2019年8月27日

「祈り」について


昨日、8月26日金曜日の『東京新聞』夕刊一面のコラム「紙つぶて」に、「三田文学」副編集長の粂川麻理生さんの「香港にて」という記事が載せられていた。

わたしは新聞を読まない。というよりも、敢えて遠ざけている。面白そうな記事があったら教えてくれるように母に頼んでいる。先日のモリッシーの「万国の万引きたちよ」も母に教えてもらった。

今回も母に教えてもらった記事になる。以下、コラムの概略を・・・

今月初めにマカオでの仕事のついでに、一日だけ香港に寄った。もちろん香港のデモのことはよく知っている。できれば、一緒になって応援したいと思っていた。ところが粂川さんが香港についた日は生憎デモのない日だった。
市内を歩いていると、雨の降る中、埠頭で、ハンストをしている男性に出会った。
道行く人は誰も彼に目を留めない。監視でもされているのだろうか?と思いつつも、彼に近づき話しかけた。男性は、「世界に今の状況を知ってもらうためにやっている」と答えた。「何かできることはありませんか?」と粂川さんが問うと、彼は微笑んで、「ただ、祈ってくれればいい」



わたしは以前から「祈る」という言葉は「神」と対(つい)になった言葉であると考えていた。
別に無神論者ではないが、特定の宗教を信仰しているわけではない。
「人間死ねば無になる」と信じたいが、かといって、唯物論者というわけでもない。
強いて言えば、「アニミズム」ー一木一草悉皆成仏。あらゆる物に魂が宿るという思想に近い。そして、それがなんであるかわからないが、何か「人智を超えた大いなる存在」によって、わたしたちは生かされているのだと。

わたしにとって、「祈ってくれ」と言うことは、とりもなおさず「神に祈ってくれ」ということだろうと思っていたが、母は、そうではないだろうという。何かに向かってではなく、祈りそのもののことではないか、と。

ハンストをしていた男性は、「神に祈ってくれ」とは言わなかったし、粂川さんが自分を日本人だと言ったかどうかはわからないが、顔を見れば東洋人であることはすぐわかる。では(あなたの信ずる神に)「祈ってくれ」という意味かと言えばそうではないような気がする。

粂川さん自身こう書いている、「ただ、祈ってくれればいい」と言われた時に
私ははっとした。「祈り」という行為の意味を見失っていた気がしたのだ。」

正直なところ、わたしには、母の言う、「対象のない祈り」という意味がよくわからない。

底彦さんは、わたしがコメントをすると必ず返事の終わりに「Takeoさんの健康を祈ります」と書いてくれる。
それに対して、わたしはどうしても「祈り」という言葉がつかえずに、「底彦さんの心の穏やかならんことを願います、(望んでいます)」としか書くことができない。

わたしが「あなたの健康を祈ります」という時には、それは「あなたの健康を(神に)祈ります」という意味だ。しかしわたしはその祈りをささげるべき「神」という具体的な対象を持っていない。
だから「願う」「望む」という言葉しかつかえないのだ。
誤解のないように付け加えておくが、底彦さんの言葉が、「Takeoさんの健康を(神に)祈ります」という意味だと言っているのではない。

わたしには「神」というものがよくわからない。けれども、わたしは「祈り」というものを「神」という存在と切り離して考えることができない。
もし「あなたの健康をこころからお祈りします」「無事を祈ります」という言葉たちが、その祈りが、「神に」向けられたものでないとしたら。神よ「彼を」「彼女を」お守りください」という祈願でないとしたら、いったい「祈り」とは如何なるものか?

もしわたしが粂川さんの立場にあって、ハンストをしている男性から、目的語のない「ただ、祈ってくれればいい」と言われたら、わたしは彼に「誰に?」と尋ねてしまうだろう。そうでなければ祈ることができないから・・・













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