今週中にデイケアのスタッフと面接することになっている。
詳しいことは知らないが、デイケアのスタッフでも、保健師と心理学を学んだ人がいるようで、わたしの担当のひとりが、その「心理学を学んだ人」であるということで、
メインの担当ではなく、その人と話すことにした。
ただ、話したいと持ち出したのはわたしの方だが、いったい何を話せばいいのかわからない。
わかっているのは、生きるということ、生きている、存在しているということが、途轍もなく困難なことであること。そしてわたしは「人間」というもの「他者」というものが全くわからないということ。
そもそも自分が彼ら、彼女らと同じ人間であるかどうかさえ極めて疑わしいということ。
いくつか質問事項を整理しておこう。
1)わたしの自己認識
● わたしは「孤立と独特の認識の化け物」である。
● わたしは「神でさえ抱擁することを躊躇う者」である。
● 神でさえ抱擁することを躊躇するような存在を、神ならぬ「人間」が愛せるはずがないということ。
● わたしの主治医はおそらくわたしをあまり好いてはいないであろうということ。(「嫌う」というほど積極的なものではなくとも、主治医自身の言葉を借りれば、わたしは「人に敬遠されるタイプ」であるということ。)
2)当面の問題
● わたしは生きていてはいけない人間であるのか?(しかしこの疑問は殆ど意味を為さない。何故ならこのように見苦しく生き恥をさらしているのは単に「自殺する勇気がない」というだけのことであるから)
● わたしの頭から離れない疑問。
『自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』
ー エミール・シオラン『生誕の災厄』
では、全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか?
そもそもその上で、尚、生きる意味とはなにか?
わたしにはシオランは何を言いたいのかがわからない。
仮にわたしが人間であるとして、そのうえで「全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。」とはどういうことか?
● わたしが誰からも愛されず理解されないのは、ひとえにわたしの至らなさ、愚かしさ、人間としての未熟さ・・・と言いたいところだが、そんなレベルの問題ではない。
極めて卑俗な言い方をすれば「何者がキチガイを愛し得るか?」ということだ。
Q:「何故自分をキチガイだと思うのか?」
A:「人間に言葉が通じない」ということは、「常人ではない」ということではないのか?
Q:「AとBとの間で言葉が通じない」場合は常にAの問題=(この場合「キチガイ」なるが故)か?
A:人と言葉が通じていないのはAの方であって、Bは他者ときちんとコミュニケーションが採れている。だとすれば狂っているのは当然Aではないか。
3)どのような助言が欲しいのか?
● わからない。そもそも助言のしようがないと思う。何故なら相談相手は「ふつうの人間」なのだから。
4)問題の解消・解決のためには何が必要か?
● 「銃」か「愛」。しかしわたしが後者を得ることが不可能なことは、それこそ全人類の認めるところだ。
Q:今何を思っているか?
A:わたしと話してスタッフに呆れられ、二度とデイケアに参加できなく(しなく)なること・・・
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