2022年3月6日

想い...

「率直に言って、私は私のいいところ(とされるもの)を犠牲にすることを厭いません。そもそも私が求める変化は、"スマホを代表とするような今の文化が好きになる"といったような相反する自分になる変化なので、今の私が犠牲になるのは必然と言えます。
共感し難いことだと思いますが私のような自分を愛せない者にとっては、自分という存在に苦しむ者にとっては、自分を失えることはむしろ幸福に近いことです。」


わたしはこの言葉に少しの違和感も感じなかった。「彼」乃至「彼女」の告白について何か書かなければ、少なくとも真剣に考えなければならないと思った。それほどまでにこの心情の吐露は、重い錨のように深く、わたしの胸の裡に沈んでいった。

けれどもわたしは疲れている。何故こんなに疲れているのか・・・

休みたい。身も心も。深い安らぎの中で眠りたい。

しかし現代社会の中で、身体の芯から、こころの芯から安らげる場所が、時間が、いったい何処にあるだろうか?

「生」という重い鎧を脱ぎ捨てぬままに・・・








13 件のコメント:

  1. こんにちは。

    前のコメントに関連したことですが、コメントが後ろに送られてしまうので、こちらに。

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    まず、初めにお断りしておきますが、先日、言ったことと同じように、私は、Takeoさんのご意見にも、匿名さんのご意見にも、ほとんど違和感を感じていません。
    自分の考えと違う部分があることは感じていますが、全体として『納得がいかない!』といった本質的な食い違いはないような気がしています。

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    そのうえで、あえて言えば、
    私は、自分を失っても、まだ、その人に成りたいと思うような人は、世の中に一人もいません。

    なぜならば、私は「人」の間に上下の差を感じていないからです。
    この点で、Takeoさんや匿名さんとの考えの違いが生まれているんだと思いました。

    私が、あえて「上」と位置付けるとすれば、それは「弱者」であり、あえて「下」と位置付けるとすれば、それは「強者」です。

    なぜならば、その時点で「下」に位置付けられている者を「上」に、「上」に位置付けられている者を「下」に位置付けることで、「上下の差」が緩和すると考えるからです。

    だから、常に『「弱者」は優先されるべき』であり、『「強者」は厳しい扱いを受ける必要がある』と考えているわけです。
    (まぁ、現実は逆ですけど)

    だから、それを「差別」とも言わないし「格差」とも言わないし、それ以前に「上下の差」とは考えません。

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    お二人の心の中に、「上下の差」があるという前提があるから、どうしても「下」であり続けることに耐えられなく成るような気がします。

    しかし、実際には、「上下の差」は、人間(というよりも「世間」)が勝手に作り出した「概念」であり、実態のあるものではなく、あくまで「イメージ」にすぎません。

    ただし、これは「社会」の中に、実態としての「格差」や「上下関係」が存在しないと言っているわけではありません。

    つまり、その「イメージ」にすぎない「上下の差」を利用している者がいるということです。

    要するに、それを利用することで『自分を上に』『ほかの誰かを下に』という階層を生み出して、そこから「利益」を得ている者がいて、当然の結果として、そういう者たちが、常に社会の上位に位置しているために、単なる「イメージ」にすぎないはずの「上下の差」が「権力」という形で「実体」を持ってしまうために「上下の差」があることを前提にした「権力構造」から抜け出すことができなくなっているというのが今の社会の状態ではないかと思います。


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    もう一つ、お二人には、少し意地悪な言い回しに成ってしまうかも知れませんが、そこの所は少し大目に見ていただければと思います。

    例えば、お二人のコメントにあるように、お二人が本当に『自分を失っても、まだ、「誰か」に成りたい』と仮定した場合に、それが、もしも、「社会適応できる人間」だとしたら、その「社会適応できる人間」は、ある程度、自分に満足しているはずですから、『自分を捨てたい』とまでは思っていないはずです。

    そうなると、どうも、この話が成り立たなくなるような気がします。
    「自分が成りたいと思っている人間」が、「自分以外の誰かには成りたくないと思うような人間」であるとき、その考えが成立するのか?

    これは、決して「揚げ足取り」をするつもりで言っているわけではありませんが、どうしても、ここには、乗り越えられない壁があると思います。

    つまり、『自分を捨てて「誰か」に成りたい』と思った結果、「その誰かに成った自分」から、『あなた、自分を捨てたいなんて言って、自分を粗末に扱ってはいけませんよ!』と説教されることになるということです。


    やはり、そこには厚い壁があると思います。
    だから、上でTakeoさんは、

    『しかし現代社会の中で、身体の芯から、こころの芯から安らげる場所が、時間が、いったい何処にあるだろうか?

    「生」という重い鎧を脱ぎ捨てぬままに・・・』

    と言うしか無くなってしまうのだと思います。

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    私は、こういうことを解決する方法はないと思っていますが、ただ一つ言いたいのは、「社会」や「世間」に言わされていないだろうか?ということなんです。

    つまり、Takeoさんは上の言葉を
    『自分で言っているのか?』それとも『世間に言わされているのか?』
    匿名さんで言えば、
    『自分を失うことは、幸福なことだ』と
    『自分で言っているのか?』それとも『世間に言わされているのか?』

    少なくとも、『自分を失うことは、幸福なことだ』と言っているのも匿名さんご本人であることは確かなことですから、その自分を失うということは、その言葉自体も消えてしまうことを意味します。

    もちろん、こんな「言葉遊び」をしたくて言っていることではないのはよくわかります。
    しかし、『自己否定しているのが、その自分』という話は、そういう「言葉の遊び」に成ってしまう性質があるのも確かなことです。


    私は『自己否定なんてするもんじゃないよ』と言っているわけではありません。

    でも、もしも、少しでも『世間に言わされている』と感じる部分があるのであれば、その分だけは拒否してもいいような気がするんですが、いかがでしょうか? 


    もしも、いやな気持になったら、どうか忘れてくださいね。


    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      体調が優れないので、ふたつさんのメッセージへの的確なお返事にはなりませんが、いまの考えを切れ切れに記してみます。
      勿論わたしは匿名さんの気持ちの代弁をするのではなく、これはあくまでもわたし個人の感じるところです。



      以前から繰り返し言ってきたことがあります。

      「人に嫌われるのはわけはない。「ありのままの自分」でありさえすればいい。そうすれば自然と人は離れてゆく」

      これはわたしの経験から導き出されたわたし個人の真実です。

      つまりその人の人生の不幸が、他ならぬ「彼が彼であること」「わたしがわたしであること」に起因するのであるとしたら、それでも「わたし」が尚「わたしである」必然性はどこにあるのか?ということです。

      わたしの気持ちはあくまでも「しあわせ」か「ふしあわせ」かであって「上・下」でも「優・劣」でもありません。

      確かに「負けた者」「傷ついた者」「悲嘆に暮れている者」「涙を流している者」の方が、そうでない者よりも「存在論的に」「高貴」であり「崇高」であるという想いは変わりません。
      「美」は「弱い者」に宿ります。



      来週、2年ぶりに友達に会う約束をしました。これまでにも感度かあって食事をしたことのある異性の友人です。
      けれども、わたしは「外に出るのが恐い」そして「人と2時間でも話をする」自信がないのです。
      それはわたしの障害や気質に因るものです。

      障害やわたし固有の気質(様々な恐怖症)によって「友人と会って談笑することも出来ない人生」っていったい何でしょう?

      底彦さんは2016年11月の日記にこう書いています

      「延々と空白の時間が続くしか無くなった時が恐ろしい.

      買い物や役所, コンビニに行くことだけしか社会との接点が無い日々.
      社会から受けるもの (障害年金・買ってきた食料や日用品) が日々の空白を埋めるためだけに消えていく.
      止まってしまった毎日.

      その虚無・無価値感・自責の念に自分の心が堪え切るのは不可能だ.
      気付かないうちにに少しずつ, 鬱が深く重く進行していく.
      世界が灰色の靄に包まれていく.

      そして, 多分何の前触れも恐怖も無く, ある日突然, 当たり前のように何かを捨てるだろう. 何かを諦めるだろう.
      何を?
      自分の可能性? 生への意思?
      わからない.」

      底彦さんの日記の中でも特に印象に残っている箇所です。

      いまの・・・ここ数年のわたしはまさにここで底彦さんが描いている状態ではないかと思うのです。

      わたしが最も求めているもの・・・「愛」「友情」

      「会いませんか?」と持ち掛けたときに快く応じてくれた友人に会うことができない。「風邪」や「怪我」ではなく、わたしの気質・障害のために?

      そんな人間が、尚「ワタシデアルコト」に拘る意味とは果たしてなんでしょうか?

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    2. 追伸

      神谷美恵子は癩の人に向かって

      「何故私ではなくあなたが....あなたは代わってくださったのだ...」と。

      では逆に「何故あなたではなく私が?」という考えも成立すると思います。

      一般にそのような考え方は醜いと思われます。けれども誰がその苦しみを裁くことができるでしょうか。どのような資格で?

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    3. こんばんは。

      私が、上で言ったことの中の『世間に言わされていないだろうか?』という部分に絞って考えてみてください。

      私は、Takeoさんが人から嫌われるのは、自分の本当の姿を隠しているときかもしれないと言っているんです。

      もちろん、これは、私が決めることではありません。
      それから、Takeoさんが、この話を受け入れないことも承知しています。

      きれいごとを言うつもりは毛頭ありませんが、癩の人の「本当の姿」を愛する人がいるのは事実だと思います。


      それとは逆に、多くの人から好かれると思われているような人のことを嫌う人が、たくさんいるというのも、間違いのないことだと思います。

      すべての人に嫌われる人に成ることは、ほぼ不可能なことです。
      すべての人に好かれる人に成るのが、ほぼ不可能なのと同じように。

      問題は、むしろ『人に好かれているかどうか』ではなく、Takeoさんや匿名さんご自身が、「自分を好きになってくれる人がいるというということ」や、「自分を優劣などで判断しない人もいるということ」をどう考えるのか?ということじゃないでしょうか?

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    4. こんにちは。
      Takeoさんにお許しいただけたので、掲示板のように返信させていただきたいと思います。

      私は他人が決めた価値観により言わされているわけではありません。
      一般的に語られる富や名声などは典型的な社会が生み出した優劣ですが、私はそのようなものを信じているわけではないのです。
      私は単純に私個人が求めるものを基準に優劣を決めているに過ぎないのです。
      また、人は社会的な生き物です。社会を求めるこの気持ちはとても本能的なものであると、私は感じています。
      本能とは誰かから押し付けられるものではありません。故にそこから生まれる私の言葉は、言わされているようなものではない。それが私の主張になります。

      後半に関しては論理が成立していないと思います。
      "自分を失いたくないような人になりたい"この望みはどこも矛盾していないはずです。
      自信のない方が自信を持てるようになる、自信を愛せるようになったという話はとても普遍的なものです。

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    5. ふたつさん。お返事をありがとうございます。

      わたしは自分と所謂「世間」との隔たりをよく弁えているつもりです。

      上に書いたことは紛れもなくわたし自身の本心です。



      一昨日、またデヴィッド・リンチ監督の『エレファントマン』を観ました。途中なんども目が潤みました。
      特に「エレファントマン」こと、ジョン・メリックが、主治医であり、父のような存在である外科医(アンソニー・ホプキンス)の自宅に招待され、彼の奥さんを紹介された時、彼女はそのような男性の妻ですから、ごく自然にジョンの手を取り「はじめまして。ようこそ」と微笑みをたたえて彼を歓待します。
      そのときジョンの目から涙がこぼれたのは、「このように美しい女性に優しく接してもらったのははじめてです...」

      ジョンは、その容貌の畸形から「人間」ではなく「フリーク」「化け物」として見世物にされていました。(これは実話に基づく映画です)わたしもまた、精神の畸形によって、「エレファントマン」とは違ったタイプの「化け物」です。

      わたしやジョンが、自分の人生を、自分の畸形を恨めしく思うことは背徳的なことでしょうか?

      ふつうの人のように愛される人間になりたい願うことが何故「それは社会に言わされているのではないか?」と思われるのか?わたしにはわかりません。

      勿論エレファントマンをその畸形のまま愛する者がいます。癩の人を愛する人もいます。
      けれども、わたしにはもう残された時間は少ないのです。

      そのような「奇蹟の人」を待っている余裕はありません。

      このような主張はなにも今回突然現れたわけではありません。
      わたしは夙に”You're Nobody till Somebody Loves You”という古いラブソングの歌詞をここに引用してきました。

      二階堂奥歯と彼女の人形「ピエロちゃん」の話も何度もしてきました。

      わたしは「わたしひとり」では「わたし」には成り得ないのだと思うのです。

      敢えて蛇足を付け加えるなら、わたしは現代社会を唾棄すべきものだと思っています。ですから「社会に溶け込みたい」とは思いません。わたしと社会とは敵対関係にあります。それはわたしの美意識が今の社会の醜さを許容できない以上どうしようもないことです。

      けれども、人間としてうまれて、他の人間と友好的な関係を築くことのできない人生なら、そんな人生になんの意味があるでしょう?



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  2. わたしはわたし自身を好きか? わたしはわたし自身を嫌いか?

    それを決めるのは当人ではなく、

    「他者に愛され得る人間であるかどうか?」が問題ではないのでしょうか?

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  3. これもまた蛇足というか、「社会への帰属本能」について贅言をひとこと。
    確かに人間には社会への帰属本能があるでしょう。けれどもそれは「種としての本能」であって、個としてのわたしの本能はこの社会を否定しています。
    「種」としての本能が本来の本能であるというのであれば、「種の本能」を超えた生物としての本能である生存本能を否定した「自殺」というものはどのように説明されるでしょう。
    「自殺」は、「種の本能」に対する究極的な個の本能の優位を示してはいないでしょうか。

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    1. こんにちは。
      Takeoさんが言及されているものは個のための自殺だと思うのですが、私はそれを個の本能とは呼ばないと思います。
      本能とはあらかじめプログラムされたものです。種としてプログラムされ、純粋に個人のために自殺する動物は存在しません。
      ※虫にはメスや子の栄養のため身を差し出す種が存在します。
      故に、個のための自殺へ向かわせる力を本能と呼ぶのは私には抵抗があるのです。
      また本能は息を吸う、食べる、寝る…など明らかに生を司るものです。なので死へ向かわせる力があるとすればそれは対義語の理性であると考えます。
      では自殺を根拠に、理性というものは本能より優位に立つものであると言えるかどうか。
      私は言えないと思います。自殺が理性が本能に勝った状態であるかというと、そう言えると思いますが、それは本能が理性に勝っている人間がいないことの証明にはならないためです。

      加えて個人的な所感ですが、この世界には理性より本能がやや勝っている人々のほうが多い気がします。

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    2. その通りかもしれませんね。わたしの誤りです。

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  4. こんばんは。

    たぶん、私が言っていることと、お二人が言っていることは本質的な意味では、ほとんど違いがないように思うんですが、違いがあるとすれば、「社会」や「世間」というものの見方ではないかと思います。

    私が、『言わされている』と言っているのは、エレファントマンで言えば、「その姿を醜いと思うこと」その時点ですでに「世間的な基準」が入っているんじゃないでしょうか?ということです。

    私が言った「ほんとうの姿」というのは、『その姿を美しいと思うか?』それとも『醜いと思うけれども、それを愛するか?』という二つのうちの『その姿自体を美しいと思う』という方のことです。

    まぁ、そういう人もいるということですね。
    少ないとは思いますが、いることはいます。
    それから、そういう人が少ないのは、それだけ「世間的な常識」が多くの人に浸透しているからだと思います。

    確かに、本能的な部分もあると思いますが、人間の場合は「本能」よりも「常識」の方が影響が大きいような気がしますね。

    もしも、そうでなければ、「いま」という時代がこういう時代ではなく、もう少しナチュラルな感じになっていると思うんですが、いかがでしょうか?

    それは、「種の本能」であっても「個の本能」であっても同じで、「本能に根差した時代」は、こんな時代ではないと思うんですが、どうですか?


    それでは、また。


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    1. こんばんは。お返事ありがとうございます。
      前半に関しましては、人にはたとえ社会との関りを一切絶ったとしても嫌なものはあるはずです。例えば"空腹"などはどうでしょうか。
      "空腹"のような社会と関わりのない嫌悪されるものがある。故に、何かへの嫌悪が同じく社会と関わりのない可能性は大いにあるのです。
      もちろん、我々は自己の内面を顕微鏡で覗き込み観察するようなことはできません。
      つまり個の思考の内面にある真実を完全に捉えることはできないので、ふたつさんの語るような社会の視点が入っている可能性も、完全に否定することはできません。
      神でもない限りこの問題に決着をつけることはできないと思います。

      社会復帰という望みが本能よりも常識に大きく影響されたものであるという主張に関しては、根拠を示しきれていないと思いました。

      後半は私にはいまいちよくわかりませんでした。申し訳ないです。
      特に、"もしも、そうでなければ、「いま」という時代がこういう時代ではなく、もう少しナチュラルな感じになっていると思うんですが、いかがでしょうか?"という文にふたつさんの主観が入り過ぎている印象でした。
      ナチュラルな感じとはいったいどのようなものなのか、読み手からは想像しにくいように思います。

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  5. こんにちは。

    お二人のご意見、それぞれに興味深く拝見いたしました。

    お二人のご意見は近いところもあると思いますが、微妙なニュアンスの違いがあり、一つの文章で両方に対する考えを述べることは難しいと思いましたので、前回のコメントは主にTakeoさんに向けてのコメントとして、今回は主に匿名さんに向けて書かせていただきます。

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    まず、私は、匿名さんのご意見の中にあった、『論理が成立していない』という言葉に異論はありません。
    私が言っていることが間違っていないと言うつもりはありません。

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    そのうえで、一応自分の言ったことの責任を取るという意味で説明いたします。

    私が、『自己否定しているのが、その自分』といったのは、匿名さんがおっしゃるところの"自分を失いたくないような人になりたい"ということについて『矛盾している』といったわけではありません。

    矛盾を指摘したのではなく、別の視点からの私なりの考えを提示したということです。

    例えば、私はブルースという音楽が好きなんですが、楽器が全くダメなので、ときどき『あんな風にギターが弾けたらなぁ』と思うことがあります。
    でも、そのために自分を失ってもいいとは思いません。
    なぜかというと、『ギターが弾けるようになったときに、ブルースが好きな自分が居なくなってしまったならば意味がない』と思ってしまうからです。

    私が欲しいのは「ギターのテクニック」ではなく「ブルース」ですから、ギターだけ弾けるようになってブルースを失うのであれば、あまり意味を感じないということですね。

    おそらく、この説明も匿名さんを納得させることはできないと思います。
    そして、それでいいと思うのですが、いかがでしょうか?

    でも、私は、そもそも匿名さんのこともTakeoさんのことも説得しようなんて思ってませんから。
    それに、"自分を失いたくないような人になりたい"ということに、どこにも問題があると思ってませんから。

    まぁ、私の考えをそのまま言ったというだけですね。
    そして、その考えが匿名さんの考えと、少し違ったというだけ。
    それは、むしろ当たり前のことで、それが一致していることの方が、どちらかと言えば不自然なことのような気がします。
    (まったく同じ考えの人同士が、話してもあまり意味がないような気もしますしね)

    ~~~~~~~~~~~~~~

    それから、「社会の影響」についてです。

    私は、今、洋服を着て靴下を履いていて、和服を着ていないし足袋も履いてもいません。

    なぜでしょう?

    たぶん、私が「いま」に影響されているからです。

    もちろん、私は「自分の意志」で服を選んでいますし、和服を着ようと思えば着ることはできます。
    でも、着ません。
    私が、その部分では、「いま」に従わされているからです。

    いや、わかります。
    『そういうことを言ってるんじゃないんだよ!』
    ということですよね?

    匿名さんがおっしゃっていた「関われる者」というのは、もっと切実なことだというのはわかります。

    ただ、私が言いたかったのは、人は知らず知らずのうちに「社会」や「時代」に影響を受けてしまうものだということなんです。

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    ちょっと極端な話になってしまうんですが、例えば、ナチス時代のドイツで、ユダヤ人であるということは「ドイツ」という「社会」に「関われない者」であることを意味していたと思います。
    奴隷時代のアメリカの黒人たちは、黒人であるということだけで、「アメリカ」という「社会」には「関われない者」だったんだと思います。

    だから、『ユダヤ人でなくなりたい』『黒人に生まれたくなかった』と思うのは当然のことだと思いますし、私もその立場だったら、きっとそう思ったでしょう。

    だから、『自分を失ってもいいから、関われる者』に成りたいと思うことを、否定する気持ちはありません。
    ただし、私は、それでもやっぱり『ユダヤ人として死にたい』と思う人も否定したくはない。
    ということが言いたかったんだと思います。

    なぜかというと、そういう状況にあっては、一人のユダヤ人が「ドイツという社会に関われるドイツ人」に成るということは、その人が、ユダヤ人を殺す側に立つということを意味するからです。

    もしも、本当に『ユダヤ人でなくなることが出来る』という話であれば、私は「ユダヤ人でなくなること」を止めることはないと思います。
    しかし、実際には「ユダヤ人でなくなること」はできませんから、だったら、せめて抵抗する気持ちを持っていてもいいかな?と思いました。

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    それから、もう一つ。

    私は、「いま」という時代を、「ナチスの時代」や「奴隷の時代」と、かなり似通った性質がある時代であると考えています。

    一見すると、「物質的に豊かな時代」であり、大きな戦争などが起きていない「いま」の中で、なぜ自殺する人や、引きこもりの方たちやリストカッターや鬱状態の人たちが、こんなにたくさん居るんでしょう?

    『いやいや、ナチスの時代のような極端な時代と同列に扱っちゃダメでしょ?』
    そうでしょうか?
    『だって、奴隷は人権も与えられていなかったじゃない?今はみんなに人権があるんだから全然比較になりませんよ』
    ほんとうに、そうでしょうか?

    私は、そうは思えません。
    だから、いじめにあっている子には『とりあえず逃げろ!』と言いたいし、パワハラにあっている人には『後先考えずに辞めちまえ!』いや、それどことか『出来れば、カネをふんだくってから辞めてやれ!』と言いたいわけですが、その反面、『だからと言ってその差別や迫害を肯定する必要はない!』とも言いたくなってしまうわけです。

    つまり、「関われる者」と「関われない者」を振り分けているのは、「社会」であり、「いま」という「時代」であると思います。

    そして、その「いま」が「ナチス並みの時代」や「奴隷制並みの時代」であるとしたら、どうでしょうか?

    私は極論をしたいわけではありません。
    しかし、自殺・ヒキコモリ・鬱・リストカット・いじめ・虐待などの数の多さからすれば、決してオーバーなことでもないと思うわけです。

    もしも、匿名さんが『関われない』と感じているのが「いまの社会」であるとするならば、その振り分けは、「ユダヤ人であること」や「黒人であること」で振り分けられてしまっていた時代と同じように、かなり偏った基準によって振り分けられているという可能性が高いということを言いたいわけです。

    そういうのをひっくるめた意味で、『言わされている』という言葉を使いました。

    当時のユダヤ人や黒人を責める気は全くありませんが、やはり『ユダヤ人でありたくなかった』『黒人に生まれたくなかった』と”言わされてしまっていた”と思うということですね。

    それが「差別」というものだということですね。

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    何度も言いますが、否定するつもりで言ったことではありませんし、矛盾を追及しようとしたわけでもありません。

    それでも、もしも、少しでもご気分を害する部分があれば、何度でもお詫びいたします。

    そして、何よりも、意味のある話が出来たことを非常にうれしく思っています。


    最後に、Takeoさんには、この場をお借りしましたこと感謝いたします。


    それでは、また。


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