2019年8月25日

中上哲夫、暗い言葉たち・・・


不満、苛立ち、反抗、挑戦、皮肉、憤怒、躊躇、拒絶、嫌悪、憎悪、不機嫌、唾棄、嘔吐、疾走……と言った精神が危なっかしく沸騰しあふれ、敗走や諦観もそこにからまりあいながら、果敢な異議申し立てになっていた。傲慢で卑劣な現実世界に安住することを拒否して、まず積極的に「逃げ出したい」という願望に貫かれていた。

当時中上哲夫は会社を辞め、暗い顔をして旅に出ようとしていた。その後の生き方も含めて、彼は仕事も住まいも安穏として定着できないタイプの人間だった。定着と流動をくり返してきたと言える。それが本来詩人のあるべき生き方、とは単純に言いきれないけれど。日常に対して不満を持ち、嫌悪し憎悪しながら、欲望に従ってすんなり旅へ出たり逃げ出したりできれば、この世も与しやすいものだけれど。意のままに生きられるならば、苛立ちも日常のレベルで解消できるだろう。「とどまっている男のモノローグ」という詩のエピグラフに引用されたヘンリー・ミラーの言葉通り、「とにかく行くのだ、きみが行けば世界もいく」、それが可能ならば、世界の構造がそんなに単純であるならば、詩はもう少し楽天的になれる。でも「とにかく行」きたい。

中上哲夫の詩は、一貫して、外へ発散する形で、カッコよく青春の不満を吠えたて、「ノー!」を言い続けてきたわけではない。自分の内部の屈折をすでに初期から内包していた。第三詩集『さらば、路上の時よ』では、ビートニックの風はむしろおのれに向かって吹いていた。「ああ、六十年代のロックンロールはもうたくさんだ」「歩いているのは確実に老いていくわたしたちだ」「本日休診 / 抒情詩も休みだ」「人もまた過行く風景に過ぎないか?」等々。
また巻末に収められた「さらば、路上の時よ」は次の行で終わる。

わたしたちはこうして少しづつ滅んでゆくのか?
青春の詩法とともに!

第一詩集から十四年後の詩集『記憶と悲鳴』で詩は大きく変容する。おのれの来し方や日常と向き合う要素が色濃くなる。
 (略)
けれどもそれはかつての若造の青春の敗北なのではない。そうではなくて変容である。詩の精神が挫折し敗北したのではなく、内省し、前向きに変容したのである。白石かず子は『さらば、路上の時よ』の書評でこう看破していた。「自分の内部へと坑道をほっていく、きわめて個人的なそして真にあるべき自由への求道であり、自分の内部への容赦ない告発と挑戦である」(「詩芸術」1978年)

その後も、「自分の内部へと坑道」を掘り進んで、今日に至っている。ひたすら外部へと向かって一途に青々としていたパワーが、成熟しながら詩の錘鉛をおのれの内部へ深く降ろしつつあった。」

『中上哲夫詩集』解説 八木忠栄(2012年)より抜粋 (下線・太字Takeo)



上記は、中上哲也の20代初めの頃からの同人誌仲間が2004年に書いた文章に、
中上の詩集『ジャズ・エイジ』が2012年に出版された際に大幅に加筆して収録されたものの抜粋である。

この文章に共鳴したというよりも、引用の冒頭に列挙された「暗い言葉たち」にわたしは惹かれたのだ。
ただし、「挑戦」「疾走」という言葉はこの一群の言葉たちの中ではある種の「光」を孕んでいるようで、これは除外したい。
疾走よりは、すぐ後に書かれている「敗走」乃至「逃走」だ。

また、白石かず子が『さらば、路上の時よ』の書評で記したという
自分の内部へと坑道をほっていく、きわめて個人的なそして真にあるべき自由への求道であり、自分の内部への容赦ない告発と挑戦

わたしが共感できるのは、

「自分の内部へと坑道をほっていく、自分の内部への容赦ない告発・・・」
という部分に限る。わたしがここでやっていることも、これに近いと思う。
けれどもそれは「真にあるべき自由への求道」なんかじゃない。
わたしはただ、無目的に、或いは自己目的のために・・・ただ内面を掘り進めるという盲目的な衝動によって、自己の内側へと沈潜してゆく。シンニ  アルベキ ジユウヘノ グドウ・・・などという古めかしい「スローガン」は面映ゆく、鼻白んでしまう。

わたしは旅というものを知らない。また、今の時代が旅が可能な時代であるのか、確かめるすべもない。今の時代、おそらく唯一の、そして本物の「旅」と言えるのは、以下に中上が書いているようなものではないだろうか



暗い
われわれの時代の
性病者、精神病者、夢遊病者
酒精中毒者、薬物中毒者
虞犯者、犯罪者、犯罪予定者
漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者
意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者
フェティシスト、トランスヴェスティスト

「今夜わたしは渋谷「千両」の節穴からわたしの世代の幻を見る」(5)

わたしは冒頭に列挙した言葉たち同様、このような「者」たちに惹かれる。
わたしはこの中のいかなる「者」にも「イスト」にも嫌悪も偏見も持ってはいない。
現代の「旅」は、おそらく自己の内面深くへの(垂直方向の)旅であり、異端異形人外(にんがい)へのメタモルフォーゼの過程にこそ見出せるものかもしれない。

「まとも」「正常」「ノーマル」。上記の文中にすら見える「前向き」・・・そんな眩い言葉の数々・・・とてもじゃないがついてゆけない。


ゲーテに逆らい、「もっと闇を!」と叫んだのは誰であったか・・・










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