
文章表現に於いて、また、アートの選択眼に於いて、或いは上記の人たちに少しでも近づくことができるかもしれない。けれども、「友人」や「恋人」を持てる人とはもう最初から勝負にならない。完敗である。

下手な文章しか書けなくても、書くことはできる。

しかしわたしがどう頑張っても、友人も女友達も作ることはできない。

仮にわたしがKさんや二階堂奥歯並みの文章が書けたとしても、所詮は友のいないものは敗北者である。


「生きがい」ということを考えた時に、実際にできるできないは別にして、なにかこれならやってみたいということはないのか?と訊かれたら、なんとか答えることができるのは、「言葉に関する事」ということだろう。つまり「書くこと」「しゃべること」

鹿児島に「ラグーナ出版」という出版社があって、そこでは精神に障害のある人たちの書いた文章を雑誌にして販売したり、書籍化したりしているらしい。そんなところで、書く仕事が出来たら、それは生きがいになり得るのではないかなどと空想する。
ラグーナ出版は完全なる企業ではない。あくまでも障害を持つ人たちが、やりがいをもって仕事ができる場を提供している。今度そこから出版されている「シナプスのわらい」という雑誌(年3回発行)を一部取り寄せてみたいと思っている。

これまでどのような点に於いても、評価されたということがないわたしは、仮にラグーナ出版が投稿を募集していたとしても、送ってみようとは思わない。
「臆病な自尊心 尊大な羞恥心」とは、わたしを知るだれもが認めるところである。

また昔は山田太一氏やピーター・バラカン氏に、本職のディスクジョッキーになればいいのにと言われたこともあったが、これも、「芸人は下手も上手いもなかりけり 行く先々の水に合わねば」という点で挫折した。既に20代の時からわたしは、「孤立と、独特の認識の化け物」であった。

コピーライターの仕事を始めた時に、先輩の言っていることが理解できなかった。
なぜありのままではなく、下駄を履かせたり、無駄な化粧を施したりしなければならないのかが理解できなかった。

「だっておまえ、デートの時に、自分をよく見せたいだろう?」という彼に向かって言下に「いいえ・・・」と答えた。「わたし」は「わたし」であって、それ以上でもそれ以下でもない。「自分をよく見せる」ということの意味が、わたしには理解できなかった。


ひょっとしたら、わたしは、なにかいいものを持っていたのかもしれない。けれども、すべては、「下手も上手いも無かりけり」であり、「行く先々の水に合わねば」であった。
それは例えば二階堂奥歯というひとつの才能の「自死」によっても証しされているのではないだろうか。

そしていまとなってはすべては過ぎたこと。これからわたしのすべきことは身辺整理である。











2020年9月26日

曰く不可解・・・


大体いつも悪口(あっこう)か批判めいたことしか書いていないのに、猫額洞さんから、昨日の引用の事後承諾への謝罪コメントに対して

Takeo さま
ご連絡ありがとうございます。
お気遣い、うれしいです。
でも、引用したいと思われたときは、
あまり気になさらないで使ってくださいね。」

という返事をもらった。

文字通り、母以外の他人とは、ネット上でさえ言葉を交わすことのないわたしにとって、
この猫額洞さんの言葉は胸に沁みた。

わたしには、人間ってよく・・・いや、まったくわからない。

スマホで写真を撮り、ツイッターを見、「ケンサク」をする人間でも、わたしのようなキラワレモノに「やさしい言葉が掛けられる」ということが、わたしの頭では理解できない。

そもそもわたしはスマホを持つ人間を、それが誰であろうと、わたしのような「旧人類」に対する「新人類」だという見方しかできない。

わたしは猫額洞さんの言葉に、素直に「ありがとうございます」と言うことができる。
けれども、所謂認知行動療法での「認知の歪み」という発想は、どうしても受け付けない。

それは「性格とは運命である」という、わたしの奉じる思想と、その背後にある揺るぎない相対主義に完全に背馳するからだ。


仮初の人の情けの身に沁みて まなこ潤むも 老いのはじめや・・・



[関連投稿] 「美意識と妥協・・・








 


無意味な生

 
わたしはグループ・ホームに入って「生活を立て直す」なんてことはまったく考えていない。
第一「生活を立て直す」ってなんだ?
昼夜逆転が再びひっくり返ったところでやることなど無いのだ。
主治医はハッキリといった「あなたは作業所のようなところには向いていない」
大田区にいたころのケース・ワーカーは「あなたに単純作業のような「根気の要る仕事」が勤まるわけがないでしょう」

できることもなければやりたいこともない。
また敢えて言えば生きていたいとも思っていない。
「仕事をするか餓死するか」と問われれば、餓死することを選ぶだろう。
「いつ」「どこで」「どのように」・・・死ぬことは真剣に考えるに価するが、生きること等どうでもいい。

わたしはこれまで文字通り、毎日毎日上げ膳据え膳で暮らしてきた。けれども安息、安楽を感じたことは片時もなかった。あたりまえだ、人の犠牲の上に生きているのだから。
じゃあ何故、こけつまろびつしながらでも自分でつましくとも生きてゆこうとしないのか?
簡単だ、生きるということがどういうことかわからないからだ。










2020年9月25日

終わりに見た街・・・(街はあるのか?消えたのか?)

 「猫額洞の日々」の本日の日記に以下のような文章を見つけた。




 連休中だったし、都内にだって人が出ているとは予想したが、
もう矢も盾もたまらず、地下鉄に乗り、東を目指し、うれしくて
歩き過ぎ、帰ってきてからブログを書く元気がなかった日の顛末

を、少々。


 近場歩きのためにバスに乗るのは、あまり気にならない。バス停の
間隔が短いから、停まる度に換気されてるような気がする。あくまでも
"気分"の問題で、実際はどうなんだか。
 それに比べて地下鉄に50分くらい乗らないと着かない東行きは、
決心がいる。決心というより、やけを起こしたのかな。



 町/街の空気に飢えていた。換気用に窓が一部開いている、かなり
騒音がひどい大江戸線を下り、地上に出た瞬間、「うれしい!」と
思う。町/街が迎えてくれた。まだ町/街があった。
(下線・太字Takeo) 


わたしの苦しみの大部分が、わたしが外に出ることのできない原因が、正に「街が消えた」(=トウキョウとは街(町)のない都市である)という感覚であるのに。この違いは・・・これはやはり狂人ー健常者の相違であるのか?

以下に続く文章はさすがに引用するに堪えない。
文章がまずいというのではない。
これが同じ東京に住む人間の感覚(感受性)なのかという驚きと激しい当惑のためである。

いったい何を以て、何を指して「街」「町」というのか・・・


P.S.

猫額洞さん無断引用ご容赦を。


P.P.S.

「近場歩きのためにバスに乗るのは、あまり気にならない。」

わたしは電車にもバスにも乗れない。乗ったとしても20分が限界だろう。それでさえかなりの苦痛を伴ってだが。
何故なら「うるさい」からだ。中島義道いうところの「日本の文化としての騒音」に堪えられないからだ・・・













精神病者、精神障害者は如何にして生きるのか? 断想・・・


神谷美恵子は人は誰しも「生きがい」が無ければ生きてゆくのは難しいと書いた。或いは「精神障害者は・・・」という限定があっただろうか?
ではその「生きがい」というものを、人は、精神障害者は、果たして何処で、どのようにして見出しているのか?そして何故わたしにはそれが見つけられないのか?

過去に、このような畸形ブログにも、充実した、中身の濃いコメントを残してくれた人が数人いた。例によってわたしの主訴である「他者と良好な関係を築けないーその関係を維持できない」ことに因って、今、その人たちをインターネット上の「友人」と呼んでいいのか、躊躇いがある。それは最早彼らはわたしの友人ではないというニュアンスではなく、わたしなどが「友人」を僭称していいのかという逡巡である。


彼は重い鬱病に長く悩まされている。苦しめられている。
彼はクリニックで、鬱が苦しくても、多少の無理ができる時には動いた方がいいのか、或いは無理は禁物なのかと医師に問うたと書いている。
医師の答えは、
「とりあえず小さな行動をやってみて, それができたら次の小さな行動をやる. これを繰り返す.途中で苦しくて駄目になったら休む.
鬱が酷いときは別として, まったく行動しないで休んでいるだけだと精神的肉体的にどんどん衰えていってしまう.」というものだった。

わたしはこのやり取りを読んで非常に不思議な感覚を覚えた。
彼のブログにも書いたことだが、わたしには「できる」か「できない」かの二択しかない。
できるからやる、できないからやらない、だけである。彼が言っているように、できないけれども多少の無理をして・・・と言ったある意味複雑で中間的な行動はわたしにはできない。

「底彦さんのブログを読んでいて、屡々感じるのは、なんといってもその生命力です。
わたしなら、そもそも上記のような会話が医師と交わされるということは絶対にありません。つまりわたしの辞書には「頑張る」とか「努力する」という言葉が端から欠けているのです。底彦さんは良くも悪くも、何かにがんばったこと、無理をしたことがありますか?わたしにはないと断言できます。

基本の基本に、何故そうまでして生きなければならないのか?という気分が常に常駐しているからです。「頑張った」見返りが「生きること」という意味がわたしには理解できないのです。至極単純にいえば、人生って、頑張って生きるほどの価値があるのか?という気持ちです。

それは「人による」のだと思います。少なくともわたしに関してはその価値は見い出せません。
「障害者の生きる権利」と同様に、これは個人的な想いであって、それを一般化するつもりは毛頭ありません。わたしが逆に医師から、もう少し頑張れますか?と訊かれたら「何のために?」と反問するでしょう?」

わたしは彼の文章に上のようなコメントをした。


がんばって、良くなって、さてその先に何が待っているのか?
わたしはいつもこの地点で立ち止まってしまう。

「生きられるようになった」ことと「生きる」こととは、似て非なるものだ。「生きられる」ということは手段である。「生きること」は目的である。生きられるようになった=良くなったという時点では、未だ手段を手にしたに過ぎない。「生きる」ためには目的・・・神谷美恵子のいう「生きがい」エミール・シオランのいう「動機」が不可欠なのだ。
わたしはどうしてもそれを見つけることができなかった。

何故わたしだけがそれを見出すことができなかったのか?

わたしだけではないというのなら、何故「あなたは」生きていられるのか?


わたしは木村敏のいう「自明性の欠如」=「あたりまえということがわからない」や、「自分が他の人と同じ人間(生き物)であるという実感がない」(分裂病)そして「対象の喪失による実存の危機」(境界例)などの症状に恒常的に悩まされている。わたしが「この不思議な世界」や「公衆電話のない世界に生きるということ」で引用した木村敏の世界は、単に、木村敏の思索が生み出した「哲学の世界」ではなく、確かに、それによってわたしが苦しめられている現実の状態・症状に他ならない。

ではこの「あたりまえということがわからない」=「自明性の欠如」とか、「外界の変化が自己の変化に直接関連する」=「境界例に於ける直接性の病理」といった世界の中で苦しみもがいているのはわたしだけなのだろうか?
「べてるの家」の人たちもやはり「あたりまえがわからない」という状態に苦しめられているのだろうか?だとすれば何故彼らは「勝手に治すなオレの病気」と言い得るのか?

わたしには「病気との共存」は極めて困難だ。── であれば「存在」マイナス「病気」でいいのか?しかしそれでは単に「生きられる状態」になった=振出しに戻ったことにしかならない。目的のない「人生ゲーム」(双六)で賽を振ったところで何になる・・・

そして現実にわたしが苦しんでいる「あたりまえということがわからない」「対象と自己との一体化」ということを、保健所の保健師に話して何故通じないのか?何故精神保健福祉センターの精神保健福祉士はわたしが何に困っているのかわからないというのか?
彼らは分裂病患者を診たことがないのか?発達障害や境界例の患者と話したことはないのか?

それとも木村敏はただ自分の頭に沸いた考えを思い付きでパーパーと「書き散らしているだけ」なのか?だとしたら何故、わたしがここまで彼の言葉と自分の苦しみとをピッタリと重ね合わせることができるのか?


仮にグループ・ホームに行って、たとえばこれまで母が全部やってくれていた洗濯や買い物を自分ですることになるのなら、わたしは餓死してもいいと思うのだ。何故って、わたしは買い物をするために、掃除洗濯をするために生まれてきたのではないような気がするからだ。逆にわたしが母に対して、存在していることの罪を感じるのは、わたしがいるばかりに、母が自分の時間をわたしの買い物、わたしの洗濯に費やさなければならないからだ。

人は、髪を切るために、爪を切るために、顔を洗い歯を磨き入浴し、掃除をし洗濯をするために生まれてきたのだとしたら、そんな世界からは一刻もはやく立ち去りたい。

「じゃあいったいお前はどうなれば満足なんだ!?億万長者になってハーレムでも造りたいか?」

「金があって何になる?美女に取り巻かれて何がうれしい?わたしは金をいくら積んでも買えないものが欲しい。」

「それはなんだ?」

「生きがい!」

「それは何処にある?」

「わからない」

「じゃあそれは何だ?」

「それも、わからない・・・しかしおそらく現代社会では見つけることはできないだろう」


生きるということ、生きているということは、仮に吾人が健康で健常であっても、それはひとつの「病」でありひとつの「傷」ではないのだろうか?
存在するということが即ち「傷」であることではないのか?
そうでなければ何故生きるということはこんなにも痛みを伴うのか?

上に

「わたしの辞書には「頑張る」とか「努力する」という言葉が端から欠けているのです。」と「彼」へのコメントに書いたと言ったが、わたしが少なからず頑張っていることがひとつだけある。それは存在しているということ。無理をしなければ、「存在」などできない。














2020年9月24日

救済・・・


母との生活がまもなく終了する。そしてよく知らないが、今度の内閣では「IT担当大臣」が誕生したとか?このような事態になって、ますます「死」というものを、「自死」というものを「救い」であると考えるようになった。この気分がわたしのなかでもっともっと もっともっと大きくなりますように・・・



 


ワタシハ ドウスベキナノカ?-3-

 
昨日(水曜日)、母が市役所に行って、グループ・ホーム体験入居(?)(短期滞在?)の申請書をもらってきてくれた。役所の職員によると、市だけではなく、東京都や国もこの事業に関係しているらしく、「審査」に約2ヵ月はかかるということ。

涼しくなって、多少気力が戻って来たのか、これまではまるで考えられなかった「死」のことをまた少しづつ考えられるようになった。


なぜわたしはグループ・ホームに行こうとしているのか?

● この夏、わたしも母も、満足に動くことができなかった。それでも母は、最低限ふたりの50代の障害者の面倒を見てくれたが、わたしはほとんど何もできなくなっていた。現状が維持されるとしても、最早80代の母一人で、ふたりの50代の障害者の面倒を、文字通り、「何から何まで」見ることは不可能だと考えたから。

● 弟がここに帰ってきたがっているから。

● わたしが出れば、現在、決して快適とは言えないケアハウスにいる父もここに帰ってくることができるかもしれないから。

● わたしが母に暴力を振るう可能性が全くないとは言えない状態だから。
(何故か?)わたしはストレスを解消する方法を持たないから。恒常的なイライラ・・・一触即発の状態の中で生きているから。


問題点

● グループ・ホームに何を求めているのか?そもそもわたしに共同生活(のようなこと)ができるのか?

● グループ・ホームに入ったら、何かいいことがあるのか?
ここであろうと、グループ・ホームであろうと、たのしみのない人生に何の意味があるのか?

ここに居られないことは確かだ、けれども、何処へ行ったら、生きる意味を見いだせるのか?人生とは「生きる意味を見出すための終わりのない旅」なのか?

● 障害者向けグループ・ホームが「老人ホーム」と異なり、「(なんらかの形での)就労」乃至「ひとりで生活すること」へのプロセスの場であるとしたら、わたしはそもそもどちらも望んではいない。いかなる形の就労も、ひとりで生きてゆくことも・・・


最後に厳然たる現実

● 母と自身の衰えで、ここで二人で生活してゆくことは不可能。

● 弟がここに帰りたがっている。そしてわたしは弟とは暮らせない。

● わたしが「いなくなれば」弟と父がここで暮らせる。二人ともいわばわたしが暴力を振るう可能性を避けて出ていくことになった。本人に暴力は振るわずとも、家の中のものを壊したり、窓を素手で叩き割ったりくらいはするだろうという自覚がある。

● ここに居れば母にさえ暴力を振るうかもしれない。

●ストレスの原因と思われるのは?「文明社会」

●「死ねないこと」













2020年9月23日

ワタシハ ドウスベキナノカ?-2-

 先日紹介したブログにこのような投稿がある。「たとえばこんな共同生活
けれどもこれを一読して、わたしにはちょっと無理そうだと感じた。
一見何ら問題は無いように感じる。いちばんの問題は「共同生活」という一点だけだ。

たとえば現実にまさにこの通りのルームシェアリングなどがあったとしても、わたしの感想は・・・率直に言えばある種の怯えを感じてしまう。

以前から書いているように、わたしは人は恐くはない。少なくとも暴力的な感じを与えない人であるなら・・・いや、どうだろうか。確かにわたしは500人の聴衆の前で30分間話してくださいと言われればできるだろう。また過去には様々な講演会で、所謂「著名な」講師に向かって異議をぶつけてきた、周囲はいわば講師のファンたちである。
しかしデイケアに通っていた一年間、プログラム中は誰よりも発言したけれども、それが終わると誰にも話しかけることはできなかった。つまりわたしは用意された場所や時間 ── 講演会の質疑応答の時間、デイケアで認知行動療法について話し合う時間 ── でなければ人と気軽に話すことができないのかもしれない。「自分に自信がない」というのではない。人と話を合わせることができない。雑談ができないのだ。
無趣味である。何にも関心がない。テレビを視ない、ラジオを聴かない、新聞は敢えて読まない、You Tubeを利用していた時も所謂「動画」というものは視ないで、ラジオ代わりに使っていた。それすらも最近は止めてしまった。読書家というのが苦手、アニメやゲームに全く関心がない。基本的に年下が苦手。

・・・・じゃあいったいどんな人間となら話が合う・・・話せるのか・・・どんな話題なら・・・

自分でも見当がつかない。


ひきこもり当事者のブログを、いくつか読んでいる。
本当に、事情は人それぞれ、状況の捉え方も様々だ。

その中でも、特にその苦しさが伝わって来るのは、今現在、毒になる親の元で閉塞感や絶望感と戦っている人のブログ。

わたしに閉塞感と絶望を与えるのは「現代」という時代の在り方だ。そして唯一の理解者・・・否、理解できないままに面倒を見てくれているのが母の存在である。

「毒になる人」からは逃れられる。それはかなり困難なケースも多いだろうけれど。日本の行政はDVだろうと、虐待だろうと、様々なハラスメントだろうと、ストーカーだろうと、いつもモタクサして後手後手に回っているから。見ているといつも「手遅れ」になっているようだから。しかし運が良ければそのような毒になる存在から逃れることは不可能ではない。
では「毒になる時代」からはどうやって逃れればいい?
海外への移住は余り現実的ではないだろう。

長期になるなら、困った時に相談できる管理人みたいな人も必要かも。

わたしが困って相談した時に、都の精神保健福祉センターが、保健所が、市の障害者支援課が、デイケアのスタッフが、適切なアドバイスをしてくれたか?経験とネットワークと情報量の多さを以てわたしを救ってくれたか?そもそも彼らはわたしが何に困っているのかさえ分からなかったのではなかったか?いや、それを非難することはできないだろう。そもそもわたしは他者と言葉が通じない・・・人との意思の疎通が図れないのだから。

わたしと話が合うのは1,000人に1人と主治医は言った。現実に上記のような有様だ。極端な話をすれば、「この人物さえ消えてくれれば自分の人生はがらりと変わる!」というのならまだ救いはある。しかし現代という時代がわたしを苦しめている以上、楽になれる方法は自分を消すこと以外にないのではないか。









ワタシハ ドウスベキナノカ?

 
わたしはいまどうすればいいのか、まるでわからない。外に出られないから仕方なく家に、自室にいるのだが、心は一向に安らぐことはない。所謂「将来に対する不安」や「どのように社会復帰をしたらいいのかという葛藤」によるものではない。ようやくエアコンをつけづに窓を開けて過ごせる時期が訪れたのだが、外の音、主に車のアイドリングや、同じように、ドアをロックする音なのだろうか?「ピピッ」とか「ピコピコ」いう音が神経を逆撫でする。一日中、真夜中になるまで窓を開けたり閉めたりしている。それに疲れて窓を閉じたままにしているか、エアコンを使う。もうこれ以上こんなことに神経をすり減らしてはいられない・・・

喫煙者である弟がさっきまでいた場所、すれ違う時などの煙草の臭いに耐えられない。
トイレも、家族であっても、人が出てすぐには入ることができない。

いったいいつごろからこのような状態になったのだろうか?


先に書いた、大田区で17年間過ごした部屋だが、これほどまでに執着するのは、都内であのような部屋を見つけられたことがほとんど稀有なことだったからだ。

わたしは26歳の誕生日にその部屋に入った。部屋を探す時の条件は、最上階の角部屋であること。よほど頑健に作られた鉄筋コンクリートのビルでもない限り、上の階の物音、足音が気になって仕方がない。そうなると当然隣は片方だけであるに越したことはない。また仮に完全な一軒家であっても、2~3メートル離れて隣家、などというところもダメ。所謂「生活音」と言われる音の許容量が極めて小さい。母は、わたしはほとんど何処にいるのかわからない、気配がしないと言う。自分が隣人の「気配」に極度に神経質なので、隣人もまたそうであろうという配慮から、できるだけ音を立てない生活をしたいと思っている。実際に実行できているのは戸の開け閉てと、音を立てずに歩くくらいだが。

都会に住んでいて、そのような感覚を得られる者はまずいないだろうが、ほんとうに、心からの「安息」というものを望んで已まない。

心身共に疲弊しつくし、仮に入院したとしても、わたしの望む安息は求むべくもない。入院というのは安息を得るためにするものではなく、仕方なくするものだ。
診療科が何であろうとも、入院生活に安息はない。


いづれにしてもこう慢性的に神経を尖らせていたのでは家族であってもとても共同生活はできない。

弟はここに帰ってきたい。ここで母と暮らしたいと思っている。だからつい長居することが多くなる、弟が帰らない間はわたしは部屋から出られない。あ、外でまた車がアイドリングしている・・・加えて先に書いたように、わたしも、母も、できないことが多くなっている。弟のことを抜きに考えても、来年の夏、わたしと母がここで一緒に暮らすことは無理だ。

明日母が、市役所にグループ・ホームの体験入居(=ショートステイ)についての説明を聞きに行ってくれる。わたしは仮に現在のような状態でなくても、共同生活というものには向いていない。協調性はほとんどないに等しい。生活保護を受給して独り暮らし?これは無理だ。わたしは訪問恐怖症である。ドアのノック、電話の音、チャイムの音が怖くて仕方がない。馬込にいた時から、宅配便が2時から4時までの間に来るなどと言うと、その2時間、生きた心地がしない。何かの修理・点検でも同様で、何度その緊張に耐えられずに外に逃げ出したことか。前に書いたかもしれないがわたしの部屋の電話は発信専用であった。365日24時間、着信音を切っていたから。いつ電話が鳴るかと思うと片時も落ち着いていられない。掛けるときには饒舌である。

つまりわたしは既に30年前、20代の頃から「フツウ」ではなかったのだ。普通の人のいちばんの心配事であり、安息を妨げる「仕事をしなければ・・・」という焦燥感を感じたことはなかった。高校時代のアルバイトから35歳で完全に仕事をして金を稼ぐということを止めるまで、何度「もう来なくていいよ」と言われてきたか。パワハラという言葉はなかったが、そのようなことはどこにもなかった、ただわたしは何もできなかった。

現時点では「グループ・ホーム」というものがどういう場所であるのかは全くわからない。
けれども、家族との関係をこれ以上悪化させないためには、とにかくここに居続けることはできない。




「ただの一瞬の休止もなく、わたしは世界に対して外在している」

「生涯、私は、自分が本当にいるべき場所から遠ざけられている、と考えながら生きるのかも知れぬ。たとえこれまでのところ、<形而上学的流謫>という表現に何の意味もなかったとしても、私の生活はそれだけで、この表現に一個の意味を与えている。」

「畑の中に横たわって、土の匂いを嗅ぎ、土こそが私たちの現世での右往左往の終点でもあり希望でもあると考える。
憩いを得て、分解され、溶けこんでゆくべきものとして、土(大地)以上のものを探すのは無駄な事なのだ。」


ーエミール・シオラン











2020年9月22日

間違えなければならない


9月18日の「或る夜の断想・・・」という投稿の中に、「ものいえば唇寒し秋の空 (芭蕉)」と書いた。ふと気になって普段は避けている検索というものをしてみた。すると、検索の結果はどれも「 物言えば唇寒し秋の風」となっている。間違えていた。ほっとした。仮名遣いも違えば、「秋の空」は本来は「秋の風」であった。

昨日、過去の投稿に目を通していて、上記のように、正確に憶えていないはずの和歌が、句が、そして物語のストーリーが正しく記されているのを見て、おそらくはインターネットで「ケンサク」したのだなと思い、強い自己嫌悪に陥った。

たとえば、ある歌の作者が山上憶良であったか、在原業平であったかわからない時には、そのように書けばいい。そのように書かなければならない。

最近茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩について書こうと思っている。幸い家に彼女の詩集があったはずだ。無ければ図書館から借りればいい。けれども、短い詩でも、今のわたしにはそれを本から引き写すのは面倒なのだ。「自分の感受性くらい」という詩はインターネット上でいくらでも見つけることができる。それをコピーすれば・・・しかしそれをやるくらいなら、もうブログなど書かない方がいい。
ネットでチャラチャラと軽薄に検索して「 物言えば唇寒し秋の風」と書くくらいなら・・・
自分の頭の中にある「ものいえば唇寒し秋の空」と書くべきなのだ。

間違えなければならない。
インターネットに依存して正確であることは恥ずべき怠惰怠慢に他ならない。

今のわたしには過去の投稿のどの箇所が、インターネットで調べて書いたものであるのかの見分けがつかない。もしそれがわかるなら、その投稿は抹消されるべきだ。

ただ、そういいながら、どこまでは許されるだろうかと、みみっちく考えているところがある。

『赤毛のアン』の著者を、わたしは、ルーシー・モート・モンゴメリーだとずっと思っていた。けれども彼女のミドル・ネームは「モード」であった。そしてわたしは卑劣な手を使った。自分が知っていた「モート」を、「正確な」「モード」に改竄した。

自分の知識・記憶、そして本・雑誌・新聞で分からないことには近づかないこと。書かないこと。もしどうしても書きたければ、誤った知識のままに記し、それが正確ではない旨を伝えること。

改めて自分を戒めなければならない。


以下昨年、2019年8月末に書かれた「拒否するということ」という投稿を引用する。



わたしは、例えば「ベジタリアン」や「アーミッシュ」といった人たちの生き方に敬意を抱く。それぞれについて詳しい知識は何も持たないが、自分の主義にしたがって、肉食をしない、或いは車に乗らずに馬車を使ったり歩いたりする。

つまり便利であるとか栄養があるとか、美味しいといっても、自分たちの主義にしたがって、それらを拒否する。

先日昨年の『暮らしの手帖』に現在の若手リベラル派の論客である荻上チキという人の文章が掲載されていた。30代の彼の娘と息子が、スマホだかタブレットだかのゲームに興じている。わからないことがあれば、とりあえず音声入力(検索?)して回答(解答?)を得る。オンライン・ゲームで仲間と笑いあっている。自分の若いころに比べてつくづく羨ましいなと思う、と。

そしてアニメであろうがスマホのゲームであろうが、SNSであろうが、肝心なのはそれをどこで仕入れたかではなく、仕入れた知識をいかに自分の血肉にするかだと。

ベジタリアンは動物の肉を自分の血や肉にすることを拒んでいる。
仮にそのことによって栄養が偏り、健康にあまりよくないと知っていても、彼は「それを自分の一部とすることを拒む」だろう。

チキはわたしのような、年寄りの「新しいメディア叩き」を「ダサい」と切り捨てる。
「何々ってダサいよね」と、一言の元に切って捨てることの浅薄さに、彼らは気付かない。

彼らにはおいしくて栄養のある肉を食べることを拒否する人の気持ちがわからない。
車に乗らず、敢えて馬車に乗り、長い道のりを歩くことを選ぶ人たちの気持ちが理解できない。彼らにとって大事なのは、この世界にあるものを、いかに有用に利用するか、どのようにして自分の栄養にするかだけであって、それを養分にしてまで生きたくはないという人たちの心がわからない。
'Natural Born Socialized' 「生まれつき社会化された者たち」とでも言うべきか。

わたしのデジタル機器嫌いは、必ずしも主義やポリシーによるものではなく、もっと生理的な嫌悪感だ。

エミール・シオランは
「ある種の人たちにとって、生理と思想は切り離せない。彼らにとっては生理即ち思想なのだ」というようなことを書いている。今手許に彼の著作『呪詛と告白』がないので、一字一句正確には書けないが、わたしの思想は、わたしの生理的好悪と切り離すことはできない。

中国に「渇しても盗泉の水は飲まず」という言葉がある。
どんなにのどが渇いていても、「盗泉」などという名前の泉から水を飲むことはできないという、いわばこだわりであり美意識である。

そしてこだわりとは大抵このように、傍から見れば馬鹿気ている。
しかし馬鹿げたことに命を掛けられずに何が人間か。











過去からの訪問者?未来からの訪問者?

 毎日がつまらない。人との接触がまるでない。最後にデイケアに行ったのが3月3日。その後6か月間音信・出席がなく、継続の意思を伝えなかったので、9月3日でわたしはデイケアの利用者ではなくなった。先週、2月に行ったきりだった主治医のところに約7か月ぶりに行ってきた。毎度書いているように電車で二駅だが、ひとりでは無理なので、母に付き添ってもらった。
眼科には2ヵ月に1度くらいの頻度で行っている。といっても、お互いに用があるのは「この目」であって、わたしという個人ではない。

母以外との接触が、そのような形でしか持てない。
しかし一方で、どうやって人と接触が持てるかという次元の話では最早ないのだと感じている。端的にいえば、わたしは「現代人」ではない、ということ。

スティーヴン・ホーキング博士は「もしタイムマシンというものが可能なら、未来からの訪問者は何処にいるのだ?」と言った。しかしここに過去からの訪問者がいる。わたしがそもそも「現代人」と同じ生き物であると言っていいのだろうか、という疑問がある。現代のことを何も知らない。なんとかわたしにわかるのは、わたしが生きていた20世紀のことばかり。見方を変えれば、わたしと母以外は全て「未来からの訪問者」であるといえるのかもしれない・・・


嘗て山田太一氏は、「ノスタルジーとは過去のいいとこどり」だと言った。

わたしはそうは思わない。確かにどんな時代にも、それこそ「喜びも悲しみも」等しくあって、いいことずくめの時代など、どこにもなかった。わるいことばかりの時代も、なかった。わたしたちが子供のころには、すでに「公害」や「交通戦争」「受験地獄」と呼ばれるようなマイナスがあった。

しかしそれでも、ノスタルジーは過去の美味しいとこ取りではなく、わたしたちがどのような喜びと悲しみの詰め合わせを選ぶかだと思うのだ。
極端な言い方をすれば、現代と過去とを選べるなら、わたしは戦争や公害もひっくるめて、やはり過去を選ぶ。何故ならわたしには「現代のいいとこ」というものがさっぱり見えないのだから。







2020年9月21日

セプテンバー・ソング


Sunset at Zandvoort, ca 1952, Kees Scherer. 


"It’s enough for me to be sure that you and I exist at this moment."

— Gabriel Garcí­a Márquez

*

”いまこの瞬間、あなたとわたしが確かに存在していること、それで充分ではないか

ー ガルシア・マルケス


*  

Oh, it's a long, long time, from May to December
 But the days grow short when you reach September
 When the autumn weather turns the leaves to flame
 And I haven't got time for the waiting game 

Oh, the days dwindle down to a precious few
 September, November
 And these few precious days I'll spend with you
 These precious days I'll spend with you ...


'September Song' © Maxwell Anderson & Kurt Weill

Song by Bing Crosby and many of singers 









2020年9月20日

困難な存在

 
この「ブロガー」がどういう規準で、訪問者のURLを表示しているのかいまだによくわからない。

今日、訪問者の中に「引きこもり」を暗示するアドレス(ドメイン)があったのでそこに行ってみた。そこにわたしのコメントが残されていた。

ブログ本文にはこのようなことが書かれていた

「ひきこもる状態のヒトを引き出す業者・団体をテレビで肯定的に放送するな!扱うな!暴力と人権侵害にNO!」

無論賛成である。

コメント欄に

「しかし引き出されないで、障害者年金で暮らしているあなたの生活費は税金から支払われていて、私が苦労してヒキコモリから脱して、今なんとか働いて納めている税金であなたが生きているのだということを忘れないでほしいです」

このコメントにわたしが反論をした。

わたしのコメントは

自分の税金が、びた一文社会保障に使われるのが厭というのなら、税金を払わずに済む方法を考えればいいのではないかと思います。

「残念ながら」現在の日本の税制度では、他国に比べてわずかではありますが、国民の納めた税金が「弱者救済」「相互扶助」の目的に使われているという現状があります。

繰り返しますが、苦労して税金を払いたくないのなら、そのような生き方を模索すればいいと思うのですが。」

幾分舌足らずではあるけれど、わたしの意見は寸分も変わっていない。

税金の使い途で、「桜を見る会」や「森友・加計」「軍事費」「オリンピック」等に使われることは許されるし当然だけど、弱者救済にだけは使われたくはないというのであれば、現実的に可能な方法としては、仕事を辞める以外にはないのではないかと思っている。

働いてしまえば」そのうち何%かは、(仮に10円であっても)「社会保障」という不要で無駄なことに使われてしまうのだから・・・


ー追記ー

「ゼネスト」が行われるような「民主主義国家」では、公共交通がストップして「自分が仕事に行けない!」とストを非難するようなことはほとんどないと聞く。それは自分もまた、畑は違えども、労働者のひとりである、その権利を守るため、権利拡張のための犠牲は厭わないという意識が共有されているからだ。嘗てポーランドのワレサ議長はそれを「連帯」と呼んだはずだ。

安倍はキチガイだと喚いている者もいるようだが、どうしてどうして、彼らは馬鹿ではない。「日本人の心性」というものを知り抜いている。












正当な自己否定


わたしの両親は、わたしが35歳で社会から完全にリタイアした後、わたしの記憶にある限りただの一度も「仕事はしないのか?」と言ったことはない。そして両親ともに、「結婚」「恋人」などという話を口にしたことがない。必ずしも両親が無関心・放任であったわけではない。現にそれ以前にもそれ以降にも、何人もの精神科医と出会ってきたが、「働く」「仕事」という話が医師から出てきたことは一度もない。ある精神科医は、両親に負担をかけていることを気に病んでいることに対して言下に「生活保護ですね」と。

つまり現在の主治医も含めて、わたしがいかなる形に於いても「仕事ができる人間」ではないということを誰もが弁えていたのだ。
大田区に住んでいた最後の六年間を生活保護で生活していたが、ケースワーカーに言われた。「あなたに仕事が勤まるわけがないじゃないですか」 

誰もが「わたしが無能者である」という認識を共有していた、という意識はない。寧ろ誰もが「わたしに向いていないこと」を弁えていたと考えている。負け惜しみでも何でもない。
現にいま誰かが、仕事を斡旋してくれても、結婚相手を紹介してくれても、それはお断りする。
芸人は下手も上手いもなかりけり 行く先々の水に合わねば・・・

そういう意味で、「できないこと」「向いていないこと」を決してさせようとしなかった両親に感謝している。

最後の最後になって・・・いや、最後の最後までというべきか・・・最も憎むべき相手はわたし自身であった。














狂気・・・


「まゆ玉の眠り」で触れられている「反出生主義」についてはいづれ書きたいと思う。

しかしそれ以前に「エキサイト・ブログ」に表示される、思わず目を背けたくなるような広告に、You Tubeで流れてくる耳を覆いたくなるような薄汚いCMに打ちのめされている。

正直に言えば、何故こうさんや、この「まゆ玉の眠り」のような文章表現をする人がこのようなブログを使っているのかが、全く理解できない。

もう一月以上You Tubeのサイトを開いていない。

自分の部屋の掃除さえままならなくなったわたしが、この先どうやって生きてゆけるのか?

勿論「生きていなければならない」・・・ことはないのだが。


ー追記ー

「反出生主義」についていうなら、わたしは勿論「反出生主義者」といっていい。
一言でいえば、「子供は親を選べない」そして同じように「親も子供を選べない」からだ。


[関連投稿]「今日の天野はん










自分がわからないということ

 
このひと夏でわたしは嘗てないほどに変わった。生きる気力などまったくない。と同時に、10代の頃から親しんで(?)来た「自死」ということも、ほとんど考えなくなっている。「生」からも「死」からも随分と遠ざかってしまった。「生」からも「死」からも・・・正確に言えば、(わたし自身の、わたし固有の)「生から」(わたし自身の、わたし固有の)「死から」。

死ぬ時期を逸してしまった。

最近気になっているブログがある、コメント欄も設けられていないし、メールで連絡することもできないので、仕方なく無断でここに紹介する。共感するところの多い内容である。けれども、いったい誰が言い出したのか、昨今流行の「毒親」という言葉は悲しい。

わたしが何よりもこころを痛めるのは「幼児虐待」と「毒になる親」という表現である。
いや、現実に毒になるだけの親の存在はいつの時代どこの国にもいた。けれどもそれを「毒親」ということばで表現する事に激しい抵抗がある。

先日「グループ・ホーム」について尋ねるために市の障害者福祉課に電話をした。対応してくれた女性は親切であったが、頻出する「~みたいな」とか「ちがくて」という言葉に眉を顰めた。そして、「こういう言葉遣いをする人は信用できない」と思っている自分に気づいた。

二階堂奥歯の言っているのとはまったく違った意味でだが、わたしにとっても「世界は言葉で出来ている」

わたしにとって「害になる親の言動」と「毒親」というものはまったく、それこそまったく「別のもの」である。


最近、老い、衰えた母を、老いて衰えて、認知症の疑いのあるわたしが、屡々嫌悪の目で見ていることに驚いている。母の衰えに、母の動作の鈍さに心の中で舌打ちをしている。母以上に何もできない不具者がである。
「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」が、わたしに背いている。
老いるということは、自分の心身の醜さを見せつけられることであった。
「友は前から刺す」── 「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」がわたしを苦しめる。しかしわたしの内面をわたしに背かしめる「関係性」とはなんだ。

いろいろ不満はあるだろうが、家族と一緒に暮らさなくなった父はこれでよかったのかもしれない。

自殺を熱心に考えなくなった・・・最も「それ」が必要な時に。

これが俗にいう「廃人」という状態なのかもしれない・・・











かわいそうなのか?バカなのか?


以前、このブログに対し、つまりわたしに対して直接嫌がらせをしてくる人物について、またその後、「間接的に」間違った「引きこもり」に対して「正しい自分たち」の立場から執拗に批判・嘲弄をし続ける人間たちに対して、複数の人たちから「かわいそうな人たち」という表現が為された。
わたしにはどうして人の嫌がることを嬉々として行う者たちが「可哀想」であるのかがわからなかった。けれども最近になってなんとなくではあるけれど、それがわかるような気がし始めている。無論完全に「わかった」「理解した」わけではない。

つまり彼らの幸福というもの、或いは俗にいう「現実生活の充実」というものは、彼らの裡で完結しているものではない。ジュール・ルナールであったか「自分が幸福なだけでは不十分だ。他人が不幸でなければ」と言ったのは・・・

つまり自分の幸福半分プラス他人の不幸半分を足して、初めてなんとかかんとか「彼ら」のいう「現実の充実」や「幸福感」が賄われている。そのような自立できない幸福、他者の不運・不幸に依存しなければ保つことのできない幸福を「私の幸福」「私たちの幸福」と思い込んでいるということは、確かにある見方からすれば「かわいそう」と言えなくもないのだろう。

けれども、現実に「他者の不運・不幸」に依存しない「自立した幸福」などというものが存在するのだろうか?
幸福とは所詮相対的な感覚でしかないのではないだろうか。

誰しもが、人の不幸という「蜜の味」を味わうことで、
人を謗(そし)るという「鴨の味」を賞味することによってはじめて「シアワセ」を実感し得るのではないだろうか?

もし仮にこのようなわたしの考え方が、相当歪んでいるというのであれば、何故人は、人の嫌がることを進んでしたがるのか?

何故「差別」をし、いじめ、人をからかうのか?もし夫子自身にその自覚が欠けているのであるなら、それは「カワイソウ」どころではなく、単なる「バカ」ではないのか?





 


2020年9月19日

アンラッキー



William Powell dans le film de A. Edward Sutherland, 1929



 New York, 1953, Vivian Maier

*

“There is no more unfortunate creature under the sun than a fetishist who yearns for a woman's shoe and has to settle for the whole woman.”

― Karl Kraus

*   *

”女の靴に恋い焦がれながら、女そのものに甘んじなければならないフェティシストほど、天が下、不幸な者もいない”

ーカール・クラウス










日の出


Sunrise, Anton Prinner (1902 - 1983)
- Bronze proof with patina (Height 31cm) -

*

遅刻常習犯の神学生が教授に言った。
「神がわれわれに日の出を見せたいとお思いだったら、日の出をこんなに朝早くにはなさらなかったでしょう!」










2020年9月18日

名言

 
以前瀬里香さんがくれたコメントで非常に印象に残っている言葉がある

或る夏の日、彼女の息子さんが部屋で寝そべってぼんやりしていた。

「何をしているの?」と瀬里香さんが尋ねると、彼は「うん、たいくつしてる」と・・・

*

“Time you enjoy wasting is not wasted time.”

― Marthe Troly-Curtin


このトローリー=カーティンの言葉の意味を伝えるのに、これ以上的確な表現があるだろうか?


Schoolgirl at St Kilda Beach, 1952-1953, Charles Blackman. Australian (1928 - 2018)
- Oil on compressed card on composition board -


ところで海辺で寝そべっている女学生はうつ伏せ?仰向け?








或る夜の断想・・・


 「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」「わたしがわたしであること」・・・これらを常に最優先にしてきた。しかしそのことによって自分以上に苦しんでいる人がいるのなら、最早「わたしの・・・」を手放すべき時ではないのだろうか?
無論「自己」というものは、そう簡単に確立したり、破壊したり、手放すことのできるものではないということは重々わかっているが。


「ブログは、わたしの生きた証し」・・・けれども、ブログに「わたしのすべて」を注ぎ込むことによって、却って弊害が生まれるのなら、ブログの位置をもっと格下げ・・・というよりも、ブログの在り方を変えてもいいのではないか?
ブログは所詮「日記」とは異質のものだ。

以下、ふたつのブログの記事を敢えて名前を伏せて引用する。

でも、そんな時代だからこそ、引きこもりという生き方も一つのライフスタイルとして市民権を得られる契機になるかもしれない。誇れない生き方としての引きこもりがライフスタイルの一つとして認知されたなら僕の引きこもり生活の心苦しさも少しは軽減して生きやすくなるんじゃないかと思う。

わたしは以前、これと似た論旨の文章に反論を書いたことがある。

「コロナによってみなが外に出ない(出られない)時代になることで、活き活きしてきた引きこもり・・・」というものに強い違和感を感じたからだ 。

しかし、そのことをここで正面から反論すると

やりたい放題の人間ほど、やたらと元気そうに見えた。
それはある意味事実だろう。他人に嫌がらせをすることで、相手から心的エネルギーと呼べるようなものを強奪し、吸い上げて彼らは生き生きするのだから。

というような事態を招きかねない。所詮それが「インターネット」である。

それが可能かどうかわからないが、今回、約10年間使ってきた「ブロガー」のインターフェイスが全面的に仕様変更されたことを契機に、もう少し「アート」「文芸」といった、「ブロガー」が本来持ち味とする使用方法に舵を切った方がいいのかもしれないと考えている。

しかし残念なことに、同じ写真や絵の投稿を、ここと、アートブログの双方に投稿した後の反応の違いはどうだ。やはりここでもわたしのTumblrの1万5000人のフォロワーのうち、日本人が100人(=1%)もいないという現実が如実に証明されている。

             ものいえば唇寒し秋の空 (芭蕉)

と思い、「わたし」を抑えて「アート」を投稿しても、もう一つのブログが、まるで外国人しか閲覧できないブログのような様相を呈しているのを見ると、日本のブログでわたしのし得ることはいったい何なのかと改めて考えてしまう。



◇追記◇


上記引用記事のうち、前者は明らかに「批判的な文脈」で用いた。これは明らかにアン・フェアであり、わたしの最も嫌うやり方である。

上記引用の出典は「孤独中年男の細々生活記というブログの800年でも足りない
という投稿からの抜粋である。批判的なニュアンスの引用である。文責はわたし「Takeo」にある。ていめいさん、申し訳ありません。お詫びとともに、反論を歓迎します。

*(これは「被害者を特定させず、法が手出しをできない方法で誰かを批判・中傷するというやり口が最も悪質」という法務省人権相談の言葉に従いました)








「夢は第二の生である」


 Country Bedroom, Niles, California, 1938, Sonya Noskowiak (1900 - 1975)
- Gelatin silver print -

*

” Le rêve est une seconde vie”

― Gérard de Nerval


” 夢は第二の生である ”

ジェラール・ド・ネルヴァル

*   *

10代の頃だったか、「人生百年昼夜各々半ばなり」という古代中国の言葉に出会った時のことが忘れられない。やはり中国古代の言葉で、ふたりの男がいて、ひとりは王様だが、夢で乞食になる。もうひとりは昼間は乞食だが、夢で王になっている。どちらが幸せだろうか?というような話も強く印象に残っている。

現実というもの、リアリティーというものは味気なくつまらないものだが、外に出ることのできないわたしは、外で、人と交わっている夢を見て心慰められている。

王様にとって、毎夜視る乞食になる夢が必ずしも不幸を意味しているとは言えないかもしれない。乞食であることよりも不幸なのは孤独であることだ。孤独であるなら、「現実」と呼ばれる世界で、王であろうと乞食であろうと同じことだ。そして孤独でないのなら、やはり王であろうと乞食であろうと同じことだ。










鳥のなまえ


All good wishes from the neighboring people, Kaare Espolin Johnson. Norwegian (1907 - 1994)
- Mixing technique, light dimensions -
 
*

"Doesn't anyone know what those birds are called?
"Oh yes. But we only know the names that people have given them.
We don't know what they call each other."

Hermann Hesse. ' Rosshalde ' 1914

*

「誰もあの鳥たちの名前を知らないの?」
「知ってるよ。でもそれは人間が勝手に彼らにつけた名前で、
彼らがお互いをどう呼び合っているのかはわからないんだ」

ーヘルマン・ヘッセ 『ロスハルデ』









2020年9月17日

わたしに似た人・・・


 チャーリー・ブラウンの妹、サリーは、宿題で作った「ワイアーの彫刻」の採点がCであったことに納得がいかず、教室で先生に異議を申し立てる。

質問していいですか?採点されたのは彫刻そのものによってですか?もしそうなら芸術の値打ちを決めることのできるのは時のみだというのはうそですか?

それとも採点されたのは私の才能によってですか?もしそうなら私は自分ではどうにもならないことによって裁かれたことになりますね?

もし採点されたのが私の努力だったらそれは不当です。私はできる限り一生懸命やったんですもの!

この課題で何を学んだかということが採点されたんですか?もしそうなら先生、あなたもまた知識を私に伝える能力について採点されるべきではありませんか?すすんで私と”C”をともにする気持ちはおありですか?

創作の材料にした洋服掛けそのものの質によって採点されたのかもしれませんね…さてそれもまた不当ではありませんか?

ドライクリーニング産業によってわれわれの衣服を返すのに用いられる洋服掛けの質で私が採点されるべきでしょうか?それは私の両親の責任ではありませんか?彼らも私と”C”を共にすべきではありませんか?

上記のような弁論の後、サリーは最後のコマで「きしる車は油がもらえる!」と満足気な表情をして見せる。


何事も納得のいかないことに対して、異議を申し立てるのはいいことだ。わたしが教師なら、「針金の彫刻」にではなく、その評価についての彼女の弁論に対して”A”を進呈したい。

但しひとことだけ、サリーに異議を申し立てたい。

針金のハンガーで採点されたのはきみの両親の責任じゃなくて、あくまでもドライクリーニング産業の責任だと思うけど?もちろんこれはきみの両親が利用しているクリーニング屋さんの責任ではなくあくまでも…………






きみの友だち


Sad Little Girl in Marseille, 1951, Lucien Hervé (1910 - 2007)


Seville, Spain, 1962, Edward R. Miller. (1905 - ? )

*

“Oh, sometimes I think it is of no use to make friends. They only go out of your life after awhile and leave a hurt that is worse than the emptiness before they came.”

'Anne of Avonlea '

― Lucy Maud Montgomery

*

”ああ、時々友だちなんて必要じゃないんじゃないかって思うわ。誰もがしばらくすると私たちの生活から出て行って、後に痛みだけが残るのなら、友達のいない寂しさの方がまだマシだわ”


ールーシー・モード・モンゴメリー『赤毛のアン』








ハート・アンド・ソウル 


Sad Farewell, 1968, Duane Michals. American, born in 1932


“I do not believe anyone can be perfectly well, who has a brain and a heart”

― Henry Wadsworth Longfellow


”頭と心を持つ者にとって、完全に順調な状態というものがあるとは思えない”

ー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー










香り


Apple Perfume, 1911, Charles Courtney Curran. American (1861 - 1942)
- Oil on Canvas - 


“A woman's perfume tells more about her than her handwriting. ”

― Christian Dior


” 女性の香りは、手書きの文字以上にその人を語る ”

ー クリスチャン・ディオール


“French women choose a scent when they’re girls and use it until they’re grandmothers. It becomes their trademark.
'Ah,' he murmurs in the dark theater, 'Giselle is here tonight!'

― Joan Crawford. 'My Way of Life'


”フランスの女性たちは子供の頃に「自分の香り」を選んで、おばあさんになるまでそれを使うの。それが彼女のトレード・マークになるのね。
男性は真っ暗な劇場の中で「おお、今夜ジゼルはこの劇場に来ている!」と呟くの。”

ージョーン・クロフォード


ディオールの言葉を借りるなら、
くだものの香りは、何よりも、その果実の質を語っていると言えるだろう。

ジョーン・クロフォードはこれに続けて、「でもわたしは、女性は歳を重ねるごとに自分の香りを変えた方がいいと思うわ」と言っている。

女性はそれでよくても、果実の香りは、いつまでもわたしたちの子供の頃の記憶と同じであってほしいと願う・・・