2022年3月15日

人外として想うこと

図書館に再びシオランの『生誕の災厄』をリクエストした。いうまでもなく、昨年の新装版ではなく、馴染みの1976年版である。

今日底彦さんのブログを読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。

「苦しい. 自分が生きていることに価値が無いように思えてくる.」

次のような記述もある

「シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』から「真空と補償作用」の節.まるで今の自分の苦しみと, それに伴う醜い感情のことを言い当てられているようで読んでいて引き込まれた.
”それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。
重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。”」

シモーヌ・ヴェイユはショーペンハウエルやエミール・シオランのような厭世観を徹底的に嫌悪した。底彦さんがヴェイユに救いを求めているとき、わたしは、彼女が嫌い抜いた同時代のフランスの思想家の本を、またもや手に取ろうとしている。

無論人間存在として、シモーヌ・ヴェイユの生き方が、シオランやショーペンハウエルのそれよりも遥かに崇高で気高いことは言を俟たない。
人間としてのショーペンハウエルやエミール・シオラン、或いはフェルナンド・ペソアを、わたしはどうしても好きになれない。けれども同時に、わたしには「生」を肯定することができない・・・


「自分が生きていることに価値が無いように思えてくる.」

底彦さんのこの言葉を読んで感じたことは、そもそもわれわれ人間、更にはこの地球上のすべての生命に「生きる価値」などというものははじめからないのではないかという想いだった。
人間は「生という地獄」と「死という地獄」の間をただおろおろと、まごまごと辿り、消えてゆくだけの、憐れな、悲しい被造物なのではないか。

いわゆる芸術や文化・・・「美」というものさえ、「生」と「死」、このふたつの地獄めぐりのただ中で、どのような力を持ち得るのか、わたしにはわからない。哲学も、文学も、芸術も、なにもかもが所詮は「生という地獄」のなかでは、塵芥(ちりあくた)の如き微々たる存在以外の何ものでもないのではないか。

にんげんの生にも死にも、そもそも「価値」などというものはありはしないのではないだろうか。

人間存在とは、ただ、「生」と「死」の二つの地獄の間にわたされた一本の綱の上を、こちらからあちらへと否も応もなく歩いて、再び闇の中に消えてゆくだけの憐れな存在ではないのか。
その「生」から「死」までの道のりの途中で、虚空に身を躍らせて、その悲しいダンスを終わらせ得た者たちは幸いである。

全ての人間は、遍く、「生」の「犠牲者」なのではないのだろうか?

如何にシモーヌ・ヴェイユを慕い、人間シオランを嫌おうとも、「生まれてきたことが敗北なのだ」という言葉には、有無を言わさぬ絶対的な説得力がありはしないか。


ド・ゴールが「結局は死が勝利するのだ」と嘆息した時に、時の文化相(ヌーヴェル・ヴァーグ一派ーフランソワ・トリュフォー、ゴダールなどと敵対していたが)アンドレ・マルローは、「ですが閣下、死が「ただちに」勝利するわけではありません」と応えたという。

マルローは「死」という「終わり」"FIN" の前に「生」という期間があると考えていたのだろうか。生と死は、それぞれが単体として存在しているのではない。「生という季節」があり、また別に「死という終幕」があるのではない。「生の裡に死があり 死の裡に生がある」── 生という歓楽のダンスがあり、それが終わり、死というものが訪れるのではない。われわれは「生誕」と共に「死の舞踏」を踊らされている。

「最後には死が勝つ」これに勝る眞實があるだろうか?
で、ある以上、
極論すれば、「全ての生は敗戦処理である」ということはできないだろうか・・・
(況やわたしのような精神・情緒障害者の生に於いてをや・・・
ましてそのような者の親兄弟においてをや・・・)









4 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    私のブログを引用していただいてありがとうございます.

    私は確かに「自分が生きていることに価値が無いように思えてくる.」と書きました.
    無価値感は苦しいものです. 自分のしていることの全てに意味も価値も無いように思えてきます.
    これは堪え難い苦しみです.

    > 底彦さんのこの言葉を読んで感じたことは、そもそもわれわれ人間、更にはこの地球上のすべての生命に「生きる価値」などというものははじめからないのではないかという想いだった。
    > 人間は「生という地獄」と「死という地獄」の間をただおろおろと、まごまごと辿り、消えてゆくだけの、憐れな、悲しい被造物なのではないか。

    Takeo さんのこの言葉は, わからないではありません.
    地球上の全ての生命に「生きる価値」などない, という Takeo さんの想いには, 一部共感するところもあります.

    しかし, 「全ての生命」から卑近な「自分の生命」に目を転じたとき, この圧倒的な苦しみは何でしょう.
    私はおそらく, 自分の「生」に何らかの価値を認めて, それによって今日に明日を繋げることで生き延びようとしているのでしょう.

    私はエミール・シオランは寡聞にして未読ですが, 「生まれてきたことが敗北なのだ」という言葉は強力ですね.
    けれども, そこには幾分かのアジテーション行為, シオラン自身がこの言葉を発することにより一種の高揚感を感じていたということはないでしょうか?
    だとするならば, 単純にこの言葉の力に従うのはどうかと考えてしまいます.

    ド・ゴールが言ったという「結局は死が勝利するのだ」という言葉にしてもそうですが, 生や死を勝利や敗北と対比させて語るということに疑問を感じます.
    「生きる価値」など無いとするならば, そこには勝利も敗北も無いのではないですか?
    また, 私は自らの生に「価値」を求めようとするとき, 勝利を手に入れたいとか敗北したくないとかいう意識の元にはありません.
    ただ, 自分の小さな「生」を自分で受け入れたいという望みがあるだけです.

    エミール・シオランは二階堂奥歯も引用していたと記憶しています. 私も読んでみたいと思います.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      >「生まれてきたことが敗北なのだ」という言葉は強力ですね.
      けれども, そこには幾分かのアジテーション行為, シオラン自身がこの言葉を発することにより一種の高揚感を感じていたということはないでしょうか?
      だとするならば, 単純にこの言葉の力に従うのはどうかと考えてしまいます.

      わたしはただ、「生まれて来たことが敗北なのだ」という一個のテーゼに深く共鳴するのです。
      シオランがどのような気持ちでこの言葉を書いたかはわたしには問題ではありません。

      常々わたしは何を言ったかではなく、誰がそれを言ったかという「出自」を重んじますが、この言葉に関しては、一個の数式のような揺るぎない真理が表わさられていると思うのです。

      >私はおそらく, 自分の「生」に何らかの価値を認めて, それによって今日に明日を繋げることで生き延びようとしているのでしょう.

      ここで底彦さんの仰っている「価値」とはどのようなものなのでしょう?
      それは下で述べられている「自己を受け容れる」ことと同義と解釈してもいいのでしょうか?

      >自分の小さな「生」を自分で受け入れたいという望みがあるだけです.

      それを阻んでいるものはなんですか?

      わたしに関して言うなら、わたしの生の根拠はわたしの内部にはありません。
      わたしは母の人生を喰い潰して寄生虫のように生きています。そのような者にいかなる価値を認められるでしょうか?

      「生と死」が「勝利ー敗北」のアナロジーとして考えることができないというのは、おそらくは底彦さんがご自身の二本の脚で立っておられるからこそ、そのようには考えられないのであろうと思います。

      ここでのド・ゴールの言葉の文脈からは大きく逸脱しますが、人の生にしがみつかなければ生きられない人間にとっての生とは明らかに敗北なのです。

      そしてド・ゴールの文脈に従っても、人間の為した全ての行為は究極的に無に回収されるという点に於いて、死は勝利なのだと思うのです。





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    2. こんにちは, Takeo さん.

      > わたしはただ、「生まれて来たことが敗北なのだ」という一個のテーゼに深く共鳴するのです。
      > シオランがどのような気持ちでこの言葉を書いたかはわたしには問題ではありません。

      無条件の肯定ということですね.
      Takeo さんが自らの生を否定し, シオランの言葉に従うなら「敗北」と言い切る, その姿勢はあまりに頑なです.

      > わたしに関して言うなら、わたしの生の根拠はわたしの内部にはありません。
      > わたしは母の人生を喰い潰して寄生虫のように生きています。そのような者
      > にいかなる価値を認められるでしょうか?

      Takeo さんの自身に対する攻撃的な態度は徹底していますね. そこには, 外部からの如何なる助言も受け付けない烈しさと頑なさがあります.
      Takeo さんは「寄生虫」などではありません. 「寄生虫」という言葉はあまりに自己卑下が過ぎます.
      Takeo さんの存在がお母様の支えになっている面もあるのではないですか.

      > そしてド・ゴールの文脈に従っても、人間の為した全ての行為は究極的に無に回収されるという点に於いて、死は勝利なのだと思うのです。

      この Takeo さんの言葉から, Takeo さんは自身の日々の生活の営み ── それが最終的に無に帰すとしても ── を根本的に認めていないのではないかと想像してしまいました.

      Takeo さんが自らの生を, 少なくとも私が最も望んでいない最悪の形で閉じる日が来ることを恐れています.

      立川での生活から実家での生活に戻ったのですよね. その実家には「一挙手一投足が気に入らない」お父様がいらして, 一緒に居ると「耐えられなく」なる弟さんがいるのですね.
      その環境に Takeo さんはいつまで堪えられるのでしょう.

      そしておそらく, Takeo さんを含めた 3 人の面倒をみているのは高齢のお母様ですね.

      全てのことが, Takeo さんの未来を否定する方向に動いています.
      行政に繋がってほしいという希望があるのですが, それでも Takeo さんの外出困難と対人恐怖は続くのです.
      そのような人に対して, 行政にどれほどのことができるというのでしょう.

      私は Takeo さんと対話を続けたいのです. Takeo さんの文章や, 紹介してくれるアートに触れたいのです.

      私自身には, これからの Takeo さんにどういう道があるのか, まったくわかりません.

      ただ, どうにかして Takeo さんが持つ強烈な自己否定・自己嫌悪, 自身を苛む困難から抜け出して欲しいです.
      どうか Takeo さんが苦しさのあまり自暴自棄になりませんように, 祈っております.

      また何か思い付いたら書きます.

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    3. 底彦さんの誠実な真情に感謝します。どうもありがとう。

      わたしも可能な限り底彦さんとの対話を続けたいと願っています。

      世の中には底彦さんのような心の綺麗な、誰からも好かれる「障害者」もいれば、わたしのような心のゆがんだ劣等生の障害者もいます。(現に主治医から、わたしは、「人から敬遠されるタイプだから」と言われました)

      この国の福祉行政は、そのような出来の悪い障害者に差し伸べる手を、またノウハウを持ちません。

      障害者にも、また多様な「弱者」にも優劣があると考えるのがこの国の福祉行政だと思っています。

      「まだ名前をもたないマイノリティーが常に存在する」宇野邦一。
      わたしの好きな言葉で、この国の政(まつりごと)に最も欠けている視点であると思っています。


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