2019年8月24日

「間違い」について、その他雑感

今日(金曜日)は殆ど一日中寝ていた。朝8時前に寝て、夕方と夜の食事に起きて、
今さっき、既に日付が変わって8月24日土曜日になって初めてパソコンを開いた。

ゆうべふたつさんからもらった「「平和」は「戦争」の対義語ではなく寧ろ類語である」へのコメントも、昨夜の記事を投稿した後に気付いて、返事を書こうとしたが、どうしても考えがまとまらない。文章が書けない。



昨日の投稿は「わたしは「間違った存在」なのか?」という自分への、そして世界への問いかけで終わっている。

それに引っ掛けるわけではないが、最近の投稿での「間違い」・・・というよりも「誤り」を先ず訂正しておきたい。

先ず8月18日の投稿「もってけ泥棒!」の中でこう書いた

「日本の大学が競うように文学部を廃止してゆくのも、詰まるところ、あまりいろんなことを知ってほしくない、そして考えてほしくないからに他ならない。」

「日本の大学が競うように文学部を廃止している」という事実があるのか、実はわたしは知らない。先日まで「ブログ村」に籍を置いていたころ、ふと目に留まったブログに書かれていたことをそのまま転用したのだ。そのまま?・・・いや、この通りに書かれていたかも定かではない。とにかく太字部分を借用した。

昨日の東京新聞の文化欄コラム「大波小波」には、このように書かれている。

「大学入学共通テストと学習指導要領の「国語」改正をめぐる議論が、ようやく教育界の外部にも広がってきた。先日の本欄でも紹介していたが、『文学界』9月号の特集は「『文学なき国語教育』が危うい!」。(略)OECD加盟国等の15歳の生徒を対象に行われる学力調査で、2002年に日本は「読解力」の成績が著しくダウンした。「PISAショック」と呼ばれるこの出来事が、実用的な論理的理解力を重視し、文学作品を排除する今回の国語改革の契機となっている。だが12年に同成績は1位になっているのだ。この契機の曖昧さを、齋藤孝と前川喜平がともに指摘している。」・・・云々


「日本の国語教育から「文学」が排除されつつある」ということはどうやら確からしいが、「大学が競うように文学部を廃止している」という事実があるのかないのかは、実際にしかるべき資料を基に調べてみなければ事実以前の記述になる。
更に、本当にわたしが誰かのブログでこのような言葉を見たのかも今となっては心もとない。ひょっとしたら、わたしの創作であるのかもしれない。



次に「「平和」は「戦争」の対義語ではなく寧ろ類語である」で、わたしはまたもや誤った事実を書いている

「東京で、一夜にして10万人が犠牲になった1945年3月10日の大空襲・・・」

同じ日付けの東京新聞夕刊1面、(執筆者の「わが半生の記」とも「自叙伝」ともいえる)『この道』で、現在連載中の、作家、西村京太郎氏は、戦争時代を振り返り、昨日の紙面に、このように書いている、

「しかし45年を迎えると戦局はますます厳しくなっていた。それでも、私は、4月1日の東京陸軍幼年学校の入学に、興奮していた。
 3月10日、B29、300機が、東京の深川、本所、浅草などの下町の住宅密集地を爆撃、死者約8万3千人、被災家屋26万戸の被害を与えた。東京の東半分が消失してしまった。」



西村京太郎氏のいう死者約8万3千人が事実だとして、それを10万人と書くことが「どのような形での」「誤り」であり、何を以て「誤解」とするのか、わたしにはわからない。

肝心なのは死亡者の厳密な人数ではなく、それが1万人であろうと、200人であろうと、5人~10人であろうと、一般市民が無差別に殺戮されたことだ。仮にわたしが読者の立場であれば、8万3千人が10万人と書かれていても、それを「間違いだ」と指摘する気持ちはまるで持たない。だからこそ、南京大虐殺に関して、「中国側は何百万人の何十万人のと息巻いているが、実際は高々、〇〇人ほどで・・・」というような言い分は到底受け入れられない。

ただ、そうではあっても、上の「文学部」の廃止にしても、東京大空襲の犠牲者数にしても、
「この国の「日本語教育」から文学が駆逐されようとしている」「空襲で、一般市民が多数犠牲となった」という大枠での事実の合致によって、更に細かいところの誤りを帳消しにしたくはないし、そもそも、そういうことができない性分なのだ。

繰り返すが、大事なのは、今何が起きているか、嘗て何があったかを知り、それに思いを致すことであって、その規模は二義的なことであることに違いはない。
と同時に、わたしは殊に上の投稿について、ネットに書かれていたことを事実の検証を省いて、ウソかマコトかわからぬままに、読者に提供したという点に、割り切れなさを拭い去れないでいる。



そして昨日のデイケアの記事についても致命的な欠陥がある。

わたしはプログラムで行われた(集団)認知行動療法の「とらわれ」に対する心のケアについての資料を読んで、それを出席者全員の前で全否定したと書いた。
ところが、これを読んだ人には、そもそもその資料にどのようなことが書かれていたのかがさっぱりわからない。それでは「これはわたしも受け入れられない」とも「何故これでそんなに激昂するのかわからない」とも言えない。判断材料が提示されていない。
きちんとした文章になっていない。

以上のことは昨日の「認知行動療法」に対するわたしの生理的レベルでの反発と通底しているようにも感じられる。自分に対して、「まぁまぁ・・・」と言うことができない。言いたくないのだ。

昨日のわたしの発言の後にも、わたしにたいする反論、というか、自分はこう思うのだが、という意見がいくつか出た、これはデイケアに出席しはじめて強く感じることだが、全く同じことを、インターネットで、パソコンのディスプレイ上に表示された文字だけで読めば、必ずや反発していたであろう言葉が、同じ部屋にいる人の、穏やかな、基本的にわたしへの好意を込めた(或いは「敵意」を全く感じさせない)言葉で語られると、内容自体は受け入れられずとも、自然に、ごく当たり前に「(ご意見を)ありがとうございます」という反応になる。
先日Tさんと話した内容、彼女のアドバイス(?)は大方記憶の彼方に飛んで行ってしまった。けれども、彼女がわたしのために流してくれた涙と、終始笑顔で、わたしの話を聴いてくれたということは忘れない。

「身体性」或いは「マチエール」「テクスチャー」、わたしにとって「言葉」はそれらと切り離すことはできない。例えばJunkoさんではないが、同じ「このばか!」でも、目の前にその人がいて、ほほえみながら軽く肩を小突いて言うのと、インターネットのアノニマスの発するそれでは、その数文字の担っている意味が全く、まったく、異なるのだ。ときにそれは友情の証しにもなり、鋭いナイフにもなる。

無論現実の世界にも、言葉の本来の意味での「馬鹿ども」や「合わない人」はいくらでもいる。
しかし現実には馬鹿どころか、心優しい人でも、身体性(微笑や声音(こわね))を捨象された言葉は、ある種の人たちにとっては、高い確率で、凶刃になりうる。
いうまでもなく、それはわたし自身も例外ではない。わたしにとって、インターネットは、決して優れたコミュニケーションの道具とは言えない。

特に、Tさん、そして母に異口同音に言われたように、わたしのように「一つの声しか持たない」者には。 











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