2019年8月27日

「祈り」について2


雨の埠頭に座っている男性に「ただ、祈ってくれればいい」と言われて、わたしは彼に、いったい何に?或いは誰に祈ればいいのか?と訊くだろう。

それに対して、「何に」または「誰に」、という答えが得られるのかすらわからない。
しかしそれがわからなければ、わたしは祈ることができない。

けれども、仮に「仏様に」「イスラムの神に」「キリストに」・・・といわれても、その祈りの対象が誰であれ、わたしは「祈りの方法」を知らない。

仏にはどう祈ればよいのか?

アラーの神、或いはマホメッドにはどのように祈りをささげればいいのか?

「キリスト教」といっても、カソリックとプロテスタントでは祈りの形も違うだろう。
香港が英国領であったからには、イギリス国教会ということも考えられる。

祈りの向かう対象が何であれ、また誰であっても、わたしは一切の祈りの作法を知らない。

祈りの作法とは、それに対して思いを届ける「言葉」「言語」だ。

昔の人たちは、たとえ文字が読めず、書けなくとも、誰もが「祈りの作法」を知っていた。「祈りの言語」を持っていた。けれどもわたしは、辛うじてわずかな言葉を読み、書くことができても、人間として最も根源的な、大いなるものとの対話の方法を知らない。

それが仮に「何々教」というような、大きく「神」という言葉で示されるものではなく、大自然に向かって祈る方法さえ、わたしは知らない。大いなる自然に呼びかける言葉を、声を、わたしは持っていない・・・










4 件のコメント:

  1. こんばんは。

    このブログ全体が「祈り」であるともいえると思いますし、また、「詩」なども「祈り」であると言えなくもないのではないでしょうか?

    つまり、心の奥底から絞り出された言葉であれば、それを「祈り」と呼んでも差し支えないと思いますよ。

    ぼくは「宗教」よりも先に「信仰」があったと思っていますし、「信仰」は「畏怖」から発生していると思います。

    そして、動物の中にも「畏怖心(自然などに対する)」はあると思っていますし、それは「言葉のない信仰」に近いと思っています。
    だから、「言葉のない祈り」もあっていいように思いますよ。

    辛いときに『あぁ』とうめいたのが「祈り」の原点じゃないでしょうか?

    ブラック・ミュージックにも、「モーン」とか、、「スクリーム」と言う表現がありますが、そういうのも、一種の「祈り」と考えていいんじゃないかなと。
    そんなことを思いました。

    では、また。 

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      このブログ自体が祈り・・・そうかもしれません。そのように言われても、「そんな大袈裟な!」と、否定する気持ちが起きないのです。だってそれはわたしの溜息でもあり、呻きであり、嗚咽でもあるのだから。

      すべての詩がそうではないでしょうが、確かに「詩」も「祈り」に近いのでしょうね。

      >心の奥底から絞り出された言葉であれば、それを「祈り」と呼んでも差し支えないと思いますよ。

      その通りだと思いますが、誰かに「~のために祈ってくれ」と言われた時に、わたしはその方向がわかりません。いや、自分から離れた、自分とは別の「彼」や「彼女」の「ため」に祈るということができなくても、彼の苦しみ彼女の悲しみがわたしのものであったら。

      >辛いときに『あぁ』とうめいたのが「祈り」の原点じゃないでしょうか?

      ええ、そう思います。的確な表現ですね。

      ここに書いてくれたふたつさんの意見に全面的に同意しますが、それでもなお、

      動物でも持っている自然への畏怖の心、或いは詩、或いはか細い溜息。
      それらが祈りであるという意見に全く異論はありませんが、

      埠頭の男に「祈ってくれればいい」と言われた時に、やはりその「方角」ー「どこへ」という気持ちが疑問として残っているのです。

      ただ、答えが出なくとも、こうやって考えているのが好きなんです。

      素敵なコメントをありがとうございます。

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    2. こんにちは。

      Takeoさんの返信と自分のコメントを読み返していて、もしかしたら、「祈り」とは、「ナニカ」に向かって祈るものではなく、自分の内側から外の世界へ向かって絞り出された「叫び(スクリーム)」であり、「呻き(モーン)」であるのかな?と思いましたよ。

      つまり、それは「宇宙」や「世界」そのものへ向かっての「祈り」でもあり、また、それとは全く逆の意味で「自分の中心」へ向かっての「祈り」でもあるのかなと思いました。

      もしかすると、その人も「ナニカ」に向かって祈って欲しかったのではなく、ただただ祈って欲しかったのかもしれませんね。

      そして、その人は、「自分の中心に向かって泣いている者の存在」に気づいて欲しかっただけなのかもしれませんし、「外の世界に向かって叫んでいる自分」に気づいて欲しかったのかもしれませんが、いずれにしても、「ナニカ」をして欲しかったのではなく、気づいて欲しかったのだと思います。

      もし、そうだとすれば、声をかけてきた人が居たというだけで、すでに、彼は満ち足りた気持ちに成っていたのかもしれません。
      それが、彼の『ただ、祈ってくれればいい』という言葉に成って絞り出されたのかもしれません。

      そう考えれば、それも、また「祈り」であるのに違いありませんし、そこで、また、その言葉について考えこむような人が居るということ自体も「祈り」に近いことなのかもしれませんね。

      どう転んでも、こういことに、「神」と言う存在を介在する必要があるとは思えないんですが、それは、ぼくに敬虔な心が足りないからなのでしょうか?


      では、また。

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    3. こんばんは。

      「日本映画」では祈りのシーンなどほとんどありませんが、外国映画やドラマ、例えば『大草原の小さな家』などでは、あらゆる折に「祈りをささげているように見えます」そしてそれは「今日の無事と、今夜の糧を」「神」に向かって感謝している。

      ふたつさんとは観てきたもの、聴いてきたものが違うせいかもしれませんが、もっと別の形の「祈り」というものが、なかなか実感できないのです。

      >「祈り」とは、「ナニカ」に向かって祈るものではなく、自分の内側から外の世界へ向かって絞り出された「叫び(スクリーム)」であり、「呻き(モーン)」であるのかな?と思いましたよ。

      これはわたしが「祈り」と訊いた時に直感的に思い浮かべるものではありませんが、これもまた「祈り」なのでしょう。そしてどちらがより根源的な「祈り」であるのかは比べることはできません。

      >そして、その人は、「自分の中心に向かって泣いている者の存在」に気づいて欲しかっただけなのかもしれませんし、「外の世界に向かって叫んでいる自分」に気づいて欲しかったのかもしれませんが、いずれにしても、「ナニカ」をして欲しかったのではなく、気づいて欲しかったのだと思います。

      とてもよくわかります。この人や、プリーモ・レーヴィがそうであったかどうかはわかりませんが、少なくともわたし自身はこの言葉で表された通りの想いを抱いています。

      ただ、わたしの場合は、そっくり同じ気持ちを抱いていても、それを言葉にするとしたら、「ただ、祈ってくれればいい」ではなく「ただ、想って(思って)くれればいい」=気に留め、考えてくれるだけでいい。

      いずれにしても、ふたつさんの考察を読んで、わたしの頭の中にある「祈り」という言葉、行為が、ありきたりで、ステレオタイプのものだったのかもしれないという思いを持ちました。

      「祈る」ということの(おそらく真の)意味、解釈を教えてもらいました。

      どうもありがとうございます。

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