2022年3月11日

宿痾 或いはちっぽけな自分

今日は過去に何度か食事をしたことのある友人と、2年ぶりに落ち合って話をしてきました。
母以外、医者以外の人と外で話をするのは2年前にその人と会って以来。
ここのところ(もう長い期間ですが)の心身の低迷不調ぶりや、相手が極めてセンスのいい女性であることなどから来る様々な不安や緊張に縛られて、もう会うのはよそうかとさえ考えました。それでも心は乱れ、「あれか・これか」の迷いは消えることなく、困じはてて底彦さんに率直な不安と緊張を伝えるメールを認めました。
鬱で体調の優れない中、底彦さんは、最大級の賛辞を以てわたしに自信を与えてくれました。
底彦さんの言葉に励まされて、今日、会う勇気が出て、先程帰ってきましたが、今は自分のちっぽけさに打ちのめされています。


「江戸っ子は、五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先だけでハラワタは無し」という言い方をします。この言葉こそ正にわたしにピッタリの言葉で、卑俗な言い方をすればわたしは「口の達者なバカ」なのです。

以前行った心理テストで、わたしの知能指数は、平均よりもかなり劣っていることが明らかになりました。そんな中で、言語能力だけが際立って高い。つまりこれこそが、「口先だけで脳みそは無し」であり、「口の達者なバカ」である何よりの証明と言えるでしょう。

「普通に見える。或いは並の人よりも優れて見えるということが、却ってTakeoさんの不幸かもしれません」というのが主治医の意見です。平たくいえば、「馬鹿なのに利口そうに見えてしまう」という「不幸な誤解」を招くということです・・・

豊かな知性を具えているように見えるけれども、その実中身は空っぽ。
今日の友人との会話の中でもそのことを改めて痛感しました。真の「知性」とは程遠いところにわたしはいます。

知性豊かな人間になって、底彦さんや、今日会った女性のような友だちを持つのにふさわしい人間になりたいと願います。けれどもこれは持って生まれた障害であり限界です。加えて、こんな風になりたいと理想を口にしながら、現実には勉強が嫌い、努力すること、頑張ることが大嫌いとなれば、所詮それなりの友人を持つなどということは夢のまた夢ということになります。

今になってわかる気がします、若い頃からわたしの抱えて来た胸の裡の空洞感が何に由来するのか。
現に空っぽだったからです。実際に「空洞」だったのです・・・

わたしはこのブログに一片の「嘘」も書いたことはありません。
しかし、確たる「知」の欠如の上に記された文章に、どのような眞實が宿るのでしょう。








4 件のコメント:

  1. こんにちは。
    私の言葉が何の役にも立たないことは重々承知の上なのですが、コメントさせていただきます。
    私はTakeoさんは頭の良い方だと思います。
    Takeoさんは文学や美術の知識、またそれを愛する心、現代社会に流されず堂々と問題点を指摘できる能力。自己批判できる能力、紳士さなどを持っています。

    鬱状態は人の思考能力を鈍らせます。自分の悲惨なところしか見えなくなります。何もやる気が出ませんし、自分と他人が別の生き物なのではないかとさえ思えてきます。
    私はTakeoさんが単にその状態であるだけだと思うのです。
    もちろん、それらは生来の性質だというTakeoさんのお考えは、私が知る限り現在の医学では否定できません。私も常に本来の自分とは何かという問題に悩まされています。
    しかし、客観的に見てTakeoさんの能力は卑下するようなものではないことは、念頭に置いた方がいいと感じます。
    そういった能力(知)を自ら捨てた人々が作った世界が今まさに、多くの人々を苦しめる構造へと変わり、未来を食いつぶし、崩壊へ向かって進んでいるのですから。

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    1. こんばんは。

      今日もそんな話をしたのですが、わたしはどうしても自分の欠点に目が行きがちです。一方で、「わたしはこのブログで(あくまで主観であるけれども)いくつかのいい文章を書いてきたと思っている。」などと嘯(うそぶ)いたりしています。
      傲岸なのか卑屈なのか分からないところがあります。

      今日会った女性はわたしに比べると遥かに確立した自己乃至自我があります。
      けれども、あれこれと迷い「こけつまろびつ」不器用に生きているのが「本来のわたし」なのではないかと思うのです。わたしは弱い人間です。

      確かに今日は体調も精神状態も不安定な状態での会話になってしまいました。
      もともとわたしには「見捨てられ感」というのが昔から強くあって、失いたくないと思う人と会った後、必ずと言っていいほど、あの発言、あの時の態度・・・などと振り返ってはクヨクヨと思い悩みます。

      仮に「次回」があったとしても、また今日のような気分になってしまうかもしれないと考えています。
      やっぱり鬱っぽいのかもしれないですね。

      今日は良くも悪くも本来の自分を出すに至らなかった感じはします。

      まとまらない文章になってしまいましたが、匿名さんのお心遣いに感謝します。

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  2. こんにちは, Takeo さん.

    Takeo さんは口先だけの人間ではありません.

    匿名さんも仰っていますが, 私がいつも Takeo さんの文章を読んで感心するのは, 伝えたい内容がはっきりとわかること, 明確に記述されていなくても, 詩や文章などの引用でその内容が読者に伝わること, 誤字・脱字がほとんど無いこと, そして文章が美しいことです.
    内容も様々ですよね.
    喪われてしまったものへの愛, 精神の病に関する考察, 身辺のこと, 詩やアートの紹介など, どれも私の蒙を啓かれるものばかりです.

    そして Takeo さんの文章は読者の心に真っ直ぐに届いてきます.
    これは凄いことで, Takeo さんの文章に社会の風潮や誰かの発言に媚びを売ることが一切無いからだと思います.
    いつか, 私が Takeo さんのブログを「硬質な詩」に喩えたのもこのような事実が関連しています.

    明らかに Takeo さんには読むに値する文章を書く才能・感性があります.

    > 「わたしはこのブログで(あくまで主観であるけれども)いくつかのいい文章を書いてきたと思っている。」などと嘯(うそぶ)いたりしています。

    これは本当のことで, 決して嘯いているわけではないと思います.

    今回, もし Takeo さんが真の「知性」とは程遠いところにいると感じてしまったのなら, それは単に久し振りにお母様や精神科医以外の方と会ったことで, いささか空回りしてしまったからではないでしょうか.
    またお友だちと会って話せる機会がありますよね.
    その時にはきっと Takeo さんの思いも変わっていきますよ.

    私も, これからの Takeo さんの文章やアートの紹介を楽しみにしています.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      底彦さんの過分のお褒めの言葉を素直にうれしく感じます。
      これからもわたしは自分の出来ることをするだけです。
      わたしには背伸びをして、自分をより良く見せたいという野心はありません。
      「ありのまま」=「ないがまま」の自分を評価してくれる人がひとりでもいれば果報者です。

      底彦さんも、ふたつさんも、匿名さんも、わたしも、昨日会った女性も、また母も、程度の差、質の違いはあっても、みな行き詰まりを感じていると思います。
      愉しみよりも大きな苦痛苦悩を抱えて生きているのだと感じています。

      そんな中で、僭越ですが、このブログが、皆の束の間の休息の場になればと願います。

      上に書いたように、勉強が嫌いで、頑張ることが嫌いな人間ですから、目覚ましいことはなにもできませんが、傷を抱えた者たちの集える場に成ればと希います。

      メールと併せてコメントをいただけたこと、ありがとうございます。

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