2019年8月14日

公衆電話のない世界に生きるということ…


以下、木村敏著『分裂病と他者』(1990年)第十二章「境界例における「直接性の病理」」より引用する



「多くの境界例同様、彼女も最初は重要な他者からの分離を契機として急激に抑鬱に陥ったが、これはメランコリーの発病状況にも見られる喪失体験とは異質のものだった。メランコリー患者にとっての対象喪失が、その対象をめぐってそれまで内面的に慣習化されてきた役割秩序の無効化を意味するのと違って、境界例患者の対象喪失ないし対象からの分離は、その対象の直接の現前によってのみ保たれてきた自己存在そのものの、端的な無効化或いは空虚化を意味するようである。だから、メランコリー患者の多くが喪失体験のあと暫くのあいだ、解体の危機に瀕した秩序を立て直す懸命の努力を示して、結局は刀折れ矢尽きた形になって発病に至るのとは違って、境界例患者は、分離体験の直後から直ちに深刻な抑鬱に落ち込むことが多い。これは、そこで失われたものが自己存在の枠組みとしての役割秩序のような外面的・間接的なものでなく、もっと直接的な自己の存在基盤そのものであるということを物語っているのではないかと思われる。

このことはまた、境界例患者が喪失や分離によって引き起こされた状態を、メランコリー患者のように自己の罪責として、「取り返しのつかないこと」「済まないこと」として ── 体験する傾向をほとんど示さないという事実にも現れている。人物であれ物品であれ、なにかを喪失して「取り返しがつかない」「済まない」とかの気持ちが生ずるためには、人は前もってその対象を「かけがえのない」大事なものとして所有していなければならない。メランコリー患者が喪失して危機に陥る対象、それはすべてそういった所有物であったと言うことができる。これに対して境界例患者が「喪失」するのは「所有」というように距離を置きえない、もっと直接的な自己存在そのものだと言っていい。境界例患者は、対象を「喪失」することによって、その対象との関係においてのみ、その対象の直接の現前のもとでのみ実感することができていた、あるという生命的現実感を奪われるのである。
(下線、本書では傍点、太字Takeo) 



過去に何度か述べてきたが、わたしは30代の頃、当時「人格障害」の「権威」として知られていた精神科医、町沢静夫医師の本をほとんど読み、そこに記述されていること、そしてチェックリストを通じて、自分は境界性人格障害に違いないと思い、町沢氏の診断を受けた。けれども、町沢氏は、2回ほどの面談で、わたしの「境界例」説を一蹴し、「きみは自己愛性人格障害だ」と自信を持って言い切った。
わたしが不思議に思うのは、氏自身の作ったチェックリストに於いて、境界性人格障害では、ほぼ9割以上の項目の「強くそう思う」に当てはまり、逆に「自己愛性人格障害」では「そう思う」が2割にも満たなかったにも関わらず、何故そこを完全に無視するのか、ということだ。



いずれにしても、上記木村敏の境界例における喪失体験は見事にわたしの気持ちと符合する。

かつてこんなことを書いた

「たとえば、いつも窓から眺めていた、小鳥たちが集まってさえずっていた一本の木が切り倒されただけで、「わたしの世界」は大きく崩れてしまう。
木があった時と、それがなくなってからはわたし自身が変わってしまうのだ・・・」



木村氏の言葉を繰り返す

「境界例患者の対象喪失ないし対象からの分離は、その対象の直接の現前によってのみ保たれてきた自己存在そのものの、端的な無効化或いは空虚化を意味するようである。

身近な例を挙げれば、わたしは40代の頃、6年間月日を共にしてきた「親友」を失った時から外に出られなくなった。それは言い換えれば「外の世界が喪失された」と言えるのかもしれない。その後2年ほどで、生まれ育った大田区から、同じ都内とはいえ、見知らぬ多摩に移り住むことになった。前にも書いたが、17年間住んでいた「〇〇荘」は友人のいなかったわたしにとっての唯一の「友」であり「仲間」「同志」であった。

加えて、大きな意味での喪失体験という点では、これも繰り返し書いているように、わたしの住むトウキョウという街の恒常的な変化である。

「境界例患者が「喪失」するのは「所有」というように距離を置きえない、もっと直接的な自己存在そのものだと言っていい。境界例患者は、対象を「喪失」することによって、その対象との関係においてのみ、その対象の直接の現前のもとでのみ実感することができていた、あるという生命的現実感を奪われるのである。

わたしという存在と、外界とは不可分である。外界がわたしにとって、醜く変化すれば、わたしは最早外界との関係を維持することはできない。

自分自身でも不思議である。何故ブラウン管テレビのない、裸電球のない、カセットウォークマンのない、公衆電話のほとんどない世界にまだ生き残っているのか?

木村敏の指摘通り、わたしは「自己の世界」の連続的喪失によってすでに内面は空虚である。

わたしは「忘れる」ということができない。
嘗てわたしには親友がいた。
嘗てわたしには大好きな部屋があった。

そして「今は(わたしの愛せるものが)何も無い世界に生きている」ということを。

そのようなわたしから見れば、公衆電話がない新世界に平気で入っていける人たちが不思議でしょうがないし、自分がそのような人たちと「同じ生き物」であるという実感を持つことが困難なのは当然ではないか。

様々な精神科医が貼りつけたわたしの診断名、それが「発達障害」であろうが「自己愛性人格障害」であろうがそんなことはどうでもいいことだ。

ただ確実なのは、

その対象の直接の現前のもとでのみ実感することができていた、「ある」という生命的現実感

をとうに失っているということだ。

喪われた世界は二度と帰っては来ない。そしてそれは別のナニモノカによって代替可能なものではない。
取り壊されたアパートに二度と住むことはできないし、
切り倒されたあの樹は二度と戻らない。
スマートフォンは公衆電話の代わりを務めることはできない。

多くの昆虫や植物には「生きている時節」というものがある。真冬まで生きている蝉はいないし、真夏に咲いているサクラもありはしない。しかしいまのわたしが正にそれだ・・・

そのようなわたしにとって、母の死=「絶対的喪失」が、わたし自身の消滅と直接に結びついていることに疑いを持つ者はいないだろう。




● 初出「境界例における〈直接性の病理〉」村上靖彦編『境界例の精神病理』(1988年)















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