中上哲夫のエッセイによると、詩人、リチャード・ブローティガンの家の鍵穴は、玄関の扉の、地面から20~30センチくらいのところにあったらしい。
ブローティガン家の鍵を持っているものは、誰でも鍵を掛けるとき、開けるときに蹲らなければならない。
その人々の姿を想像しておかしくなった。
しかし同時に、外から帰って来た時、またこれから出かけるときに、その蹲った姿勢のまま、動けなくなることもあるだろう。何とか立っていた、けれどもいったん蹲ってしまうともうダメだ。からだが、というより、こころがその場所で石化してしまう。
立っていることで何とか抑えられていた悲しみ、涙が流れ出す。
すこし強引に結び付けているように聞こえるかもしれないが、
生活の中で、殊に、これから外の世界へ出てゆくとき、外界からわが家に帰還した時、
一旦「蹲る」という姿勢を採ることはきっと大事な儀式、作法、所作に違いない。
日に幾度か、自分の視線、体勢をぐっと下げてみるということは。
物理的に「小さくなってみる」ということは。
「悲しみの姿勢」を採ってみるということは・・・
それは敬虔な信者が、日に何度か(大いなる何か)に「頭(こうべ)を垂れる」ことに通じてはいないか。
ブローティガン家の扉。それはきわめて深い、そしてやさしい哲学に基づいて設計された、「人生の出入り口」ではないのか・・・
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