2020年11月18日

敵対者

 
以下、ラグーナ出版の編集の方に宛てたメールより抜粋引用します。


ブログに関しては、しばらく別の形で、別の場所でやろうかと思います。
現在のブログは、主に、普通と違う自分を表現してきましたが、それを突き詰めてゆくと、
健常者はもとより、精神に障害を持った人たちとも、ある種の敵対関係が生じるようです。

健常者はいうまでもなく、精神を病んだ人たちの言葉もわたしには届かないし、わたしの言葉もまた、健常者にも、障害者にも届きません。

昨年1年間のデイケアを通じて、また当事者たちのブログを読むにつけ、「何故!?」という想いばかりが頭の中に浮かんできます。
いちばんの大きな違いは、わたしは現代という時代、そしてこの社会を憎み、嫌っています。けれども、わたしの知る限り、殆どの(或いは「多くの」)障害者は、一刻も早く(何らかの形で)「社会復帰」をしたいと望み、それがはかばかしくない状態にある自分を責めているように見えます。
わたしはこのブログで、「治癒するということの意味」を問い続けてきましたが、多くの当事者たちにとっては、(現行の社会の姿がどうであろうと)とにかく一刻も早く良くなりたい=社会に戻りたいの一点張りに見えて仕方がありません。
そんなにまで「この社会」が好きか?と呆れる思いです。

そしていま、わたしはいわば「障害者と敵対する者」という位置に自分が立っていることに気づきます。

そのような対立は単に不毛なだけだと感じます。もう少し自分の内面から離れたところでブログを続けたいと考えています。(そもそも初めはアート・ブログから始めたわけですから)

「障害者だから障害を持った人の気持ちがわかる」「引きこもりだから、引きこもっている人たちの気持ちがわかる」ということは、わたしに限って言えば、当てはまらないようです。

最初は、ああ、ラグーナ出版が、あるいは「ラグーナ出版のような」場が近くにあれば・・・などと考えていましたが、仮に「ラグーナ出版」が東京にあったとしても、〔やはり〕わたしはみなさんの仲間にはなれそうにありません。

わたしの言葉は、心の病を持った人にも、そして誰にも届きません・・・









2020年11月17日

断想(わたしは誰とも似ていない)


 ● 明日は多摩総合医療センターで、初めての心理テストをする。カウンセリングの初回である。カウンセリングは1回30分。わたしとしては1回2時間・・・とは言わずとも、せめて80分、最低でも1時間のセッションを週に2回。それを2年間くらいは続けないと本当の「カウンセリング」にはならない気がする。


● ロールシャッハというものは、随分子供の頃に学校でやった気がする。
あれは必ず「何か」に見えなければいけないのだろうか?わたしはどのような図形(?)を示されても「インクの染み」にしか見えない気がする。


●「わたしは誰にも似ていない。」その言葉に多摩総の医師は興味を示したように感じられる。
「ワタシハダレニモニテイナイ」極言すれば、精神の障害の有無にかかわらず、「人間といういきもの」と似ていない、ということ。けれども、仮に人間誰もが「世界の孤児(みなしご)」であり、「ただひとり世界に遺棄された者」であり、「誰もが本来的に孤絶した存在」であるならば、そもそも「自分に似た者がいる」ということは矛盾してはいないか。


● わたしにはこのおぞましくもグロテスクな社会への復帰を目指す障害者の気持ちが全く理解できない。


● わたしには、「先のこと」を考える障害者の気持ちがわからない。
この時期方々のブログに「来年は・・・」などと書かれているのを見て不思議の念に囚われる。何故「明日」のことを計算に入れられるのだろう?基本的に人間の存在は「明日ありと 思ふこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」ではないのか?
「来年のことを言うと鬼が笑う」というのは全く眞實である。
「明日も生きている」という前提はなにを根拠にしているのか?


●「いま苦しめられている様々な症状が完全に消滅し、なおかつ今後衣・食・住に関する一切の心配の必要がなく心身ともに完全に健康な状態で百歳まで生きる」という条件と、「向こう三日のうちに、一切の苦しみもなくこの世から消滅することができる」という条件の選択を迫られた時に、「引きこもり」を含めた多くの「精神障害者」たちが前者を選択するであろうことをわたしは頗る怪訝に思う。
治癒とは畢竟、この醜悪極まりない世界と懇ろになることに他ならない・・・







2020年11月14日

孤独と生

 
このところ、「生きる意味」というものがますますわからなくなっている。

「孤独の中で生きるということ」・・・

「生」が自己一身の中で循環し完結しているということがわたしには理解できない。

孤独の中に生き、自分のために飯を炊き、自分のために飯を食い、自分のために本を読み、自分のために展覧会に行き、映画を観に行く。それに一体何の意味があるのかがわからない。

「人生はひまつぶし」というやつだろうか?

"Mostly I just kill time" he said. "And it dies hard" 
ーRaymond Chandler  'Long Goodbye' 1953

「時間をつぶす」、英語では”Killing Time”という。”Die Hard”は「容易には死なない」

人生は時間をつぶすことであり、それがなかなか容易ではないのなら、時間ではなく、自分を殺す方が手っ取り早いのではないかと考えてしまう。

わたしには孤独の中で絵を観ることや読書することに「時間をつぶす」以外の(以上の)意味を見出すことができない。

読んだ本について、観た絵や映画について語り合える存在のいない人生は、少なくともわたしにとっては無に等しい。


或る人からのメールの返事がなかなか書けない。

仮に人間というものが本来的に「孤絶した存在」であるのなら、(しかしこれは”No man is an island”=「誰も島ではない」というジョン・ダンの説に真っ向から対立してはいないか?)そのような過酷な生を人は生きることが可能なのだろうか?

わたしの、ひとつ前からのブログに頻繁にコメントを寄せてくれていた女性が好きだと言っていた言葉・・・「人は誰しも世界の孤児(みなしご)だから、時々手を繋ぐ必要があるの」
しかし、世界の孤児同士が一体どのように「手を繋ぐこと」が可能なのか。誰とも手を繋ぐことができないからこそ「この世界の孤児」であり「世界にたったひとり遺棄された者」ではないのか?


人が本来「孤絶した存在」であり「世界のみなしご」であるのなら、わたしは「生まれてきたことが敗北なのだ」というシオランの言葉に深く頷かざるを得ない。
同時に、自分のために読み、自分のために書き、自分のために食べ、自分のために観、聴き、学ぶこと・・・自己という一個の存在の中で完結する生の在り方というものが理解できない。

或いはわたしには自己を分割するという能力が欠如しているのかもしれない。
「本を読む自分」「それを愉しむ自分」「音楽を聴かせる自分」「それを聴く自分」「食べ物をつくる自分」「食べる自分」

人が完全なる孤独な存在であるなら、最早自分自身を「与える側」と「受け取る側」に分割する以外に「孤」から「独」から抜け出す方法はないのではないか。

人は誰しも孤独だからこそ、本があり、音楽があり、芸術・芸能があり、映画があるのだという意見もあるかもしれない。けれども、人が本当に孤独な存在であるなら、一体、本が、音楽が、芸術が何の役に立つだろう。その「生という地獄」の中に在って・・・

わたしはよく「喪失後の世界」ということについて語って来た。
愛弟子、顔淵を喪った時、孔子は「天、予を喪(ほろ)ぼせり!」と慟哭した。
けれども孔子は顔淵亡き後も生き残った。

辺見庸は親友=心の友ともいえる者をふたりも獄中で亡くしながら(ひとりは執行前に病死、ひとりは死刑)も尚生き延びている。

何故か?

つまり、孔子にも、辺見にも、「顔淵」に代わる代替品がいたからだ。

言い換えれば、孔子にとっての顔淵にしても、辺見にとっての大道寺将司にしても、決して「かけがえのない存在」「それなしでは生きて行くことができない」ような存在ではなかったということだ。

我々・・・否、わたしは、なにものかの存在(他)(との関係性)によって「生かされている」そして、あたりまえのことながら、その存在とともに滅びる。何故なら「孤独な生」などというものに何の意味も見出すことができないから・・・いや、「意味を見出す」などと言う以前に、孤独では生きてゆけないから。


[関連投稿] 「誰がために鐘は鳴る

cf  ' I am a rock' Simon and Garfunkel / ' Every time we say good bye (I die a little)...' Ella Fitzgerald  


ー追記ー

人が、「喪失後の世界」にも尚生き永らえることのできる存在であるとしたら、人間とはなんと厚かましくも図太い存在なのか・・・
















2020年11月12日

生きる意味

 
わたしとおなじように孤独で、たいして美味くもないコンビニ弁当をひとりで食べている独居老人に、「あなたは何のために生きているのですか?」と訊いてみたいという興味はわたしにはまったくない。ひとはこれこれという「生きる意味」を持たなければ生きられないのか?
そうではない。彼は、彼女は存在している。いま、現に生きている。まさにそれ自体が生きる意味ではないのか。

生きる意味を問いかけることは、ある意味、問いかける対象の生の在り方に対する懐疑である。わたしはホームレスにも、生活保護で細々と生きている老人たちにも、その生き(てい)る意味を問う資格を持たない。彼らはその存在自体で既に貴いからだ。

けれどもわたしは自らに問いかけずにはいられない。

お前は何にために生きるのか?と。

何故か?

わたしは「生自体」を、その意味と、目的とすることができないからだ。

わたしには生きるために拠って立つ瀬、足場が必要なのだが、自分にはそれが見えないからだ。

自分自身の内側に生の根拠を持つ者もいれば、わたしのように、わたしという存在を支える、「外部」が不可欠な者もいるのだ。












2020年11月11日

生き残る、ということ

 
松竹の『男はつらいよ』シリーズ第一弾の最初のセリフは、花見客でにぎわう江戸川沿いの様子を映し、そこに、車寅次郎の「さまざまなこと 思い出すさくらかな」というナレーションが被るのだと記憶している。

今東京立川の団地の周囲は桜紅葉が散り敷いている。

さまざまなこと 思い出す 桜紅葉かな ・・・である。(チト字余り)


荷物の荷解きをしていたら、詰め物に使った新聞紙・・・10月31日付けの東京新聞第一面の記事が目に入った。見出しは「東京老舗の味 相次ぐ閉店」その横に、「コロナ直撃 政府支援息切れ」と書かれている。

30日で暖簾を下した新橋駅前の居酒屋「新橋三州屋」について、記事では、

「四月以降の売り上げは前年比九割減。最近はやや持ち直したものの七割減が続いた。持続化給付金なども受け取ったが、人件費や家賃を「とても穴埋めできなかった」と店長の見米(みこめ)さん(六十歳)は語る。政府の「Go To イート」の恩恵を充分に受けるには予約サイトへの登録が必要で、六十~八十代の従業員に対応は難しかった。

この記事の最後に亜細亜大学の教授は、
政府の「Go To イート」についても、「ネットを使えない店や客は恩恵にあずかれない。ほんとうに困っている人を助けられているか疑問」
と指摘した、とある。

しかしこの文章はおかしくはないか?

「ほんとうに困っている人を援ける」のは国=政府の責任であって、それが何故「恩恵にあずかる」というような妙な表現と結びつくのだろう?
飲食店は、「援けてもらう」のではなく、国が彼らを「助けなければならない」のだ。

「新橋三州屋」についての 、政府の「Go To イート」の恩恵を充分に受けるには予約サイトへの登録が必要で、六十~八十代の従業員に対応は難しかった。」云々という文章の当否は一先ず措くとして、わたしは三州屋の店仕舞いを必ずしも悲しいとは思わない。

つまりわたしが言いたいのは、このような時代に、ネットに縋ってまで生き延びる意味とはなにか?ということだ。

めまぐるしい時代の変化に易々と順応して生き残ること。それは人であれ、店であれ、文化であれ、ひどく見苦しい。


わたしは人工の音声と言うのが苦手で、電車にもバスにも乗ることが難しい。
府中にいた頃、昨年末の駅ビル、東武ストアの改装で、レジのほとんどが自動精算に切り替わった、それまでは「お会計」という札が下がっていたところが、Casher (キャッシャー)になっている。

以前「そうだ、京都行こう!」というJRのコピーがあった。「日本語」である。
それが今はGo to イート、Go to トラベル・・・正に植民地根性丸出しである。

券売機で切符を買うことさえ苦痛なのに、スーパーマーケットで食料を買う時でも、
「オカネヲイレテクダサイ オツリト レシートヲ オトリクダサイ」等と聞かされなければならない。


行き着くところは、結局いったい何のためにわたしは未だに生き永らえているのか?という大いなる疑問である。

母は、しばらくは週に2度くらいはわざわざ電車とバスを乗り継いで、ここまで来てくれる。しかしそれが週に一度になり、10日に一度になり・・・

わたしがここでたったひとりで生きている意味とは何だ?

わたしがここに来たことは間違いではなかった。父が、劣悪な環境のケアハウスから解放される。母にとっても、わたしが常に思っていた、2マイナス1が成ったわけだ。いづれにしても、母が3人の面倒を見ることは最早不可能な状態であった。

そしてわたし自身を振り返った時、母の負担が多少でも減った今、「自動支払機」だの「キャッシュレス」などという時代の中で尚、生き永らえる意味とはなにか?

相次ぐ「これからのあたりまえ」によって、最早スーパーでの買い物すらも難しくなった。わたしをわたしたらしめていたもの・・・わたしと「世界」を接続していたモノは既にどこにもない。そんな真空地帯の中で、「わたし」という、世界のなにものとも繋がっていない完全なる「孤立」にして「無援」(且「無縁」)なる者が、尚、めしを喰いつづける意味とはなにか?















 










































2020年11月3日

 
「人間」の廃業にともない このブログを終了します。