2019年8月11日

断片、破片、かけら…



「断片性とは完成しないということ。未完成ではない。非完成。ドイツ語で言うと、Nichtvollendung. ドイツの美術批評家アイネムがミケランジェロの遺作「ロンダニーニのピエタ」に対して使った評言で、「ピエタ」はミケランジェロの死によって完成しなかったのではなくて、彼の思想によって非完成なのだ、と。

非完成とは、芭蕉にいわせれば、「言いおほせて何かある」(『去来抄』)ということだ。同じことを高橋睦郎にいわせれば、「詩はブルシットなものではないということと、結論を出さなくていいということ、それをもうちょっと積極的に言うと、結論を出してはいけないのが詩」なのだ。
一句は、実は全く「言い了える」ことはない。一句は、わが想いの方角、わが思想の方角をのみ提示する。方角のみ、志向のみであるから、わが想いは終らず、わが想いはより多方向に、つよく広がり込むことはない。(略)「完結感」が在らしめられ、そして絶対に完結して在ってはならないのが一句・俳句である
(阿部完市『絶対本質の俳句論』)
「完結感」は切れのことだけど、いまは「「完結」して在ってはならないのが一句・俳句である」というテーゼを確認しておきたい。
俳句のような詩を書きたいといったのは、すでに明らかなように、「言いおほせ」ない、「「完結」し」ない俳句のような詩を書きたいという意味だったのだ。
考えてみると、長いこと、断片的なものに心惹かれて断片的なものばかり好んで読んできた気がする。」

中上哲夫「カフカ / ロバート・プライ / 俳句」『現代詩文庫 214 中上哲夫詩集』より(2015年)


わたしも学生時代から、断片的なものを偏愛していた。曰く「アフォリズム」曰く「断章・断想」更に「フラグメント」・・・


以下にわたし自身の断想、断片、思索の破片をいくつか書き記しておく。
過去に別のブログに書いたものと重複があるかもしれないが、ご容赦を。

これは(決して皮肉でも揶揄でもなく)上記の中上哲夫のような「引用」ではなく、すべて拙いながらもわたしの欠片たちだ。わたしが中上哲夫を揶揄するわけがないじゃないか。わたしが断片的な文章と同じくらい好きなのが、エッセイ、評論にとどまらず、小説であれ詩(散文詩に限定しない)であれ、なんであれ「引用の豊富な」文章なのだから。
日本の筆者及び読者は引用を軽視しすぎているといつも感じている。


◇  ◇ 


これまで56年間(日本で)生きてきて得た信念。

といってもこれはあくまでわたし個人のことだけど・・・

「ひとに嫌われるのはわけはない。ありのままの自分でいるだけでいい。そうすれば人は自然に離れていく」

やれやれ・・・



100人に攻撃されても、ひとりの味方がいればいい。

誰にも攻撃されず、一人の味方もいないよりも・・・



生き辛さということを、単に医学的なアプローチからのみ改善してゆくことへの一抹の懐疑・・・

苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、それらが無ければ文学も哲学も絵画も音楽も生まれないし、それらがなくして、詩や音楽の深みを味わうことはできない。
それらが生み出された苦悩の深淵まで降りてゆかなければ・・・

「死ぬということは、モーツァルトが聴けなくなるということだ」とアインシュタインは言った。

健康になるということは、モーツァルトを聴けなくなること・・・ではないのか?

わたしは何故こうも病んだ人、病んだ心に惹かれるのだろう?

生き易さとはなんだ

健康とはなんだ


今日も一日、生きているだけで疲れた。

あるいは

生きているだけだから疲れるのだろうか?


以前行った薬局で、何故か小鳥のさえずりが聞こえていた。薬局に小鳥が飼われているわけではない。どうやらテープで流していたようだ。
わたしは気持ちが落ち着かなくなって、イライラが止まらず外に出ようとしたが、外は雨。仕方なく薬局の人に行ってテープを止めてもらった。

おそらくわたしはその(物理的な)「声」「音」に反応したのではない。

いるはずのない場所に小鳥の声(や小川のせせらぎの音)を流すという「美意識」に反発したのだ。


誰かが、「どこまでがつかれで、どこから甘えなのかわからない」と書いていた。

とてもよくわかる。

ただ、「疲れ」というのが、純粋に身体的な、あるいは精神的な疲労なのか、所謂Ennui(アンニュイ)=「生の倦怠」なのか、見極めることは難しい。

生きること自体に付随している生の倦怠は取り除くことができない。

「その疲れ」が「アンニュイ」ではないと誰が言えるだろう・・・


ある音が不愉快、耐えられない。それをすべて医学の領域に回収してしまうことに疑問がある。

わたしが外界の「音」に堪えられないのは、単に物理的な刺激に過剰に反応しているわけではないと思う。

(詳しくは哲学者中島義道著『うるさい日本の私』を参照。)

著者は物理的なうるささ=「音」へではなく、「音」に鈍感な日本及び日本人の「文化」にこそ寧ろ苛立っている。

物理的な「音」ではあるけれど、それは生理的レベルでの拒否反応というよりも、個人の「美意識」「感受性」のレベルで受け容れがたい「文化としての音」である。
わたしの拒否反応は「音」そのもの以上に、「文化の在り方」への拒絶なのだ。



「嫌われ方講座」の講師をやったら、嫌われるには一にも二にも自分に正直であること、自分の感じているままを率直に口にすること、と教えるだろう。
しかしその通りにして、いったいどのくらいの人が、わたし同様の嫌われ者になるだろうか?



人はいつ、どこで、だれに、人としての生き方をおそわるのだろう?










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