2019年8月29日

拒否するということ


わたしは、例えば「ベジタリアン」や「アーミッシュ」といった人たちの生き方に敬意を抱く。それぞれについて詳しい知識は何も持たないが、自分の主義にしたがって、肉食をしない、或いは車に乗らずに馬車を使ったり歩いたりする。

つまり便利であるとか栄養があるとか、美味しいといっても、自分たちの主義にしたがって、それらを拒否する。

先日昨年の『暮らしの手帖』に現在の若手リベラル派の論客である荻上チキという人の文章が掲載されていた。30代の彼の娘と息子が、スマホだかタブレットだかのゲームに興じている。わからないことがあれば、とりあえず音声入力(検索?)して回答を得る。オンライン・ゲームで仲間と笑いあっている。自分の若いころに比べてつくづく羨ましいなと思う、と。

そしてアニメであろうがスマホのゲームであろうが、SNSであろうが、肝心なのはそれをどこで仕入れたかではなく、仕入れた知識をいかに自分の血肉にするかだと。

ベジタリアンは動物の肉を自分の血や肉にすることを拒んでいる。
仮にそのことによって栄養が偏り、健康にあまりよくないと知っていても、彼は「それを自分の一部とすることを拒む」だろう。

チキはわたしのような、年寄りの「新しいメディア叩き」を「ダサい」と切り捨てる。
「何々ってダサいよね」と、一言の元に切って捨てることの浅薄さに、彼らは気付かない。

彼らにはおいしくて栄養のある肉を食べることを拒否する人の気持ちがわからない。
車に乗らず、敢えて馬車に乗ること、長い道のりを歩くことを選ぶ人たちの気持ちが理解できない。彼らにとって大事なのは、この世界にあるものを、いかに有用に利用するか、どのようにして自分の栄養にするかだけであって、それを養分にしてまで生きたくはないという人たちの心がわからない。
'Natural Born Socialized' 「生まれつき社会化された者たち」とでも言うべきか。

わたしのデジタル機器嫌いは、必ずしも主義やポリシーによるものではなく、もっと生理的な嫌悪感だ。

エミール・シオランは
「ある種の人たちにとって、生理と思想は切り離せない。彼らにとっては生理即ち思想なのだ」というようなことを書いている。今手許に彼の著作『呪詛と告白』がないので、一字一句正確には書けないが、わたしの思想は、わたしの生理的好悪と切り離すことはできない。

中国に「渇しても盗泉の水は飲まず」という言葉がある。
どんなにのどが渇いていても、「盗泉」などという名前の泉から水を飲むことはできないという、いわばこだわりであり美意識である。

そしてこだわりとは大抵このように、傍から見れば馬鹿気ている。
しかし馬鹿げたことに命を掛けられずに何が人間か。












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