2019年8月21日

「平和」は「戦争」の対義語ではなく寧ろ類語である。


昨日、8月19日付け東京新聞夕刊一面に「ゲゲゲの娘 反戦語る」という見出しで、
漫画家、故水木しげるの娘が、7月に名古屋市にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」で約70人の聴衆に向かって語ったこと、戦争で左腕を失った父の戦争に対する思いなどを記している。

わたしは水木しげるが戦争で片腕を失ったこと、国家から受勲したことを知っていた。
そして今回の記事で何よりおどろいたのは、「ピースあいち」で彼女が語った、2003年に受勲した際に、水木は「勲章は戦争で死んだ者にやるべきです」と言ったというエピソードを紹介した箇所だった。

片腕を失わせるような戦争に自分を巻き込んだ国家を恨むどころか、勲章を頂戴し、あまつさえ、「戦争で死んだ者にこそ勲章をやるべき」とは・・・

では「戦争で死んだ者」とは具体的にはどのような者たちのことだ?
先の大戦では日本人310万人が戦争によって命を失っている。
赤紙一枚で兵士として駆り出され、主に南方で、戦争によってというよりも、食糧不足による極限状態の飢餓、負傷やマラリアなどの病気の治療が満足にできなかったことで死亡した者たち。
沖縄戦で日本軍によって自決を強いられたり、米兵ではなく日本兵によって殺された沖縄人、更に東京で、一夜にして10万人が犠牲になった1945年3月10日の大空襲、連日の全国各都市への爆撃、そして広島と長崎に、2度にわたって投下された原子爆弾・・・

極めて大雑把に言って、こういう人たちを「戦争で死んだ人たち」という。
その戦争の犠牲者たちにこそ勲章をやるべき?
何の「功績」によって?「よくぞ死んだ」と?
いったい誰が、どのような権利の下に、戦死者に唾を吐きかるような真似ができるのか?

とはいえこの度し難い愚かしさは、水木しげる個人のものではないのだろう。
イタリアでは敗戦直後、ムッソリーニの死体を広場に吊るして晒し者にした。
一方日本が敗戦を迎えたその日、幼い子供を除くほぼすべての日本国民が、宮城(きゅうじょう)に向かって、天皇に敗戦を深々と詫びたのだ。土下座をして、涙を流して。

日本人は怒ること、怨むことを知らない民族だ。言い換えれば、恥辱、屈辱というものに極めて鈍感な民族だともいえるだろう。

現在香港での大規模デモは収束の見込みが立たない様子で、水木の記事の真横に書かれているのは、「香港デモの主催者は「平和的活動を通じたわれわれの主張を香港政府が無視するなら、一部の人たちが激しい手段をとる可能性がある」と、デモ隊の一部が暴徒化する可能性を示唆したという。先週18日日曜日に行われたデモの参加者は、主催者の発表によれば約170万人。香港の人たちはそう簡単に忘れないようだ。約200万人近い人たちが参加した抗議行動が行われたのは6月16日である。

香港政府はこう呼びかける「デモ行進は交通に大きな不便をもたらした。最も重要なのは社会秩序の回復だ」おそらく日本人なら誰もが納得する言葉だろう。そして日本人なら、中国政府でも香港政府でもなく、交通機関をマヒさせ社会に不安を与え続けるデモ隊をこそ、「社会の敵」と見做すだろう。優先すべきは今日も明日も無事に会社に行けるかどうかであって、「逃亡犯条例」改正案などではない。何故なら我々は「逃亡」とも「犯罪」とも無縁な善良なる社会人なのだから、と。

韓国でも香港でも、国民は口をそろえて叫ぶ、「そっちがその気ならこっちも黙っちゃいない!」と。

欧米の話ではない、同じアジアであって、何故日本だけに「民主主義」が合わないのか?

韓国人(朝鮮民族)や中国人・・・(確かに「中国政府」は独裁政治ではあるけれども)「彼ら」を見下す日本人を見ていると、怒りとか悲しみなどといった感情よりも、馬鹿馬鹿しさと滑稽さが何より先に立つ。少なくとも韓国人や中国人は足蹴にされれば剥き出す「牙」を持っている。警察に迷惑を掛けないように、定時になったら解散と言った、うわっつらのデモの真似事とは根本的本質的に異質なのだ。

最後に、毎年この時期、決まって「恒久平和への祈り」云々という言葉があらゆるメディアで判で押したように書かれ、語られる。では訊くが、今、守るべき平和とは何だ?
具体的に、なにを守る?そして実際に何が、また誰が「イ マ ノ  ヘ イワ」によって守られている?

人が人でなくなるのは「戦争」に於いてだけではない。街が破壊されるのは「戦争」においてのみではない。一般に「ヘイワ」の属性と考えられている「進歩」「発展」「成長」「開発」「生活の豊かさ」・・・それらの名の元で、街並みは破壊され、人心は荒廃し、誰もがアノニマスになり、故郷は喪失される。

「ヘイワ」もまた破壊行為に他ならないということを誰も意識していないように見える。





1 件のコメント:

  1. こんばんは。

    ぼくは、どちらかと言うと、「平和」と言うのは、「進歩」や「発展」とは対極にあるものだと思っています。

    つまり、「平和」とは「緩やかなもの」と言うイメージですね。

    そして、その「進歩」や「発展」を要求する「社会」がある限り「争い」が起きる仕組みに成っています。
    ただし、今と昔の違いは、一口に「戦争」と言っても、現在起きているのは、「経済戦争」が主流で、「戦場」と成るのは世界経済のなかでの重要度が低いとみなされている地域が多いと思います。

    つまり、「いま争われているもの」とは「カネ」だと思います。
    (昔は、主に「領土」を争っていたように思います)
    「カネ」を獲得するための「競争」が、「現在の経済的な戦争」であって、実際の戦闘よりも、そちらの方がはるかに大きなシェアを占めているんじゃないかと思います。

    それから、ぼくはニュースを見ていないので、ほかの国のデモのことなどについては、ほとんど何もわからないので、何とも言えませんが、日本にもぼくらが子供の頃「赤軍派」や「全学連」などと言う、いわゆる学生運動が盛んだった時期がありましたが、ぼくは、ああいう「主義」に基づいた運動はあまり好きではありませんね。

    「何もしない人」よりは、いいような気もしますが、ぼくは「人間性」に基づいた運動ならば、支持します。
    つまり、「個人」をつぶすような「社会に対する反発」は支持しますが、「団体的な活動」には、あまり興味が持てないんですね。
    (民族運動や宗教は、ケース・バイ・ケースですね)

    昔の日本の学生運動などもその典型だと思いますが、どうしても「流行」の一種に見えてしまうんですね。
    現に、学生運動をしていた人たちが、けっこう人使いの荒いタイプの経営者に成っていたりしたような気もします。


    あとは、「時代」ですね。

    何を考えるときも、ぼくは、「時代」を考えに織り込んでいないと意味が薄くなってしまうと思ってます。

    「今の戦争」と「半世紀前の戦争」は、すでに全く違うものに成っていると考えないと、「戦争」について考えているときに、「半世紀前の戦争」について考えてしまっていることに成ってしまいますから、かなり話がズレてきてしまうと思います。

    これは「平和」であっても同じですね。

    一昔前であれば、とりあえず殺し合いがなければ、「平和」であると言えたかも知れませんが、今は、そうも言えなくなっています。

    これは、「権利」や「自由」についても、だいたい言えていて、「自由」を「ありがたいモノ」だと思っていると、だまされることに成ると思います。

    「権利」が平等でない社会においては、「自由」とは、即ち「権力者にとっての自由」であって、「民衆のための自由」ではありませんし、まして、間違っても「個人のための自由」ではありません。
    しかし、その「権力者にとっての自由」を、ただ単に「自由」と信じ込んでしまうために、その「権力者のための自由」を『民衆が一所懸命になって守る』と言うことに成ってしまっているわけです。

    これは、「表現の自由」や「報道の自由」と言う時にも、ほぼ同じようなことがいえる場合があると思います。



    ぼくは、「世界的な戦争」は、今後しばらくの間は起きないと思っています。
    なぜなら、「経済的にソン」だからです。

    世界経済が連動して動いている以上、世界のどこかで大きな戦争が起きれば、全体として、経済的にマイナスだし、さらに、そこに参加した国は、「ソン」して、不参加の国が、「トク」することに成ります。

    今は、大国を動かしている人たちは、「カネ」のことしか考えていませんから、「ソン」なことはしません。
    だから、どの国も「戦争」に、本気では参加したがらないと思いますよ。


    こういう話は、ぼくには、大きすぎて収集が付きません。

    まぁ、とにかく、そんな感じですね。


    尻切れトンボで、申し訳ない!

    それでは、また。

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