2019年8月10日

「わたし」という謎


「デリダが差延とか痕跡とかいうことを持ちだしたのは、哲学的現象学を含む従来の形而上学に異議を表明して、これまでの現象学を「脱構築」するためでした。しかし「脱構築」(Deconstruction) は否定ではありません。現象学は脱構築によってはじめてその成立の根拠を露呈されることになります。それは精神病理学のいとなみが異常への着眼を通じて正常性を解体し、それによって正常性の成立の根拠を露呈しようとするのと一脈通じています。逆に言えば、正常性の根拠が明らかにされないかぎり、異常の構造は認識できません。
 
『分裂病と他者』木村敏 第六章「直観的現象学と差異の問題」より(1990年)



武田泰淳の評論集『滅亡について』に収められた小論に、「孤立と独特の認識の化け物」というポール・ヴァレリーの「テスト氏」の中の言葉を見て、「あ、わたしだ!」と直観 / 直感し、木村敏の『異常の構造』の中に記述されていた「自分が他の人たちと同じ人間であるという実感がない・・・」という分裂病患者の言葉を見た時、「同じだ!」と思った。

自分は化け物であり、人間であるかどうかさえあやふやだ。
確かに「あなたは何者ですか?」と訊かれて、スラスラと答えることができる人間はいないだろう。せいぜい社会的な肩書を言い、趣味を伝え、自分の考える良いところと欠点を話すくらいが精一杯ではないだろうか?

でなければゴーギャンの作品『我々は何者か? どこからきて どこへ行くのか?』という大仰なタイトルは、失笑苦笑の対象になってしまうだろう。

しかしそれにしても、自分を「(独特の認識の)化け物」と称し、「人間であるかどうかも分からない」という人も極めて稀だろう。

それほどまでにわたしは「わたし」がわからない。更に言うなら、何がわからないのかさえわからない。

このような状況に陥ってしまえば、最早通り一遍の精神科での「治療」(!)や精神保健福祉センターや保健所の精神担当の保健師と話したところで何の糸口も掴めない。

わたしは「カウンセラー」や「セラピスト」という人たちとじっくり話したことはないが、彼らがわたしの闇を照らしてくれる能力を備えているとは思えない。
彼らが凡庸というのではなく、わたしが特殊すぎるのだ。

1980年代に木村敏氏は、ハイデッガーの没後、精神医療は欧州に於いても、ポスト構造主義などの新思想=「哲学」への関心を急速に失っている。というようなことを述べている。

「哲学」イコール「人間学」であるならば、精神医療に携わる者にとって、哲学の素養は必須ではないか。

とはいえ、とりわけ日本の精神医療の世界に於いてそのような夢物語を語ってみても仕方がないので、自分とはなにか?その朧な輪郭くらいは見えるようにするために、木村敏氏の著作、そしてそこで触れられている哲学者たちの本を、「咀嚼」は覚束ずとも、せめて、「舐めてみる」くらいはしなければ、身動きが取れない。

しかし難解な本であっても、厭々読んでいるわけではないので、苦行ではない。
そして世の中で、疑いもなく受け入れられていることに対して疑問をはさむことはエキサイティングなことでもある。

ちなみにデリダやドゥルーズと言った哲学者たちは、わたしが大学生の時代にニュー・アカデミズムのムーヴメントとして「流行」していた。

そんな人たちが「過去の人」になりつつある今、ようやく落ち着いて彼らの著作に向き合えそうな気がする。

彼らの思想のキーワードを知るだけでも面白い。

a man with a past 「過去と共に生きる男」としては、デリダのいう「現前の特権」という言葉に興味を惹かれる。

「デリダの思索は、従来の形而上学が支配していた「現前の特権」を徹底的に脱構築することに向けられます。現前の特権とは、時間的に言えば「現在の特権」であります。
(同上ー傍線Takeo)

世の人たちは「わたし」だの「自分」だのにかかずらわっているほど暇ではないのだ。

何故なら彼らは「幸福になることに忙しすぎて」とカミュは言ったが、多忙が幸福の起点となるような時代だろうか・・・







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