2019年8月4日

美のない街、美のない時代


映画『エレファントマン』を何十年(?)振りかに観る。作品自体の感想は措いて、
今更ながらに驚いたのは、ヴィクトリア朝のロンドンのスラムの貧しさだ。

映画がモノクロだけに、その極貧、不潔、不衛生な様子が際立って伝わってくる。
それは例えばギュスターヴ・ドレ〔 Gustave Doré. French (1832 - 1883)〕の版画やトマス・アナン〔Thomas Annan (1829 - 1887)〕の写真に漂う芸術性を剥ぎ取ったリアルな貧しさだ。

しかし、そのリアリティーに少なからぬ衝撃を受けながらも、
尚、今現在、21世紀の東京の方が遥かに美しいかと訊かれれば、とても首を縦に振ることはできない。
確かに19世紀の英国の首都に比べれば、また同時代の江戸末期ー明治初期に比べれば、遥かに衛生的だし、過剰と言えるほどに清潔かもしれない。けれども、衛生的であること、清潔であることと、「美しさ」とは同じではない。

恐らくわたしは21世紀現在のトウキョウよりも、150年前の英国を美しいと思うだろう。

繰り返すが、どんなに汚く、不衛生であっても、そこには確実に「美」があった。
清潔で衛生的であることと「美」とは何の関係もない。何故なら、「清潔」や「衛生的」というのは形而下的(現実の生活上の)問題であり、「美」や「醜」は形而上学的(精神世界の)問題だからだ。

『侏儒の言葉』を真似るならば、
『東京は一枚のグリムショーにも若かない』
〔 John Atkinson Grimshaw.  English Victorian-era Painter (1836 - 1893) 〕



ところで、フェイスブックを退会したものの、敬愛するOrphaneのページを観ることができない。仕方がないので、彼女のページを観るために再びFacebookのアカウントを作った。
どこかのページを眺めていたら、こんな写真を見つけた。



Sculpture called "Addiction" in Amsterdam


アムステルダムの運河沿いにある屋外彫刻『アディクション』=『依存症』。
揶揄か批判か、はたまたちょっとしたジョークのつもりか知らないが、気の利いた皮肉にも風刺にもなってやしない。『アディクシィン』というタイトルを知らなければ、単なる時代に阿っただけのガラクタ…否、ゴミじゃないか。
未だかつてこのような悪趣味な彫刻は見たことがない。地元住民はよくこのような醜怪且醜悪極まりない彫刻の設置を許可したものだ。
これに比べれば、サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)のアートが百万倍も崇高に見える。

これが、英国のジョン・アトキンソン・グリムショーと共にわが愛する画家、ペトルス・ヴァン・シェンデル 〔 Petrus van Schendel. Duch (1851 - 1854)〕 を生んだオランダなのか。


バンクシー  (Banksy) は何かと体制批判、社会批判をウォール・ペインティングで行うが、現実にはスマートフォンを批判、揶揄するよりも、トランプや富豪、核兵器や権力を虚仮にする方が遥かに容易なのだ。何故ならスマートフォンを否定する者は世界でも稀な少数民族と言っていいのだから。彼はトランプのみならず、トランプを憎む人たちまでも敵に回してまでデジタル・ワールド批判をやることは決してないだろう。
批判をする時は、ある程度の「味方」がいた方が有利に決まっている。


こういう写真を目の当たりにすると、住みにくさ ー 生き難さの点に於いても、現代は汚水垂れ流しの150年前とそれほど差があるわけではないなと、改めて嘆息(ためいき)が出る・・・


ー追記ー

このベンチに座っているような(現実の)人間と、「エレファントマン」ことジョン・メリック、どちらが醜いか?決まっているじゃないか。

















2 件のコメント:

  1. Ciao takeoさん
    エレファントマンの方が、比べるまでもなく美しいです。
    美しいに決まっています。

    しかし、酷い作品ですね
    観光地にある、侍の絵の描かれた、顔のとこだけ穴の空いてる、記念写真用の衝立みたい
    まだこの衝立の方が、笑えるだけかわいげがあるとさえ思ってしまいます。
    せっかくのアムステルダム特有の美しい建物が、安っぽいハウステンボスの街並みのよう。
    (ハウステンボス 大嫌い、なんであんな場所にこぞって行くのか、訳がわからない)
    つまり、みんな安っぽく、非常にお手軽でよって醜く、ちゃちになってるんでしょうね
    審美眼など望むべくもありません
    木は摩耗するし、「古くなる」から、古びないプラスチック素材が好まれる、そう言う感じ?
    プラスチックの触感はおぞましいしかないと言うのに、
    大体、ああいう触感の不気味なものたちに触れて暮らしているからどんどん人々の感性が鈍くなっていくのだと言うのに、、。
    時とともにその様を変えないものなど、時間の経過がそこに現れないものなど、なんの魅力も感じないし、気持ち悪いしかないのですけどね
    ちなみに、壊れないものも気持ちが悪いです、
    親御さんはよく子供には落としても壊れない様にと、プラスチックのコップを使わせますが、あれって最悪の教育だと思っています。
    落として割れる危険性を侵してでも、ガラスや陶器のコップを使わせるべき。だと思うし、、ちなみにナイロンとか、ポリエステルって言う化学繊維も大嫌いです。
    素材から伝わって来るものって大事でしょ?

    そういう意味で、世の中はますます醜くおぞましくなっていますね
    ところで、最後になりましたが
    Takeoさん、お誕生日おめでとうございます
    本当は少し前の記事のコメントに書きたかったこと、ここで書きます。
    多分私がTakeo さんと知り合ってから、頻繁にしかもしつこいくらいに言ってる事なのでTakeo さんもいやっと言うほど読んでると思いますが、、
    Takeoさんは取り柄のない人でもなければ、魅力のない人でもなく、もしTakeo さんがご自分を化け物と称したいのであれば、Takeo さんが今回の文章の追記の部分で書かれた言葉:
    このベンチに座っているような(現実の)人間と、「エレファントマン」ことジョン.
    メリック、どちらが醜いか?決まっているじゃないか。 を 再度読み返していただくことをお勧めします。
    そこら辺にたむろしている(現実の)人間より、化け物と言われたエレファントマンの方が、はるかに美しく興味深く、魅力的だと。
    そして、Takeoさんが自称なさっているように、もしTakeoさんが魅力のない、愛されるに相応しくない人であったとしたら、こんなに繊細で洞察力に優れ、そしてその感じたことを美しくまた如実に文章にできる人々がTakeoさんのブログに集まって来るでしょうか?
    ここで読ませていただくコメントは他のブログでは見られないほど、卓越しています。
    そういう人たちが、なんのヘンテツもないブログにこうして集まって来るでしょうか?
    Takeoさんは確かに大衆受けはしないかもしれませんが、Takeoさんの感性や繊細さは大衆のそれよりは、その才能、感性ゆえに苦しみ続けて創作活動を続けた芸術家たちのそれに近いと私は思っています。
    この悪趣味な人々に理解されない事。などもはや賛辞です。
    このあらゆる意味で悪趣味の限りが飽和状態に達した、混沌とした世界で、拘りを持って生きるという事は、苦しみと孤立を余儀なくされます。

    Takeoさんのこの一年が穏やかで平和な、そしてTakeo さんがいいなぁと感じられるものたちとの出会いが多い、つまりほっとできる瞬間の多い一年でありますようにと祈ります。



    返信削除
    返信
    1. こんばんは、JUnkoさん。誕生日のメッセージをどうもありがとう。

      わたしはデジタルについては全く無智なのですが、例えば、これも映画などで時々目にするシーンですが、胸ポケットにしまった財布の中にある自分の恋人、或いは息子、娘、母親の写真を一緒にいる人に見せるシーンがあるでしょう?
      写真は、たいてい折り目がついていたり、端っこが破れていたりする。古い写真だと、色も変わっている。でもね、それが「味わい」なんです。
      その古びて拠(よ)れた写真。全然無傷じゃないんだけど、かけがえのない宝物なんです。

      それは「本」も同じで、古びてボロボロになって、手垢で汚れて、書き込みがしてあったり、線が引かれていたり、端っこがこれまた折ってあったり。それが「本物の」本じゃないでしょうか?

      70年代のアル・パチーノの映画『喝采の影で』(だったかな?)の中で、劇作家のパチーノが、息子たちとちょっと改まった場所へ出かけようとする。子供の足元を見て、
      「なんだそれは?」
      「スニーカーだよ?」
      「靴を履け靴を」
      「パパ、これ靴だよ」
      「それは靴じゃない、靴の代用品だ」

      そんなやり取りを覚えています。
      まあスニーカーはそれでいいと思うけど、電子書籍はそもそも「本」なんかじゃない。あくまでも「本の代用品」でしかない。代用品。ちゃちな代用品。
      本は図書館に行けば誰もが只で読めるのに、何故あんな「代用品」を?

      子供の写真だ、恋人の写真だ、ママの写真だと、これからの時代の人たちは、胸ポケットから、ボロボロになった紙の写真ではなく、スマホを取り出してくるのでしょうか?そこには、永遠に色褪せることのないデジタル画像がある・・・

      子供に陶器やガラスの器を使わせるべきというのは全面的に賛成です。安くてもいいんです。刑務所じゃないんだから。家畜じゃないんだから・・・

      ぼくもまたひとつ年を取ったし、人間て、そうやって、変化して、衰えてゆくものです。写真だって、本だって、変化する物は生きています。生きていないモノ ー 生命を持たないモノだけが、当然ながらいつまでも衰えない。



      科学技術や工業の発展・進歩と反比例して、生体である人間の文化的豊かさ、精神の深みなどはどんどん矮小化し、萎縮し、薄っぺらなものになってゆくのは、ある意味人間という生き物の宿命なのかもしれません。



      わたしはここにコメントをくれる四人に救われています。
      みなそれぞれ、わたしの書いたものをしっかり読んで、自分なりの意見を率直に述べてくれます。そう思うからこそ、わたしは(屡々無断で)Junkoさんや、ふたつさんたちのコメントをそのまま記事に転用するのです。

      特に瀬里香さんや底彦さんは病気を抱えています。それでもあれだけのシャープなコメントを送ってくれる。少なくともわたしよりも、心の病による心眼の曇りは視られません。
      (瀬里香さんとは今日の投稿に使った2008年当時からの付き合いです)

      改めて、いつも読んでくれて、そして考えてくれてーわたしに考える契機を与えてくれてありがとう。

      Grazie Junko!






      削除