2019年8月17日

金曜の午後1時半。(大切なものは何か?)


今日は先日からの約束通り、デイケアのスタッフTさんとの話し合い。
Tさんによると、当初わたしは「自分が何者かわからない」ということでTさんと話し合いの場を持ちたいと希望していたということだった。僅か一週間ほど前のことだが、そもそもそういうことでの面談を希望していたことなどすっかり忘れていた。

昨夜わたしはぼんやりした頭で、今現在(実際そのほとんどは過去から形を変えながら引き継がれている問題なのだが)突き当たっている壁のあれこれをリストアップした。
それらは、「自分とは何か?」ではなく、昨日も書いたように、例によっての「他者との軋轢」に関することだった。
けれども、木村敏の他者論にもあるように、自分というものは、「自分以外の他者」があって初めて成り立つ概念だ。他者との様々な関係性の総和が即ち「わたし」である。
だから「他者との軋轢」「他者との不和相克」を検証することは「自分とは何者か?」を探ることに等しい・・・と、無理やり自分の健忘を正当化しておく。

お盆ということもあってスタッフがいつもより少なく、面接の開始が15分ほどずれ込んだ。デイケアルームは最上階=6階にあって、プログラムを行う部屋は中学校の教室をちょっと小さくしたくらい。隣にある大部屋は、その2倍以上あるだろうか。見晴らしのいい窓に面して横長の机が並べられている。そこがわたしのいつもの待機場所である。ただそこに遊びに来る人たちもいる。大抵は誰かしら相手を見つけて将棋をしたり、おしゃべりをしたり、トランプをしたり。

今日も午後のプログラムが始まり、隣の部屋との仕切りが閉じられたころ、ぼんやりと窓の外を眺めていたわたしの耳に、年配の女性の「ねえ、トランプやろうよー」という声が聞こえてきた。一番入口に近いテーブルからだった。
そしてわたしは一番奥の窓際で、お茶を飲みながらTさんを待っていた。



面接はスタッフ・ルームで行われた、今日いた4人のスタッフの内、2人はプログラムの進行役だ。もう一人は?

「・・・今日は、今抱えている問題の解決法を探るということではなく、
いまわたしが、どのようなことに悩んでいるかということをTさんに知ってもらいたいと思います。そしてそれらの「悩み」を通して、わたしという人間の内面を少しでも知ってほしいのです。
この紙にほとんど殴り書きのように羅列された「悩み」を読んでもらって、それらになにか「共通するもの・心理的傾向・考え方や感じ方の特徴」のようなものが、朧気ながらでもTさんに見えれば、或いは感じ取ってもらえればそれでいいと思っています。
紙の表には「悩み事」が並べられています。裏側が余ったので、日頃からわたしが生きていく中で感じていることをうまく表現している言葉をランダムに書きだしてみました。
落書きのようなものですが、案外そんな落書きめいたものからその人の本質が垣間見えることもあるのではないかと・・・

それからこれを読んでもらう前にひとことだけ。 Tさんを待ってる間、ほら、いまそこでトランプしてる人たちがいますよね。その中の一人が、誰にともなく「ねえ、トランプしようよー」って。その言葉を聞いた時に、なにか胸が熱くなって、心がホンワカするような感じになりました。」

「そのこころがほんわかあったかくなるようなって、もうちょっと具体的に言える?」

とTさんに訊かれて、急に涙がこぼれ出て、言葉が続かなかった。辛うじて言えたのは、「ああ、仲間がいるっていいなあという感じ、そしてなにかとても懐かしい感覚・・・わたしは団地に住んでいるんですが、最近はもう聞かなくなりましたが、以前、同じ団地の女の子が、ナニナニちゃん遊ぼう!っていってるのを聞くとやっぱりすごくあったかい感じというか、懐かしい声に触れた、というか・・・」

「それはTakeoさんに向かって言われてる感じ?」

「いえいえ。わたしはそういう世界とは無縁ですから」

その後渡した紙を読んで、Tさんは主に、裏面の、特に外国の歌の歌詞に強く反応したようだった。

そこには例えばイーグルスの『デスペラード(ならず者)』からの

You better let somebody loves you, Before it's too late.

とか、

時々ブログに引用するディーン・マーティンの、タイトルそのままの

You're nobody till somebody loves you.

そしてアル・グリーンのこれもタイトルになっている

I'm so tired being alone

ジャズのスタンダード・ソングから

There was a song of love but not for me, the lucky stars above but not for me...

それを読み終えて、わたしが感想を聞くと、「うーん。一言でいうと「つらい」」

「ええ、でもそれはこのデイケアに来てる人みんなそうじゃないですか?みな辛いからきてるんじゃないですか?」

「うん。エピソードとしてはつらい経験した人いっぱいいるよ。でもなんていうのかなあ、わたしがこれを読んで感じたTakeoさんのつらさって、そういうのとは違って・・・」

その後Tさんが何を言ったのか残念ながらよく覚えていない。

その後の話の詳細は省略するが、Tさんのことばで印象的なのは、

「Takeoさんて、とっても弱い人なんだよね。でもさ、ブログなんかで、大勢が寄ってたかって、例えば引きこもりの人とか、みんなが誰かを集中攻撃しているのを黙ってみてられないんだよね。そしてものすごく自分に自信がないんだけど、自分の価値観は決して曲げないじゃない?そういうところがひょっとすると、「強い人」のように受け取られちゃうんじゃないかな」

このように面と向かって「Takeoさんて弱いんだよね」と「言ってくれた」人は、過去に主治医と、いつも話している「親友」だけだった。
主治医は、その見かけと内面のギャップこそがTakeoさんの生き辛さの、人から誤解を受ける大きな原因でしょうねと、夙に指摘していた。
そして嘗て主治医に、わたしを自己愛性人格障害と診断した町沢医師を、「まあ町沢氏自身、自己愛的な人ですから」と言われたというと、Tさんは笑いながら肯いていた。



某氏の発言にいかにわたしが傷ついたかを話した時に、Tさんの目が真っ赤になった。
「その人にすごい怒りを覚えるけど、でもその人って不幸な人だね。そしてかわいそうな人だ・・・」

わたしのために一粒の涙を流してくれた人がいた。もうそれだけで充分だった。

わたしが周期的に、言葉への不信感(殊にネット上での)を顕わにするのも、人間そのものが見えない聴こえないからだ。

「ねえ、トランプしようよー」という言葉に胸が熱くなって、Tさんにそれは何故?と訊かれて涙がこぼれたのも、他ならぬ70歳を超えた女性の声に、その声音(こわね)に、言い方に、「知」ではなくわたしの「情」の部分が共鳴したからだ。「ナニナニちゃんあそぼう!」だって同じだ、自分にそのような友達、仲間がいないという現実以上に、わたしは生身の人間の「こえ」に、そして「一緒にあそぼう」という人間本来の在り方に心動かされたのだ。

Jazzのスタンダード・ソングに「イン・ザ・ムード・フォー・ラブ」という歌がある。
冒頭に歌われるのは、
I'm in the mood for love simply because you're near me...

何故か恋の気分なのは ー Simply because you are near me ー 「単純なこと、あなたが傍にいるから」

「傷を舐め合う」という表現に強く惹かれると書いたのも同じことだ。

「全き抱擁」というのはまるで観念的なことではなく、上に書いたことの総体としての、正に具体的で身体的な『膚接』に他ならない。







2 件のコメント:

  1. こんばんは。

    取りも直さず、Takeoさんが「彼ら」と決別したことを祝福したいですね。

    持っている意味は、まったく違うかも知れませんが、辺見さんや、西部さんとの決別と同じように価値のある決断だと思いますよ。

    つまり、今までTakeoさんは、「敗者であること」を望みながら、「彼ら」を許すことを嫌うあまりに、「自分に対する敗北」を選択させられてしまっていたような気がします。

    「彼らを放すということ」は、「彼ら」を解放することではなく、「彼ら」に対して、「彼ら自身の内なる戦い」をもたらすことにつながると思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    あと、ぼくは、このブログを読んで三回に一回くらいは涙が出る時があります。
    なぜかはわかりません。
    とにかく、そう成りますね。
    そして、それが、どちらかと言うと『悲しい』と言うよりも『うれしい』と言う感情に近いんですよね。

    カタルシスのようなものかもしれませんが、よくわかりません。

    では、また。


    追伸:さて、とりあえず、何して遊ぼーか?

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      今日底彦さんとJunkoさんが加わってくれました。瀬里香さんには声をかけてありますが今のところこれといった反応はありません。

      >「彼らを放すということ」は、「彼ら」を解放することではなく、「彼ら」に対して、「彼ら自身の内なる戦い」をもたらすことにつながると思います。

      さあどうでしょう。彼らは反省・内省と言うことを知りませんから。ま、どうでもいいですけど(笑)

      わたしが「ねえ、トランプしようよー」という声に胸が熱くなったのは、やはり人間て仲間あっての存在なんだなと感じたからでしょうか?
      まああらゆる感情を言葉に置き換える必要はありませんからね。

      わたしには、このブログつまりわたしの内面をふたつさんが、底彦さんが、Junkoさんが、そして瀬里香さんがどう見ているのか正直見当もつきません。

      でも塚田さんを含めみなさんが、わたしは彼らより劣っても、孤立してもいないということを、この猜疑心に満ちたわたしに納得させてくれたのです。

      辺見庸はわたしの考え方に大きな影響を与えました。良かれ悪しかれ文章のスタイルにも。わたしは貧しさと孤独の中で死なないと認めないところがあるので、それじゃあ誰の本も読めませんよね(苦笑)
      人に求めるものが大きすぎるのでしょうか?

      ま、とりあえずビールですか?(笑)



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