2019年8月24日

認知行動療法への懐疑ー間違った存在(追記)


以前にも書いたが、昨年の秋、デイケアに体験参加した際に、ある男性に、「あなたの話し方、あなたの挙措に威圧感を感じる」と言われた。

わたしが最後に就いていた仕事(アルバイトだが)はヤマト運輸のサービスセンターのオペレーターだった。
わたしの対応は、同僚にも、また客にも概ね好評だった。ただ、あまりにも一人の話をじっくり聞きすぎるので、効率が悪いと課長に言われていた。「もっと捌け捌け」

しかしわたしがそこを去った直接の理由は、同じアルバイトの女性から、「あなたの声が大きすぎて仕事にならない」と言われたことだった。いくら課長を除く社員、同僚に、いい仕事ぶりだと言われても、人の仕事を妨害していたのでは辞めるしかない。

それがわたしの社会との別れだった。35歳ー21年前のことだ。

今回のデイケアで、わたしがあれほど激昂したのは、ここのところずっと主に聞き役に徹して(でもないが)いたわたしであったが、どうしても言わずにはいられないことだったからだ。
あのプリントに書かれていたことは即ちわたしの価値観・美学・人生観の全否定であった。

“The only people I would care to be with now are artists and people who have suffered: those who know what beauty is, and those who know what sorrow is: nobody else interests me.”

「芸術家、苦しみに呻吟している者、そして美と悲しみとを知るものだけをわたしは愛する。その他の者に関心はない」
ーオスカー・ワイルド

「美こそわたしの信仰である」と繰り返し書いてきた。そして悲しみこそが究極の美の姿だと思っている。

わたしには「認知行動療法」とは、少なくとも昨日の資料に関して言えば、悲しみを敵視し、排除すべしと読めた。
「リフレーミング」(Re-Flaming) =「視点の転換」 によってどんな悪いことでもプラスに転じる。例として挙げられていたのは、「離婚した」→よかったじゃん→「新たな恋の始まりの可能性!」
これを読んで過去に2度離婚経験のある男性が、「こんなこと言う奴がいたらオレ本気でぶっ飛ばすよ!」と言っていた。


否定され拒絶され続け、遂には「孤立と独特の認識の化け物」となったわたしにとって、
「リフレーミング」とか「視点の転換」などと言われても、平たく言えば「物は考えよう」・・・というところに帰着する。

しかし、わたしが危惧するのは、わたしの存在で不愉快な思いをした人も確かにいるはずだということ。そして誰も自分の価値観を押し付ける権利はこれっぽっちも持っていないということ。

少なくともわたしはデイケア参加者にとっては、あまりありがたくない存在であることは確かだろう。



汽車より悲しいものがないわけは

決められた時刻に出発し

発する声は一つしかなく

走る道も一つしかないからだ


これは「アウシュヴィッツの生き残り」(1987年に自死)プリーモ・レーヴィの詩だ。
今月岩波書店から『全詩集ー予期せぬ時にー』が出版されたが、図書館に所蔵が無かったので、早速購入してもらった。
所蔵がなく、出版1年以内の本であれば、よほどの「変態本」でないかぎり新規購入してくれる。


良くも悪くも、わたしはわたしでしかありえない。

発する声は一つしかなく

走る道も「わたし」という一本の道しかないのだ・・・













12 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちは。

    これは、おそらく「認知行動療法」に関する問題ではないと思いました。
    どちらかと言えば、Takeoさんが『「治療」を望んでいるのか?』というところが、明確になっていないことから出てくることだと思います。
    おそらく、Takeoさんは、一般的にいうところの「治療」や「治癒」を望んでいないでしょうから、そこのところで、「現在の医療」との間に齟齬が生じるのは、むしろ当たり前です。

    ぼくが、感じた範囲で言わせてもらえば、Takeoさんが望んでいるのは、その齟齬を「Takeoさんサイド」に立って肯定してもらうことなのではないでしょうか?

    「齟齬」があること自体もそうですし、その「齟齬」が必ずしも「Takeoさんの責任ではないということもそうですし、そもそも、その「齟齬」が生じている原因とは何なのか?と言う問いを抜きに、一方的に「治療」を勧めようとされることに対して反発を感じているんだと思います。


    おそらく、これは、ほかの精神的困難を感じている人たちにも言えることだと思いますが、その「困難の原因」が問われない、または、それがごく私的な原因(家族関係など)に限定されてしまうことによって、そこで壁に突き当たってしまった心が、その壁の中に閉じ込められてしまうという問題があるように感じます。



    「芸術家、苦しみに呻吟している者、そして美と悲しみとを知るものだけをわたしは愛する。その他の者に関心はない」
    ーオスカー・ワイルド

    これは、確かに印象的な言葉ですが、「現在」の状況は、この言葉に至る前の段階に壁があると考えます。
    おそらく、オスカー・ワイルド(読んだことないですけど)のような人は、より深い精神の在り場所を求めて、この言葉に行き着いているような気がします。

    それに比べて「現在」は、その「より深い精神の在り場所」を求める「訴求力」そのものが失われているように思えてなりません。

    もしも、Takeoさんが、そのデイケア・サービスで、そういったTakeoさんの思いのたけを、なんとか、ほかの方たちやスタッフに伝えることが出来れば、きっと、そこに居合わせた人達は、ナニカを感じることに成るんじゃないでしょうか?

    もしかしたら、『本当に治療されるべきは誰(ナニ)なのか?』と言うところにまで、議論の方向が向かうこともあるかもしれませんね。

    「現在との齟齬」こそが、そこにおいて、唯一議論されるべき課題であると考えます。

    それでは、また。


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    1. こんばんは、ふたつさん。

      先ず、もう一つのコメントへのお返事が「書けない」ままになっていることをお詫びします。

      >おそらく、Takeoさんは、一般的にいうところの「治療」や「治癒」を望んでいないでしょうから、そこのところで、「現在の医療」との間に齟齬が生じるのは、むしろ当たり前です。

      そうですね。わたしは以前から、「現代社会に於いて健康であること」とは?
      「治る」ということはどういうことか?と自問し続けてきました。
      そして一番当たり前に流通している考え方に従えば、「治癒」とは何らかの形での「社会参加」「社会への復帰」ということになります。もっと厳密に言えば、やはり何らかの形での「就労」がゴールのように見えます。

      わたしは決して、現代社会での「社会参加」「社会への復帰」そして「就労」が無意味であるとは思っていません。ただ、それ以外の選択肢とは、即ち「孤立」しかないのか?ということです。

      >その「齟齬」が必ずしも「Takeoさんの責任ではないということもそうですし、そもそも、その「齟齬」が生じている原因とは何なのか?と言う問いを抜きに、一方的に「治療」を勧めようとされることに対して反発を感じているんだと思います。

      それはその通りです、わたしが時々引用する精神病理学者(無論臨床医でもありました)木村敏の言葉を引用するのは、彼がそもそも「治療するとはどういうことか?」という地点から出発しているからです。

      もう10年ほど前、まだこちらに越してきて間もないころ、国分寺の「東京仕事センター」に暫く通っていました。そこでもやはり少人数の「プログラム」があって、簡単に言えば、「仕事に就くためのノウハウ」のようなものをやっていました。「話し方」「模擬面接」「社会人としてのマナー」等々。

      わたしは一度、「なぜ働くのか?」「仕事とはなにか?」というテーマで話し合いたいと提案しましたが、参加者に反対されました。「ぼくたちは今仕事を探しているんだ。少しでも早く仕事を見つけたいんだ。「なぜ働くか?」なんて悠長なことを話してる暇はないのだ」と。

      それ以前、大田区にいたころ、「区民大学」で「働くことについて」(?)のテーマでは、大いに本領を発揮しましたが、やはり「仕事センター」では通用しませんでした。

      木村敏は様々な哲学を援用して、「そもそも「病む」とはどういう状態か」「正常とはなにか?」という土台から掘り起こします。それこそアリストテレスからキルケゴール、ニーチェやハイデッガーなどの名前が彼の著書にはちりばめられています。
      それは単に「病気を治す」ということではなく、「そもそも人間とは何か?」という思惟・考察が起点になります。

      >もしかしたら、『本当に治療されるべきは誰(ナニ)なのか?』と言うところにまで、議論の方向が向かうこともあるかもしれませんね。

      しかし、それはデイケアの存在、ひいては、現在の精神医療の存立の全否定・・・と言わずとも、根本的な見直しを迫ることになります。

      >「現在との齟齬」こそが、そこにおいて、唯一議論されるべき課題であると考えます。

      もちろんわたしは100%同感ですが、ほとんどのデイケアの参加者は、仕事センターに来ていた人たちと同じです。デイケア参加者に限定せずとも、皮肉な逆説ですが「現在との齟齬」などという考えが通用する、それは一考に値すると考える人が多い社会であるならば、こんなに生きるのが大変な社会ではないはずです。

      それでも、わたしのこれまでの一連の記事を読まれて、このような視点から発言してくれた人がひとりでもいるということをうれしく思います。

      機会があれば、主治医、塚田さんにも話してみたいと思います。

      どうもありがとうございます。

      よい日曜日をお過ごしください。








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    2. こんにちは, Takeo さん.

      認知行動療法への懐疑についての文章を興味深く読みました.

      それで心の病の治療について私自身のことを書いてみます. 認知療法のことも書きます.

      私は以前の主治医からは, 幼少期から現在までに受けた心の傷 (心的外傷 = トラウマ) に対する心の防御反応から生じた「解離」の症状があると診断されました.

      以前の主治医が説明してくれた解離に至る状況は, つらい現実から逃れるために自分の心に覆い被さるような「表の人格」を作る, 心の苦しみは覆い隠され忘れ去られる, 「表の人格」は周りが要求するように「明るく」「ポジティブに」「みんなとうまく付き合う」ように行為する, しかしその表の人格が周囲とうまくやっていけなくなったとき, 表の人格と自分の心の間に軋轢が生じて症状が発症する, というものです (解離についての私自身の理解は PTSD の治療についての書籍, J. L. ハーマン『心的外傷と回復』(みすず書房) に基いています).

      私の場合は症状が鬱病という形で表われました. それまで私をある意味で守ってくれていた表の人格は, 今度は私自身を攻撃する側に立って (このことは後述します), それは今に至るまで罪責感・自己否定・無価値感・無気力・思考力の低下などの形をとって私にとっての苦しみになっています.

      2005 年に鬱病の悪化によって一年間休職をしたのですが, そのときにデイケアのスタッフから勧められて認知療法 (認知行動療法と同じ意味で使っています) を行っています. それ以来ずっと認知療法を続けていますが, それによって回復したという感覚が得られ始めたのはごく最近のことです.

      書籍などによれば認知療法とは, 現在の苦しみを「認知の歪み」として捉え, それに対する反証を書くことによってそれを解消する, とあります. 私も苦しんでいた様々なこと ── 他人からの罵声, 人格否定の言葉, 無視, 自分は駄目だという意識など ── に対して, 反証を書き続けていましたが苦しみが解消されることは最近まで無かったですね.

      上に挙げたような罪責感や自己否定, 無価値感などの鬱の症状によって私の心の様々な様相は悉く否定され, 摩滅し, 失われていきます. 私が自分自身をどうしても肯定できない背景には, このように失われていった結果としての「自分が何処にも見つからない」という不安と恐怖があるのです.

      そのような状態にある私自身に対して, 認知療法で行っていたその場限りの短い「反証」は無力でした.

      Takeo さんが参加したデイケアでのセッションで例として掲げられた

      > 「離婚した」→よかったじゃん→「新たな恋の始まりの可能性!」

      はひどいものだと思います. 心の病というものの苦しみを知らない外部の者の言葉と感じます. これでは心の病は気の持ちようで治るかのようです. ならばなぜ私は 25 年間も鬱病のただ中に居るのでしょう.

      私は苦しいのです. 自分が何処にも見つからないという不安と恐怖が堪え難いのです. 私は治りたいのです.

      ここにはふたつさんが書いた「齟齬」は無いと思います.
      そのことが効果のなかなか現れない認知療法をずっと続けている理由だとも言えると思います. 認知療法の効果に関して統計的な裏付けと脳科学による研究結果があります. それを根拠と信じて続けています.

      ところで, 私にとっての一つの回復が三年ほど前に得られました. この回復には認知療法が関係しています.

      そのきっかけは, 自分の心の状態を文章に書いている中で, 過去の苦しい記憶を浮かび上がらせ自分を否定し罪責感を抱かせ無価値だと断じる, それが誰なのかと考えたことにあります.
      両親, 教師, 友人, 仕事をしていた時の同僚, 事実婚をしていたパートナー, 社会問題にもなったいくつかの事件, そのようなものだと私は思っていたのですが, そうではなかった.

      内向的で daydreamer だった私が, つらい現実の中で生きていくために心に覆い被せた「表の人格」は, 長い間周囲の言うことに従い, 何事も前向きに考え, みんなとうまくやっていくうちに, そちら側に立っていました. そうして表の人格を保ち続ける無理がとうとう立ち行かなくなったとき, 今度は私の内なる「全体社会」となって私の心を攻撃する存在に転じたということです. このような極めて歪な現象が起こっています. そのことに私自身が気付いたということです.

      私が抗うべきなのはもう縁が切れた他者ではない. 自分の心の中にいるかつての「表の人格」である. これがわかったことは救いでした. 実際にある部分では確かに私の心が楽になったのです.

      回復を続けていくために私は自身の心の状態を文章に書く, 言葉として表わすという試みを続けています. 認知療法はその行為のうちの一つとして含まれているものです. 有効に働く可能性はあると思います.

      文章に書き表わしていく過程で, 自分は姑息で卑怯で狡く自分のことしか考えず執念深い, といったこともわかってきました. 強い者に従い弱い者を見下すという側面もあります. 私は醜い人間なのです.
      そういった面も含めて「これが私である」と認めれば楽になるのでしょうか? 何処にも見つからない自分が見つかるのでしょうか? 救われるのでしょうか? 治るのでしょうか?

      わかりません. 今の私にはそれはどうしてもできず (非常に偏った歪な倫理観が私の中にあります), 私は相変わらず不安と恐怖の中にいます.

      -=-=-=-

      私が根幹に持っている「自分が何処にも見つからない」という苦痛は, 現象学で言う自己の内在への疑いやハイデガーの言う存在への絶えざる問いかけと結び付くのかも知れないと考えていたこともあります.

      けれども今の時点ではこの考えに否定的です. その理由は「自分が何処にも見つからない」という苦痛は, こちらからの能動的な疑いや問いかけに伴う結果ではなく, 他者=「表の人格」からの攻撃と否定によって破壊されつつある心の状態ではないか, と思い始めたからです. つまり自身による正当な分析や批判の結果ではなく, 無責任に怠惰に放っておいたうちに心が修復不能なまでに壊れたという結末なのではないかということです.
      しかもその他者=表の人格は自分自身が自己の内部に作り上げたものであるとするならば, 私はなるべくして鬱病になる道を歩いたと言えるのではないかということです.

      鬱病によって壊れた心は, 少なくとも私自身が自己の内側を観察する限りは廃墟です. ガラクタだけです. 私は絵を描きますが, それは芸術のほうを向いたものではありません. 苦痛から逃れるための逃避行為です.
      「あなたを治療することには躊躇いがある。何故ならあの素晴らしい音楽が聴けなくなるから・・・」は, 残酷な言葉だとも感じます. 鬱病の廃墟からはガラクタしか出て来ないのではないか, と.

      心を文章や絵などの形のあるものに表現していく行為で束の間, 苦痛から解放されるというだけなのです. 失われた自分が見つかるのかどうかはわかりません. それでも突き詰めれば, この行為だけが私にとっての治療だと言えるのです.

      -=-=-=-

      苦しみの中にありながら自らを「化け物」であると言うことのできる Takeo さんや, 自身のダークサイドを大切に思うことのできる Junko さんには羨望を抱きました.

      この拙い文章を書いたのは, 自分自身がその羨望の先へと向かいたいという願望があるからです. また, 治癒への希望を持ちたいからでもあります.

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    3. こんばんは、底彦さん。

      お返事を書く前に取り急ぎひとことだけ。

      この問題は非常にデリケートな問題です。大げさではなく、わたし、或いは底彦さんの実存・存立の問題でもあります。

      わたしは自分の考え方や価値観を底彦さんに押し付けるつもりはまるでないどころか、この「認知行動療法への懐疑」という記事を書いた時点から、既に、底彦さんが、気を悪くされていないかと言う危惧を抱いていました。
      それはデイケアに出席していた人たちに対しても同じ気持ちです。

      誰かが縋り付いているものが、藁しべのように「見えた」としても、誰にそれを嗤う資格があるでしょうか。

      わたしは底彦さんを傷つけはしなかったか、デイケアの参加者たちを動揺させはしなかったかということだけを、あれ以来気に病んでいます。そしてこれ以上わたしがデイケアに参加することの意味を、考えています。

      仮に正統派のものであっても、「認知行動療法」といいうものは、わたしの気質とは合わないと感じています。また基本的に、上のふたつさんとのやり取りのような思いが大本にあります。

      わたしは毎日生きていることが、何の楽しみもなく来る日も来る日も存在し続けていることがとても苦しいのです。

      そしてこういう状態はここ5年ほど、年を追うごとに目に見えて顕著になってきています。もうそろそろ終わりにしたいと、ここのところいつも思っています。

      ただ、わたしの「認知行動療法」への懐疑はそのことと直接関係はありません。
      つまり自分の厭世観というよりも「生への疲労」がかなりの水位まで上昇しているからと言って、他の人たちに対して「そこまでして生きたいのか!?」という感情は持っていないということです。確かに不思議であるという気持ちがあることは認めます。

      続きはまた後程。「続き」といっても、底彦さんへの質問、或いは愚痴のようなものでしょうけれど・・・

      乱文にて・・・

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    4. こんばんは、底彦さん。

      先ず、長文でご自分の状態、ご自身の気持ちを率直に語ってくれたことに感謝します。

      先ず感じたのは、ひとりのうつ病患者の背景には、これだけ複雑な、錯綜した経緯があるということ。無論薬物療法で快癒するような「鬱」もあるでしょうが、すべての患者さんがそうであるわけがない。そして鬱病に限らず、統合失調症であろうが、発達障害であろうが、それぞれに、入り組んだ事情と、何かのきっかけでバラバラになってしまったパズルの破片を抱えて、精神医療の門をくぐるのです。
      それを思っただけでも、精神医療というものがいかに困難な営みであるかと、呆然する思いです。



      さて、わたしが最初に疑問に感じたことは、現在底彦さんを苦しめている「表の人格」(これがいわゆる「ペルソナ」とどう違うのかわかりませんが)というモノが、それを必要としている者の要請に応じて、形成できるものなのだろうか。ということです。ところが、よく考えるとそうではない。「解離」というのは、以前は二重人格とか多重人格と呼ばれていたものだと思います。「わたし」という人格が崩壊の危機にさらされた時に、「わたしの要請」によって、ではなく、無意識の防衛本能が、自分の「核」を護るために「別の人格」を生み出す。しかし、その自己を護るために生み出された人格が機能しなくなった時に、何故今度はまた別の人格が生み出されなかったのか?
      わたしが昔NHKの番組で見た「多重人格」の番組は、本当に場面場面に応じて、人格が入れ替わるのです。まだ少女ともいえるその女性の中には、数十の人格が存在していました。

      ・・・なにか話が脇にそれてしまいました。

      ただ、一度はそうすることによって、外界から底彦さんを護ってくれた「解離」が、何故二度目を生み出さなかったのかは素人の素朴な疑問です。
      逆に言えば、そうなればそれは所謂「解離性障害」という障害となるのでしょうけれど。



      底彦さんの言われる「表の人格」とは、言い換えれば、「社会」であり「世間」の代弁者であり、底彦さんに代わって、社会と、世間と繋がって「くれて」いたゴーストですね。

      §§§

      ごめんねさい。わたしの性分として、疑問に思うと、とことんまで追求したくなる性分で、更に、理詰めでものを考えるところがあります。ですから、意図せずして、底彦さんを混乱に陥れてしまうかもしれない。心の平穏を乱すことになるかもしれません。

      無論そんな意図は毛頭ありませんが、そのようなことは何よりも避けたいので、これ以上読み進めることはお勧めできません。

      §§§



      さて、底彦さんが抗うべきは、正に無意識の自己防衛によるものとはいえ、社会の側に立った「表の人格」だと仰いました。しかし、この「表の人格」と「社会」乃至「世間」を切り離して考えることができるでしょうか。
      表の人格が魔法のように消え去ったとしても、「社会」や「世間」は厳然として、揺るぎなく「そこ」にあります。そして形は違っても、「社会」と繋がりを持とうと思うことは、どこかしらで、「表の人格」的な要素(資質)を必要とするのではないでしょうか。

      わたしは、そんなことを誇っているのではなく、「わたしという存在はこの社会では通用しないし、この社会はわたしを受け容れることはない」という考えの元に、社会と縁を切りました。そうなると、そもそも社会を否定して引きこもっているわたしが「治る」とはどういうことか?という疑問は当然ついて回ります。
      わたしには「表の人格」的な要素がまるでありませんから・・・


      >私は苦しいのです. 自分が何処にも見つからないという不安と恐怖が堪え難いのです. 私は治りたいのです.

      この思いは理屈を超えてよくわかります。100%わかっているつもりです
      けれども、底彦さんとわたしとでは、そもそも「はじめの一歩」からして違う。

      苦しい、治りたい!という思いは理屈を超えた次元で、直接胸に響いてきます。
      そしてわたしはそれを全面的に受け容れます。

      けれども、それを理屈のレベルに落として考えると、やはりわたしのなかには「治る」ということへの、疑問とか懐疑、というよりも「治る」ということが「謎」として残ります。

      過去から現在に至るまで、底彦さんを苦しめている「表の人格」は他ならぬ「社会」から底彦さんの内面を保護するために生まれました。それはわたしと違って、社会の中で生きなければという思いを持つ(?)底彦さん自身の要請によって、というよりも、寧ろ「社会の側」からの要請に応じて生み出されたものではないかと考えます。
      であるなら、その「表の人格」とは即ち一つの人格に分離した「社会」である。と言ってもいいのではないでしょうか?
      小さな波の飛沫であってもそれはやはり「海」です。



      >私が自分自身をどうしても肯定できない背景には, このように失われていった結果としての「自分が何処にも見つからない」という不安と恐怖があるのです.

      これはわたしとは正反対です。もう何度も書いているので、底彦さんも暗誦できるくらいでしょうが、わたしの自己否定は、「わたしがわたしである」まさにそこから生まれているように思います。
      またJunkoさんとわたしとは同じではありません。
      「誰からも愛されている」などと無責任なことは言えませんが、少なくとも、わたしのように孤立無援四面楚歌ではないはずです。

      > 私は醜い人間なのです.
      そういった面も含めて「これが私である」と認めれば楽になるのでしょうか? 何処にも見つからない自分が見つかるのでしょうか? 救われるのでしょうか? 治るのでしょうか?

      プリーモ・レーヴィは「人間であることの恥」と言いました。わたしの好きな言葉です。
      醜くない人間ってそもそもいるのでしょうか?といって、わたしのように居直れと言っているのではありません。
      先に書いたように、わたしはわたしであることで、人からも、また自分自身からも嫌われています。「性格は運命である」といっても、それも結局逃げ口上のようなものです。しかしこの底知れぬ神託が、逃げ口上として使われているうちはまだいいのです。運命というからには「滅び」もまた含まれているはずです。



      壊れた心を持ち、自分の内面が廃墟であり、ガラクタばかりではダメですか。

      わたしは観念としてだけではなく、現実にも、「廃墟」や「ガラクタ」=役に立たないものに愛情を覚えます。例えば針のない時計とか錆びた缶とか。

      > 私は絵を描きますが, それは芸術のほうを向いたものではありません. 苦痛から逃れるための逃避行為です.

      詩を書くことの根本は正にこういうことだと思います。少なくとも、わたしの好む詩は、「芸術の方」などに色目を使ってはいません。ただひたすら苦しいから書くのです。絵だって同じだと思います。わたしが鴨井玲の画を好むのも、彼が苦悩の渦中で絵を描き続けたからです。


      感じたところを率直に書きましたが、不躾なところは幾重にもお詫びします。

      わたしの希望としては、「無視してください」という気持ちです。

      わたしは何ひとつ、確信を持って言ってはいません。
      どうか希望を失わないでください。








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  2. ーメモー

    1、底彦さんの「表の人格」は、本来内向的で空想壁のある底彦さんが、それでも社会と繋がりたいという強い無意識から発生したものであるのか?

    2、「表の人格」がうまく機能しなくなったということは、他ならない、底彦さんの本来の資質が、借りの(仮の)人格を凌駕したからではないのか?つまり、上辺の社交的な人格を損なわせるだけの自我が底彦さんに備わっているということではないのか?

    3、「つらい現実」とは、固定された外界自体や社会ではなく、内向的で、非社交的な底彦さんと非人間的な社会との関係性そのものではないのか?つまり内向的であることや、非社交的であることは否定されるべきものではなく、それが本来の底彦さんではないのか?それが

    >しかしその表の人格が周囲とうまくやっていけなくなったとき, 表の人格と自分の心の間に軋轢が生じて症状が発症
    という記述に現れてはいないか?

    4、無意識によるものか、底彦さんの要請によるものか、底彦さんと社会との共同の要請によるものかは措いて、「社会用」の人格が本来の底彦さんの在り方と軋轢を生じたということは、まったく自然の推移であって、それを「社会からの攻撃」と採らずに、「非社交的で内面的な本来の自己が厳として存在しているため」とは思えないだろうか。言い方を換えれば、確固とした自我が存在していなければ、そもそも葛藤も軋轢もなかったはずだ。
    つまり底彦さんは、「仮の」社会用に作られた人格と難なく同化出来ていたのではないか?




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    1. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんの返信を読みました. 私を気遣って「これ以上読み進めることはお勧めできません」と書いていただきましたが, 全文読みました. その中には私が気がついていなかった視点からの言葉がありました. また, Takeo さん自身の苦しみについてお尋ねしてみたいと思うところもあります.

      ただ, 今はまだ全体を受け止めきれていないので, 少し時間を頂いて返信を書きたいと思います.

      Takeo さんの文章の最後に

      > わたしの希望としては、「無視してください」という気持ちです。

      とあります. けれども Takeo さんの文章は無視をするにはあまりに真摯であり美し過ぎました. 感謝しています.

      ひとまずご連絡まで.

      P.S. Takeo さんにはデイケアの「認知行動療法」のプログラムに参加し続けてほしいです. 申し訳無く思ってしまうような私の一方的な願望の押し付けですが, 私がそのデイケアのプログラムに参加していたら, と思ったので.

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    2. こんばんは。

      そうですか。

      時間を置いて改めて読み返してみると、底彦さんの問題、悩みについてはなしているのか、自分の悩みを書いているのかなんだかごっちゃになっていますね。
      まあそれが現在のわたしの限界なのです。

      底彦さんと、どこがどのように違うのかわかりませんが、わたしも日々、生きていることに苦しんでいます。何か書いたり話したりすると、どうしてもそれが隠しようもなく顕れてしまいます。

      大袈裟に(?)警告した割には大したこと書いてないなというのが正直な感想です。

      何もお力になれないのは残念ですが、そのように、人を気遣うやさしさの部分こそきっと底彦さんの本質なのだと思います。そこを大事にしてほしいと思います。

      お読みくださってありがとうございました。

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  3. Takeoさん、底彦さん、こんばんは。
    認知行動療法についての記事のコメント欄で、お二人の話を拝見いたしました。
    こちらの方がわかりやすいかと思いましたので、こちらにコメントいたします。

    まず、言っておきたいことは、ぼくも自分の考えを他の人に押し付けるつもりは全くありませんし、ぼくの考えなどは、はっきり言ってしまえば、その程度のモノだと思っていますので、それで、底彦さんやTakeoさんがご気分を害されるようなほどのモノではありませんので、少しでも、そう思ったなら、捨ててしまってほしいということです。

    この点で、Takeoさんがおっしゃっているのと全面的に同じ意見です。

    実際、ぼくは、前に別の記事のコメント欄の中で、底彦さんに『そこから先のことに対する答えを出せるカウンセラーは居ない』と言うようなことを書いてしまって、それが、もしかしたら底彦さんに無用なプレッシャーを与えたのではないかと思い、とても気に成っていました。

    弁明させていただければ、あれは『社会そのものを変えることが出来るカウンセラーは居ない』と言う程度のごく当たり前のことを言っただけであって、『底彦さんにとっての「そこから先の改善」は無い』と言う意味で言ったことではありません。

    ぼくは、むしろ、それとは全く逆に、底彦さんは、きっと徐々にではあっても心の重荷を下ろしていかれるような気がしています。
    (いや、これも無責任な言葉ではあるのですが)

    「原因が突き止められたこと」と言うのは、必ず何らかの形で「解放」されていくものだと考えます。

    これは、「治癒」を望んでいないTakeoさんにですら言えることだと思っています。
    Takeoさんは、一見すると「原因」を突き止めていないように見えますが、それは「原因」を解消する手段を突き止めていないだけで、そこにある「行き止まり」の正体については、ある程度わかっているのではないかと思います。
    それが、「生誕の災厄」であり「性格とは運命である」なんだと思います。

    ただ単に、Takeoさんの場合、その「解放」が「一般的に言う治癒」であったり、「一般的に言う幸福」ではないということだと思います。
    ただ単に、それを、勝手に「悪いこと」だと思ってしまう人が結構たくさんいるというだけのことですね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    あくまで、その上で言うことですが、ぼくが「齟齬」と言ったのは、必ずしも「社会との間の齟齬」ではありません。
    概ねそういう意味ではありますが、より正確に言えば「現在の社会との間の齟齬」です。

    これは、ぼく個人としては断言してもいいんじゃないかと思うほどのことですが、「現在」は「特殊な時代」だと思っています。
    要するに、「人間」が「自然」を失いつつあるということだと思っています。
    「人間」が「社会」に置いていかれるように成ったと言ってもいいと思います。

    「工業化」・「効率化」・「高速化」に加えて、「原子力文明」や「デジタル文明」」まで出現した「現在と言う時代」に対応するということは、「人間」が「人間であることを捨てるということ」に限りなく近いことなのではないでしょうか?

    『生物はみんな環境変化に主体的にそれぞれの形で変容していくもので~云々~』と言うのは、まったく無視していい考えだと思いますよ。
    だったら、「絶滅した種」は居ないということに成りますし、その「絶滅」を『それもまた主体的な変容である』と言うのなら、それこそTakoさんの言っていること(滅びることの選択)に近い話になってしまいますから。


    つまり、「現在」とは、きわめて「不自然な時代」なのだと思います。
    その「不自然」を、ごく自然に受け入れることが出来る人を「正常」とし、ごく自然に受け入れられない人を「病気」とすることには、どう考えても無理があると思うわけです。

    ぼくには、これがどうしても「逆転」しているように見えてしまうんですね。

    「正常と異常」や「健康と病気」が逆転してしまっていて、しかも、その「逆転」がすでに何度も繰り返されてしまって、どこが「ごく自然な人間の居場所」であるのかがわからなくなってしまった状態が「現在と言う時代」なんじゃないかと思います。

    だから、底彦さんやTakeoさんのように「現在」に順応できないことは、むしろ「自然なこと」だと思いますし、Takeoさんがいつも仰っているように、「治る」ということは必ずしも「目標にしなければいけないこと」ではないような気がします。

    これを、ぼくが言えば、おそらく、『精神的に健康だから、平然とそんなことが言えるんだ』と思われてしまうかも知れませんが、それは違うと思います。

    「現在」においては、「本当に健康な人」など存在しないというのが真実に近いと思います。
    これは、「精神障害」と言われる状態にある人には、やや酷な言い方かもしれませんが、「健康な人」も、その「健康」の中で苦しんでいます。
    「障害の中で苦しむ人」と「健康の中で苦しむ人」が居るだけで、その苦しみに決定的な違いは無いと、ぼくは思っています。

    もちろん、「精神障害」のただ中にある人は、「それ以上の辛さ」を感じているでしょうが、「それ以下の辛さ」でも十分に辛いのです。

    実を言えば、その「辛さ」をほとんど感じていない人こそが、もっとも「異常な人」なのかもしれません。
    これが、ぼくには「逆転」しているようにしか見えないんですね。

    だから、そこに「齟齬」がない人は、「異常な人」くらいしか居ないということに成ります。
    底彦さんは、決してそれには当たらないでしょう。

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    すいません、字数制限にかかってしまいました。
    次に続く。

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  4. ~続きです。

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    それから、底彦さんは、ご自分のことを『芸術に逃避しているだけだ』と仰っています(これは以前Takeoさんも同じ様に言っていたと思います)が、そうではなく、『それこそが芸術なんだ』と、ぼくは言いたいですね。

    少なくとも、「いま芸術がある場所」とは、そういう場所だと思いますよ。

    だから、Takeoさんで言えば、このブログも十分に「作品」と言えるものですし、底彦さんが、本当につらい日々の中から「描く」と言う行為にすがっていることを「芸術」と言わずに何を「芸術」と言いますか?

    もしも、このTakeoさんのブログを「芸術」と感じない、あるいは、底彦さんの「絵」を「芸術」と感じない『逃避だ!』という人が居るとしても、それは、そちらの方々の問題であって、お二人の問題ではないと思いますよ。

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    最後に、これも、キツイ言い方に成ると思いますから、言っていいのか迷う所ではあるのですが、底彦さんに、一つ考えてもらいたいことは、なぜ、底彦さんは、このTakeoさんのブログを見続けているのか?ということなんですね。

    お二人とも承知していらっしゃることだと思いますが、Takeoさんの言葉は、十分に危険ですし、ぼくの言葉ですら、底彦さんにとっては凶器に成る時があると思います。

    それなのに、どうして、底彦さんは、ここを見続けるのでしょう?
    なぜ、ぼくの「齟齬」という言葉にまで言及してくれたりするのでしょう?
    (それがなければ、ぼくはこのコメントを書いていません)

    おそらく、それは、「表の人格」を殺すためだと思います。
    つまり、今、底彦さんが最も必要としているのは「安全」や「安息」以上に「表の人格を殺すための凶器」なのではないかと思います。

    今、底彦さんは「表の人格」を「追い出す」のではなく、また、「消す」のでもなく、「殺す」必要があるんじゃないでしょうか?

    これは、前にTakeoさんに言ったことがあるんですが、人間は、「死ぬこと」はできますが、「消えること」はできません。
    「過去の自分」や、その過去の自分が人の中に残した記憶の中の「自分と言う存在」をも含めて「消えること」は誰にも出来ないと思います。

    それと同じように、底彦さんの中に、一度でも存在してしまった「表の人格」と言うのは、いくら「本来の底彦さん」ではないとしても、すでに「存在してしまった者」ですから、「消す」ということは出来ないと思います。
    「忘れたふり」や「見ないようにすること」はできるかもしれませんが、すぐに、また見えてきてしまうと思います。

    そして、いくら「本当の人格」ではないといっても、実を言えば、それは「底彦さんの一面」ではあるので、「追い出しただけ」だと、やはり、またすぐに戻ってきてしまうでしょう。

    そこで、残るのは、『死ぬことは出来る』と言うのと同じで、『殺すことは出来る』ということに成ります。
    これは、本当にキツイ言い方ですが、「身を切る」ということが求められると思います。
    つまり、自分の一部分を切り捨てるということです。

    もともと、「自分の中心」を生き残らせるために創り出された「表の人格」ですが、それは、あくまで、その時の特殊な状況に対応するための「仮の人格」であって、「底彦さんの中心」ではありません。
    だから、「表の人格」を殺しても「底彦さんの中心」は、きっと(必ずと言ってもいいと思います)生き残ります。

    ただし、それを殺すことが「現在との齟齬」を生み出します。
    逆に言うと、底彦さんが、今の時点で「齟齬」を感じていないということは、「表の人格」が生きていることを示しています。

    これは、身もふたもない言い方に成りますが、「狂った現在」を「正常なる者」として生きるか?それとも、「現在」を振り切って「人から見下されるマトモさ」に生きるか?ということだと思います。
    そのどちらを『より人間である』と感じるか?また、『より自分である』と感じるか?ということです。

    そして、ここまで考えて、どちらの道を選択したとしても、どちらの選択も否定されるものではないと思いますし、むしろ、肯定されていいモノだと思いますし、また、それを「芸術」と呼ぶことにも、「哲学」と呼ぶことにも、「人間性」と呼ぶことにも、何ら恥じることは無いと、ぼくは思っています。

    そこまで考えての選択であることが「現在人間に出来得ること」であると考えます。
    どちらを選ぶかは、重要なことではなく、そこまで考えた上でどちらか一方を選択するという決断が重要んじゃないでしょうか?
    それが、「身を着ること」に成ります。

    だから、そこまでの考えを持たずに、それを批判する意見に耳を傾ける必要はないと、ぼくは思います。
    そういう考えの人は、それでいいと思いますが、人を自分と同じ考えに向けさせようとするのには、無理がありますし、そんなことは出来ませんから、意味がありません。
    その人のために死んでもいいと思って、それをやるという場合だけは別ですが、そういう人は、たいてい一番先に逃げてしまいますよね。


    まぁ、『お前なんかが、そんなこと言っても何の役にも立たないんだよ!』っていう話ですけど。
    そんな風に思っているヤツが、一人でも居るって言うことですね。
    居ないよりは、イイじゃないですか?

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん、そしてこんばんは、底彦さん。

      先ず驚いたのは、ブロガーのコメント欄に字数制限があるということ。
      これまでみな長いコメントを寄せてくださっています。今日のコメントが特別に長いとは思わない。ブロガーも、わたしの状態に連動して、少しづつおかしくなっているのかもしれませんね。

      さて、いつを境に?といわれると、差し当たり思い当たるのは、先日のデイケアでの一件以来くらいですが、どうもここ最近のわたしの不調は単にあの一件だけが原因ではないようです。強いて、原因らしきものを求めるなら、ちょっと大袈裟な言い方かもしれませんが、「今」という時代とのズレが最早臨界点にまで達しようとしているのかもしれない、ということです。

      冒頭に書いたように、いまわたしは楽しみの全くない時間の中に存在しています。
      そして底彦さんとの相違は、今更言うまでもないことですが、わたしにはそれが何へのであろうと全く「希望」というものが無いということです。

      以前配流された順徳帝の歌を紹介しました。

      いかならむ あすにこころをなぐさめて
      きのうもけふも すごすころかな

      島流しに会った帝は、今日も、昨日も、「明日」という日に希望の灯を繋げながら、不遇の日々を送っていたのでしょう。その「明日」が「いつ」であるのかは誰にも分からない。God Only Knows... 
      昨日「希望を失わないでください」と底彦さんに書いたのは、わたしの無責任な放言に自分の信じる方向性を乱されないでくださいというほどの意味でした。
      しかしパンドラの函が開かれ、あらゆる厄災が解き放たれたのち、最後に残っていたのが「希望」でした。
      わたしはこれを失わないかぎり、底彦さんは苦しみの先に光を見出すことができると思います。
      どうか希望を失わないでください。



      一方わたしには希望というものがありません。時代の変化は津波の如く押し寄せて、あらゆる過去をわたしが生きてきた時代を消し去ります。

      仮に全く同じ苦しみの只中にいても、底彦さんには「先」があります。希望の向かう先は常に前方です。
      一方わたしは過去と共に生きる者。希望の持ちようがないのです。

      認知行動療法に関しても、根底に自己否定が地中深く根を張り巡らせているので、どうしても、わたしを否定する者の側に付いてしまう。
      早い話、「自分というものがない」のでしょう。



      ふたつさんのコメントに関しては、昨日わたしがお話したこと、そして以前からふたつさんが主張されていることの相違はないと思います。

      そして「対社会」についての価値観に於いては、底彦さんも既にご承知だと思いますが、わたしとふたつさんはごく近い認識を持っています。

      けれども、自分が希望を持てない社会に希望を持ってくださいと底彦さんに言うことが矛盾だとは思いません。

      逆に言えば、自分が希望が持てないからこそ、底彦さんには希望を持って欲しい、そしてよくなってほしいという気持ちが強くあるのかもしれません。

      わたしに関して言えば、今最も求めるのは心からの安息です。しかしその安息の場所が何処にあるのか?何処かにあるのかさえわかりません。
      更に言えば自分が何者なのかすら、わかりません。

      わたしの言葉であれ、ふたつさんの意見であれ、それを取捨選択するのは全面的に底彦さんの自由です。そしてわたしに関して言うなら、まずは底彦さんには心の平穏がある程度あんていすることを優先してほしいということです。

      わたしもふたつさんも、まったくの素人ながら、底彦さんの回復を祈っています。
      けれども、それには時間が必要です。

      わたしも今、何もできない自分を痛感しています。以前底彦さんに「化け物」であることに自負と矜持を持っていると嘯いた自分はもういません。
      いまのわたしは唯の無力な老人です。(苦笑)

      わたしもふたつさんも、底彦さんが、先ず、心に余裕ができることを待っています。
      その時に、気が向いたら、ご意見を聞かせてくださってもいいし、そのまま通り過ぎてくださってもまるで構わないのです。

      以上まとまらないままに今の気持ちをお二人にお伝えして筆(?)を擱きます。

      ふたつさん、コメントをありがとうございました。
      充分な応答が叶わず、申し訳ありません。









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    2. ー追記ー

      わたしがふたつさんの言葉を補足し得るなら、底彦さんがわたしのブログを読んでくれるのは、底彦さんの本来の、内向的で、非社交的で、空想壁のある核の部分と、わたしの書いたものの「一部」が、同じ周波数帯域を持っていて、それが心地よく感じられるのかもしれません。
      つまりわたしのもつ「アンチ・表の人格」的な要素が、底彦さんの心に通じるのではないか。

      ですから、わたしの解釈では、底彦さんは無意識にわたしの一部と共振しているが、それはふたつさんのいうように、「表の人格を殺す」という表現が相応しいかどうか。

      手前勝手な解釈ですが、このブログを読んでいる時には、底彦さんは「表の人格」と分離して居られるのではないか?

      ふたつさんの指摘を俟つまでもなく、わたしは執拗に、底彦さんにわたしのブログの反・社会性(すなわち反・表の人格的な性格)を語っています。そして底彦さんは、このブログを媒介として、本来の自分に束の間でも戻りたいのではないでしょうか?



      わたしは底彦さんの表の人格を完全に抹殺する必要があるのか、とも考えます。
      その度合いを軽減して、うまく使い分けることができることが理想ではないかとさえ思います。

      誰だって、いつでも「本当のオレ」で押し通すことはできません。それは必ず破綻します。
      今のわたしがいい見本です。

      ふたつさんの意見に関しては、わたしは、多くの人が指摘するように、わたしを武器にするのではなく、わたしを反面教師にしてもらいたいと思うのです。

      わたしの言葉で、底彦さんの表の人格を殺すことが出来たとしても、それは第二のタケオが生まれるだけのような気がするのです。即ち現代社会との軋轢です。

      ふたつさん。わたしはそれが現実に可能かどうかは措いて、底彦さんにわたしのようになってほしくはないのです。無論「表の人格」がなくなればそれは即ちわたしのようになる、ということではありません。そもそもが別の人間ですから。けれども、わたしは底彦さんが本来持つ繊細さを維持しつつ、社会と融和することは決して不可能なことではないと思うのです。
      そしてわたしはそうあってほしいと願うのです。

      底彦さん、ふたつさんの意見は一見すると激しい言葉遣いですが、何度も読み返すと、いつものふたつさんと同じく、実に真摯な意見です。
      わたしにも新たな視点を与えてくれました。

      いろいろと喧しくて申し訳ありません。

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