2019年8月8日

「自己肯定感」とわたし


最近いつくかの「引きこもり」のブログで、「自己肯定感の低さ」についての記述があった。

何につけ勉強不足なので、「自己肯定感」とはそもそも如何なるものか?ということがよくわからない。

勝手な憶測だが、それは例えば「自分に自信が持てない」「劣等感が強い」「自己否定の感情に屡々(或いは恒常的に)支配されている」「人が皆、われより偉く見えてしまう」
── そのような感情のことだろうか。

世間一般に言われる「自己肯定感」とはなにかわからないが、わたし自身に「自己肯定感」といわれる物差しを当てがってみると ──


● わたしは「自分をあまり好きじゃない」というひとが好きだ。
時々自分が厭になるという気持ちを持たないような人は苦手と言っていいかもしれない。言い方を換えれば、自分を疑うことのない人は、好きではない。

● 「人に嫌われるのは簡単だ。ありのままの自分でいさえすればいい。そうすれば人は自然に遠ざかってゆく
経験上そのようなことを知り乍らも、人に合わせることができない。合わせようとも思わない。人に、世間に、時代時流に合わせた時点で、最早「本来のわたし」ではないと思うからだ。

●「自信」・・・以上のような理由からわたしは自分に自信がない。
何に対して?「社会」に対して、「他者」に対して。

わたしは自分を変えられないーありのままの自分は決して好かれることはない。

孤独、孤立無援ではあるけれど、自分の感性、自分の美意識は自分が守るしかない。


● 主治医も、また「いのちの電話」の相談員も、異口同音に言うのは、話している内容と話し方の著しいギャップということ。
「何故そのように堂々と、明瞭に、理路整然と、胸を張って「自己否定」や「希死念慮」を語れるのか?」

話している内容と、その話し方、つまり心(内面)と、それを表す身体 ー(非・言語的)表現の様子と、果たしてどちらが真実なのか。
「もちろん心で感じていることに決まっている」とは言い切れないのではないだろうか?

● わたしは自分を「愛されざる存在」であると思っている。何故か?愛された経験がないから。
愛されるためにはどうすればいいのか考えたこともない。何故なら、わたしがありのままのわたしで愛されないのなら意味がないから。

わたしは自分の内面が空疎であることを自覚している。
しかしそれを充たそうとする努力を厭う。

● 少なくとも、わたしにとって、「わたしがわたしであること」と「好かれる・愛されること」とは両立しない。そして好かれる努力とは、人に近づくために自分から遠ざかる努力のように思えるのだ。

嘗て人格障害の専門医に自信を持って「自己愛性人格障害」であると太鼓判を押された。その医師の指摘する「自己愛性人格障害」というものの内容が如何なるものかはわからない。自己に向かって、「自分が好きか?」と問うことは意味のないことのように思われる。好きであれ嫌いであれ、わたしはわたしでしかありえないのだから。

「わたしがわたし」であることが、「反(非)・社会」を意味しようが「非モテ」を意味しようが、それは最早わたしの与り知らぬ領域ではないだろうか。



※参考 

こちらのブログ 及び こちらのブログ で紹介されていたツイッターの「自己肯定感」に関する投稿。

ー追記ー

両ブログで紹介されているマンガの下に、筆者自身のコメントがある。

「肯定感なんて高めずとも、ありのままの自分を受け入れればいいという声もあるけど、その「ありのままの自分」を肯定できる力が必要なんですよね。 

自己肯定感が低い人って自分を受け入れる(肯定する)力が足りてないので。

自信がもてる人にならなきゃ、とプレッシャーに感じることはないですよ~」
(下線Takeo)

「あるがままの自分」を守り抜くことが、とりもなおさず人との距離を生むということについて、この筆者はどう考えているのだろう。

「自己肯定感」とは異なるかもしれないが、嘗て瀬里香さんと知り合ったQ&Aサイトで、次のような質問をしたことがある。

最後にその質問とベストアンサーの回答(それに対するわたしの補足とお礼)を紹介する。


Q:エミール・シオランにこんな言葉があります

自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
 だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。


それはそうなんだけど。では、全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか?
そもそもその上で、尚、生きる意味とはなにか?

ご意見をお聞かせください。


BA:>『自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』

これって、自分に絶望した場合は、自殺するのは仕方ないが、人に嫌われたくらいで自殺するな!!!
という意味でしょうか。

嫌われる人って、自己中の人が多いと思うのですが、そういう人って、結構、自己愛が強く、自分で自分のことを愛しているような気がしますよ~。だから、なかなか絶望しないので死なないんじゃない?

それから、

『あの上司、嫌いなんだけど、仕事は出来るんだよな~』と愚痴をこぼすサラリーマン、
『あのホスト、自己中なんだけど、体の相性は良いんだよね~』と言うキャバ嬢、

嫌われてても、評価されている人間も居るということですよね。

『私のことは嫌いでも、◎◎のことは嫌いにならないで下さい』と叫ぶアイドル、

自分は嫌われても良いから、自分の大切なものを守りたいという気持ちでしょうか?

その辺にも、答えがあるのではないでしょうか。

ということで、全人類に嫌われても、何か、別の『生き甲斐』さえあれば、人間、生きていけると思います。

そうそう、『この子猫ちゃんさえ居れば、男なんて要らないわ!!』と豪語していた女性を、どこかで見かけた様な気がするのですが、そんな女性を見たことがあるのは、私だけでしょうか?
それとも、これは、男に愛されない寂しさの裏返し?
う~ん、でも子猫と幸せそうな生活を送っている人達の笑顔を見ると、嘘ではなく本当に幸せそうですけどね。


ちなみに、私が、全人類から嫌われたとしたら、
嫌いな人間に対しても大人の対応をしてくれる会社に就職し、とりあえず給料を稼ぎつつ、
生き甲斐を見つけて暮らすでしょうね。

例えば、日本一美味しい大福探しとか、世界遺産巡りとか、スタップ細胞作成とか、ロールプレイングゲームのクリアとか、ゴミという名のお宝集めとか、アイドルのおっかけとか、Q&Aサイトの回答とか。。

その人なりに、何かやりたいこと、生き甲斐を見つけるんじゃないかと思います。


質問者補足:『自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
 だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』

これは頂いた回答を読んでからの「質問」の補足ですが、
「嫌われる」ということが何かのアクションの結果という因果律抜きに、
正に「自分が自分であるが故」の理由で嫌われること。を考えます。

シオランの言葉を置き換えれば、

『自分が、現にある通りのものであるがゆえに全人類が顔に唾を吐きかけてきた。』なら、どうするか?

これは抽象的な議論ではなく、若いころからの質問者の切実な問いなのです。

あなたが「○○だから」きらい、ではなく「あなたがあなたであるから」きらい。と、いうこと・・・


質問者お礼:こんにちは。

ははは。面白いご意見ですね。

>『この子猫ちゃんさえ居れば、男なんて要らないわ!!』と豪語していた女性を、どこかで見かけた様な気がするのですが、そんな女性を見たことがあるのは、私だけでしょうか?
それとも、これは、男に愛されない寂しさの裏返し?
う~ん、でも子猫と幸せそうな生活を送っている人達の笑顔を見ると、嘘ではなく本当に幸せそうですけどね。

そう思います。つまり「人間にまんべんなく嫌われても、尚人間以外の生命が存在する」という救いがあります。
全人類に嫌われても、この犬が、この猫がわたしを好いてくれている。それは幸せなことですね。
充分生きる価値になると思います。

説得力のあるご意見です。

わたし自身、「ひとにはまんべんなく嫌われている」という自覚と、まあ「自信」(?)があるので、動物には好かれたいです。

鳥や獣、草や花など、自然界のあらゆる生き物と心を通わせることができたという、アッシジの聖フランチェスコのように。

とても面白いご意見を聞かせていただきました。
ありがとうございます。




・・・故にわたしは自然を愛する。そして障害者や無宿者、乞食、果ては殺人犯にすら親和性を感ずる。少なくとも世の健常者に比べて、殺人犯は、世間から嫌われ、憎まれている点に於いて、わたしとの共通項を持っているからだ。わたしと、心身共に健康な者とは全く何の共通点も接点もない。



多分わたしが最も困惑しているのは、一般に言われる「自己肯定感の低さ」ではなく、
「自分は決して好かれることはない」という「絶対的な、揺るぎない自信・確信」に因るのだろう・・・
それほどまでにわたしはわたしを嫌っているのだろうか・・・?
だとすれば、何故そんな自分にそうまでして固執するのか?
何故そんな自分を放擲しようとしないのか?

わからない・・・

「わたしは誰からも愛されない」ではなく、「誰もわたしを愛することはできない」という、ある種不敵ともいえる表現が用いられる(=そのような感情が存在する)のは何故か?それをどう解釈すればいいのか・・・





















3 件のコメント:

  1. こんばんは。

    きのうのコメントについては、勝手なお願いをしてすいませんでした。
    あのコメントは、どうしても、この場にふさわしくないと思ったので。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「自己肯定感」についてですが、いつも、Takeoさんの「自己評価」について、ぼくが感じることがあります。

    「Takeoさん自身の自己評価」と「他者によるTakeoさんの評価」が入れ替わっているときがあるような気がするんですね。

    たとえば、「愛されざる者」ということですが、その「愛されざる者」とは「他者の評価に基づく愛されざる者」なのか?それとも、「Takeoさんご自身の判断に基づく愛されざる者」なのか?そこが、入れ替わっているときがあるような気がします。

    もしも、「他者の評価に基づく愛されざる者」であるなら、それは「その他者」が決めることであって、Takeoさんには、判断することができないはずですよね。

    しかし、一方で、「Takeoさん自身の判断に基づく愛されざる者」であるとすれば、それは、本当の意味での「愛されざる者」とは言えない気がします。
    つまり、それは「愛されざる者」というよりは、「愛されざる者だとTakeoさんが思っている者」ということに成ります。
    そうなると、その「愛されざる者」は、本当に愛されていないのか?それともTakeoさんがそう思っているだけなのか?そこを確認することはできません。


    これは、Takeoさんに限ったことではなく「自己肯定」が苦手な人全般に言えることのような気がしますが、やはり、「自己評価」というのは、「自身の判断に基づいた評価」ということに成るはずですから、実は、そこに「他者が決めること」を持ち込むことには無理があるんだと思います。

    それだと「他人の意思」を「自己判断」してしまっていることに成ってしまうわけですね。

    これは、「自己愛的な人」にも同じことが言えていて、「自己肯定が苦手な人」が「他人の意思」を、常に自分にとってマイナス方向に判断してしまうのに対して、「自己愛的な人」は、それを、常に自分にとってプラスの方向に判断してしまうわけです。

    それで、どちらも、かなり事実とは違うことが出てきてしまうということでしょうね。

    単純に言って、「信頼できる他者による判断」を信じることが出来れば、それがほぼ事実に近い場合が多いんだと思います。
    『そこに身をゆだねる』というようなことに成ると思います。
    それが出来た人は、極端な「自己否定感」からは逃れられるような気がします。

    もちろん、『それが出来れば、苦労しないよ!』という話だと思います。
    まぁ、「他人の判断を信じること」は意外と難しいことかもしれませんけど、少なくとも、「自分の判断」と「他人の判断」を区別することは、難しいことではないような気がします。

    「他人の判断」を、勝手に自分が判断してしまっているとしたら、「その自分の勝手な判断」に、それほどの確信がなくなるということはあると思います。

    要するに、「自己肯定」とか「自己評価」とかと言っていますが、実のところ「他者による評価」について「自己判断」を下してしまっていることが多いわけで、そこには、矛盾があるのは確かなことですね。

    こういうことで、「自己肯定感」が持てるように成ることがあるのかどうかはわかりませんが、少なくとも「他者の判断」を自分で判断することに無理があるというのは、かなり事実に近いことだと思います。

    Takeoさんが、「他者の判断」を「自分の判断」よりも優先することはないのかもしれませんが、「他者についてのことを独断する」というのも、また、Takeoさんの性質と少し違うような気もしますね。


    残念ながら、これ以上は、わかりません。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ちなみに、ぼくは他人から全く評価されません。
    普通の人が「100点」取れば「5段階の5」ですが、ぼくは「100点」取って、やっと「5段階の2」ですね。(いや、嘘じゃなくて本当にあった話です)
    たぶん、先生から嫌われてたんだと思います。
    でも、今でもそういう感じなんで、いろんな人から嫌われてるんでしょうか?
    これも、これ以上はわかりませんね。

    それでは、また。


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    1. こんばんは。

      仰っていることはよくわかります。

      ただ、

      >「愛されざる者」ということですが、その「愛されざる者」とは「他者の評価に基づく愛されざる者」なのか?それとも、「Takeoさんご自身の判断に基づく愛されざる者」なのか?

      厳密にはその通りですが、わたしにとっては、その区別はどうでもいいのです。言い換えれば、「わたしは愛されていない(と感じている)」この括弧があろうとなかろうと、意味は全く同じなのです。というよりも、寧ろ「と感じている」ことがすべてと言っていい。誰かがわたしに好意を(恋愛的な好意に限定されません)を持っていたとしても、それがわたしに通じていなければ、わたしは「誰からも好かれない者」であると思っていい(「いい」という言い方も変ですが)。だってそうしか思えないじゃないですか。

      これも妙な譬えですが、現実に腹が満たされていることと、それでも空腹を強く感じることとは別のことです。つまり「あなたはちゃんと食事をしたのだから空腹のはずがない」とは誰にも言えないと思うのです。
      彼の空腹は「彼にとっては」現実なのだから。

      ですから

      >「Takeoさん自身の判断に基づく愛されざる者」であるとすれば、それは、本当の意味での「愛されざる者」とは言えない気がします。

      「本当の意味で・・・」という客観性はどうでもよく、自己が現実にどのように感じているかがすべてなのです。

      「幻肢痛」というのがありますね。自己や病気で腕や脚を失ってしまった人が、無いはずの手や脚の激痛を訴える。
      それに近いように思えます。「脚が無い」という「現実」「事実」はそこでは何の意味も成しません。

      わたしは自分の判断と他人の判断を混同している、或いは自分の判断を、他者の判断であると決めつけている、思いこんでいるわけではありません。

      「愛されざる者」というのは、「あくまでもわたしの判断」です。そしてそこに私を導いたのは、過去も、現在も、現実に愛されていないと感じている「主観的事実」に他なりません。

      そもそも「現実に他者に愛される」ということがどういうことか、わたしにはわかりません。わたしが過去から今に至るまで、知っているのは、「愛されていない」「永遠の孤独」という「実感」だけです。

      >「愛されざる者」は、本当に愛されていないのか?それともTakeoさんがそう思っているだけなのか?そこを確認することはできません。

      とふたつさんが言うように、

      「「愛される者」は、本当に愛されているのか?それとも彼・彼女がそう思っているだけなのか?そこを確認することはできません。」

      そう、他人の真の気持ちを推し量ることはできません。

      わたしは「信頼できる他者」という者に嘗て出会ったことがあったでしょうか?
      それは決して「人は信用できない」という意味ではなく、いつも言っているように、人は変わります。
      「あの時同じ花を見て美しいといったふたりの心と心が今はもう通わない」ということ。それが人間関係の本質ではないでしょうか?
      無論例外も多くあるでしょうけれど、不変の人間関係というものが考えにくい以上、
      「この人もいつかは・・・」と常に思いながら生きてゆくのは大変なことです。

      >「他者についてのことを独断する」

      つもりはありません。独断とは、「彼・彼女はわたしを嫌っている」と決めつけること。そうではなく、「彼も彼女もわたしを好きではないだろう」という主観的事実がすべてなのです。それとは反対の「事実」があったとしても、その「事実」はわたしにとってどのような意味を持つのでしょうか。

      ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品に『エル』という映画があります。心優しい紳士ですが、同時にとても嫉妬深い。無論暴力を振るったり罵ったりはしません。ただ、「彼女は僕を愛していないのではないか?別の誰かを・・・」と常に煩悶しています。
      最後に彼は修道院に入るのですが、神父と話して宿舎に戻るとき、右へよろよろ左へよろよろと、真っ直ぐに歩くことができません。

      この映画は精神分析医のジャック・ラカンが講義に使ったといわれています。

      つまりわたしのものの見方感じ方は、通常の人と同じではない、寧ろ哲学や精神病理学的な領域に属するものであると言えるのではないか、ということです。



      わたしもいろんな人から嫌われていると思います。
      (「わたしも」という言い方は不適切ですね)
      ふたつさんが嫌われているなんて、不合理な思い込みですよ。(笑)

      よくいじめなどで「学校へ行かなくてもいい」という表現をしますが、「行かなくてもいい」ではなくて「行ってはいけない!」が適切な言い方だと思います。「逃げてもいい」じゃなく「すぐに逃げろ!」です。








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  2. こんにちは。

    これは、ぼくにも分かりやすかったですね。
    Takeoさんの言いたいことが、よくわかった気がしました。

    それから、最後の「逃げてもいい」じゃなくて、「すぐに逃げろ!」は、全く同感です。

    たぶん、多くの人が、「すぐに逃げること」で、「本来なら逃げなくても済んだ人」まで、逃げてしまって、後悔するんじゃないか?と思うのかもしれませんが、おそらく「逃げ遅れること」による後悔の方が大きい場合は多いような気がします。


    ぼくが、嫌われているのは、思い込みというよりも事実ですよ。
    ぼくは、事実でもないのに、そんな風に思い込むタイプではないので。
    どちらかと言えば、楽天的な方だと思います。
    だから、一人に好かれているだけでも満足できるというだけです。

    でも、楽天的でも、嫌われる人も居るんですよ。
    その「〇〇的」に何を当てはめても同じだと思います。

    唯一の例外は「人に好かれる的」だけですね。

    では、また。


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